令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
北陵クリニック筋弛緩剤点滴事件・地裁刑事判決文
(事件概要はこちらにあります。)
注: 「ミリメートル」,「マイクログラム」等の単位を,略号化してあります。また,匿名化はP00という形式で行われています。P02が被告人であることにもご注意下さい。最後のほうに「けだし」という言葉が登場しますが,これは法律界では「なぜならば」という意味を持ちます。
薬物鑑定に関心がある方は、第4 事件性についてをご覧ください。
各事件の病態に関心がある方は、第4の4 P03事件についてからご覧ください。
事件の捜査などに関心がある方は、第5 本件捜査の経過等についてをご覧ください。
各事件の犯人認定に関心がある方は、第6の3 P03事件の犯人性についてからご覧ください。
自白について関心がある方は、8 捜査段階における被告人の言動(自白等)についてを覧ください。
検討項目リストに飛ぶと,主要部分へのリンクが利用できます。
5症例の事実経過部分の抜粋がこちらにあります。
殺人及び殺人未遂被告事件
仙台地方裁判所平成13年(わ)第22号,第56号,第99号,第148号,第188号
平成16年3月30日第1刑事部判決
判 決
無職(元北陵クリニック准看護士) P02 昭和○○年○月○日生
上記の者に対する殺人及び殺人未遂被告事件について,当裁判所は,検察官加藤昭,同大畑欣正及び弁護人花島伸行(主任),同阿部泰雄,同中谷聡,同神坪浩喜各出席の上審理し,次のとおり判決する。
主 文
被告人を無期懲役に処する。
理 由
(罪となるべき事実)
第1 被告人は,平成12年2月2日午後5時20分過ぎころ,仙台市<以下略>所在の医療法人社団○○会北陵クリニック内において,点滴中のP03(当時1歳)に対し,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックスを混入した溶液を,三方活栓から同人の左足に刺したサーフロー針を介して体内に注入し,間もなく同人を呼吸困難ないし呼吸停止の状態に陥らせたが,同クリニック医師,救急救命士及び転送先病院の医師らが救命措置を行ったため,殺害するに至らなかった。
第2 被告人は,同年10月31日午後6時30分ころから同日午後7時ころまでの間,前記北陵クリニック内において,P04(当時11歳)に対し,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,同人に注入する点滴溶液に,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックスを混入した上,同人の左手に刺したサーフロー針から同溶液を体内に注入し,間もなく同人を呼吸困難ないし呼吸停止の状態に陥らせたが,同クリニック医師,救急救命士及び転送先病院の医師らが救命措置を行ったため,同人に全治不明の低酸素性脳症の傷害を負わせたものの,殺害するに至らなかった。
第3 被告人は,同年11月13日午後9時ころから同日午後9時40分ころまでの間,前記北陵クリニック内において,P05(当時4歳)に対し,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックスをあらかじめ混入した点滴溶液を,その情を知らない同クリニック看護婦P06をして,上記P05の左手に刺したサーフロー針から体内に注入させ,間もなく同人を呼吸困難ないし呼吸停止の状態に陥らせたが,同クリニック医師らが救命措置を行ったため,殺害するに至らなかった。
第4 被告人は,同年11月24日午前9時15分ころから同日午前10時ころまでの間,前記北陵クリニック内において,P07(当時89歳)に対し,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックスをあらかじめ混入した点滴溶液を,同人の右足に刺したサーフロー針から体内に注入し,よって,同日午前10時30分ころ,同所において,同人を呼吸不全に陥らせ,窒息させて殺害した。
第5 被告人は,同日午後4時10分ころから同日午後4時50分ころまでの間,前記北陵クリニック内において,P08(当時45歳)に対し,同人が死亡するに至るかもしれないことを認識しながら,あえて,呼吸抑制を引き起こす筋弛緩剤マスキュラックスをあらかじめ混入した点滴溶液を,その情を知らない同クリニック看護婦P09をして,上記P08の左腕に刺した翼状針から体内に注入させ,間もなく同人を呼吸困難の状態に陥らせたが,同人が同クリニック看護婦らに助けを求め,同看護婦らが救命措置を行ったため,殺害するに至らなかった。
(証拠の標目)《略》
(事実認定の補足説明)
第1 序論
第2 北陵クリニックについて
1 北陵クリニック開設の経緯等
2 北陵クリニックの医療体制等
3 北陵クリニックの位置関係及び建物内の状況等
(1)北陵クリニックの構造
(2)病棟部分の状況
(3)ナースステーションの状況
(4)外来診察室,外来処置室及びその周辺の状況
(5)手術室及びその周辺の状況
4 北陵クリニックにおける薬剤の管理,保管状況等
5 北陵クリニックにおける点滴医療器具及び点滴を行う場合の準備状況等
(1)点滴医療器具
(2)点滴の準備状況等
6 北陵クリニックにおける医療廃棄物の処理状況
7 被告人が北陵クリニックに就職した経緯及びその後の勤務状況等
第3 筋弛緩剤マスキュラックスについて
1 筋弛緩剤の意義等
2 マスキュラックスについて
(1)マスキュラックスの組成,性状等
(2)マスキュラックスの薬理効果及び作用順序
第4 事件性について
1 はじめに
2 各事件において生体資料ないし点滴溶液が採取,回収されて鑑定に付されたこと
(1)認定できる事実
ア P03事件の血清について
(ア)当初の採取及び保管の状況
(イ)警察官保管後の状況
イ P04事件の尿及び血清について
(ア)当初の採取及び保管の状況
(イ)警察官保管後の状況
ウ P05事件の点滴溶液及び血清について
(ア)当初の採取,回収及び保管の状況
(イ)警察官保管後の状況
エ P07事件の点滴溶液について
(ア)当初の回収及び保管の状況
(イ)警察官保管後の状況
オ P08事件の点滴溶液について
(2)弁護人の主張について
(3)小括
3 鑑定結果について
(1)鑑定の経過
ア 各資料の鑑定嘱託事項及び鑑定結果について
(ア)P03の血清(スピッツ入り)について
(イ)P04の血清(スピッツ2本入り)及び尿(スピッツ入り)について
(ウ)P05の血清(スピッツ入り)及び点滴溶液(ボトル入り)について
(エ)P07の点滴溶液(ボトル入り)について
(オ)製造番号が「00H11C」の点滴溶液入りボトル3本について
イ 鑑定手法について
(ア)定性分析について
(イ)定量分析について
(ウ)ミノサイクリンの分析について
(エ)その他の薬毒物の分析について
ウ 鑑定過程における汚染や取り違えの可能性について
(2)本件各鑑定の正確性及び信用性
ア 鑑定手法及び鑑定担当者の適格性について
イ 鑑定資料の扱いについて
ウ 鑑定経過について
エ 鑑定経過の記録化について
(3)鑑定資料が全量消費されたことについて
(4)P04の尿の鑑定濃度について
4 P03事件について
(1)認定できる事実(P03の症状経過等)
ア P03の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件の前日までの経過等
イ 本件当日のP03が容体を急変する以前の状況
ウ P03の容体急変及びその後の北陵クリニックにおける状況
エ 市立病院への転送時及び転送後の状況
(2)P03の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
イ 他の原因の可能性について
(ア)フラッシュによる血栓を原因とする脳虚血発作
(イ)風邪の症状の悪化
(ウ)てんかん性発作
(エ)パンスポリンの副作用
(オ)その他の可能性
(3)小括
(4)P03に対するマスキュラックスの投与方法について
5 P04事件について
(1)認定できる事実(P04の症状経過等)
ア P04の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等
イ 本件当日のP04が容体を急変する以前の状況
ウ P04の容体急変後の状況
エ 関係証拠の信用性等
(ア)上記事実認定に沿う証拠について
(イ)上記認定に反する証拠についての検討
a P10看護婦の証言について
b 被告人の供述について
(2)P04の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
(ア)P11教授の証言内容とその評価
(イ)弁護人の主張について
イ 他の原因の可能性について
(ア)プリンペランの副作用
(イ)アセトン血性嘔吐症(自家中毒)
(ウ)急性脳症などの脳症
(3)小括
(4)P04に対するマスキュラックスの投与方法について
6 P05事件について
(1)認定できる事実(P05の症状経過等)
ア P05が北陵クリニックにおいて治療を受け,入院するに至るまでの経緯
イ FES電極埋込手術について
ウ P05に見られたてんかん発作を疑わせる症状について
エ 北陵クリニック医師のP05に対する入院後の診断,処方,処置の内容等
オ 平成12年11月13日午後9時ころP05に点滴投与された薬剤が準備された状況等
(ア)北陵クリニックにおける手術目的の入院患者に対する点滴の準備及び施行手順について
(イ)本件について
カ 手術当日の術後の抗生剤の点滴開始前までの状況
キ 術後の抗生剤の点滴の準備,投与及びP05の容体急変前までの状況
ク P05の容体急変時の状況
ケ P05が容体を回復させた際の状況
コ その後の状況
(2)P05の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
イ 他の原因の可能性について
(ア)てんかん発作
(イ)たん詰まり
(ウ)FES電極埋込手術の影響
(エ)その他の可能性
(3)小括
(4)P05に対するマスキュラックスの投与方法について
7 P07事件について
(1)認定できる事実(P07の症状経過等)
ア P07の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等
イ 本件当日のP07が容体を急変する以前の状況
ウ P07の容体急変後の状況
(2)P07の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
イ 他の原因(心筋梗塞)の可能性について
(ア)心筋梗塞が否定されることについて
(イ)P12医師の証言について
(3)小括(P07の急変原因及びマスキュラックスの投与方法)
8 P08事件について
(1)認定できる事実(P08の症状経過等)
ア P08の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等等
イ 本件当日のP08が容体を急変する以前の状況
ウ P08の容体急変後の状況
(2)P08の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
イ 他の原因(ミノマイシンの副作用)の可能性について
(3)小括(P08の急変原因及びマスキュラックスの投与方法)
9 事件性総括
第5 本件捜査の経過等について
1 認定できる事実
(1)北陵クリニック側において患者の容体急変の原因に関して不審を抱いた経緯について
(2)市立病院側において北陵クリニックから転送される患者の急変原因に関して不審を抱いた経緯について
(3)平成12年11月30日の面会について
(4)その後の捜査経過等について
2 上記認定事実に沿う証拠について
3 小括
4 弁護人の主張について
第6 犯人性について
1 はじめに
2 被告人がマスキュラックスを不正に使用した事実
(1)北陵クリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが存在していた事実
ア 北陵クリニックにおけるマスキュラックスの在庫数,使用数,発注数等について
(ア)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの在庫数
(イ)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの使用数
(ウ)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの発注数及び納品数
(エ)北陵クリニックに納品されたマスキュラックスが廃棄,返品等された可能性
(オ)北陵クリニックにおいて使途が不明であるマスキュラックスの数
イ 北陵クリニックにおける薬剤の発注状況,管理状況等について
(ア)北陵クリニックにおける薬剤の発注状況
(イ)北陵クリニックにおける薬剤の管理状況
ウ 推認される事実
(2)被告人とマスキュラックスのかかわりについて
ア 被告人の勤務状況等
イ 薬剤の在庫状況等に関する被告人の認識
ウ 平成12年8月17日及び同年11月10日のマスキュラックスの発注について
エ 平成12年12月4日被告人が北陵クリニックから持ち出そうとした小さい針箱の中から発見されたマスキュラックスの空アンプルについて
オ 当直勤務の仮眠時間中の薬品庫への出入りについて
(3)小括
(4)被告人の平成12年12月4日の言動について
ア 認定できる事実
イ 上記認定事実に沿う証拠について
ウ 被告人の供述の信用性について
エ 弁護人の主張について
オ 推認される事実
(5)まとめ
3 P03事件の犯人性について
(1)三方活栓からの注入行為をしたのが被告人であること
ア 被告人の本件注入行為に関する各目撃供述の要旨
(ア)P13看護婦の検面調書における供述
(イ)P14の証言
(ウ)P15看護婦の証言
(エ)P16主任の証言
(オ)P17の証言
イ 本件注入行為をした主体につき,本件当日又は翌日に言及された状況に関する関係者の供述の要旨等
ウ 上記ア,イの各供述の信用性について
エ 各証言の信用性に関する弁護人の主張について
(ア)P14が本件注入行為の当時病室に在室していたか否かについて
(イ)P14が被告人を看護職員と認識していたか否かについて
(ウ)看護婦らによる口裏合わせないし記憶のすり合わせの可能性について
(エ)各供述の変遷について
a P14の証言について
b P16主任の証言について
c P18医師の証言について
オ 被告人の弁解について
カ 上記の点に関するその他の証言の信用性について
キ 小括
(2)その他の認定できる事実及び被告人が不合理な弁解をしていることについて
ア 認定できる事実
イ 被告人の弁解等について
(3)結論
4 P04事件の犯人性について
(1)犯行の機会を有する人物
(2)被告人の不審な言動
(3)動機となり得る要素の存在
(4)被告人の弁解の虚偽性
(5)結論
5 P05事件の犯人性について
(1)被告人に犯行が可能であったこと
ア 点滴ボトル内にマスキュラックスが混入された時間,場所について
イ 被告人が上記混入を容易になし得たこと
ウ 被告人が,上記混入より以前に,P05ボトルの状態及びそれが投与される際の一定の状況について,事前に知り得たこと
(ア)P05ボトルの準備状況及び所在についての認識
(イ)P05ボトルの記載についての認識
(ウ)投与時の関係者の勤務状況についての認識
エ 被告人が,P05ボトルによる点滴投与開始時刻について,事前に知っていたこと
オ「21°」との記載について
(2)被告人にP05の容体急変を予測し,急変原因を認識していることをうかがわせる言動があったこと
ア 認定できる事実
イ 被告人の弁解について
ウ 小括
(3)その他の認定できる事実及び被告人が不合理な弁解をしていることについて
ア P05の容体急変の連絡を受けて北陵クリニックに到着した後の被告人の言動について
(ア)認定できる事実
(イ)被告人の弁解について
(ウ)P10看護婦の証言について
イ その他の事実について
(ア)認定できる事実
(イ)被告人の弁解について
ウ その他の点でも被告人が不自然,不合理な弁解をしていることについて
(4)結論
6 P07事件の犯人性について
(1)認定できる事実(被告人及び関係者の行動)
ア 関係者の供述
イ 被告人の供述
ウ 各供述の信用性の検討
(2)犯人性についての考察
ア 犯行態様について
イ 被告人が犯行を行い得る可能性について
ウ 被告人の不審な言動について
(ア)白衣の着脱
(イ)申し送りに当たり,P19看護婦にN病棟担当を勧めたこと
(ウ)自分の持ち場を離れたこと
(エ)P07の急変に対する言動
(オ)点滴の問題を意識した言動
(カ)ラキソベロンに関する被告人の発言
(3)結論
7 P08事件の犯人性について
(1)認定できる事実(被告人及び関係者の行動)
ア P16主任及びP09看護婦の証言について
(ア)P16主任の証言
(イ)P09看護婦の証言
(ウ)被告人の供述
(エ)各供述の信用性の検討
イ 被告人のP08診療録への指紋付着
ウ 小括
(2)P07事件との関連性
(3)被告人の不審な言動
(4)結論
8 捜査段階における被告人の言動(自白等)について
(1)被告人に対する取調べ経過等に関して容易に認定できる事実
(2)被告人の自白の任意性について
ア 取調担当警察官らの証言及び認定できる事実について
イ 被告人の供述について
ウ その他の弁護人の主張について
(3)被告人の自白の信用性について
(4)まとめ
9 犯行動機について
(1)認定できる事実(被告人の勤務状況及び勤務時の言動等)
(2)動機についての考察
ア P04事件について
イ その他の事件について
10 犯人性総括
第7 殺意について
第8 結論
以下,上記の項目に従って,次のとおり順次検討を加えることとする。
第1 序論
本件各公訴事実の概要は,被告人が,当時准看護士として勤務していた医療法人社団○○会北陵クリニック(以下「北陵クリニック」という。)内において,同病院で診療を受けていた5名の患者に対しそれぞれ点滴が施行されていた際に,殺意をもって,筋弛緩剤マスキュラックスを,その点滴溶液に混入するなどして点滴針を介して各患者の体内に注入し,間もなく呼吸困難ないし呼吸停止の状態に陥らせ,1名を死亡させ,4名は死亡させるに至らなかったというものである(以下,判示第1の事実を「P03事件」,第2の事実を「P04事件」,第3の事実を「P05事件」,第4の事実を「P07事件」,第5の事実を「P08事件」ということがある。)。
被告人は,各犯行への関与を全面的に否認し,P03事件については,自身が三方活栓から溶液を注入した事実はない,P04事件については点滴溶液を調合して点滴開始の手技をしたにとどまる,P05事件については点滴の準備や施行に関与していない,P07事件については点滴ボトルを交換したにとどまる,P08事件については点滴の準備や施行に関与していない旨述べた上,いずれの事実についても,筋弛緩剤マスキュラックスを点滴溶液内に混入したり,点滴針を介して被害者の体内に注入した事実はないと弁解している。
そして,弁護人も,各公訴事実を全面的に争い,各事件については,被告人の犯人性が否定されるだけでなく,何者かによって各被害者の体内にマスキュラックスが注入されたという事実自体が否定されるのであり,当時各被害者の容体が急変したのは他の原因によるものであるから,そもそも各事件には「事件性」すらなく,各事件は北陵クリニック医師らや警察の思い込みによりでっち上げられたものにすぎず,被告人は無罪であると主張する。
そこで,以下においては,はじめに北陵クリニック及び筋弛緩剤マスキュラックスに関する前提となる事項を挙げ(第2,第3),次に各事件が事件性を有することを論ずるとともに(第4),捜査経過にも疑念を入れる事情はないことを付言し(第5),続いて各事件の犯人が被告人であることを論じ(第6),最後に殺意について検討することとする(第7)。
第2 北陵クリニックについて
関係証拠(主要なものは括弧内に記載する。なお,以下で掲げる書証又は証拠物については,一部のみを採用したものも,便宜上,甲乙等の番号のみを記載し,「不同意部分を除く。」などとの付記は行わないこととする。)によれば,以下の事実が認められる。
1 北陵クリニック開設の経緯等(甲7,8,証人P20(甲230),同P06(甲251))
北陵クリニックは,患者の手足の麻痺等の運動機能障害を改善するための機能的電気刺激による治療法であるFESを研究していたP21大学医学部教授P20(以下「P20教授」という。)が中心となって,同治療法の研究開発を行うための母体となる医療機関として,宮城県知事の認可を受けて設立された医療法人社団 ○○会が,平成3年10月に開設した医療施設であり,平成10年には同所でのFES治療に関する研究が科学技術庁が主催する地域結集型共同研究事業に認定され,FES治療を提供するほか,小児科,内科等を診療科目として医療を提供していたが,平成13年3月に休止��態となり閉鎖された。
2 北陵クリニックの医療体制等(甲9,49,証人P16(甲315))
北陵クリニックでは,休診日を日曜日,祝祭日等とし,診療時間を,月曜日,火曜日,水曜日及び金曜日については午前9時から午後零時30分まで及び午後2時から午後6時まで,木曜日及び土曜日については午前9時から午後零時30分までとしていた。
北陵クリニックの職員の勤務時間は,看護師,准看護師及び看護助手(以下これらを総称して「看護職員」という。また,以下では,各職名につき当時の呼称を用いた上,原則として,看護婦,看護士,准看護婦及び准看護士を特に区別せず,看護助手を除く看護職員について,単に「看護婦」又は「看護婦ら」ということとする。なお,以下で掲げる他の関係者の資格ないし職名もいずれもその当時のものを用いる。)を除く職員については、午前8時30分から午後5時までであり,看護職員については日勤(午前8時30分から午後5時まで),半日勤(午前8時30分から午後零時30分まで),遅番勤務(午前10時から午後6時30分まで)及び当直勤務(午後4時30分から翌日午前9時まで。ただし,後記のとおり,P03事件の当時の勤務開始時刻は午後4時であった。)があり,当直勤務は看護婦(前記のとおり,看護士,准看護婦及び准看護士を含む。以下同じ。)1名と看護助手1名の編成で運用され,当直勤務終了後は明け番休務となっていた。
なお,看護職員の勤務割当てについては,P22(以下「P22総婦長」という。)が総婦長の職に就いて在職していた,平成11年6月1日から平成12年10月20日までは,同人が各人の希望も考慮の上で,看護勤務表を作成しており,それ以外の期間については,婦長の職にあったP06(以下「P06婦長」という。)がこれを行い,また,日勤者については,看護勤務表に基づいて,主任看護婦のP16(以下「P16主任」という。)が週間勤務割当表を作成して,外来,病棟,手術(手術がある日について)の各担当に割り振っていた。
看護婦らが,日勤者と当直者との間で行う業務の引継ぎは,日勤者から当直者に対する申し送りが,午後4時30分ころから午後5時ころまでの間の時間帯に,当直者から日勤者に対する申し送りが,午前8時30分ころから午前9時ころまでの時間帯に,それぞれナースステーション内において,診療録内の指示箋や看護記録に基づき,入院患者の治療経過や状態,医師からの点滴や薬の指示内容,翌日の検査予定などを読み上げるなどの方法で行われていた。
3 北陵クリニックの位置関係及び建物内の状況等(甲37)
(1)北陵クリニックの構造
北陵クリニックの施設は,南北方向(間口)約76.2メートル,東西方向(奥行)約27.0メートルのほぼ扇状となっている鉄筋コンクリート造一部二階建ての建物で,建物東面中央部に正面玄関が設けられているほか,非常口として,北面に職員通用口(職員出入口ともいう。以下「職員通用口」という。)出入口及び病棟通用口が,南面にリハビリテーション室出入口及び病棟通用口が,西面に談話室出入口がそれぞれ設けられていた。
同建物1階は,建物東側部分には,正面玄関に通じるホール部分及び待合室部分があり,そのホール部分及び待合室部分に接した西側に受付(事務室)及び外来診察室,外来処置室等外来診療施設が設置され,ホール南側にレントゲン室,手術室,リハビリテーション室(以下「リハ室」という。)等が設置され,ほぼ建物中央部に看護職員の待機場所であるナースステーションが設置され,建物西側部分は,ナースステーションに接して南北に走る通路の西側に接して,入院患者のための病室が13室設けられているほか病棟談話室が設けられた病棟部分となっていた(別紙「P11階見取図」参照。なお,このうち,各区域や部屋の位置関係については,本件当時の位置関係と同一であるが,同図面記載の備品の存否や位置関係については,平成13年1月当時のおおむねの状況を記載したものであり,本件当時も全く同一であったことを示すものではない。)。
同建物2階には,生理機能検査室,医師当直室,医局,理事長室等が設けられていた。
なお,北陵クリニック敷地北西角には,付属建物として,いずれも施錠設備を備えた,プレハブ造り2階建ての研究室(以下「コア研究室」という。)が,その東側にはプレハブ造り平屋建てのごみ集積所(以下「プレハブ小屋」という。)がそれぞれあった。
(2)病棟部分の状況
P11階西側部分を占める病棟部分には,南北方向中央部に病棟談話室が設けられ,同室東側を基点に東方向及び南北方向の三方向に廊下が延びていた(以下,東方向の廊下を「中央廊下」,南北方向の廊下を「病棟廊下」という。)。
病棟談話室東側から東方向に延びる中央廊下を東進すると,北側にナースステーション,受付兼事務室がありホールを経て突き当たりが正面玄関になっていた。
病棟談話室東側から南方に延びる病棟廊下の西側には,北方から便所・汚物処理室,洗濯室・炊事室及びS1,S2,S3,S5,S6と各表示がある入院患者用の病室5室(以下,各病室について,上記表示により特定して,「S1病室」などということがある。)があり,同廊下東側にはリネン室,水治療室,リハ室への各出入口が設けられていた。
病棟談話室東側から北方に延びる廊下の西側には,南方からN1,N2,N3,N5,N6,N7,N8,N10と各表示がある入院患者病室(以下,各病室について,上記表示により特定して,「N1病室」などということがある。)があった。
(3)ナースステーションの状況
ナースステーションは,前記中央廊下と病棟廊下の交差部分東北側角に設けられた,南北方向約7.2メートル,東西方向約5メートルの部屋で,同室内の東側にはワゴン,救急カート,カラーボックス等が置かれ,南側にはテーブル,カラーボックス,食器棚等が置かれ,西側には引出し付カウンターが設置され,その上にカラーボックス,レターケース等が置かれ,北側には高圧蒸気滅菌機,流し台等が置かれており,中央部には事務机4脚等が配置され,西側には病棟通路に通じる出入口が,東側には外来診察室・外来処置室に通じる出入口が設けられていた。
(4)外来診察室,外来処置室及びその周辺の状況
外来患者に対する診療を行う外来診察室,外来処置室は,待合室の西側に,中待合室を隔てて設けられ,北側から小児科特診室,小児科診察室,小児科・内科処置室,内科診察室,採尿室,汚物室,整形外科処置室,ギプス室(「ギブス室」とも呼ばれていた(甲37など)。),整形外科診察室,FES科・神経内科診察室が配置されていた。
これら外来診察室等の東側にある中待合室は,その東側の待合室と壁で仕切られ,待合室から中待合室へは,その壁に設けられたスライドドアの出入口3箇所から入る構造となっており,中待合室と各診察室等との間には一枚引き戸又は片開きドアが設けられていた。
各診察室及び処置室の西側には仕切りはなく,外来診療区域の中通路部分(以下「外来中通路」ということがある。)となっていた。
この外来中通路は,幅約0.9メートルの南北方向に延びた部分で,その西側部分に幅0.55メートル,高さ0.8メートル,長さ14メートルの下部が収納庫となっているカウンターが設置され(以下「外来中通路カウンター」という。),そのカウンター上には使用頻度の高い抗生剤等の薬品が収納されたケースや,点滴等に使用する医療器具が収納されたラック等が置かれていたほか,水洗設備も装置されていた。
この外来中通路を南進すると,ナースステーション出入口,受付兼事務室出入口及び受付兼事務室の北西側に設けられた薬品庫出入口に通じていた(以下,(4)に記載した区域を総称して,「外来診療区域」という。)。
(5)手術室及びその周辺の状況
ナースステーションの中央廊下を隔てて南側にアコーデオンカーテンにより中央廊下と仕切られている手術室前室があり,その手術室前室の奥東側が南北方向約5メートル,東西方向約4.5メートルの広さの手術室となっていた。
手術室前室西側は更衣ロッカー,衣装ケース,脱衣籠などが置かれた更衣室となっており,被告人が北陵クリニック在職中は,主として男性の看護職員,すなわち平成12年4月までは被告人及びP23が,同人が北陵クリニックを退職した同年5月以降は,唯一の男性看護職員となった被告人が,同室を更衣室として使用していた(甲51,被告人(第106回)。以下,(5)に記載した区域を総称して,「手術室区域」という。)。
4 北陵クリニックにおける薬剤の管理,保管状況等(甲11ないし13,31,37,336,388ないし390,証人P06(甲251),同P16(甲309,330))
北陵クリニックでは,平成9年7月ころまでは,常駐の薬剤師が薬剤の管理を行っていたが,その後は,薬剤師を置かなくなったことから,薬剤を正規に管理する者がいなくなり,看護婦が,薬剤の在庫状況を適宜確認し,不足している薬剤があった場合には,前記薬品庫備え付けの「注射薬注文ノート」,「注文ノート」又は「発注ノート」と呼ばれていたノート(甲336。以下「注文ノート」という。)に,その薬剤の名称及び必要数量等を記載し,事務職員等がその記載に基づき薬剤販売業者に発注してその納入を受けていた。
薬剤は,原則として,上記薬品庫に保管していたが,抗生剤等のうち使用頻度の高いものについては,外来中通路カウンター上に置かれたプラスチックケース及びナースステーション内に設置された,茶色の木目模様のカラーボックス(以下「木目カラーボックス」という。)上に置かれたプラスチックケースにも保管し,点滴の輸液として使用する生理食塩液(本件各犯行当時,北陵クリニックで使用していた生理食塩液(以下「生食」という。)は,扶桑薬品工業株式会社製の製品名「フィシザルツ—PL100ml」という生食(以下「フィシザルツPL」という。)であった。)及び輸液用電解質液であるソリタT1及びソリタT3(いずれも500mLのものと200mLのものがある。)についても,使用頻度が高いことから,使用頻度の高い抗生剤等と同様に,薬品庫だけでなく,前記外来診療区域(外来中通路カウンター上及び小児科・内科処置室内に設置された木製の棚)及びナースステーション内に設置された木目カラーボックス内(上記フィシザルツPLの100mLの点滴ボトルについては木目カラーボックス上)においても保管し,これが少なくなると,看護職員が薬品庫から補充していた。外来中通路カウンター上及び木目カラーボックス上のフィシザルツPL100mLの点滴ボトルの補充は,通常箱単位でされ,同点滴ボトル10個入りの新しい箱を持参して,上蓋を空けた状態で置いて,従前あった同点滴ボトルの残りは,箱から出してその上に置くなどの方法が取られていた。
なお,マスキュラックスについては,北陵クリニック看護婦が「手術ボックス」と呼んでいた,引き出しがあり,かぎ(施錠設備)は付いていない,灰色のプラスチックケース(以下「手術ボックス」という。)に保管することとされ,手術の際手術室に持ち込まれる以外の通常時は,薬品庫内に置かれていた。
看護婦は,医師の処方指示に従い,薬剤を保管場所から持ち出してこれを患者に投与するなどしていたが,もともと,持ち出しについての記録はされていなかったところ,平成12年10月25日ころ以降は「薬品(物品)もちだしノート」(甲388。以下「持ち出しノート」という。)が備え付けられ,持ち出しをした者はこれに記入する扱いになった。なお,薬品庫は,日中は施錠されておらず受付(事務室)とも通じていたことから,北陵クリニックの部内者であれば自由に出入りすることができ,また,夜間は施錠されるものの,ナースステーションに置かれていたマスターキーを利用すれば解錠が可能であり,その置き場所は,看護職員であればだれでも知っていた。
なお,薬剤師がいなくなってからは,事務長が薬剤の管理を行うようになり,各年度末に実地棚卸しを行って,毎年3月31日時点でのマスキュラックスを含む各薬剤の在庫を確認していた。
5 北陵クリニックにおける点滴医療器具及び点滴を行う場合の準備状況等(甲10,31ないし36,56,320,証人P16(甲309,315))
(1)点滴医療器具
点滴医療器具は,びん針(点滴ボトルを点滴医療器具に接続する器材),中間チューブ,点滴筒(滴下する薬剤量を確認する器材),チューブ,クレンメ(滴下する点滴溶液の量を調整する器材であり,これを完全に締めて閉じれば,点滴医療器具に満たされた点滴溶液全体が流れなくなり,締める強さを調節することで,おおよその滴下速度を調整することも可能である。),コネクター等の器材を順次接続した輸液セットと呼ばれる医療器材に三方活栓,エクステンションチューブ(下記静脈内留置針の場合。「延長チューブ」とも呼ばれる。以下「エクステンションチューブ」という。)を接続し,さらにエクステンションチューブの先にいわゆる点滴針を接続するという構造になっており,点滴針を被投与者の血管に刺入し,点滴薬剤を滴下することにより,同薬剤が被投与者の血管内に注入される。そして,点滴投与量を正確に滴下させるため,輸液ポンプが点滴筒とクレンメの間に取り付けられることがある。
いわゆる点滴針については,針の部分が,外側に軟らかい合成樹脂製の細い針状の筒があり,その中に金属製の針の部分があるという二重構造で,その針を血管に刺入後,金属製の針の部分を抜き出し,外側の細い針状の筒の部分のみを血管内に留置し,その筒を通して薬剤を血管に注入するという構造になっている「静脈内留置針」(「サーフロー留置針」,「サーフロー針」又は「サーフロー」とも呼ばれる。以下「サーフロー針」という。)と,針の部分は金属製の針のみで,その針の両わきに翼状の固定装置が付いているという構造の「翼状針」とがある。入院患者のように継続して長時間にわたり点滴投与を行う場合にはサーフロー針が使用され,外来患者のような一時的な点滴の際には「翼状針」が使用されるのが一般的である。また,各点滴針の患者の血管内への刺入(以下,この手技を「血管確保」ということがある。)と,点滴針と他の点滴医療器具との接続は,翼状針は他の器具(なお,翼状針については,元々チューブが付属しているため,エクステンションチューブを介しないで直接輸液セット等に接続される。)に接続した上で患者に刺入するのに対し,サーフロー針については,先に刺入して内針を抜く作業が必要となるため,患者に刺入して血管確保をした後,エクステンションチューブの末端まで点滴溶液を満たした状態の点滴医療器具に接続される(以下,いずれの点滴針を接続する場合も,びん針から点滴針に至るまでの点滴医療器具を総称して「点滴セット」という。)。
また,点滴医療器具を構成する三方活栓に注射器を接続することにより,当該注射器内の薬剤を注射器による注射と同一の速度で体内に注入するなどの医療行為を行うこともできる。
(2)点滴の準備状況等
北陵クリニックにおいては,医師が点滴を処方すると,看護婦が,その指示に従って,点滴薬剤及び器具の準備,点滴薬剤の調合,点滴の実施(薬剤の注入)を行っていた(なお,上記各行為については,その資格を有しない看護助手や事務職員らがこれを行うことはなく,また,医師は,その資格は有するものの,北陵クリニックにおいては,看護婦に指示をするのみで,医師自らがこれを行うことはなかった。)。
そして,外来患者に対する点滴処置は,診察の度に医師から外来診療録への記入などの方法で点滴処置を指示されることから,原則として,医師から直接指示を受けた,外来の当該診療科目担当の看護婦が,必要な薬剤及び器具の準備,薬剤の調合及び点滴の実施という一連の作業を行っていた。なお,この場合,点滴に使用する生食等は,いちいち薬品庫から持ち出すのではなく,前記のとおり外来中通路カウンター上に保管されているもの(なお,薬品庫から前記小児科・内科処置室内の棚に補充された点滴ボトルについては,外来中通路カウンターのものが少なくなった場合に適宜同所に持ち込まれていた。)を使用するのが通常であった。
これに対し,入院患者に対する点滴処置は,一定期間中の点滴についてあらかじめ一括して医師から指示される(手術が予定されている患者についても,手術当日の二,三日前ころに,全身麻酔手術用指示という書面で,その術前,術中,術後の点滴処置の内容の指示がされる。)など,当該患者に点滴を実施する日の遅くとも前日には当該患者に点滴する点滴ボトルや薬剤の種類,量等が医師から指示されているのが通常であった。そこで,入院患者に点滴投与する点滴ボトル及び薬剤については,原則として,日勤の病棟担当の看護婦が,ナースステーション内で,木目カラーボックスから取出したものを,翌日の入院患者の点滴に使用する薬剤を入院患者ごとにその患者の氏名を記載した紙片を貼付した空き箱(本件各犯行当時北陵クリニックで使用していたフィシザルツPL100mLが納入される際に梱包されていた箱が使用されていた。以下「空き箱」という。)に取りそろえて詰め込み,その薬剤入りの箱をナースステーション内西側に設置された黒色のカラーボックス(以下「黒色カラーボックス」という。)に置いておき(なお,小児科については,翌日の点滴指示が出されるのが日勤の勤務時間帯より遅くなることもしばしばであったが,その場合も,日勤勤務の看護婦において,あらかじめ上記空き箱を準備して,予測可能な点滴ボトルや薬剤については用意して,正式な指示が出た後,それと異なる場合には当直勤務の看護婦が空き箱内の変更すべきものを木目カラーボックスに出し入れしていた。),点滴実施当日の病棟担当又は当直担当の看護婦が,その箱に詰められた薬剤を調合して各入院患者に医師の処方に従った点滴を実施していた。すなわち,外来患者に対する点滴と異なり,入院患者に対する点滴については,その薬剤を準備する看護婦と,薬剤を調合する看護婦が異なるのが通常だった。
また,点滴薬剤の調合は,外来患者に対する点滴については,通常,外来中通路カウンター上で行われ,入院患者に対する点滴については,通常,ナースステーション内に設置されたワゴンの上で行われていた。
また,外来受診を経て,同日中にそのまま入院することになった患者に対する,入院当日の点滴については,医師からの指示は外来担当看護婦に対してされ,これを受けた外来担当看護婦は,通常はそのまま指示書だけを病棟担当看護婦に渡し,病棟担当看護婦がナースステーションにおいて準備行為を行っていたが,病棟担当看護婦が忙しい場合には,外来担当看護婦が外来診療区域において調合等の準備行為を行った上で指示書と共に渡すこともあった。
なお,本件各犯行当時北陵クリニックにおいて使用していた生食フィシザルツPL100mLの容器は,プラスチック製ボトルの口にゴム栓が取り付けられ,その上に透明で一部に緑色の文字の表記があるビニール製のシール(以下「ビニールシール」ということがある。)が接着してあるという構造になっており,同生食に抗生剤等粉末用の薬剤を調合する場合,看護婦は,まず上記シールを完全に剥がした上,空の注射器(シリンジ)に取り付けた注射針を上記ゴム栓に刺入して上記点滴ボトル内の生食適量を吸い上げ,次いで,調合する薬剤の容器の口に同注射器の針を刺入するなどして同注射器内の生食を同容器内に注入し,同容器内で同薬剤の溶液を作り,その溶液を注射器に吸い上げ,再度注射針を上記点滴ボトルの口のゴム栓に刺入して注射器内の薬剤溶液を注入するという方法で調合するのが通常だった。しかし,上記シールを剥がすことなく同ボトルの口のゴム栓に注射器の針を刺入することは可能であり,そのような方法を用いたとしても,上記シール等に,意識的に確認しなくとも容易に認識可能なような,外観上顕著な痕跡が残ることはなかった。
そして,入院患者に対して投与するための,調合を終えた生食のボトルには,患者の取り違えを防止するため,マジックインキで患者名及び調合した薬剤の名称を記載するのが通常であり,上記空き箱に入れる以前に患者名等を記載する看護婦もいた。一方,外来患者に対して投与するための点滴ボトルは,該当患者の人数が多く入院患者と同様に取り違え防止の必要がある場合には同様の記載をしていたが,それ以外は記載しない場合もあった。
なお,北陵クリニックでは,抗生剤等の調合に用いる注射器について,同一薬剤の調合用として1日に限り使い回しを認めており,1日のうち当該薬剤を最初に調合した看護婦が,その注射器にマジックインキで調合した薬剤名を記載するものとされていた(なお,後記のいわゆる「ヘパ生」用のシリンジについては,使い回しは認められていなかった。)。
6 北陵クリニックにおける医療廃棄物の処理状況(甲15,16,28ないし30)
北陵クリニックでは,医療行為に伴って生じる廃棄物を,感染症廃棄物(ガーゼ,酒精綿,包帯などの血液等が付着した廃棄物),感染症扱い廃棄物(使用済み注射針,縫合針,メスの刃など),非感染症廃棄物(薬剤の空アンプル,使用済み点滴ボトルなど),一般廃棄物(薬剤の空き箱などの燃えるごみ)に分別することとし,職員は,廃棄物が生じるとその分別に従い,それぞれ専用のごみ箱等に投棄していた。
そして,感染症廃棄物及び非感染症廃棄物については,それらの専用のごみ箱が満杯になると,外来内科診察室南隣にある汚物室内に置かれてある「感染症のゴミのみ」,「プラボトル・アンプル」と記載されたシールが貼付された青色ポリバケツ内のビニール製ごみ袋に分別投棄し,同ポリバケツが満杯になると,看護助手がプレハブ小屋に搬入し,廃棄物処理業者が引き取るまで同所に保管していた。なお,プレハブ小屋は,通常は施錠されており,その鍵は,「プレハブ用」と記載されたキーホルダーが取り付けられており,搬入等のための使用時以外は,ナースステーション内の机の引出し内の,前記マスターキーなど他の鍵と同じ場所に,保管されていた。
感染症扱い廃棄物については,北陵クリニック看護婦らが「針箱」と呼んでいた赤色プラスチック製医療廃棄物用容器(以下「針箱」という。)に投棄し,同容器が満杯になると,看護助手が同容器のままプレハブ小屋に搬入し,廃棄物処理業者が引き取るまで同所に保管していた。なお,針箱は,当初,前記外来中通路カウンターの上,ナースステーション内及び汚物室に置かれていたが,被告人は,北陵クリニックに就職した後,手術室前室に設置されたカラーボックスわきにもこれを置き,少なくとも被告人においてこれを使用するようになった。
7 被告人が北陵クリニックに就職した経緯及びその後の勤務状況等(甲8,340,344ないし347,350,351)
被告人は,看護士を志して,○○○○会P24学院に進学するとともに,仙台市<以下略>所在の医療法人社団○○会P25病院(以下「P25」という。)で看護学生として職場実習をし,試験に合格して准看護士の資格を取得すると,引き続き,平成4年4月から平成7年11月まで同病院に勤務した後,仙台市内所在のP26クリニック仙台分院等での勤務を経て,平成10年5月ころから平成11年1月まで仙台市<以下略>所在の医療法人○○○○会P27病院(以下「P27病院」という。)で勤務し,その後,平成11年2月に北陵クリニックに就職し,平成12年12月4日に退職するまで准看護士として稼働した。
第3 筋弛緩剤マスキュラックスについて
1 筋弛緩剤の意義等
関係証拠(甲1,6,証人P11(甲261)など)によれば,次の事実が認められる。
筋弛緩剤とは,骨格筋の緊張を取り,これを弛緩させる薬剤の総称であり,中枢神経である脊髄又はそれより上位の中枢に作用し,比較的弱い筋弛緩効果を生じさせる中枢性筋弛緩剤と末端の神経及び骨格筋に直接作用し,強い筋弛緩効果を生じさせる末梢性筋弛緩剤に分類される。
そして,末梢性筋弛緩剤は,主に全身麻酔を伴う手術において,呼吸管理を確実に行うために気管に気管チューブを挿入(気管内挿管)する際に喉頭,咽頭及びその周辺の筋肉を弛緩させて咳嗽反射等の生体反射を抑制する目的や,骨格筋の緊張を取ることにより安全に開腹手術等を行う目的で,患者に投与される。
日本において,一般的に使用されている末梢性筋弛緩剤は,スキサメトニウム(サクシニルコリン)を主成分とするもの(例えば,「サクシン」という商品名の筋弛緩剤),パンクロニウムを主成分とするもの(例えば,「ミオブロック」という商品名の筋弛緩剤),ベクロニウムを主成分とするもの(例えば,「マスキュラックス」という商品名の筋弛緩剤)の3種類であるが,スキサメトニウムを主成分とするものは、投与後約1分程度で最大効果が得られるが,その数分後には回復が始まる(筋弛緩効果の持続時間が短い)という特徴があるのに対し,パンクロニウムを主成分とするもの及びベクロニウムを主成分とするものは,いずれも最大効果が得られるまでに数分間を要するものの,その後の筋弛緩効果持続時間が長いという特徴がある。そして,筋弛緩効果持続時間について,パンクロニウムを主成分とするものとベクロニウムを主成分とするものを比較すると,後者の方が前者より短く,後者の筋弛緩効果持続時間は数十分である。北陵クリニックで購入,保管し使用されていた筋弛緩剤は,このうち,サクシンとマスキュラックスのみであった。
2 マスキュラックスについて
(1)マスキュラックスの組成,性状等
関係証拠(甲5,6,250など)によれば,次の事実が認められる。
マスキュラックスは,オランダのP28社が開発した臭化ベクロニウムを有効成分とする末梢性の非脱分極性筋弛緩剤の商品名であり,日本においては,P29株式会社がこれを輸入し,P30株式会社が販売元となっている。
マスキュラックスは,その効能又は効果を「麻酔時の筋弛緩,気管内挿管時の筋弛緩」とし,その性状は,白色ないし灰白色の粉末又は塊で,添付の溶解液等で溶解し,静脈内投与の方法により使用される。なお,わが国で販売されているマスキュラックスは,アンプル入り4mgのものとバイアル入り10mgのもので,アンプル入り4mgのものには,日局注射用蒸留水1mL在中のアンプルが溶解液として添付されて販売されている。
製品のマスキュラックスは,上記付属の溶解液に溶解した場合の溶液中の残存率が7日後でも約96%と比較的安定しており,また,生食や点滴用の輸液にも溶解し,生食,ソリタ等の輸液製剤各40mLとマスキュラックス4mgをそれぞれ混合した実験においても,混合後24時間のデータとして,いずれの輸液においても,外観,含有残存率等に変化が見られないという結果が出ている。
マスキュラックスの有効成分である臭化ベクロニウムは,ステロイド骨格を有し,その2位と16位に付属基が付いており,自然界には存在しない物質である上,常温常圧の状態で他の物質が化学変化して生成されることはなく,また,体内生成されることもない物質である。
臭化ベクロニウムを含んだ薬剤は,マスキュラックスのほかには,平成12年7月から製造販売が始められたマスキュレートという商品以外にはない。
(2)マスキュラックスの薬理効果及び作用順序
関係証拠(甲1,2,6,証人P11(甲261)など)によれば,次の各事実が認められる。
マスキュラックスは,静脈内に投与されると,血流に乗って動脈血として各組織に分布して,神経筋接合部の個々のアセチルコリン受容体中のαサブユニットに結合し,脱分極(神経から筋への情報伝達を促す活動電位を生じさせるメカニズム)を阻害し,その程度が高じると,中枢神経の指令が筋肉に伝達されなくなり,当該筋部に筋弛緩作用が生じる。
その筋弛緩作用の発現する順序は,各筋部のアセチルコリン受容体の個数に応じたいわゆる感受性の高低や心臓と各筋部の距離,血管の太さ,分布状況等の要素によると考えられるが,この順序自体は,マスキュラックス投与の量,方法や個体差(筋弛緩作用発現の程度,強弱にはかなりの個体差が見られる。)にかかわらず,基本的に一定している。その順序とこれに伴い出現する症状やこれに対応する外部的な所見等の概要は次のとおりである。
〔1〕まず,目の周りの筋に影響が出る。動眼筋が弛緩すると,両目の焦点が合わず,物が二重に見えたりぼやけて見えるようになる。また,眼瞼筋が弛緩すると,眼瞼下垂が起こり,瞼が開けづらくなってくる。
〔2〕次いで,顔面の筋に影響が出る。これに伴い,表情が乏しくなる。また,口の周囲の筋の弛緩により,口が動かしづらくなり,発話も制限される。
〔3〕さらに,首やのどの周辺の筋に影響が出る。これにより,声帯がうまく動かせなくなり,声が出にくくなる。また,関連して,舌がうまく動かせず,ろれつが回らなくなったり,物が飲み込みにくいとの訴えがされたりするほか,舌根沈下が起こり,気道閉塞の原因となる。
〔4〕その後,横隔膜等の呼吸筋や四肢筋へと影響が広がり,手足が動かしにくくなり,また,自力呼吸が困難となってくる(ちなみに,筋弛緩作用を生じさせるために必要な筋弛緩剤の有効量を見る指標としては,四肢筋の一種である拇指内転筋の力が失われる割合を示す「ED」の値が良く用いられる。)。
上記〔3〕,〔4〕のとおり,まだ横隔膜等の呼吸筋への影響が生じていない段階でも,舌やのどの周辺の筋への影響による舌根沈下が起こると,気道閉塞につながり,呼吸が阻害される事態が生じる。この場合,胸部の違和感が生じ,「胸が苦しい。」などの訴えが見られることも少なくない。もちろん,その後,呼吸筋や横隔膜への影響により,直接,自力呼吸自体が制約されて呼吸が阻害される事態も起こる。
マスキュラックスは,末梢の筋弛緩作用があるだけで,中枢神経系への影響は及ぼさない(血管脳関門で脳への流入自体が阻止される。)。したがって,マスキュラックス自体の作用により,意識がなくなることはない。ただし,上記〔2〕,〔3〕のとおり,マスキュラックスの影響により目が閉じられ,顔の表情がなくなり,発話もなくなるという状態が,一見,意識を失った状態に映ることは十分考えられる。
同様に,マスキュラックスは,随意運動をつかさどる骨格筋だけに作用し,不随意筋に属する各臓器に入ったことにより,その臓器の機能に影響を与えることはない。しかし,マスキュラックスの影響により呼吸の抑制が著しくなると,いわゆる低酸素血症の状態となり,血流は保たれていても,そこに含まれる酸素が減少することにより,その影響で各臓器の正常な機能が損なわれるおそれはある。各臓器中では,脳(特に大脳皮質)が最も影響を受け易い。心臓は,脳ほどではないが,影響が大きくなると,心拍が弱まり,やがて心停止に至る。
なお,実際に,呼吸の抑制による臓器への影響がどの程度生じるかは,マスキュラックスによる関係筋の弛緩作用自体の強さ(それ自体は,マスキュラックスの投与量が増すほど強くなる。)のほか,当人のもともとの呼吸機能(呼吸による血液への酸素の取り込み能力),呼吸筋の筋力,呼吸予備力(平常時の呼吸量と最大限の呼吸量との差)等の強弱によっても左右される。この意味で,高齢者では,上記の呼吸に関する各種能力がいずれも低下しているのが通常であるから,一般に,マスキュラックス投与の量が少なめでも,比較的容易に低酸素血症に陥る傾向が見られる。
1 はじめに
弁護人は,前記のとおり,本件の事件性自体を争い,各被害者の容体急変時の症状経過はマスキュラックス投与の症状と整合せず矛盾がある,その症状経過を合理的に説明できる他の原因が存在する,鑑定に付されたとされる各被害者の生体資料又は投与されていた点滴溶液の採取,保管,提出の過程に疑問があり,鑑定資料との同一性が立証されていない,各鑑定資料からマスキュラックスの成分であるベクロニウムが検出されたとする鑑定結果は信用できないなどと主張する。
そこで,以下,本項においては,上記弁護人の主張に即して,各事件において鑑定に付された生体資料ないし点滴溶液の採取,保管等の過程に問題がないこと(2),鑑定結果が信用できること(3),各事件の被害者の症状経過がマスキュラックスの効果と符合し矛盾がない上,他の原因による可能性が否定されること及び証拠上認定できるマスキュラックスの投与方法(4ないし8)について論じ,最後に本件の事件性が肯定できること及び各事件が故意に引き起こされたものであることを論ずる(8)。
2 各事件において生体資料ないし点滴溶液が採取,回収されて鑑定に付されたこと
(1)認定できる事実
ア P03事件の血清について
関係証拠(甲74,75,76,78,79,220ないし224,396,証人P31(甲214),同P32,同P33(甲216),同P34,同P35,同P36,同P37,同P38,同P39,同P40など)によれば,次の事実が認められる。
(ア)当初の採取及び保管の状況
P03(以下「P03」という。)は,平成12年2月2日(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。),北陵クリニックに入院した後,容体が急変し,仙台市立病院(以下「市立病院」という。)に救急搬送された。
市立病院医師P33(以下「P33医師」という。)らは,同日,同病院救急センター外来において,P03の救命措置に当たり,その際,P03の血液を都合3回採取した。このうちの1回の採取血液の一部を保存用とすることにし,血清分離用のスピッツに入れ,「P03」等とP03の氏名等を印字したラベルを貼付して,同病院緊急検査室に冷凍保存を依頼し,同病院臨床検査技師がスピッツを受領し,遠心分離器にかけて血清のみを取り出し,別のスピッツに入れ,これに元のスピッツに貼付されていたラベルをその場で貼り替えた上で,同室冷凍庫内に入れて保存し,翌日,同病院中央臨床検査室内の保存用の冷凍庫に移されて保管が続けられた。
その後,同スピッツ内血清は,再検査に付されることなく,中央臨床検査室内冷凍庫に保管されていたところ,同病院医師のP31(以下「P31医師」という。)が3月24日受け出し,これを冷凍保存状態のまま,P21大学医学部附属病院(以下「附属病院」という。)医師のP34(以下「P34医師」という。)に対し,同医師に代わって受取りに来た,P34医師の共同研究者でもある同病院のP41医師を介して,他の30程度の検体と共に渡し,P34医師は,同病院内小児科大実験室内の大型冷凍庫内に他の検体と共に保管した。
P34医師は,P31医師と共同で,小児のインフルエンザ脳症の原因について研究を行うべく,その資料として,市立病院で採取された小児の血清等相当数をP31医師から入手していたもので,上記血清は,この趣旨でP31医師から受領した検体の一つである。
その後,P34医師は,P03の血清をそのまま保管し続けていたところ,平成13年1月,警察から附属病院側に,P03の血清があれば提出してほしい旨の依頼があり,これを受けて,同月23日,警察官にスピッツを提出することとし,上記大型冷凍庫内にあったスピッツを取り出して,提出しやすいように別の冷凍冷蔵庫の冷凍室内に移し替えた。当日,P34医師に差し支えができたため,同医師の依頼により,同病院小児科医局長で医師のP35(以下「P35医師」という。)が来院した,宮城県警察本部(以下「県警本部」という。)のP36警部補(以下「P36刑事」という。)に上記スピッツを渡した。
(イ)警察官保管後の状況
P36刑事は,上記のとおり,平成13年1月23日,P35医師からスピッツを受領した。同スピッツは,当時上記大実験室冷凍庫内で冷凍保存されていたもので,上記「P03」等と記載されたラベルが貼られていた。P36刑事は,P35医師から保冷剤入り発泡スチロール容器(以下「保冷容器」という。)の提供を受け,これにスピッツを入れて運んだ。
同日,宮城県警察科学捜査研究所(以下「宮城県警科捜研」という。)技術吏員P38(以下「P38吏員」という。)は,同じ宮城県警科捜研のP42技術吏員(以下「P42吏員」という。)もいる場で,P36刑事から保冷容器に入れた上記の「P03」等と記載のあるラベルが貼付されたスピッツ1本を受領した。P38吏員は,同スピッツを宮城県警科捜研内の超低温フリーザーに入れて保管した。
当時宮城県警科捜研所長であったP39(以下「P39所長」という。)は,同月24日,同スピッツを大阪府警察科学捜査研究所(以下「大阪府警科捜研」という。)まで搬送した。その準備作業は宮城県警科捜研技術吏員P37(以下「P37吏員」という。)とP42吏員が担当し,スピッツを保冷容器に入れた。P39所長は,この容器を携帯し,自動車で仙台駅へ行き,以後,東北・東海道新幹線,地下鉄を乗り継ぎ,さらに,徒歩で大阪府警科捜研に赴き,同容器を鑑定資料として,大阪府警科捜研技術吏員のP40(以下「P40吏員」という。)に渡した。その際,P39所長は,同容器の中に上記スピッツがあるのを確認した。
イ P04事件の尿及び血清について
関係証拠(甲103,104,106,107,220,222,225,226,397,398,証人P31(甲214),同P32,同P43,同P44(甲213),同P45(甲197),同P46,同P40など)によれば,次の事実が認められる。
(ア)当初の採取及び保管の状況
P04(以下「P04」という。)は,10月31日,北陵クリニックに入院することとなった後,容体を急変させ,市立病院に搬送された。市立病院医師P44(以下「P44医師」という。)らは,同日,同病院救急センター外来で,P04の救急処置を施すとともに,同所で,P04から2回血液を採取し,このうち2回目に採取した血液の一部を保存用として,2本のスピッツに入れ,「P04」等とP04の氏名等を印字したラベルを貼付し,緊急検査室に冷凍保存を依頼し,同病院臨床検査技師がスピッツを受領し,遠心分離器にかけて,血清のみを取り出し,別のスピッツ2本に入れ,これに元のスピッツに貼付されていたラベルをその場で貼り替えた上で,同室冷凍庫内に入れて冷凍保存し,翌日,同病院中央臨床検査室内の保存用の冷凍庫に移されて保管が続けられた。
また,11月7日,P31医師は,P04の病態解明のため,P04の尿をも採取しておく必要を感じ,同病院医師のP43(以下「P43医師」という。)に採尿の上これを冷凍保存するよう指示した。これを受けて,同日,P43医師が看護婦に採尿と保存を指示し,指示を受けた看護婦は,同日,救急センター3階西病棟の集中治療室に入院中のP04から尿を採取してスピッツに入れ,これに「P04」等とP04の氏名等を印字したラベルを貼付して,中央臨床検査室に冷凍保存を依頼し,中央臨床検査室では,これを受領し,そのまま冷凍庫内に冷凍保存した。
12月5日,P31医師は,警察の依頼により,それまで上記のとおり,同病院中央臨床検査室で冷凍保存されていたP04の血清入りスピッツ2本,尿入りスピッツ1本を同室から受け出した上,市立病院4階の副院長室で,臨場したP45警部補(以下「P45刑事」という。)に渡した。
(イ)警察官保管後の状況
P45刑事は,上記のとおり,P31医師からスピッツを受領し,その際,上記各スピッツには,いずれも上記の「P04」等と印字されたラベルが貼付されていたのを確認した。P45刑事は,これらを保冷容器で搬送し,宮城県警科捜研に保管を依頼した。P45刑事は,宮城県警科捜研のP46技術吏員(以下「P46吏員」という。)に届けるつもりであったが,同人が席をはずしていたので,P42吏員に容器を手渡し,P42吏員はこれを宮城県警科捜研内の超低温フリーザーに入れて保管した。
P46吏員は,その判断で上記各スピッツを受領することにしていたが,実際の受け取り等は,上記のとおりP42吏員がし,P46吏員は,後でP42吏員から報告を受けた。
P46吏員は12月12日,上記各スピッツを大阪府警科捜研まで搬送した。P46吏員は,搬送に出発する前に,上記記名がある3本のスピッツを確認し,これらを保冷容器に入れて搬送した。P46吏員は,自動車で仙台空港へ行き,以後,航空機,地下鉄等の公共交通機関を乗り継ぎ,さらに,徒歩で大阪府警科捜研へ赴き,同科捜研P40吏員に同スピッツ入り容器を鑑定資料として渡した。
ウ P05事件の点滴溶液及び血清について
関係証拠(甲37,129,231,399,証人P18(甲227),同P20(甲228),同P47,同P19(甲295),同P06(甲293),同P16(甲309),同P09(甲294),同P45(甲197),同P40など)によれば,次の事実が認められる。
(ア)当初の採取,回収及び保管の状況
P05(以下「P05」という。)は11月13日,北陵クリニック内で,いわゆるFES手術を受けた後引き続きN2病室に入院中のところ,同日夜に入り,容体を急変させた。
P20教授の妻で北陵クリニックにおいて常勤で小児科を担当し副院長でもあった医師のP18(以下「P18医師」という。)は,救命措置を受けていたP05が,外見上意識の回復が確認できるようになった,同日午後10時45分ころ,N2病室内にいたP20教授と目が合い,ボトルを確保するようにとの意味に受け取り,容体急変時にP05に投与され,当時も点滴スタンドに吊り下げられていたフィシザルツPL100mLのボトル(「P05くん 21°11/13 ope后」と記載のあるもの)を手で取り,いったん自分の白衣のポケットに入れた後,P20教授とすれ違いざまに同人に手渡した。P20教授は,間もなく,このボトルをP12階の医師当直室にある冷蔵庫冷凍室内に保管した。
併せて,P20教授は,上記のとおり,P18医師とすれ違いざまにボトルを受け取る際,P18医師に小声で「ブルート」と告げて,P05の血液をも採取,保管するように指示した。P18医師は,これを受けて,P05の血液を採取,保管しようとした。1回目の少量の採血は,既にP18医師が行っていたが,アイスタットでの検査に全量消費していたので,改めて,2回目の採血をしようとしたが,手が震えてうまくいかないと感じ,同室してP05の救命措置に当たっていたP47医師(以下「P47医師」という。)に採血を依頼した。P18医師は,保存のことも考え,多めに採取するよう依頼し,これに従い,P47医師は,同日午後11時15分ころ,P05から七,八mLくらいの血液を採取した。P18医師は,これを注射器ごと受け取り,ごく一部をアイスタットの検査に使い,残りをそばにいた看護婦に手渡し,血清分離し保存するよう指示した。
その後,看護婦において,血清分離した後のP05の血清がスポイト(「P05」と記載のあるもの)に入れられて,北陵クリニック内の小児科診察室前の外来中通路にある小型冷蔵庫内の冷凍室に保管された。P18医師は,これを同月14日午前2時少し前ころ,同冷蔵庫内から取り出し,P20教授に手渡し,同人は,上記のとおり,既に医師当直室内冷蔵庫冷凍室に保管されていたボトルと共に,上記血清入りのスポイトも,同冷蔵庫冷凍室内に一緒に保管した。
その後,P20教授は,上記のボトル及びスポイトを北陵クリニック内のリハ室内にあるディープフリーザーに移して引き続き保管していたところ,12月3日これらを取り出し,県警本部に持参し,P45刑事に対し提出した。
(イ)警察官保管後の状況
P45刑事は,上記のとおり,12月3日,県警本部でP20教授から,それぞれ上記のP05を示す記名等のあるボトル及びスポイトを受領した。そして,これらをそれぞれビニール袋に入れ,更に大きめのビニール袋に一緒に入れて捜査一課の冷蔵庫内冷凍室に保管した。P45刑事は,12月4日,県警本部と同じ建物内にある宮城県警科捜研にこれらの資料の保管を依頼し,P46吏員に手渡した。
P46吏員は,これを宮城県警科捜研内の超低温フリーザーに保管した。そして,12月12日,上記記名があるスポイト及び点滴ボトルを確認の上,これを保冷容器に入れ,前記のP04から採取した血清及び尿が入った各スピッツと共に大阪府警科捜研まで搬送し,P40吏員に鑑定資料として渡した。
エ P07事件の点滴溶液について
関係証拠(甲37,156,158,164,165,401,証人P18(甲227),同P19(甲318),同P16(甲321),同P45(甲197),同P48,同P42,同P37,同P40など)によれば,次の事実が認められる。
(ア)当初の回収及び保管の状況
P07(以下「P07」という。)は,北陵クリニック内に入院中の11月24日午前,容体を急変させた。その際,看護婦から知らせを受けたP18医師がP07が入院していたN10病室に3度様子を見に行くなどしたが,そのうちの1回のとき,点滴スタンドに吊り下げられていたフィシザルツPL100mLのボトル(「P07さん パンスポ 1g」と記載のあるもの)を手で取り,白衣のポケットに入れて持ち出し,間もなく,医師当直室内の冷蔵庫の冷凍室にビニール袋に入れた状態で保管した。
その後,P18医師は,12月9日,北陵クリニックを訪れたP45刑事に対し,その求めに応じ,医師当直室内において,上記冷蔵庫冷凍室から取り出して,上記ボトルを提出した。
(イ)警察官保管後の状況
P45刑事は,上記のとおり,12月9日,P12階医師当直室でP18から,「P07さん パンスポ 1g」と記載のあるボトルを受領した。P45刑事は,保冷容器に入れて搬送することにしたが,実際の搬送は,当日北陵クリニックに来ていた,P48警部補(以下「P48刑事」という。)に依頼した。
P48刑事は,当直勤務のため県警本部に戻るので早めに北陵クリニックを退出することになっており,そのため,上記のとおり,そのついでに上記ボトル入り容器の搬送を依頼されて引受けた。P48刑事は,同日,P42吏員に同容器を手渡した。
P48刑事から上記ボトルを受け取ったP42吏員は,これを宮城県警科捜研の超低温フリーザー内に保管した。ところで,大阪府警科捜研は,当時多忙であったところを,前記のとおり12月12日に一度にP04事件及びP05事件の各資料が持ち込まれたことから,宮城県警科捜研に対し,今後鑑定資料を持ち込む場合には,臭化ベロニウムの含有する可能性が高いものを選別してからにしてほしい旨依頼し,これを受けた宮城県警科捜研において,上記点滴ボトル内の溶液につき臭素含有の有無の予備試験を実施することとした。そこで,P42吏員は,12月14日,予備試験のため,上記ボトル内の溶液を常温で一部解凍させ,資料が異物等により汚染されないように十分に配慮した上で,溶けた部分のボトルの側面にカッターナイフで切れ目を入れ,マイクロピペットで内容液の一部を採取し,採取後すぐに切れ目をシールで密封して,上記フリーザー内に戻し,同所での保管を続けた(なお,採取した溶液の予備試験は同月18日まで行われ,臭素が検出された。)。
12月20日,P42吏員は,上記超低温フリーザー内から上記ボトルを取り出し,これをP37吏員が受け取り,P37吏員は,同ボトルにシールのようなものが巻き付けてあり,「P07さん パンスポ 1g」との記載があることを確認した上で,同日これを保冷容器に入れて大阪府警科捜研まで搬送した。その際,P37吏員は,地下鉄とバスで仙台空港へ行き,以後,航空機,南海電鉄,地下鉄を乗り継ぎ,さらに,徒歩で大阪府警科捜研に赴き,ボトル入り容器を同科捜研技術吏員のP49(以下「P49吏員」という。)に鑑定資料として渡した。
オ P08事件の点滴溶液について
関係証拠(甲37,56,185,187,190,320,402ないし404,証人P16(甲321,330,431),同P06(甲432),同P50,同P51,同P52(甲333),同P53(甲204,335),同P42,同P54,同P55,同P40など)によれば,次の事実が認められる。
12月6日及び7日の両日,北陵クリニック内に残っていた医療廃棄物のうち非感染症廃棄物と針箱は,県警本部刑事部捜査第1課課長補佐のP51警部(以下「P51刑事」という。)の依頼を受けたP06婦長及びその指示を受けたP16主任により回収されてコア研究室1階の階段下物置に搬入され,その後同所で保管された。
P52警部補(以下「P52刑事」という。)らは、12月14日,コア研究室に保管されていた上記医療廃棄物の実況見分を行い,その際,上記医療廃棄物中,外側に患者名等の患者を特定できる名前などの文字の記載がある点滴ボトルと,マスキュラックス等の一定の薬剤の空アンプルとアンプルの先端を領置し,その余の医療廃棄物については,上記実況見分の立会人となった,平成11年9月ないし10月ころから平成12年10月31日まで北陵クリニック事務長の立場にあり,本件当時は嘱託の事務職員であったP50(以下「P50元事務長」という。)にその後も同所での保管を続けるよう依頼した。
次いで,県警本部は,上記の保管が継続された廃棄物中に,P07事件においてマスキュラックスが混入されたと考えられるフィシザルツPL100mLの点滴ボトルから剥がされ,その混入の痕跡が残された状態のビニールシールがある可能性があると判断し,平成13年1月28日,P53巡査部長(以下「P53刑事」という。)刑事らが北陵クリニックへ赴き,P50元事務長に案内されてコア研究室内に入り,上記廃棄物中から,ビニールシール合計41枚を選別して,同人から領置した。
さらに,県警本部は,P07事件においてP07に投与されていた点滴ボトルは,投与前に薬剤を調合した看護婦が,黒色カラーボックス内に準備されていた2本のフィシザルツPL100mLの点滴ボトルのうちから無作為に選んだ1本であったことから,犯人はあらかじめ2本の点滴ボトルにマスキュラックスを混入し,P07への点滴に用いられなかった他の1本は犯人がその後同所から回収して他の患者に投与された可能性があると考えて捜査したところ,P07が急変し死亡した当日の午後に外来患者として点滴投与を受けたP08(以下「P08」という。)が容体急変した事実を把握し,P08に投与された点滴のボトルが,上記の保管が継続された廃棄物中の,文字の記載がない点滴ボトル中に残されているものと考え,同年2月7日,P53刑事が北陵クリニックに赴いて,無記名の点滴ボトル16本を含む残りの上記保管廃棄物すべてをP50元事務長から領置して,宮城県警察泉警察署(以下「泉署」という。)に搬入した。
県警本部は,上記P08に投与された点滴のボトルは,P07に投与されたそれと同じ製造番号である可能性が高いと考え,P53刑事らは,同月9日,上記のとおり領置した無記名の16本のボトルのうち,製造番号が「00H11C」のものを選別したところ,いずれもつぶれたようにへこみ,中に少量の液体が入っていた3本の点滴ボトルがこれに該当したので,それぞれ1ないし3の番号を書いた紙と共に透明ビニール袋に入れ,これらをP56警部(以下「P56刑事」という。)に渡し,同人は,直ちに泉署の証拠品庫内にこれらを保管した。
P53刑事は,同月9日,上記のとおりいったん保管したボトルの搬送をP54巡査部長(以下「P54刑事」という。)に依頼し,P54刑事は,同月10日,P56刑事から上記各ボトルを受け取り,泉署から県警本部鑑識課へ搬送した。搬送後,指紋係実験室内でボトルから指紋採取がされたが,その際,各ボトルのスタンドに引っかける部分に1ないし3の番号が記載された荷札が付けられた。
さらに,同日中に,P55巡査部長(以下「P55刑事」という。)が上記鑑識課指紋係実験室から同じ階にある宮城県警科捜研に上記各ボトルを移動し,P42吏員に渡した。
P42吏員は,P55刑事から上記ボトル3本(製造番号「00H11C」で1ないし3の荷札が付けられたもの)を受領し,宮城県警科捜研内の超低温フリーザー内に保管した。
P42吏員は,同月12日,P36刑事と共に,上記各ボトルを保冷容器に入れて大阪府警科捜研まで搬送した。P42吏員は,自動車で仙台駅へ行き,以後,東北・東海道新幹線,地下鉄を乗り継ぎ,さらに,徒歩で同科捜研に赴き,同科捜研P40吏員に上記各ボトル入りの容器を鑑定資料として手渡した。
ア ところで,弁護人は,各資料の採取,保管,搬送の過程において,資料自体がねつ造されたり,すり替えられたりし,あるいは,資料中に他の物が混入されたりした可能性を否定し難い旨主張し,その根拠についても,種々の指摘をしている。
しかし,上記各認定の前提となる各証人の証言内容には,基本的な矛盾や不自然さはなく,関連する診療録,伝票等の記載上も不可解とすべき点はなく,いずれも,それ自体,十分信用することができる上,それぞれ,関係物の存在とその形状,そこに記載されている氏名等により,物の同一性も裏付けられている。
イ さらに,念のため付言すると,次の各事情も指摘できる。
(ア)P03及びP04関係の資料は,そもそも,本件において患者の急変が起きた北陵クリニックとは別の医療機関である市立病院において保管されていたもので,その後,北陵クリニック側に保管替えされたことは一切なかったのであって,北陵クリニック側の者がその採取,保管の過程に関与する余地はなかったものである。
(イ)P05,P07及びP08関係の資料は,もともと北陵クリニック内において採取され,あるいは,保管されていたものである点は,(ア)の場合と異なる。しかし,前示のとおり,少なくとも,それらが捜査機関側の保管に移された経緯は,それぞれ異なっている。すなわち,P05関係の資料は,P20教授が県警本部に出頭する際携行して提出したのに対し,P07関係の資料は,P05関係の資料と時期的には同時並行的に北陵クリニック内に保管されていたにもかかわらず,P18医師が別途保管し続け,むしろ,捜査機関側の求めに応じる形でP05関係の資料とは別に提出されている。さらに,P08関係の資料は,そもそも,北陵クリニック側で意識的に区分して保管されていたものではなく,捜査機関側で医療廃棄物の中からその推論により重要と思料された物を抽出,採取するに至ったものである。このように,それぞれ捜査機関への提出,保管の端緒等が異なることからすれば,そこに,一貫した意図的な資料のねつ造,すり替えやこれへの異物の混入の契機を想定することは著しく困難である。
(ウ)P05,P07及びP08関係の資料について,個々的な証拠関係をみると,次のとおりである。
a P05事件の血清
弁護人は,P18医師がP05からの採血時にその血清保管を予定していたとは考えられず,実際にも,採取された当該血液は,すべて外部の検査に回されたものであること,また,当該血液の血清処理に関与したとされるP19看護婦(以下「P19看護婦」という。)のこの点に関する供述内容は,極めて断片的,あいまいであり,その他の証拠関係を見ても,当該血液の血清化されたものが鑑定に付された対象物であるとの立証が欠けているのは明白であることなどを指摘する。
しかし,まず,P18医師がP05からの採血時,後日のために,少なくともその一部の保存,確保を念頭においていたことは,P18医師の多めに血液を採取してほしいとの依頼により,実際に,P47医師が七,八mLくらいの動脈血を採取した(証人P47,同P06(甲293))ことによっても,客観的に裏付けられているというべきである。もっとも,P18医師が,実際はあらかじめ他の血清と資料のすり替えを図る意図で,これを隠ぺいする手段として,いかにも血液保存を図るような外観を作出したとでも考えるのであれば別であるが,仮にそうであるとすれば,むしろ,P18医師において,捜査段階から,当初から保存を考えて多めの採血を依頼した旨強調するはずであって,かえって,その検面調書(弁69,70)にあるように,後になって血清入りスポイトを見つけて初めて保存を思いついたなどという供述をするとは解し難い。
そして,上記の点が裏付けられるとすれば,必然的に,少なくとも,P18医師において,「P05」との記載のあるスポイト入り血清を見た際,これをP47医師により採取されたP05の血液の血清化されたものと考えて,以後保管をしていたという点も,格別疑うべき事情はないと解される。
もっとも,上記記名のあるスポイトに入っていた血清が,実際にP05から採取された血液から抽出されたものであったかどうかの点については,確かに,直接これを裏付ける証拠がない上,その過程について触れるP19看護婦(甲295)の供述内容も,特に,その検面調書(弁53)の内容との食い違いの程度をも考慮に入れると,少なくとも,それのみで上記の点を積極的に推認させるだけの証拠価値があるものとはたやすく認め難い。しかし,一方において,上記のとおりP05から採取された血液の量とスポイト内に存した血清の量(約2mL)との比較においても,この血清が最終的に3種(生化学,血糖,末梢血)の外部検査用に回されたP05の血液に係る資料とは別に存在した物理的可能性は否定されないこと,他方,当日の同じ時間帯に別の患者から同様の採血やその処理が行われたとうかがわれる事情は全くなく,したがって,他の患者の血液資料との混同が生じるような状況はなかったと解されること,併せて,P19看護婦の供述中,同人が当該スポイトに「P05」と記名したとの点,それが少なくともP05の血液を血清化する準備行為として行われたとの点は,その限度では十分信用し得ることをも併せ考慮すれば,結局,上記スポイトに入っていた血清は,P05から採取された血液から分離されたものと認めるのが相当である。
b P05事件のボトル
弁護人は,特にP20教授,P18医師が他の被告人を含む看護婦ら多数がいたN2病室において,他の者に気付かれずに点滴スタンドからボトルを取って持ち出すことが不自然であることや,P20教授,P18医師の各検面調書の内容が公判供述と大きく食い違うことなどを指摘する。
しかし,他の者に気付かれずにボトルを持ち出したとの点については,当時,看護婦らが急変から回復しつつあるP05の容体とこれに対する対応の方に意識が向いていたという状況を前提にすれば,必ずしも不自然とはいえない。また,P20教授,P18医師の公判供述の内容について,各検面調書(弁69,70,74,75)の内容とかなり異なる部分が存することは確かであるが,その食い違う部分は,ささいなものとはいい難いものの,供述の根幹にかかわる部分とまではいえず,P20教授,P18医師が上記の食い違いが生じた理由について述べるところも,少なくとも,検面調書作成当時,P18医師の身体,精神状況が平生と異なっていたとする限度では,一応具体的で首肯し得ないではなく,上記の食い違いがあることにより,一概にP20教授,P18医師の公判供述の信用性が減じられるとはいえない。
そして,何よりも,当該ボトルがP05の急変時点滴されていたボトルであることは,その「P05くん 21°11/13 ope后」との記載の存在により明らかであり(証人P09(甲294),同P16(甲309),同P06(甲293)),このことを念頭におけば,翻ってP20教授,P18医師のボトル確保,保存に関する供述内容も,結局,その信用性を否定する理由はないというべきである。
c P07事件のボトル
弁護人は,P18医師がN10病室に赴き,点滴スタンドからボトルを取り外して持ち出したことについて,P18医師のこれに関する供述には,種々不自然な点,客観的な事実に反する点,他の関係者の供述と異なる点などが存し,信用できず,そもそも,P18医師は,P07の急変時一度もN10病室に赴いていない旨主張する。
しかし,弁護人がP18医師の供述を信用できない理由として指摘する各点は,いずれもP18医師がP16主任の言動を通じてP07の急変を知った後,小児科外来診察の合間を縫ってN10病室に赴き,少なくとも被告人のいないところを見計らって,他の在室者に気付かれないように点滴ボトルを点滴スタンドから取り外して確保したという基本的な部分の信用性を決定的に失わせるほどの事情とはいい難い。
そして,当該ボトルがP07の急変時点滴されたボトルであることは,その「P07さん パンスポ 1g」との記載の存在により明らかであり(証人P19(甲318)),このことを念頭におけば,翻って,P18医師の上記供述内容を含むボトルの採取,確保に関する供述部分は,基本的に信用することができるというべきである。
d P08事件のボトル
弁護人は,鑑定に付された無記名のボトル(製造番号「00H11C」のボトルのうち,番号1の荷札が付けられたもの。以下「P08ボトル」という。)がP08への点滴に用いられたものであるとの点の立証がない旨指摘する。
この点,まず,P08ボトルが北陵クリニック内にあった廃棄物の中に存したものであることは,同事件に関する前掲各証拠により明らかというべきである(弁護人は,「00H11C」の製造番号のボトルのうち,記名のあるものの個数につき,検察官の主張とのそごを指摘するところ,確かに,証拠上,記名のあるボトルにつき検察官が冒頭陳述で主張した個数が存在したと認めるに足りる証拠はないが,この点が直ちに無記名のボトルの存在及び個数の不明確さに結びつくとは解されない。)。
ところで,P08ボトルには記名がないので,既に検討したP05事件やP07事件のボトルと異なり,それ自体から,それがP08に対する点滴に用いられたボトルであるとの推認は働かない。
しかし,まず,P08ボトルからミノマイシンの主成分であるミノサイクリン及びマスキュラックスの成分であるベクロニウムが検出されたことは後記のとおりであり,この点は,P08に投与された薬剤及びP08のマスキュラックスによるものと認められる症状と符合している。そして,少なくとも,P08への点滴投与に用いられたボトルが12月6日現在(証人P06(甲251),同P16(甲330))北陵クリニック内に存した廃棄物中に含まれていた可能性は,他の廃棄物中の各ボトルの存在及びその記載内容等(記名のある患者の入院期間,点滴状況等を含む。)によっても十分認められる(例えば,11月22日から同月25日まで入院していたP57(以下「P57」という。)に対するものの少なくとも大部分が存在するし,11月15日に入院し,同月24日に死亡したP07に対するものが多数存在する。)。
他方,11月24日の前後の時期において,外来患者の中で,点滴投与(厳密には,ミノマイシンの投与)を受けた際,容体を急変させた患者がP08とは別に存したことをうかがわせる証拠は全くない(かえって,P51刑事の証言によれば,そのような急変患者は,P08以外にはいなかったとの捜査結果が得られたことが認められる。)。
以上の証拠状況を総合すると,P08ボトルがP08への点滴に用いられたものであることは,優に認定し得るというべきである。
(3)小括
以上の各事情も併せ考慮すると,結局,関係資料の採取,保管,搬送の過程において,弁護人が主張するような資料の不当な作出,加工等の事実が一切なかったことは,証拠上,優に認定できるというべきである。
(1)鑑定の経過
関係証拠(甲74,103,129,158,187,証人P40など)によれば,本件各事件に関し,前記のとおり大阪府警科捜研に持ち込まれた各資料(P03の血清入りスピッツ1本,P04の血清入りスピッツ2本及び尿入りスピッツ1本,P05の血清入りスポイト1本及び点滴溶液入りボトル1本,P07の点滴溶液入りボトル1本,製造番号が「00H11C」の点滴溶液入りボトル3本)について,鑑定(以下,総称する場合は「本件各鑑定」という。)に付された経過は概要以下のとおりであり,また,各鑑定資料は,鑑定の過程で全量が消費されたことが認められる。
ア 各資料の鑑定嘱託事項及び鑑定結果について
(ア)P03の血清(スピッツ入り)について
平成12年2月2日の容体急変後に市立病院において採取されたP03の血清(鑑定開始時(以下同)の容量は約1mL)は,平成13年1月24日,大阪府警科捜研において,同所のP40吏員が,鑑定事項を,「資料にベクロニウム若しくはスキサメトニウムが含有されるか,含有される場合にはその濃度」とする鑑定嘱託書と共に受領し,その後,同日から同年2月23日までの間,P40吏員及び同じく大阪府警科捜研技術吏員のP49吏員が共同で鑑定を行った。
上記事項に対応する鑑定結果は,資料の血清からベクロニウムが検出され,その濃度は1mL当たり6.2ng(臭化ベクロニウムとして)というものであった(なお,スキサメトニウム及びその分解・代謝物は検出されなかった。)。
(イ)P04の血清(スピッツ2本入り)及び尿(スピッツ入り)について
平成12年10月31日の容体急変後に市立病院において採取されたP04の血清(合計約4mL)と,同年11月7日に同病院で採取されたP04の尿(約7mL)は,いずれも,同年12月12日,P40吏員が,大阪府警科捜研において,鑑定事項を,「各資料にベクロニウム若しくはスキサメトニウムが含有されるか,含有される場合にはその濃度」とする鑑定嘱託書と共に受領して,その後,同日から平成13年1月19日までの間,P40吏員及びP49吏員が共同で鑑定を行った。
上記事項に対応する鑑定結果は,資料の血清及び尿いずれからもベクロニウムが検出され,その1mL当たりの濃度は,血清については25.9ng,尿については20.8ng(いずれも臭化ベクロニウムとして)というものであった(なお,いずれからもスキサメトニウム及びその分解・代謝物は検出されなかった。)。
(ウ)P05の血清(スポイト入り)及び点滴溶液(ボトル入り)について
平成12年11月13日の容体急変後に北陵クリニックにおいて採取されたP05の血清(約2mL)と,同日容体急変時にP05に投与されていた点滴溶液の残り(約53mL)は,いずれも,同年12月12日,P40吏員が,大阪府警科捜研において,鑑定事項を,「各資料にベクロ���ウム若しくはスキサメトニウムが含有されるか,含有される場合にはその濃度」とする鑑定嘱託書と共に受領して,その後,同日から平成13年1月19日までの間,P40吏員及びP49吏員が共同で鑑定を行った。
上記事項に対応する鑑定結果は,資料の血清及び点滴溶液いずれからもベクロニウムが検出され,その1mL当たりの濃度は,血清については16.5ng(臭化ベクロニウムとして),点滴溶液については,臭化物イオンがすべて臭化ベクロニウムに起因すると考えた場合,29.9μg(臭化ベクロニウムとして)というものであった(なお,いずれからもスキサメトニウム及びその分解・代謝物は検出されなかった。)。
(エ)P07の点滴溶液(ボトル入り)について
平成12年11月24日の容体急変時にP07に投与されていた点滴溶液の残り(約37mL)は,同年12月20日,P49吏員が,大阪府警科捜研において,鑑定事項を,「資料にベクロニウム若しくはスキサメトニウムが含有されるか,含有される場合にはその濃度」とする鑑定嘱託書と共に受領して,その後,同日から平成13年1月19日までの間,P40吏員及びP49吏員が共同で鑑定を行った。
上記事項に対応する鑑定結果は,資料の点滴溶液からベクロニウムが検出され,その濃度は,臭化物イオンがすべて臭化ベクロニウムに起因すると考えた場合,1mL当たり25.4μg(臭化ベクロニウムとして)というものであった(なお,スキサメトニウム及びその分解・代謝物は検出されなかった。)。
(オ)製造番号が「00H11C」の点滴溶液入りボトル3本について
平成12年12月6日にプレハブ小屋からコア研究室1階の階段下物置に保管され,平成13年2月7日に警察に任意提出された医療廃棄物の中にあり,その後取り分けられてそれぞれ番号1ないし3の荷札が付けられた,「00H11C」の点滴ボトル3本の中にあった各点滴溶液(番号1のものは約7mL,番号2及び3のものはそれぞれ約3mL)は,同月12日,P40吏員が,大阪府警科捜研において,鑑定事項を,「(1)各資料にベクロニウム若しくはスキサメトニウム含有の有無。含有するとすれば,その量,(2)各資料に塩酸ミノサイクリン含有の有無」とする鑑定嘱託書と共に受領して,その後,同月13日から平成13年3月23日までの間,P40吏員及びP49吏員が共同で鑑定を行った。
上記事項に対応する鑑定結果は,鑑定事項(1)に関しては,番号1の荷札が付けられた点滴ボトル(P08ボトル)に在中の点滴溶液(以下「P08の点滴溶液」という。)からベクロニウムが検出され,その濃度は,臭化物イオンがすべて臭化ベクロニウムに起因すると考えた場合,1mL当たり30.4μg(臭化ベクロニウムとして)というものであり,一方,他の点滴ボトルに在中の点滴溶液からはベクロニウムは検出されなかった(なお,いずれからもスキサメトニウム及びその分解・代謝物は検出されなかった。)。また,鑑定事項(2)に関しては,P08ボトルと番号3の荷札が付けられたボトルに在中の各点滴溶液からはミノサイクリンが検出され,番号2の荷札が付けられたボトルに在中の点滴溶液からは検出されなかった。
(ア)定性分析について
本件各鑑定においては,各鑑定資料のベクロニウム又はスキサメトニウムの含有の有無を分析するための,定性分析の方法として,液体クロマトグラフィー・質量分析・質量分析(「液体クロマトグラフィー/質量分析/質量分析」,「LC/MS/MS」,又は「エルシー・マス・マス」などと表現されることもある。以下では「LC/MS/MS」と表記する。)の分析方法が用いられた。これは,液体クロマトグラフィー・質量分析(「LC/MS」ともいう。)と比べて判定能力が高く,血清や尿などの生体試料に含まれた筋弛緩剤など非常に微量な化合物の同定をより確実に行うための最適な方法であり,点滴溶液の試料についても,生体試料と分かりやすくデータを統一するとともに,同定を確実に行うために,同じ方法が用いられたものである。
上記LC/MS/MSの分析機器にかける前に,生体資料については,不純物や常成分が含まれているため,それらを取り除いて目的成分を取り出すための抽出作業が行われ,そのために,メタノール,蒸留水及びペーハー6のギ酸緩衝液で活性化した,「Bond Elut CBAカートリッジ」を用いた,固相抽出の方法が取られた。これは,活性化した試料を充填剤が詰められたカートリッジの中に通すと,不要な不純物や常成分だけが溶出し,目的とする筋弛緩剤はイオン結合によりカートリッジ中に保持され,その後その結合を外すことで,筋弛緩剤を取り出すことを可能とするものである。カートリッジに上記のものが選ばれたのは,P40吏員らがそれまでの研究から最適であると判断したためであり,上記活性化の作業は,カートリッジの充填剤から不純物を取り除くとともに,抽出する薬毒物が保持されやすくするために行われた。また,筋弛緩剤が保持されやすいペーハー6とするため,カートリッジを活性化する際に上記ギ酸緩衝液を用いるとともに,各試料にもカートリッジに通す前に試料と同量のペーハー6のギ酸緩衝液が加えられた。上記のとおり,薬物成分をカートリッジに保持させた後,充填剤の中に付着した不要な成分を取り除くためにカートリッジを蒸留水で洗浄するが,カートリッジ内に保持されている筋弛緩剤は弱陽イオン交換樹脂との結合が強いためこれにより流出することはなく,その後,0.1規定塩酸メタノールを流すことで,上記結合が外れ,これに溶けた筋弛緩剤を流出させて,試料として回収可能となるが,以上の方法がとられたのも,P40吏員らのこれまでの研究で最も回収率がよい結果が得られていたためである。
上記抽出作業後の生体試料及び点滴溶液の定性分析に用いられたLC/MS/MSの分析機器は、液体クロマトグラフィーと質量分析計二つが合体した装置で,微量で混合成分を分離して同定,定量する装置として最も適している。これによる分析の流れの概要は,まず,液体クロマトグラフの部分は,移動相,ポンプ及びカラムで構成され,ポンプにより移動相が常時カラムに流れており,注入部から試料を注入すると,移動相に溶けた試料がカラムに入り,カラム中にある充填剤の多孔性の樹脂を通過する際,試料中の化合物が分子量の大きいものから順に溶出されて,混合物が分離される。次に,溶出された試料は,キャピラリー(インターフェイス部分)において電圧をかけることで,架電した細かい液滴となり,最終的にはイオン化して(「エレクトロスプレーイオン化」という。),質量分析部分に入る。質量分析とは,イオン化した試料を,電荷分の質量(「m/z」と表記される。)に応じて分離して検出する分析であり,LC/MS/MSにおける質量分析部,すなわち「MS/MS」の部分では,MS1とMS2の二つの質量分析装置によりこれを行う。具体的には,質量分析部に入ったイオン化した試料は,電圧をかけることで,目的成分だけがMS1に入り,MS1でまず質量分析を行うことで,様々なイオン種が検出されるので,その中から一つのイオン種(これを「プリカーサイオン」という。)を選び,これをコリジョンセル内でアルゴンと衝突させることで,更に開裂させて生成されたイオン(これを「プロダクトイオン」という。)を,MS2の質量分析でm/zに応じて分離し,検出器で検出して記録化するものである。
MS/MSで二度質量分析を行うことで,同定能力が増える理由は,質量分析を一度しか行わない場合,検出されるイオンが1本だけとなるので,試料が微量である場合,検出されたイオンのピークが低くなりノイズとの見分けがつかなくなるのに対し,MS/MSでは,そのイオンを更に開裂させて分析することで,複数のイオンで確認することが可能となり,また,MS1で選定されたイオンだけを用いるため,夾雑イオンが少なくなり,より高感度で分析することが可能となるからである。
鑑定試料及び標品を分析し記録化した結果については,各鑑定書添付の図のとおりであり,〔1〕横軸を保持時間(分析されるまでの時間),縦軸を相対強度(一番高いピークを100としたときの強度)とした,m/z258をプリカーサイオンとしてLC/MS/MSを行ったときに得られたプロダクトイオンの中で最も強度のあるm/z356のものだけを測定し記録化したマスクロマトグラム,〔2〕同様の縦軸及び横軸で,m/z258をプリカーサイオンとして,LC/MS/MSを行ったときに得られたプロダクトイオンすべてを測定し記録化したトータルイオンクロマトグラム,〔3〕横軸を分子量,縦軸を相対強度(プリカーサイオンを100としたもの)として,上記〔1〕及び〔2〕でピーク部分のある保持時間における,m/z258をプリカーサイオンとして,LC/MS/MSを行ったときに得られたプロダクトイオンすべてを測定して記録化したプロダクトイオンスペクトルで表されている。
そして,本件各鑑定においては,前記のとおりベクロニウムの含有が認められた各鑑定資料については,これを試料として,上記の方法で分析したところ,同一条件において標品のベクロニウムを分析した結果と等しい結果が得られた。すなわち,各鑑定試料又は標品を分析した際のカラムの劣化の影響による誤差はあるものの,いずれも上記〔1〕及び〔2〕に関しては,鑑定試料と標品のピークがほぼ同じ保持時間に認められ,さらに,上記〔3〕に関しては,特に鑑定試料の濃度が低い場合,検出限界に近いことから形が崩れている部分はあるものの,いずれの鑑定試料についても,標品と共通するm/z356,374,398等のプロダクトイオンを含有するスペクトルが得られたことから,ベクロニウムの含有が認められたものである(カラムの劣化や鑑定試料の濃度等の影響等により,鑑定試料と標品の分析データが完全に一致することはないが,上記の点で共通している以上,同定には支障ないものと認められる。)。
以上のLC/MS/MSによる筋弛緩剤の分析方法については,P40吏員らが,これまでの研究から最適であると判断して用いられたものであり,学会においても発表され,学問的にも承認されている。
(イ)定量分析について
本件各鑑定において,定性分析でベクロニウムの含有が認められた各鑑定資料について,含有されるベクロニウムの濃度を分析する定量分析の方法としては,点滴溶液については,イオンクロマトグラフという装置を用いたイオンクロマトグラフィーの方法により,臭化物イオンとして分析し,一方,生体試料については,選択反応検出モードにおけるLC/MS/MSを用いての分析が行われた。
定量分析において,点滴溶液と生体試料で異なった方法が用いられた理由は,点滴溶液に関しては,ベクロニウムは水溶液中で分解されやすく,点滴溶液中でも同様であるため,分解されない臭化物を定量するほうが確実にベクロニウムの定量が行われるからであり(なお,分析される臭化物が,臭化ベクロニウム以外の薬毒物に由来するものでないことは,後記のとおり,各鑑定試料について,ベクロニウム及びスキサメトニウム以外の薬毒物についての含有についても分析されており,その機会に確認されている。),一方,生体試料である血清や尿に関しては,含有されるベクロニウムの量が非常に少ないと予想され,イオンクロマトグラフィーの方法では,検出感度が低く分析できない可能性があり,また,抽出等の処理も煩雑となることから,LC/MS/MSの方法が選択されたものである。
このうち,点滴溶液に用いられたイオンクロマトグラフィーの方法は,鑑定試料を溶離液に溶かし,充填剤にイオン交換樹脂が用いられたカラムを通すと,イオン交換樹脂と試料とのイオン交換の差によって分離し,溶離液によるノイズをサプレッサーにより取り除いた後,検出器により試料の電気抵抗を計ることで,どのようなイオンが出ているかを定性,定量するもので,ベクロニウムが検出された各点滴溶液の鑑定資料からは,いずれも臭化物イオンが検出され,前記の各濃度が得られたものである。なお,上記各点滴溶液に臭化物が含まれることについては,誘導結合プラズマ質量分析の方法によっても確認された。
生体試料に用いられた,LC/MS/MSの選択反応検出モードとは,LC/MS/MSの定量に用いられるモードで,プリカーサイオンを選定して得られたプロダクトイオンのうち一つだけを選んで連続的に分析し,その強度で定量分析をする方法で,本件各鑑定においては,濃度の異なる臭化ベクロニウムの標品のLC/MS/MSによる分析を基に,横軸を濃度,縦軸を強度とする右上がりの検量線を作成し,同じ条件で鑑定試料を分析,測定し,その強度を上記標品の検量線に当てはめて臭化ベクロニウムとしての濃度を計算する方法であり,これにより前記の各濃度が得られたものである。
(ウ)ミノサイクリンの分析について
製造番号が「00H11C」の点滴ボトル3本の中にあった各点滴溶液については,ベクロニウムの定性分析に用いたのと同じLC/MS/MSの方法が用いられ,ベクロニウムの分析の場合とは,塩酸ミノサイクリン���標品を用いたほか,カラムや移動相等の一部の分析条件について異なっているが,それらは,P40吏員がミノサイクリンの定性分析に適した方法として,自身の知見や検討結果に基づき選択したものであり,これにより前記ア(オ)のとおり,P08の点滴溶液及び「00H11C」の番号3の荷札が付けられたボトルの点滴溶液からはミノサイクリンが検出されたものである。
(エ)その他の薬毒物の分析について
本件各鑑定においては,各鑑定資料に関し,鑑定嘱託事項とされていたベクロニウム,スキサメトニウムないしミノサイクリン以外の薬毒物が含有されていないかについての検査も行われ,各鑑定資料の性質及び残量に応じて可能な限りで,各種の化学定性試験,蛍光X線,イオンクロマトグラフィーのカチオン分析,ガスクロマトグラフ質量分析,薄層クロマトグラフィー,X線回折,赤外分光分析などの分析が行われた。
その結果,各鑑定資料からは,治療薬として下記の薬物が検出された以外には,特別な毒物は検出されず,前記点滴溶液の定量分析の際に仮定したベクロニウム以外の臭化物も検出されなかった。治療薬については,P03の血清からは,リドカイン及びジアゼパムが,P04の血清からはリドカインが,P04の尿からはペントバルビタール及びその代謝物,フェニトイン及びその代謝物,ジアゼパムの代謝物並びリドカインの代謝物が,P05の血清からはリドカインが,P05の輸液からはセファチアムが,P07の点滴溶液からはセファチアムが,「00H11C」の番号2の荷札が付けられたボトルの点滴溶液からはセファチアムが検出され,P08の点滴溶液からはベクロニウムとミノサイクリン以外は検出されなかった(なお,弁護人は,P04の血清につき,P04の急変後に投与された治療薬中に,分析対象とされたのに検出されなかったものがあることをとらえて,資料の同一性に疑問を呈するが,各薬物の性質及びその分析方法の違いや,少量の生体試料であるが故に十分な濃度が得られないことなどの理由から検出限界を超えて分析できない成分があったとしても不自然とはいえない。)。
ウ 鑑定過程における汚染や取り違えの可能性について
本件各鑑定において,抽出に利用したカートリッジ,カートリッジから溶出したものを受ける容器,LC/MS/MS装置のサンプル瓶等,装置と共に用いられる使い捨て可能な機材についてはすべて新品のものが使われ,また,装置自体についても,各鑑定試料を分析する前に必ずブランクテストを何回も行い,ベクロニウムが残留されていないことを十分に検査してから行うため,装置がベクロニウム等の異物に汚染されていた可能性はなかった。なお,仮にカラムの中にベクロニウム等の異物が残留した事態を想定したとしても,その場合においても,カラムは移動相が常時流れて洗浄されている状態にあり,本件各鑑定でベクロニウムが検出された場合のような,標品と同じ保持時間での左右対称のピークが得られることはあり得ず,各鑑定書に添付されたもの以外の機会に行った分析の際にも,カラムの汚染を疑わせるような分析結果が出たことはなかった。
また,P40吏員は,鑑定作業においては,共同鑑定人であるP49吏員と,抽出等重要な作業についてはクロスチェックを行うなどして相互の作業を把握しながら,試料の取り違え等がないよう留意して作業していたもので,複数の鑑定資料が取り違えられて分析されることもなかった。
前記(1)イ,ウ認定の事実に加え,以下に指摘する諸点を総合すれば,本件各鑑定の鑑定手法は,鑑定事項等に基づく各鑑定資料の分析目的に照らしていずれも適切妥当なものであり,鑑定人の知見及び適格性にも問題はなく,鑑定過程にもその正確性,信用性に疑念を抱かせるものはなく,前記(1)アの各鑑定の結果については,その信用性を肯定することができる。
以下,弁護人が本件各鑑定の結果が信用できないとして主張する事項等を踏まえ,若干補足して説明する(なお,弁護人が疑念を呈する事項のうち,鑑定資料を全量消費した点については下記(3)で,P04の尿に関する鑑定濃度の点については下記(4)の別項目で触れ,その余の点については,ア以下で触れる。)。
ア 鑑定手法及び鑑定担当者の適格性について
弁護人は,鑑定手法及び鑑定担当者の適格性について,ベクロニウムのLC/MS/MSによる分析手法それ自体が,未だ論文が発表されていないなど研究途上のものであって,一般的に信頼性が認められている手法であるということはできない,鑑定を担当したP40吏員は,犯罪ないし事件に関し生体資料を鑑定し筋弛緩剤を検出したことが本件以前にないなど,鑑定経験に乏しく,鑑定人としての適格性には疑問がある,などと主張する。
しかし,P40吏員の証言によれば,同人は,昭和48年に大阪府警科捜研の技術吏員となって以降,薬毒物の研究と多数の鑑定に携わり,昭和62年ころから筋弛緩剤の分析に関する研究を行い,共同鑑定人となったP49吏員とも共同で研究するなどして,学会発表や学術誌への論文の掲載をしてきたもので,本件各鑑定で用いたLC/MS/MSの手法によるベクロニウムの分析に関する研究結果についても学会で発表し学問的にも承認されているもので,本件各鑑定の以前にも約15件,資料点数で約50点の,ベクロニウムを含む筋弛緩剤の鑑定をした経験を有し,このうち生体資料に限っても,約10件の鑑定をした上,3件について,血清ないし尿から筋弛緩剤の成分(2件がベクロニウムで1件がスキサメトニウム)を検出した実績を有するもので,十分な知識,経験を有していると認められ,自殺が疑われる不審死の事例を除いた,明らかな犯罪被害者の生体資料からの筋弛緩剤の検出の実績がこれまでなかったからといって,それが同人の鑑定人としての適格性及び上記の分析手法に疑念を生じさせるものではなく(なお,P40吏員は犯罪被害者の生体資料である臓器の鑑定を行った経験は有し,その資料については筋弛緩剤を検出できなかったと証言しているが,そのような結果となったことは,同人が証言するとおり,分解の早いスキサメトニウムの投与が疑われた事例であることや,投与後の時間経過,資料の状況ほかラットによる実験結果との対比等からみて首肯できるものといえる。),ほかにも以上の認定を疑わせる証拠はない。
イ 鑑定資料の扱いについて
弁護人は,各鑑定資料の扱いに関し,〔1〕血清及び尿については,実際の鑑定作業に際してそれらが真に各被害者の生体資料であるかを検査すべきなのにしていないこと,〔2〕P04の血清に関しては,2本のスピッツに分けられた状態で受領したのであるから,各スピッツごとに別々に鑑定すべきであったのに,鑑定に先立って2本のスピッツの内容物を混ぜた上で鑑定を実施していることについて,いずれも不適切でその信用性に疑問がある旨主張する。
しかし,〔1〕については,鑑定人としては,各鑑定資料の取り違えや汚染に留意して,鑑定事項に即した鑑定を実施すれば足りるのであって,鑑定事項の範囲外であり,かつ,薬毒物鑑定とは異なる領域となる上記検査を実施する義務があるというのは独自の見解であり採用できない。
〔2〕については,確かに容器が別で,しかも各容器内の血清の容量が,必ずしも個別の分析に必要な量を下回っていたともいい難いことからすると,捜査機関としては,鑑定嘱託の段階から枝番を付して分けるなどして,少なくとも嘱託事項の分析に関しては個別に行うことも検討に値し,その方が,鑑定結果がより具体的になるなど望ましい面があったものといえる。しかしながら,他方,既に認定したとおり,P04の血清は,スピッツ2本に分けられていたものの,いずれも同一機会に採取されたものであり,P40吏員が受領した際,鑑定嘱託の対象としても,一つの鑑定資料として区別されずに記載されていたのであるから,P40吏員が証言するように,同人が,宮城県警科捜研のP46吏員に問い合わせて,2本のスピッツの中身が,同一人から,同一機会に採取された血清であることを確認した上で,これを混ぜ合わせて同一の資料として鑑定したとしても,上記行為にそれ以上の格別の作為のうかがわれない本件においては,これが鑑定の信用性を疑わせるほどの不適切な行為であったとはいえず,また,上記のとおり鑑定資料の汚染に留意しつつ鑑定作業が行われている以上,両者を混ぜ合わせる作業が加わったことをもって,汚染の事実を疑わせる事情が生じたものともいえず,この点に関する弁護人の主張も失当である。
ウ 鑑定経過について
弁護人は,本件各鑑定の経過について,〔1〕スキサメトニウムについては未変化体だけでなく分解代謝物の含有の有無についてまで分析しているのに,ベクロニウムについては分解代謝物の含有の有無を分析しておらず,不自然である,〔2〕本件各鑑定においては,多数回のLC/MS/MSの分析を実施しているが,多数回の分析をしなければ鑑定結果を出せなかったということは,鑑定の信用性を疑わせるものであり,かかる多数回の分析により,標品のベクロニウムなどによって実験室全体が汚染された可能性も否定できない,〔3〕P04事件,P05事件及びP07事件の3件の鑑定書では,いずれも標品については同一の分析結果のグラフが添付されている一方で,P40吏員によれば他に各資料と近接するかたちで個別に標品の分析をしているというのに,その分析結果のグラフは公判廷に顕出されておらず,便宜的というほかはなく,鑑定過程のずさんさを裏付けているなどと主張する。
しかし,〔1〕については,P40吏員の証言によれば,スキサメトニウムについてはベクロニウムより分解が早く進むことから,当初から分解代謝物のことも念頭におき,検出されなかった未変化体以外に,分解代謝物の分析をも試みたのに対し,ベクロニウムについては各鑑定資料から未変化体が検出されたため,それ以上に代謝分解物まで調べる必要性が認められなかったことから,その分析は行わなかったものであり,両者の扱いを異にした合理的理由が認められるから,これが不自然とは認められない。
〔2〕については,確かに,本件各鑑定においてLC/MS/MSが用いられたのは鑑定資料のベクロニウムの定性分析には限られていないとしても,上記分析に限っても各鑑定資料につきそれぞれ複数回の分析が行われていることは認められる。しかし,P40吏員の証言によれば,そのように分析が繰り返されたのは,各鑑定資料とも,鑑定開始の翌日までの早期の段階でベクロニウムは検出されたものの(なお,同証言で述べられている,それ以前に検出できなかったケースは,当初に生体試料に関し対象をベクロニウムに絞らず検出感度の低い4チャンネルでの分析をした結果がプラスマイナスとなったものや,当初濃縮に用いた瓶が吸着しやすいものであったことなど,当初の分析条件の影響によるものであり,これが最終的な鑑定結果に疑念を差し挟む事情とはならない。),その後正確な鑑定結果を得るための確認として行われ,試料に関しては最後に分析した各データを鑑定書に掲載したことが認められ,また,資料等の汚染を疑わせる事情のないことも前記のとおりであるから(なお,P08ボトルの鑑定に関し,同時期に嘱託されて鑑定作業が行われた他の2本のボトル内の点滴溶液からベクロニウムが検出されていないことも,汚染がなかったことを裏付ける一事情として指摘できる。),この点の主張も失当である。
〔3〕については,P40吏員の証言によれば,前記3件の各鑑定書に掲載したデータについては,いずれも鑑定書作成のため,同一の日に分析したもので,標品の分析は掲載したもの以外にも各試料の分析と近接する時点でも行ってはいるものの,同じ日に分析したものであることから,カラムの劣化による保持時間の変化も同定に支障があるほどのものではないと判断し,むしろ便宜上標品のデータの統一を図る観点から,標品については同じ分析結果を掲載したことが認められるのであり,掲載した各試料の分析結果は,いずれも各鑑定資料に関する最後の分析として行われたもので,そのデータの選択経過にも殊更作為が加えられた事情も認められないのであるから,上記のように標品のデータに関し統一したものを用いたからといって,これにより各鑑定結果の正確性,信用性が損なわれるものとはいえない。
エ 鑑定経過の記録化について
弁護人は,本件各鑑定において,鑑定の経過を記録した実験ノートが作成されていない上,LC/MS/MSに注入した試料の自動記録化もされず,ブランクテストの結果を示す資料も残されていないため,鑑定の正確性や各分析による資料の消費量等を事後的に検証する余地が失われており鑑定の信用性に疑問がある旨主張する。
しかし,本件各鑑定の経過については,P40吏員が,弁護人側の要望に応じて当公判廷に持参した鑑定当時のメモ及びデータの記載も踏まえた上で,相当具体的かつ詳細に,明確で一貫した証言をしており,その信用性を疑わせる事情は認められないのであるから,上記のような記録化がされていないこ��をもって,本件各鑑定の信用性が失われるものとはいえない。
弁護人は,本件各鑑定により各鑑定資料がいずれも全量消費されたことをとらえ,そもそも,真実,前記(1)イ(エ)のような鑑定嘱託書で嘱託されていない他の薬毒物の検査が実施されたか自体疑わしいし,仮に実際に他の薬毒物の検査が行われた事実があったとしても,それは,再鑑定による追試を妨げる目的で,殊更に鑑定資料を全量消費したものであるから,いずれにしても,各鑑定書の証拠能力及び信用性は否定されるべきであると主張する。
しかし,P40吏員の証言によれば,本件各鑑定において他の薬毒物分析をすることになった経緯は,同人は,従前から,本件各鑑定のような事件性を有する事例においては,単に目的成分が検出されたというだけでは,被害結果が他の薬毒物により引き起こされた可能性を否定できず,後々他の薬毒物が検出されて因果関係が問題とされた事例も多々あるため,薬毒物による事件の鑑定において,薬毒物の含有の有無全般の分析を行わないことは致命的な欠点になり得るとの認識を有し,日ごろから大阪府警察からの鑑定嘱託に基づく鑑定においては,目的成分を限定しない「薬毒物含有の有無」との嘱託事項で鑑定を行っており,大阪府警科捜研の他の技術吏員にもそのような指導をしていたところ,本件各鑑定の嘱託書では鑑定事項が限定されていたため,宮城県警科捜研のP46吏員に問合せた結果,他の薬毒物の鑑定が未了であることが判明したため,鑑定事項を「薬毒物含有の有無」とすることを提案したが,その後P46吏員から,宮城県警側で相談した結果として,鑑定事項はそのままにしておいて,他の薬毒物分析も行ってほしいとの依頼を受けたことから,他の薬毒物分析を行うことになったことが認められるのであり,その経緯には一応の合理性が認められ,首肯し得るのであり,特段不自然な点は認められない。
また,本件各鑑定において鑑定資料が全量消費された経過についても,P40吏員は,前記のとおりメモ及びデータの記載も踏まえた上で,相当具体的かつ詳細に,明確で一貫した証言をしており,これも信用することができ,本件各鑑定において真実他の薬毒物の分析が行われたことが認められる。
この点,確かに各鑑定資料により鑑定に付された量には差があり,例えば,少量しかなかった生体資料はともかく,点滴溶液のうち相当量のあったものについては,他の点滴溶液と同量程度の消費にとどめるなどして,各鑑定資料の残部を追試が必要となる場合に備えて保存しておく措置を採ることも考慮すべき余地はあったものと思われる。
しかし,一方において,P40吏員の証言によれば,同人は,上記のとおり薬毒物分析が重要であるとの認識から,各鑑定資料の性質及び残量に応じて可能な限り徹底的に分析を行う意図で,上記の鑑定を行ったもので,そのような薬毒物分析の必要性自体は首肯でき,また,薬毒物分析の方法も合理的なものであったと認められるから,上記のような経過と判断から,その結果各鑑定資料が全量消費されたことをあながち不当と断ずることはできず,そのことをもって本件各鑑定書の証拠能力や信用性を否定すべき事情があるとはいえない。
なお,弁護人は,上記のとおり,他の薬毒物の検査が実施されたこと自体が疑わしいとして,〔1〕大阪府警科捜研が忙しく,宮城県警科捜研から送付される鑑定資料についても絞ってほしいとの要望を伝えていた状況であったのに、筋弛緩剤の分析より時間を要する他の薬毒物の検査まで行うことは通常考えられないこと,〔2〕他の薬毒物の分析についても宮城県警科捜研から依頼されたというのなら,その時点で鑑定嘱託書の記載も変更されるべきなのにされていないこと,〔3〕ベクロニウムが検出された各点滴溶液の鑑定書において,定量分析の結果が「臭化物イオンがすべて臭化ベクロニウムに起因すると考えた場合」と仮定形で記載されているが,他の薬毒物検査によりベクロニウム以外の臭化物が存在しないことが明らかとなっていたならその旨明記すべきであるのに,仮定形で記載したことは不自然であること,〔4〕他の薬毒物検査について,真実宮城県警からの依頼を受けて行ったのなら,その結果を少なくとも参考事項として鑑定書に記載すべきであったのにしていないこと,〔5〕P40吏員の証言は,薬毒物検査の結果を宮城県警側に伝えたのが口頭でかメモの交付によってかとの点に関し動揺がみられ,この点でも信用できないこと,〔6〕他の薬毒物検査の鑑定結果について口頭でしか報告がされていないなら,犯罪捜査規範192条1項に基づき,その旨の供述調書が作成されるべきなのにされていないことなどの事情を指摘する。
しかし,P40吏員の証言を踏まえれば,それぞれ,次のとおり解するのが相当である。
すなわち,まず,〔1〕については,上記の他の薬毒物検査を行う必要性に照らせば,一方で鑑定対象となる資料を厳選するということと,他方で実際に対象とした資料につき十分な鑑定を行うこととは相いれないことではない。
次に,〔2〕及び〔4〕については,確かに鑑定嘱託事項自体を正式に薬毒物全般を対象とするものに変更し,他の薬毒物分析の結果も鑑定書に記載した方が,他の薬毒物の分析の経過及び結果が書面上も明確となり,後々の紛議を避けるという点からも,本来,より望ましい方法であったというべく,これとの対比において,宮城県警側においてあえて鑑定嘱託事項を上記のとおり変更する必要まではないと判断し,P40吏員もその意向に従い,嘱託事項に記載がない以上,鑑定書上も,上記の点を記載するまでの必要はないものとして処理した経過に適切さを欠く面があったことは否定できないが,それ以上に捜査側に意図的な対応があったとはうかがわれず,したがって,上記の経過から当然に他の薬毒物検査の実施の事実や本件各鑑定の信用性が否定されるものとはいえない。
また,〔3〕についても,同様に,P40吏員は,上記の経緯から鑑定書の記載上,他の薬毒物検査の結果を記載しなかったこととの関係で,弁護人指摘の部分を仮定形での記載にとどめたものと解されるから,やはり,これが他の薬毒物検査の実施の事実や本件各鑑定の信用性を否定すべき事情になるとはいえない。
さらに,〔5〕については,P40吏員は,当初すべて口頭で伝えたととれる証言をしたものの,記憶として確実とはいえないことから,メモで伝えた可能性があることを付加しつつも,やはり口頭で伝えた可能性が高いということを述べたにすぎず,その供述の変遷に格別不自然な点は認められないのであって,これをもって同人の証言の信用性が減殺されるものではない。
そして,〔6〕については,前記のとおり,そもそも薬毒物分析につき鑑定嘱託事項を変更した上,鑑定書にもその点の結果を明記しておく扱いの方が,より望ましかったといえ,それに準ずる意味で,仮に鑑定書に記載しない場合でも,その結果を何らかの形で証拠化して残す扱いにした方が相当であったといえる。しかし,この点も,当時の捜査機関の判断として,鑑定嘱託事項に対応する鑑定書が作成されている以上,これに付随する事項として口頭で報告された他の検査結果について別途供述調書を作成する扱いにしなかったという経過自体に格別の作為を疑わせるような不自然な点は認められないのであるから,他の点と同様,そのことが他の薬毒物検査の実施の事実や本件各鑑定の信用性の否定につながる事情とはいえない。
以上のとおり,この点に関する弁護人の主張はいずれも採用することができない。
弁護人は,平成12年11月7日に採取されたP04の尿の鑑定結果として,1mL当たり20.8ngの濃度でベクロニウムが検出されたことについて,投与7日後の尿からそのような高濃度のベクロニウムが検出されることはあり得ない旨主張するので,以下検討する。
ア 日本医科大学大学院の教授で同大学の医学部長の職にあり,麻酔科専門医でもある医師のP58は,概要次のとおり,上記弁護人の主張に沿う証言をしている。
血管を通って腎臓にもたらされた血液中の物質のうち,ベクロニウムを含む,分子量が3万以下のものは,すべて糸球体を通過して尿細管側へ押し出されて原尿となるので,そのような物質の血中と原尿中の濃度はほとんど同じである。
原尿のうち,尿細管で再吸収を受けたものは,尿とはならず,再び血管のほうに戻っていくが,ベクロニウムについては,文献には記載がないものの,分子量が小さく,水溶性に極性が変化しているから,水分と同様,原尿に含まれているうち99%は再吸収され,残りの1%が尿として排せつされると考えるのが素直である。
したがって,物質の性格による違いは考えられるものの,ある時点でのベクロニウムの尿中の濃度は,原尿中の濃度とほぼ等しく,血中の濃度におおむね近いと推定できる。
そうすると,平成12年11月7日に採取されたP04の尿の鑑定の結果1mL当たり20.8ngの濃度でベクロニウムが検出されたことを前提とすると,それと同じころのP04の血中のベクロニウムの濃度もそれに近い値だったことになる。
ところで,ある血中濃度が測定された時点からさかのぼって,ベクロニウムが投与された直後の血中濃度や投与量をおおむね推定することは,ベクロニウムの排泄半減期(血中準度が半分に減るまでの時間)を基にした計算で可能であるところ,P04事件について考察するに,排泄半減期を最大に見積もって120分とし,検察官がP04に対してマスキュラックスが投与されたと主張する時刻からP04の尿の採取まで約150時間が経過しているとして計算すると,ベクロニウムの血中濃度は2時間経過するごとに2分の1ずつ減少してゆくのであるから,投与時のベクロニウムの血中濃度は,20.8ngの2の75乗倍という天文学的な,到底考えられない数字になってしまう。
イ しかし,上記P58の証言については,その内容自体,〔1〕糸球体でろ過して原尿になるか否かを,物質の分子量が3万あるか否かだけで判断していること,〔2〕尿細管での再吸収率については,ブドウ糖が100%で,尿素が0%であるなど,物質によって様々であり,単なる水溶性の程度で決せられるものではなく,ベクロニウムについてのデータもないのに上記のとおり仮定し,それがあくまで類推にすぎないことを自認していること,〔3〕尿細管再分泌の有無や水分の摂取量によっても尿中の濃度は変わり得るのにそのことも考慮に入れていないこと,〔4〕上記P58自身,排泄半減期に基づく計算についても,薬物動態で用いられる生物学的半減期は,物理学上の半減期のような不変のものではなく,前記の計算は,あくまで2コンパートメントモデルに従い設定された半減期どおりの半減が未来永ごう続いてゆき,縦軸を濃度のログ,横軸を時間とする片対数グラフを取ると右下がりの直線になることを仮定したにすぎず,実際にベクロニウムが尿中からどのように排せつされるかの人体に関するデータに接したことはなく,むしろラットを用いて実験したデータ(弁7)によれば,投与の12日後でも肝臓や筋肉等の体内に,それが未変化体かどうかはともかくとしてベクロニウムが残留していた結果のあることを自認していること,〔5〕同人の証言は,他の事項に関しても,例えばベクロニウムが尿中に排せつされる場合の未変化体と代謝物の割合に関し,マスキュラックスの製品概要書と異なる内容を述べ,当初は持参した文献にそれを裏付ける記載がある旨述べながら,その確認を求められると結局指摘し得ないなど,その証言の正確性,真し性を疑わせる事情があることなどの諸点を指摘できるのであって,以上のとおり,上記証言は,十分にその裏付けや正確性を吟味しないまま,仮定に仮定を重ねた結果としての推論を述べたものにすぎず,それだけをみても不自然な点が多々認められるのであり,その結論を含め信用性に乏しいといわざるを得ない。
ウ 一方,薬学博士で,P21大学大学院薬学研究科医療薬学講座薬物動態学分野教授の職にあり,薬物動態学を専門分野とするP59(以下「P59教授」という。)は,上記P58の証言の誤りを指摘するとともに,P04の尿から前記濃度のベクロニウムが検出されたことは不自然ではないとして,次のとおり証言している。
物質が糸球体でろ過される率については,分子量の3万を境に異なるのではなく,分子量が1000以上となるとどんどん下がるものであり,また,ベクロニウムは血中で6割台はたんぱくに結合し分子量が大きい状態で存在しているのであり,すべてが原尿中に出て行くわけではない。
尿細管からの再吸収の率については,これにより原尿の99%が回収されることはそのとおりであるが,再吸収は,脂溶性の高いものが多く,水溶性の高いものはむしろ尿中にとどまるのであり,また,ベクロニウムは水溶性に極性が変化したものではなく,水溶性と脂溶性の両方の性質を持った化合物である。ベクロニウムの再吸収率に触れた文献はなく,各物質の再吸収率は0%のものから100%のものまで様々であり,データもなく推測することはできず,腎クリアランスの数値をそのまま根拠にするのも正しくない。
薬物動態学で用いる,生物学的半減期(バイオロジカルハーフライフ)とは,物理的な元素の崩壊と異なり,本来摂取された薬物の濃度は片対数グラフを取っても直線とはならず,時間の経過とともに半減期はだんだん長くなるためゆるやかな曲線になるものを,薬効の強さや持続時間を求めるために必要な,高濃度の時間内において,二つ又は三つのコンパートメントモデルを使って便宜的な近似式を用いているにすぎないのに,上記P58はこれを不変のものとして当てはめ,現実からかけ離れた計算をしており,半減期の取扱いを誤っている。
ベクロニウムは,血中投与後,筋組織などに比較的効率よく分布し薬効を発揮するが,血中からの消失が即体外への排せつを意味せず,その後一部は肝臓や筋肉等の組織内に長く留まり,血中濃度が下がって薬効が失われても体外への排せつは長引き,組織内での移動も血中濃度が低くなると,ベクロニウムのような4級アミン系の物質の場合,濃度勾配に従った受動輸送よりも,ピートータンパクなどのトランスポーターが作用した能動輸送による尿細管分泌等の寄与が大きくなるので,投与後の時間経過により尿中濃度が血中濃度を上回ることになるので,ある時点での尿中濃度から血中濃度を求めることはできない。
結局,P04の尿の鑑定結果が薬物動態からみて不自然といえるかどうかは,血中濃度ではなく,排せつされた量から検討するほかはないところ,P04の尿が採取された当日のP04の1日の尿量は,1645mLであるから,鑑定濃度で計算すると,その尿中に排せつされたベクロニウムの総量は34μgとなり,これは,投与されたマスキュラックスの量を1アンプル(4mg)又はその半分程度と仮定すると,その一,二%程度の量に相当するが,その程度の量が7日後に尿から排せつされても不自然とはいえない。
また,マスキュラックスの人体からの排せつは,一般的には腎臓からが約4割,肝臓からが約6割であるが,肝臓には一度集まった薬物を血中に戻す機構も存在しており,当時のP04のように,食物等を摂取できず便が全く排せつされない状態にあった場合,それ以上の比率で尿中から排せつされた可能性もある。
エ 以上のP59教授の証言は,前記のとおりの専門的な立場から誠実になされたもので,その内容も具体的かつ論理的で不自然な点はなく,投与されたベクロニウムが7日後にも体組織内に残存し,排せつが続くとの点については,ラットを用いた投与後288時間経過までの実験データ(甲250に加え,弁7にもその記載がある。)とも矛盾がなく,その信用性を肯定することができる。
オ 以上のとおりであり,P59教授の証言は信用できるところ,これと対比し,明らかに異なる内容を述べる上記P58の証言は,前記イで指摘した諸点に照らしても,これを信用することができないから,結局,前記弁護人の主張は採用することができず,P04の尿につき前記の濃度のベクロニウムが検出されたことは決して不自然なことではなく,そこに,同資料を含む本件各鑑定の経過及び結果の信用性を疑わせる事情はないというべきである。
(1)認定できる事実(P03の症状経過等)
関係証拠(甲32ないし36,49ないし53,59,60,64,78,79,208,証人P14,同P15(甲263),同P33(甲264),同P18(甲275),同P16(甲315),同P17など)によれば,P03の容体急変に至るまでの症状経過,容体急変時及びその後の症状経過並びにその間の関係者の行動等として次の事実が認められる。
ア P03の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件の前日までの経過等
P03は,平成10年○月○日,父P14(以下「P14」という。),母P17(以下「P17」という。)の長女として出生し,仙台市泉区内で,両親に養育されて生活していた。平成12年2月2日当時のP03の年齢は1歳1か月で,体重は,約11.2kgであった。
P14及びP17は,平成12年1月,P03に風邪の症状が続いたことから,他の小児科医院で治療を受けさせたものの,症状が改善せず,同月29日には,更にP03の発熱がひどくなったので,同月30日,休日診療所において診療を受けさせたが,その後,P14らは,P03の症状を改善させるため,P14が以前受診した経験のある北陵クリニックを受診させることにした。
同月31日,P03は初めて北陵クリニックを外来受診し,P18医師の診察を受けた。
P03の同年1月31日の初診時の体温は37.9度であり,P18医師は,初診の際,P03に付き添って来ていたP17から,P03のせきがひどく,前日は1日のうちにおう吐が1回,下痢が1回ないし3回あった旨聞き,P03の胸部に聴診器を当てて聴いたところ,肺雑音や心雑音は認められず,触診すると,腹部は柔らかく平たんであり,下痢のときに聞こえるグル音はせず,また,咽頭はやや赤かった。P18医師はP17から,P03が他の病院で受診し点滴を受けた後,手掌のみに発しんが出来た旨聞いて,点状出血ではないかと考えた。P18医師は,P03に対する諸検査として,正面から胸部レントゲン撮影,尿検査,血液検査及び生化学検査を指示した。
P18医師は,P03の病状を喘息様気管支炎,脱水症と診断し,その治療のため,同日は,抗生剤ミノマイシン25mgを調合した生食の点滴及び気管支拡張剤ネオフィリン2.5mL,ビタミン剤ビスコン1アンプル,20%のブドウ糖1アンプルを調合した200mLの輸液ソリタT1の点滴を施行するとともに,吸入処置及び3日分の内服薬を処方した。
P03は,翌日の同年2月1日も同様に北陵クリニックを受診してP18医師の診察を受けた。
同受診時のP03の体温は36.7度であり,その際,P17は,P18医師に対し,同日朝のP03の体温は,37.5度で,元気は出てきた旨や,せきがまだある旨説明した。P18医師がP03を診察したところ,粘性のある鼻水があり,聴診器での聴診,触診及びのどの様子を確認した結果は前日と同じであり,P18医師は,P03の症状が快方に向かっていると感じて,前日処方した内服薬を飲み続けてもらうこととし,この日は,前日と同じ吸入処置のみをした。
(ア)平成12年2月2日における北陵クリニックの看護職員の勤務状況は,午前8時30分から午後5時までの日勤勤務がP22総婦長,P16主任,P10看護婦(以下「P10看護婦」という。),P13准看護婦(小児科外来担当。以下「P13看護婦」という。),P15准看護婦(病棟担当。以下「P15看護婦」という。)及びP60看護助手(以下「P60助手」という。),午前8時30分から午後零時30分までの半日勤勤務者がP61看護助手(以下「P61助手」という。),午前10時から午後6時30分までの遅番勤務者がP62看護婦(以下「P62看護婦」という。)であり,午後4時から翌日の午前9時までの当直勤務者が被告人及びP63看護助手(以下「P63助手」という。)であった(なお,北陵クリニックにおける当直勤務開始時刻は,同月4日までは午後4時からであったが,同月5日以降は午後4時30分からに変更された。)。
そして,被告人は,同日午後3時16分ころ北陵クリニックに出勤し,翌2月3日午前9時58分ころ退勤した。
(イ)P17は,同年2月2日午前中,再度診療を受けさせるため,P03を伴って北陵クリニックに赴いた。
P18医師は,同日,P17に連れられたP03を診察し,その際,P17から,P03の体温が前夜38.2度まで上昇したこと,P03が母乳ばかり飲んで食欲がやや不振で排尿,排便がないこと,せきが継続していることなどP03の自宅での症状について説明を受けた上,肺雑音の聴診や腹部の触診,のどの状況観察をした結果は前日までと同じで特に異常はなかったものの,P03の症状が改善しておらず,少し脱水症があると考えられ,また,P03を看護しているP17に疲れが見られたことから,P17の健康も考えて,P03を入院させた方がよいと判断し,P17にP03の入院治療を勧めたところ,P17はこれを承諾した。
その後,P18医師は,看護婦にP03の入院手続を指示するとともに,入院後のP03に対する処置として,尿検査,血液検査及び生化学検査の指示をしたほか,〔1〕抗生剤パンスポリンの検査テストをして,ショック症状を起こすおそれのないマイナス(陰性)の結果であれば,パンスポリン0.5gを調合した生食100mLを1時間100mLの速度で点滴し,〔2〕20%のブドウ糖2アンプル及びビスコン1アンプルを調合した500mLのソリタT1を1時間100mLの速度で点滴し,〔3〕500mLのソリタT3を1時間50mLの速度で点滴するという処方をし,看護婦等にその処置等を指示し,さらに継続的指示として,P03の体温が38.5度以上に上がった場合には,解熱剤であるアンヒバ坐薬を1個挿入すること,朝晩及びせき込んだときは吸入処置をすること,吐き気があるときは,吐き気止めの坐薬を処方することを指示し,また,内服薬を処方した。
P17は,P18医師の診察を受けた後,P03の入院準備をするためいったんP03を伴って帰宅し,P17から電話でP03の入院を知らされ勤務先から帰宅したP14と共に,同日午後3時ころ,P03を伴って,P14運転の自動車で北陵クリニックに赴き,入院手続を経て,談話室で二,三十分程度待った後,看護婦に案内されて,P03を抱いて入院病室に指定されたS1病室に入り,P03がぐずったことから,P14と共に談話室に戻ってP03をあやした後,再び同病室に入った。なお,同室の収容人数は二人であり,既に同室には一人の患者が入院していた。
(ウ)S1病室に入室したP03に対し,P13看護婦が体温測定を,P62看護婦が採血を行うなどした後,同日午後3時30分ころから,前記処方〔2〕の点滴を処置するため,P62看護婦が,P03の血管にサーフロー針を刺入しようと,何回かP03の両手に突き刺したが,血管に刺入することができなかった。そこで,P62看護婦はP16主任に応援を求め,P16主任がP22総婦長の援助も得て何回かP03の左足首の静脈にサーフロー針の刺入を試みた結果,同日午後4時20分ころ,血管を確保することができたので,前記処方〔2〕の薬剤の点滴溶液の滴下を,1時間に100mLの滴下速度で開始した。
その際の点滴に用いられた器具は,点滴スタンドに掛けられた点滴ボトルにびん針が刺入されて輸液セットが接続され,その末端に三方活栓を介して長さ50cmのエクステンションチューブが接続され,その末端にP03に刺入されたサーフロー針が接続されており,また,輸液ポンプが装着されて,上記の滴下速度が設定されていた。
(エ)なお,輸液ポンプとは,点滴の滴下速度について,これを装着しない場合の調整がクレンメの手動での開け閉めによるのに対し,これを自動的に,より正確に設定するための機器であり,これを電気コンセントに接続するとともに点滴器具に装着し,クレンメが全開の状態で,流量と予定量を設定し開始ボタンを押すことで,設定した滴下速度のとおりに点滴の滴下がされるものである。そして,仮に設定した滴下速度のとおりの滴下がされない場合(そのほかにも予定量の点滴が完了した場合や輸液中に気泡が存在する場合など)には,点滴筒に取り付けたセンサーがその滴下状態を感知し,警告音(警報音又はアラームともいう。以下「アラーム」と表記する。)を発する仕組みになっている。輸液セットを装着して上記センサーを取り付けた場合であっても,装着しない場合と同様,点滴筒を目視する方法で点滴の滴下状態を確認することは可能である。北陵クリニックでは,乳幼児に対し点滴する場合には,原則として輸液ポンプを使用することになっていた。
また,三方活栓とは,内部の空間がT字型で三方に通じる口があり,付属のレバーを回転させると,レバーが向けられた側の口がふさがり,他の2つの口を介して両者の接する空間がつながる仕組みになっている器具であり,そのうち左右の端の口の部分を,それぞれ輸液セットの末端とエクステンションチューブの一方の端に接続して使用する。そして,通常の点滴に用いる際には,着脱可能なキャップが取り付けられた中央の口の方向にレバーを向けておくことで,輸液セットとエクステンションチューブがつながり,点滴ボトルからの輸液がサーフロー針の側に通常どおり流れる。これに対し,三方活栓のレバーを,他の二方の口である輸液セット側又はエクステンションチューブ側のいずれかの方向に向けた場合には,中央の口と,他のレバーが向けられていない一方の口とがつながった状態となり,中央の口に注射器のシリンジの先を接続することで,他の開いた側の口の方向へシリンジ内の薬液等を注入することが可能となる。具体的な医療行為としては,医師が患者に対して薬剤を投与するに際し,点滴針を刺入して確保されている静脈ラインを使用し,かつ点滴ボトルへの混注のような長時間にわたる継続投与によるのではなく,注射と同様の単回投与の方法(必要な量を1回で投与する方法)により患者に薬液を注入する場合には,三方活栓のレバーを輸液セット側の口の方向に向けて中央の口とエクステンションチューブ側の口をつなげ,中央の口のキャップを外してそこに注射器のシリンジの先を接続して内筒を押すことで,シリンジ内��薬液を,点滴の滴下とは異なる,内筒を押す速さに応じた,通常の注射と同等の速度で患者に注入することが可能になる。また,レバーを同方向に向ける医療行為としては,ほかにも,看護婦らが,後記のフラッシュと称する行為のように,サーフロー針刺入部位付近の点滴の詰まりを改善するためにシリンジ内の液体を勢いよく押し出す場合にも用いられる。そして,レバーを反対側のエクステンションチューブ側に向ける医療行為としては,上記フラッシュの前提として、シリンジ内に輸液セット内の輸液を吸い上げる場合や,輸液セット中の点滴ルートに空気が混入した場合にそれを上部の点滴筒まで追い出す場合などに用いられる。
(オ)その後,同室にいた看護婦らは,同室を退去したが,P13看護婦は,上記点滴開始後,同室退出前に,前記処方〔1〕の点滴の可否を検査するため,P03の前腕の上皮と皮下組織との間の皮内に,パンスポリン微量と対照するための生食を,それぞれ注射した。
P13看護婦は,上記皮内注射から15分余りが経過したことから,同日午後4時40分ころ,P18医師と共にS1病室に赴き,パンスポリンテストの結果をP18医師に判定してもらったところ,陰性で使用可能との結果だったので,ナースステーションに戻り,同所において,100mL入り生食ボトルにパンスポリン0.5gを調合し,これを持ってS1病室に赴くと,同日午後4時40分ないし50分ころ,それまでP03が点滴投与を受けていた前記処方〔2〕の薬剤在中のソリタT1入りのボトルをびん針から外して,上記生食入りのボトルに交換して,前記処方〔1〕の薬剤の点滴処置を開始した。
P03は,この間,S1病室内廊下側のベッド上でP17に抱きかかえられた状態で点滴を受けていたが,P03に施行された点滴は,上記血管確保後,点滴ボトルの交換の前後を通じて,しばしば点滴の滴下状態が不良となって,これを知らせる輸液ポンプのアラームが鳴ったが,P17からナースコールを受けたP16主任やP15看護婦がその都度S1病室へ赴き,P03の左足首やそこに刺入されているサーフロー針を動かして両者の角度を変えるなどして,正常に滴下するよう調整しており,その後再びアラームが鳴るまでの間は改善されて滴下が続き,点滴ボトル内の溶液も減少していた。
また,P03のいたベッドは,S1病室入室当初は大人用のベッドであったが,その後P16主任とP22総婦長の判断で,転落事故防止のため,同室在室中に,周囲にさくのある小児用のサークルベッドに交換された。
(カ)被告人は,同日は当直勤務で当時の勤務開始時刻は午後4時であったため,午後3時16分ころ出勤し,平生どおり,同日午後4時30分ころから,ナースステーションにおいて,病棟担当の日勤勤務者であったP15看護婦から,病棟入院患者に関する申し送り事項等の引継ぎを受けた。
そして,その後,P16主任が被告人に,「P03ちゃん今晩大変かもね。夜も寝ないし,お母さんもくたくただって言っていたよ。」などと言ったところ,被告人は,「ええ,何でおれのときばっかりいつも小児科入院なんだよ。」などと言った。また,その間にも,P03の点滴に不具合が生じたため,P16主任はその都度何回かS1病室に赴き,前記と同様の調節を行った。
その後,被告人は,夜間に対応しやすいことなどの理由を述べて,P03の病室をS1病室からN病棟のナースステーションに近い病室に移動することを提案し,P22総婦長の判断で,それまでN3病室に入院中であった患者を別室に移動し,P03の病室をS1病室からN3病室に移動することとした。そこで,同日午後5時過ぎころ,被告人,P16主任,P13看護婦及びP15看護婦らが,共同して,P03に点滴を受けさせたままの状態で,P03を抱きかかえたP17が座っているベッドや点滴器具等をS1病室からN3病室に移動した。N3病室に搬入後のP03のベッドの位置は,入口から見て奥の窓側の,窓とほぼ平行な位置にあり,四方のさくのうち廊下側のさくは降りた状態で,ベッドの中央付近にP17がP03を抱きかかえ,両名とも体の正面が廊下側を向いて座る状態であった。また,点滴スタンドは,上記ベッドのさくが降りた廊下側の端付近に置かれ,同病室には,他に大人用ベッドが一つ,廊下側の,北側の壁近くに,それとほぼ平行な位置に置かれていた。
P16主任は,その移動の間及びN3病室到着後も,P03に対する点滴の滴下状態が不良であることを知らせるアラームが輸液ポンプから発せられていたので,N3病室到着後,ベッドの上でP17に抱きかかえられていたP03の足を動かすなどして同様に点滴の不具合を調節して滴下状態を改善させようとし,被告人を含む他の看護婦らもその間P03をあやすなどした。なお,このとき,N3病室には,P03,P17,P16主任,被告人,P10看護婦,P13看護婦,P15看護婦及びP14がいた(P14も在室していたことについては,後に認定するとおりである。)。
(キ)被告人は,その後,いったん同室を出ると,内筒が引かれて透明な液体が在中している,容量5mLの注射器を手に持ち同室に入り,P03のベッドの廊下側付近まで戻った。
(ク)その後,同日午後5時22ないし23分ころ,何者かが(それが被告人か否かはここでは認定しない。),その注射器を持って,P03に薬剤を点滴投与していた前記の点滴医療器具に近づくと,その三方活栓を操作して,上記注射器を三方活栓に接続し,注射器内の透明な液体約2ないし3mLをP03の体内に注入した。
(ア)P03は,前記液体を注入された1ないし3分後に,それまで周囲を見回していたのが,何度かまばたきないし目をぱちぱちさせる動作をした後,ゆっくりとまばたきをして目を閉じてしまい,眠るように頭部をこっくりこっくりと上下させ,最後には頭を前に垂れて力が抜けた状態となった。
それを見ていたP17は,P03が眠りについたものと考えて,「寝ました。」などと言った。
しかし,P03にはその後,顔面がそう白になり,唇の色が紫色になる口唇チアノーゼ等の症状が発現し,自発呼吸が停止していることが確認された。
なお,このように容体が急変して以後のP03の体の見える部位に,発しんなど,アレルギー反応をうかがわせるような症状は認められていない。
(イ)被告人は,上記のようなP03の容体急変を周囲の者が認識した後,「P03ちゃんにチューしていい。」などと言いながらP03を抱きかかえて,同室内廊下側に置かれた成人用のベッドまで行き,同ベッドにP03をあおむけに寝かせると,マウス・トゥー・マウスの方法による人工呼吸を実施した。
P03は,抱き上げられた際も全身の力が抜けた状態で,四肢及び頭をだらんと下げ,全く動かず泣き声も上げなかった。
同室していた他の看護婦らも,P03の容体が急変していることに気付き,その後看護婦らにおいて,P03に対する救命措置を実施するため,P03の両親をN3病室から退出させ,談話室へ移動させるとともに,P18医師及び当時北陵クリニックで整形外科外来を担当していたP64医師(以下「P64医師」という。)にP03の容体が急変したことを知らせ,救急カート,酸素ボンベ,心電図モニターなどをN3病室に搬入した。そして,P13看護婦は,被告人から「P13,記録しろ。」などと言われ,その後のP03の身体状態,P03に対する処置の内容等を備忘のためメモに記録し,その後同日中に,その記録内容を基にP03の看護記録への記載もした。
(ウ)急変当時である同日午後5時25分ころのP03の状態は,まつげを触って目がぱちぱちする反応を意味する睫毛反射が全くなく,意識レベルの低下が認められた。
同日午後5時27分ころ,P64医師が,N3病室に到着し,この時点でP03には心電図モニターが装着されたが,その際の心拍数は110台(以下,心拍数の値は,いずれも1分間当たりの回数をいう。)であり,血中酸素飽和度(以下「酸素飽和度」という。)は,33ないし35%であった。その後,P64医師はP03の気管内に,気管内挿管用のチューブ(以下「挿管チューブ」という。)を,被告人の介助を受けながら挿管して固定した。そして,アンビューバッグ(手動式人工呼吸器)により人工呼吸が開始され,酸素ボンベから,1分間に4Lの速さで酸素を送り込まれ,吸引がされた後,酸素ボンベの酸素が1分間に1Lに下げられたが,そのころの酸素飽和度は97ないし100%に上昇した。
また,P64医師の指示により,点滴ボトルは,従前施行されていた20%のブドウ糖2アンプルとビスコン1アンプルが混注された500mLのソリタT1の点滴ボトルに切り換えられた。
その後5時35分ころのP03の血圧は,収縮期(最大)114mmHg,拡張期(最小)80mmHg(以下,血圧については,「(収縮期)/(拡張期)」として表記する(すなわち上記数値の場合は「114/80」とする。)ほか,収縮期すなわち最大血圧について「上」と,拡張期すなわち最小血圧について「下」と表記することがある。)であったが,P03はそけい部で心拍が触診できるものの,その心拍は微弱で,手足の冷感が強くなっている状態で,徐々に血圧が下がっており,顔面チアノーゼは軽減していたが,午後5時42分ころには,血圧が手で脈を触って触診しないと測定できなくなり,触診による血圧測定の結果も上が40ないし60と低下した。そこでP64医師は,昇圧剤のボスミン0.5mLを,挿管チューブから注射器で噴射し,さらに午後5時47分ころに,ボスミン0.2mLを三方活栓から注射器で注入したが,このとき心拍数は90ないし100で,酸素飽和度が91ないし93%だった。
その後,午後5時50分ころに,酸素ボンベの酸素量が1分間に1Lから3Lに上げられ,P64医師がボスミン0.1mLと生食10mLを調合したものを,三方活栓から注射器を使って注入し,また,たんを吸入する処置をした。そのころ,そけい部から心音が微弱に聴取し得る状態であった。そして,点滴ボトルからの点滴の滴下不良のため,P03の左足のそけい部にベニューラ針というサーフロー針より長い点滴針が挿入されて,点滴が試みられたが,結局針が外れたため新たなラインが確保できず,従前の点滴ルートを用いて,点滴ボトルがソリタT1から電解質濃度の高い輸液製剤であるラクテック500mLに切り換えられた。そのころのP03は,瞳に光を当てると対光反射があり,瞳孔が3.0mmで,左右同じ大きさであり,心拍数は140から150台で,酸素飽和度は100%であった。その後P64医師が午後5時55分ころに,昇圧剤のイノバン200mgを,ラクテック500mLの点滴ボトルに注射器を使って混注した。
(エ)一方,P03の急変を知らされたP18医師は,P03を市立病院に転送して同病院で救命措置を受けさせた方がよいと判断し,P64医師が上記のとおりP03に対する処置を行っている間に,同病院救急センターに電話をかけ,同センターのP33医師にP03の症状等を説明して救急転送の受け入れについて承諾を得ると,救急車の出動を手配した。また,P18医師の指示により,転送前に,P03の点滴ボトルは,ソリタT1の500mLに交換された。
(ア)仙台市泉消防署所属の救急隊長であるP114は,隊員らと共に,同日午後5時54分ころ,救急車により,北陵クリニックに到着し,P03の両親,P18医師,P10看護婦及びP13看護婦を同乗させて,P03を市立病院救急センターに搬送し,同病院に同日午後6時20分ころ到着した。搬送時のP03の身体状態は,血圧は118/81で,酸素飽和度は100%,心拍に異常は認められなかったが,自発呼吸は停止しており,搬送時もP03に対しては,酸素ボンベを接続したアンビューバッグによる人工呼吸が継続された。
(イ)市立病院救急センターでは,同日午後6時26分ころ,北陵クリニックから救急転送されてきたP03を受入れ,P33医師,同病院小児科P31医師らがP03に対し救命措置を講じた。同病院救急センターに救急転送された時点でのP03の身体状態は,体温は35.7度であり,自発呼吸がなく,意識レベルは,ジャパンコーマスケールの〈3〉の300という痛み刺激に反応がない昏睡状態にあった。また,P03に脱水の徴候は見られず,結膜に異常はなく,瞳孔径は3mmで左右差がなく,対光反射は左右とも正常であり,チアノーゼはなく,頸部リンパ節とそけい部リンパ節に腫脹はなく,聴診上心音は清明で心雑音のような異常所見は聴取されず,不整脈はなかった。また,アンビューバッグによる人工呼吸が行われており,その人工呼吸により肺に出入りする音が,聴診上ぜい鳴のように聞かれたが,たんを吸引する処置によって改善して清明になった。腹部触診の結果は異常なく,項部(うなじ)の硬直は見られず,ケルニッヒ徴候(下肢を挙上させるときの抵抗)も見られなかった。出血斑が,両てのひらにたくさん大きく見られたが,他の箇所にはなかった。インフルエンザの迅速検査を行った結果は陰性であった。
P03は,上記のとおり,市立病院に搬送時には自発呼吸がなかったものの,その後間もなくしゃっくりや自発呼吸が出現するようになり,比較的短時間でしっかりした自発呼吸がみられ,午後6時40分ころ,P03に対してそれまでしていたアンビューバッグによる人工呼吸が,挿管チューブの口元へ���酸素投与に切り換えられ,その後は検査のため午後7時30分ころから40分ころの間に一時的に上記人工呼吸に戻された以外は,上記酸素投与が継続された。また,午後6時40分ころには,P03から採血が行われたが,採血の処置中に,それまで見られなかった手足をびくんびくんと動かすけいれんのような動きがあったことから,P33医師は,午後6時42分ころ,抗けいれん剤であるホリゾン0.6mLを静脈内投与し,また,午後6時50分ころ,イノバンと強心剤ドブトレックスを生食に溶解して,1時間当たり5mLの速度で注入した。なお,上記採血当時のP03の血圧は,121/89であった。
P03に対する他の処置としては,午後7時10分ころに,動脈ラインであるAラインを挿入して,ヘパリン化生食が1時間当たり3mLの速度で注入され,口から胃にチューブが挿入された。
また,P03に挿入されていた挿管チューブについては,自発呼吸再開後も,様子を見るため挿入した状態が維持されていたが,午後7時45分ころ,P03に挿管チューブの影響によるとみられる咳嗽反射があり,既に自発呼吸がしっかりしていたことから,抜管された。この時点でのP03の意識状態のレベルは,ジャパンコーマスケールの〈3〉の100(痛み刺激を与えたときに手で払いのける動作をする程度)であった。
P03は,挿管チューブを抜管された後は,集中治療室へ移され入院となったが,その後,午後10時過ぎに,覚せいして大泣きするなどして,外見上意識の回復が確認できる状態となり,その後は順調に容体が回復した。
なお,市立病院における同日のP03に対する点滴処置は,午後6時35分ころからソリタT1の200mLを,1時間当たり50mLの割合で点滴する処置がされていたのに加えて,午後7時55分ころには,左手に血管が確保されて,ソリタT1の200mLの点滴が開始され,午後8時からは左手,左足とも,ソリタT1からソリタT3の200mLに変更され,それぞれ1時間当たり20mLの速度で施行された。
(ウ)P03は,同月11日,市立病院を退院したが,退院後も,けいれん様の発作を起こしたり,突然に呼吸停止や意識喪失に至る症状が発現することはなかった。
(2)P03の急変原因について
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
平成13年3月31日に退官するまでP21大学大学院医学系研究科医科学専攻麻酔救急医学講座麻酔科学分野教授の職にあり,長年,主にP21大学において麻酔学の研究をするとともに,P21大学医学部附属病院の麻酔科医師として勤務してきたものであり,麻酔科学を研究対象とし,筋弛緩剤に関する基礎的,臨床的,薬理学的な研究を単独又は他の研究者と共同で続けており,多数の臨床経験や論文発表などの研究実績を有するP11(以下「P11教授」という。)は,P03の症状に関する事実経過等を踏まえて,次のとおり証言する(甲276)。
〔1〕筋弛緩剤の効果,効果の発現機序,効果と呼吸との関係については,成人と1歳1か月の幼児で,ほぼ同じと考えてよい。
〔2〕点滴中の患者に対し,接続された三方活栓から患者に刺入されたサーフロー針に向けてマスキュラックスの溶液を注入した場合の効果の発現順序は,静脈注射により直接単回投与した場合と同じと考えてよく,その効果発現の速度については,点滴投与より発現時間が早い。
〔3〕P03が,何度かまばたきをした後に目を閉じ,頭をこくりこくり上下させ,最後に頭を前に垂れて力が抜けた状態となり,さらに呼吸停止に至ったのは,最初に症状が眼の周りから始まり,眼瞼筋の弛緩で眼瞼下垂でまぶたが持ち上がらなくなり,次に咽頭,喉頭の筋肉が弛緩し,首の周りの筋肉に作用が及び,呼吸停止までに至るマスキュラックス投与の場合の経過と符合している。前記の三方活栓からの投与によった場合,効果発現が早く,投与された幼児は呼吸停止までの間に泣くなどして異常を訴えることができないのが通常である。
〔4〕午後5時25分ころにチアノーゼが出現し,唇が紫色になった症状は,午後5時27分ころの心拍数が110あり循環が保たれていることからすれば,呼吸状態が悪化して酸素濃度が低下して酸素を体内に取り込めないことにより,酸素飽和度が低下し血中のヘモグロビンが酸素化されにくくなった状態を示し,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合する。なお,チアノーゼとは,体内に酸素を取り入れられなくなって,血中のヘモグロビンが酸素化しにくくなった状態をいう。特に,体の末梢部分である唇,口の中の粘膜,耳たぶ,爪などの酸素状態が悪くなって青紫色になる状態をいい,呼吸状態又は循環状態の悪化により見られるものである。
〔5〕P03に,睫毛を手で触ると目をぱちぱちする,異物が入らないための防御反応である睫毛反射がなくなったのもマスキュラックスの効果と符合する。
そのころ看護婦がP03に意識レベルの低下を認めたのは,筋弛緩剤の投与の直接の効果として意識が消失することはないものの,筋弛緩剤を投与されたことにより,声を出したり体を動かすなどして自分の意思を外に伝えることができなくなり,外観上は意識を失った場合と同様の状態となるため,P03の様子を観察した看護婦がそのように判断したものと考えれば矛盾しない。
〔6〕午後5時27分ころに110台という正常範囲内の心拍数が計測されたのも,呼吸が抑制されると血中の酸素が不足するとともに,炭酸ガス(二酸化炭素)が増加し,そのため,自律神経,特に交感神経が刺激されて血圧や心拍数が上がり,しばらくすると,今度は抑制が掛かり,血圧と心拍数が低下してくるが,そのようにいったん上がった心拍数がその後下がっていく過程と思われ,矛盾はない。
〔7〕P03に心電図モニターを装着した時点での酸素飽和度が33ないし35%であったこと,その後医師がP03に気管内挿管をして人工呼吸をした後,酸素飽和度が97ないし100%に回復したことも,マスキュラックスが投与されて呼吸が停止し,体内への酸素の供給が停止していたのが,人工呼吸により再び供給されたためと認められる。
〔8〕午後5時35分ころに,血圧が114/80であったのは,既に人工呼吸が行われ十分な酸素供給が行われた結果として正常値を示したと考えられ,このころの顔面チアノーゼの軽減も,十分な酸素投与の結果である。
〔9〕午後5時42分ころ,血圧が手で脈を計って触診しないと分からなくなり,その結果が上の血圧が40ないし60となったのは,マスキュラックスの作用そのものではないが,マスキュラックスが投与されると,最初は刺激された自律神経のうち交感神経が優位であるが,その後の時間経過で血圧や心拍数の低下が見られると考えられており,P03の場合も,その症状が非常に強く出たことで血圧が低下したものと考えられ,このことは既に人工呼吸が開始されていたことを前提としても,矛盾しない。
〔10〕P03に対光反射があったことも,対光反射は副交感神経で調整される瞳孔括約筋の動きによるものであり,マスキュラックスが投与されることで麻痺するのは運動神経のみであり,交感神経や副交感神経にはほとんど影響しないので,マスキュラックスの投与と矛盾しない。
〔11〕市立病院に搬送され,容体急変から1時間余り経過した後のP03の症状として,P03の四肢にけいれんのような動きが見られたことは,マスキュラックスの抑制から大分回復してきたことを示し,自発呼吸が再開して,その後呼吸状態がしっかりし,挿管チューブの影響による咳嗽反射が生じたことは,マスキュラックスによる筋弛緩作用が消失してきたことを,その後,挿管チューブを両手で払いのける動作が認められたのは,両手の筋肉に及んでいた筋弛緩作用がほとんどなくなり,合目的的動作ができるようになったことを示し,それぞれ,マスキュラックスの効果からの回復過程で起こった一連の症状と考えてよい。
P11教授は,以上の各指摘を総合して,P03の急変の原因は,その体内に筋弛緩剤が注入されたこととして説明づけが可能である旨の見解を述べるところ,この見解は,前示のマスキュラックス等筋弛緩剤の一般的な筋弛緩効果の発現機序,発現態様に沿うものであること,P11教授が筋弛緩剤についての専門的知識を有していること,その証言内容全般を見ても,誠実に証言しているものと認められることを念頭におけば,十分その正当性を肯定することができる。他にP03の急変症状を説明づける(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見いだせない限り,P03の急変は,筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
弁護人は,P03が急変した原因について,〔1〕フラッシュによる血栓を原因とする脳虚血発作,〔2〕風邪の症状の悪化,〔3〕てんかん性発作,〔4〕パンスポリンの副作用の可能性がある旨主張するので,以下検討する。
(ア)フラッシュによる血栓を原因とする脳虚血発作
a 前記認定のとおり,何者かがP03に対する点滴投与が行われていた点滴医療器具のうちの三方活栓に接続した注射器を用いて,注射器内の液体をP03の体内に注入したことが前提として認められるところ(以下,この行為を「本件注入行為」という。),医師のP65(以下「P65医師」という。)は,P03の急変原因について,本件注入行為を原因として,点滴刺入部位付近に出来ていた血栓がはがれ,それが血管及び心臓内を通って,脳底動脈まで至って同所を一時的に閉塞させたことによる,一過性の脳虚血発作の可能性が高いとして,次のとおり証言する。
すなわち,点滴のためサーフロー針を穿刺し留置した血管の部位には,そのために出来た傷を修復するため,血液中の血小板やフィブリンが集まるところ,当時P03は,少し脱水状態が見られた上,点滴の流れが悪かったことから,そこに血栓が出来て成長しやすい状態にあった。その状態で,本件注入行為のような,点滴の流れを良くするためのフラッシュと称する行為を行うと,同所に血栓が出来ていた場合,その影響により血栓が押し流される可能性がある。押し流された血栓は,下肢の静脈から下腿静脈内を通って心臓の右心房に至るところ,小さい子供の場合,右心房と左心房との間にある心房中隔に卵円孔という孔が開いていることが多いため,右心房に至った血栓は,その孔を介して左心房に入り,さらに左心室に入り,大動脈内に入り,大動脈弓の一部から鎖骨下動脈の右左のどちらかに入り,そこから椎骨動脈に入り,上行して脳に入り,そこで左右の椎骨動脈が合流する脳底動脈に入り,同所を閉塞する可能性がある。血栓が一時的にせよ脳底動脈を完全に閉塞した場合、全身の筋肉が麻痺し,呼吸筋も麻痺して酸素の取り入れができなくなり,四肢が弛緩し,意識が消失し,反射経路にも障害が生じて睫毛反射がなくなるなどするもので,P03の容体が突然急変したことや,その後の症状経過はこれと符合し,さらにP03がその後回復して後遺症が残らなかったことや,回復時に見られた症状も,いったん脳底動脈を閉塞した血栓がその後,5分くらいまでの間に溶解ないし分解して同所の血流が再開通したことによると考えられる,というのである。
b しかしながら,まず,前提として,そもそも同証人は,主に小児科臨床医としての経験は有するものの,脳虚血発作の専門的研究をした経験はなく,医師であるという以上には脳神経系関係の専門的知見を有しないのであって,上記証言に係る事項は専門外であると認められること,上記証言は,P65医師自身の経験に基づくものではなく,あくまでP03の症例を説明するため独自に収集した文献等により得た知識に基づいて推測したことを証言しているにすぎず,しかも,収集した文献等によっても,同人がP03の症状について証言するような,脳底動脈が血栓により閉塞された症例や,脳梗塞や脳虚血により突然呼吸停止が生じるとの症例の有無さえ把握していないこと,P65医師は,呼吸中枢が脳内のどの部位にあるかの知見を有せず,脳底動脈の閉塞による呼吸中枢への影響の有無についても調査しておらず,該当する症例や直接それを記載した文献がないにもかかわらず,上記閉塞により呼吸中枢に影響がなくとも呼吸筋が麻痺し呼吸が停止し得るとの独自の見解を前提に述べていること,心臓から右椎骨動脈に至る血管の名称の一部についても誤った証言をしていることなどに留意する必要があり,以上の点からすれば,もともとP65医師の証言は,専門的経験又は知識による裏付けを欠いているといわざるを得ず,その信用性を肯定することには,十分な慎重さを要するというべきである。
c そして,P66大学医学部脳神経外科学講座教授で同大学附属病院脳神経外科部長の職にあり,脳の障害と呼吸停止の関係などを含む脳神経外科学全般を専門分野とし,椎骨脳底動脈系の脳卒中等についての研究実績のある医師P67は,上記P65医師の証言は信用できず,また,P03の容体急変が脳の血管に血栓が詰まったことに起因するとは考えられないとして,概要次のとおり証言している。
〔1〕脳底動脈が閉塞されただけで呼吸が停止することはない。呼吸中枢は延髄にあるので,延髄又はそれより下部の脊髄が損傷されない限り,呼吸停止は起こらない。ところで,呼吸中枢に血液を送っているのは左右両側に計2本ある椎骨動脈であり,脳底動脈は,それより脳みそ側の,脳橋の部分に血液を送っているものであるから,脳底動脈が閉塞されても,呼吸中枢に障害は及ばず,呼吸停止は起きない。
〔2〕そして,P03が椎骨動脈の閉塞により呼吸停止したこともあり得ない。P03に対し平成12年2月2日及び同月10日に実施された検査結果(甲283)によれば,P03の椎骨動脈は,左右2本とも正常に存在することが認められるので,血栓による呼吸停止を説明するためには,左右の椎骨動脈が両側とも同時に閉塞される必要があるところ,そのような閉塞の症例は,動脈硬化による血栓症の場合は高齢者の症例にはあるものの(その場合もP03のような幼児の症例は経験がないし,血栓症で閉塞した場合は再開通することはない。),他でできた血栓が移動して閉塞する塞栓症の場合,血栓は血管が細くなっていくところに詰まるものであり,椎骨動脈よりそれが合流する脳底動脈のほうが太いのであるから,椎骨動脈に単独で血栓が詰まるということは基本的に考えられない上,大動脈から両側の椎骨動脈に至るまでのそれぞれ経路が異なり,しかも他の経路である総頸動脈と比して血流が少ないことからしても,左右に同じような血栓が飛んで同時に閉塞されることはあり得ない。
〔3〕しかも,P03は,睫毛反射もなくなっているところ,血栓の閉塞により睫毛反射がなくなるためには,上部脳橋から中脳にかけての部分に血液を送っている脳底動脈の末端部(奥側)も完全に閉塞されて血流障害が生じなければならない。したがって,P03に生じた呼吸停止及び睫毛反射の消失の両方の症状を説明するためには,脳底動脈の末端から椎骨動脈の両側までをすべて閉塞する一つの血栓があったか,脳底動脈の末端から片側の椎骨動脈までをすべて閉塞する血栓と,もう一方の椎骨動脈を閉塞する二つの血栓があったか,脳底動脈の末端及び両側の椎骨動脈のそれぞれを閉塞する3つの血栓があったかのいずれかでないと説明できないが,いずれも全くあり得ない。まず,前記のとおり,椎骨動脈の両側がそれぞれ単独で同時に閉塞することはない。そして,脳底動脈の末端から先は血管が細くなっているので,同所に血栓が詰まることはあり得るものの,同所から椎骨動脈の両側までをすべて閉塞する一つの血栓があったという症例は見たことがないし,脳底動脈の末端から片側の椎骨動脈を一つの血栓が閉塞した場合,その後にもう一方の椎骨動脈に別の血栓が来て詰まることはない。いずれにしても,脳底動脈の末端部(奥側)から椎骨動脈に至るような大きさの血栓が詰まった塞栓症であれば,短時間で再開通することはあり得ない。
〔4〕また,P03の呼吸停止等の症状が,脳梗塞により生じた可能性も否定される。P03に対する上記の検査結果からは何ら異常が認められず,脳梗塞はないと判断されるし,そもそも,両側の椎骨動脈の血栓による閉塞を伴わない他の脳梗塞の場合,呼吸停止を初発症状とはせず,脳梗塞の結果脳がはれ,最終的に延髄が圧迫されて呼吸停止に至ることはあっても,それは発症の数日後のことであり,P03の症状とは異なる。
以上のP67の証言は,前記のとおりの専門的な立場から誠実になされたもので,その内容も具体的かつ論理的で不自然な点はなく,その信用性を肯定することができる。
d 以上のとおりであり,P67の証言は信用できるところ,これと対比し,明らかに異なる内容を述べるP65医師の証言は,同証人に関し既に指摘した点に照らしても,これを信用することができないから,結局,前記弁護人の主張は採用することができず,また,P03の容体急変の原因が,脳虚血発作又は脳梗塞による可能性も否定されるものと認められる。
(イ)風邪の症状の悪化
a P21大学大学院医学系研究科小児医学講座小児病態学分野教授で同大学医学部附属病院副病院長の職にあり,小児神経医学を中心とする小児科学の研究を専門分野とするとともに,小児科臨床医としての多数の臨床経験も有する医師のP68(以下「P68教授」という。)は,P03が風邪の症状を悪化させて呼吸停止に至った可能性について,平成12年1月31日及び同年2月2日の転送後に撮影されたP03の胸部レントゲン写真(甲282,283)には,いずれもP03に容体が急変するような徴候は認められず,風邪が肺炎に移行していたとも認められないところ,それに至らないような通常の風邪(上気道の疾患)から突然呼吸停止に至ることは考えられないとして,これを否定する証言をしているところ(甲277),同人の証言は,他の点についてのものを含め,上記の専門的な立場から誠実になされたもので,その内容も具体的で不自然な点はなく,その信用性は高いものと認められるのであり,上記の点に関する証言についてもこれを信用することができる。
b また,P18医師も,P03には,喘息様気管支炎及び脱水症の症状が認められたものの,喘息様気管支炎は,呼吸困難がほとんどないか,あっても極めて軽いものであり,これにより呼吸停止を起こすことはないと考えられ,また,脱水症についても,P03に見られたのは軽度なもので,それから呼吸停止になることは考えられないし,極度の脱水症があっても呼吸停止するのは全身状態が非常に衰弱して死に至るような場合であって,脱水症から直ちに呼吸停止することはない旨証言しており(甲275),同証言についても,小児科医としての専門的知見と自らP03を診察した経験に基づきなされたもので,疑いを差し挟むべき事情は認められない。
c 以上の点からすれば,P03の急変原因が,風邪の症状の悪化による可能性についても,否定されるというべきである。
(ウ)てんかん性発作
P68教授は,小児科学の中でもとりわけ小児神経医学を専門分野とし,てんかんの病態と治療の研究者でもあるところ,その専門的知見に基づき,P03の急変原因がてんかん性発作による可能性があるかについて次のとおり証言している(甲277)。
P03の容体急変時の症状である,まばたきをして目を閉じて最後に頭が垂れるような症状を示すてんかん発作を見た経験はなく,文献上の記載もないと思われる。
P03の平成12年2月4日に行われた脳波検査の記録(甲283)によると,P03の脳波中には,スパイク波(棘波)が出現している箇所があるが,このような波形は,正常人にも数%の確率で見られるものであり,現れた波形が上向きの形状のものだけで,対応する下向きの波がない点からも,病的意義を持つとするには疑問があり,発作を起こす可能性は非常に低い波形であり,むしろ正常人に見られる波形であると考えられ,てんかんでない可能性がはるかに高い。また,てんかんは発作を繰り返すものであり,一度しか発作がない場合,それはてんかんとはいえない。
てんかん発作により呼吸が停止する場合は,強直発作が非常に強いために,呼吸筋が動かなくなり,そのために呼吸が停止することが考えられるが,呼吸筋である肋間筋と横隔膜が動かなくなるような場合の強直発作では,全身か,少なくとも両上肢の筋肉が強直,すなわち硬くなってこわばる状態になるはずであり,P03のように急変時に首や手を含め体の力が抜けた状態になることはなく,また,もし強直発作なら抱いていた母親もそのようなこわばりを認識し得たはずである。また,P03の呼吸停止は1時間余りにわたっており,これが強直発作によるものなら,てんかん重積状態という,非常に重篤な状況が続いていることになるが,この点でもP03の症状は異なるし,そのような発作が続いてから自発呼吸が回復した場合,P03に見られたようなけいれん様の動きを示すことも通常はあまりない。
てんかん発作の中には,無呼吸発作という,詳細は明らかでないものの,呼吸中枢に直接影響を及ぼし,筋肉のこわばりが必ずしも見られない発作もあるが,その多くは生後1か月かその少し後までの新生児に見られるもので,そのような発作が起こること自体極めてまれであり,約30年間医師として多数てんかんの症例を見たうちでも一,二例しか経験がなく,また,これまで報告がある例では,一般的にはスパイク波の出現部位を頭皮上に投影した場合,P03に現れたものより,もう少し外寄りのスパイク波が関連していると言われている。
以上のP68教授の証言も,前記の理由に加え,不明な点は断定を避け,誠実に供述していると認められることからも信用でき,これによれば,P03の急変の原因がてんかん発作による可能性も否定されると認められる。
なお,市立病院のP33医師は,同病院のP03の退院記録の「最終診断」とある欄に,「呼吸停止・ショック」と記載するとともに「てんかん」と記載し,また,「退院時問題点と今後の方針」の欄に「脳波異常はあったが,今回のエピソードがてんかん発作によるものかどうかは不明」と記載している。しかし,P33医師は,当公判廷では,当時もP03の呼吸停止の原因は分からず,これをてんかん発作で説明するのは難しく,てんかんが原因である可能性は低いと考えていたものの,脳波検査でスパイク波が見られたことから,他の疾患を疑わせる所見もなかったため,あえてそのような病名をつけたもので,P03に筋弛緩剤が投与されていたなら,それが呼吸停止の原因だと思う旨明確に証言しているもので,同証言によれば,上記の記載をもってP03の急変原因がてんかんであることを疑わせる事情とはいえない。
(エ)パンスポリンの副作用
P68教授は,P03の急変が,抗生剤パンスポリンの投与により副作用としてアナフィラキシーショックを起こした可能性を否定し,次のとおり証言している。
ある薬剤が投与された場合,それに過敏性を持つ人が,産生された抗体により抗原抗体反応を起こしてショック状態になるということを,アナフィラキシーショックと呼ぶが,事前にパンスポリンテストがされ,その結果が陰性(マイナス)である場合には,パンスポリンによりアナフィラキシーショックを起こす可能性は極めて低い。
アナフィラキシーショックが生じた場合の主たる症状としては,早期に現れるアレルギー反応として,くしゃみ,せき,鼻づまり,鼻水といったものが通常見られ,顔面に発しんやじんましんが現れて,顔色が血の気を失ってそう白になり,血圧は,上下動なく下降線をたどって低下し続けるものであり,特に呼吸停止を伴うような重篤なアナフィラキシーショックの場合,血圧は,一,二分のうちに,急激に下がるはずである。ところが,P03の症状には,上記の早期の症状がなく,アナフィラキシーショックによっては通常見られない唇が紫色になる口唇チアノーゼの症状が発現しており,さらに血圧について,容体急変から約10分を経過した午後5時35分ころにも上が114で下が80という数値であったもので,アナフィラキシーショックによる症状と矛盾している。また,アナフィラキシーショックにより呼吸停止に至るのは,アレルギー様の症状が出て,そのことにより気道の粘膜がはれる粘膜浮腫が生じ,空気の通り道が狭くなるためであって,突然呼吸ができなくなることはあまり考えられない。さらに,アナフィラキシーショックでは,脳幹の反射路が閉ざされることも考えにくいので,通常は睫毛反射はなくならない。
P03のてのひらに点状出血や出血斑が現れたことがあるのも,静脈を圧迫して駆血したことによる出血によるものと考えられ(なお,血液検査の結果からは血友病による可能性も否定される。),薬物アレルギーの場合に出る発しんはこのような出血を基盤とするものではなく,また,一般には全身各所に現れることが多いので,この点状出血又は出血斑をとらえてアレルギー症状と見ることもできない。
以上のP68教授の証言も前同様これを信用することができ,P03の急変原因がパンスポリンの副作用によることも否定されるというべきである。
なお,P62看護婦は,P03の容体急変の翌日の当直の夜か当直明けの朝,P18医師からP03の容体急変原因につき,「抗生剤のショックなんだって。」と聞かされた旨証言する。しかし,そのような事実の有無が以上の認定に影響する事情とはならないのはもちろん,そもそも,P18医師はそのような事実があったことを自認する供述は一切しておらず,P62看護婦自身,捜査段階では,「P03が回復したという話を耳にして,『何でああなったんだろう。抗生剤のショックかな。』などと思いました。」(甲429)と,原因を抗生剤のショックと思ったのが自身の想像にすぎない旨,相反する供述をしていること,これに加え,P62看護婦は,他で指摘する事項のほか,P03の外来受診時刻,P13看護婦の行動,P03への採血や点滴のための針の刺入の回数,被告人に対し自ら申し送りをしたかなど,そのほかの事項に関しても,多々,関係者の供述や自身の捜査段階での供述と相反する内容の供述をしており,その証言の信用性は全体的に慎重に考慮せざるを得ないこと,などに照らせば,同人の証言は信用できず,そのようなP18医師の発言があったこと自体否定されるというべきである。
(オ)その他の可能性
P68教授は,まず,P03が急性脳症によって呼吸停止に至った可能性について,インフルエンザによる脳症については抗体検査で否定されているし,他の脳症の可能性についても,脳症には急激な脳の浮腫が伴うが,これは市立病院で転送された当日に撮影された頭部CT検査の写真に脳浮腫が認められないこと,急性脳症の場合,P03のように,容体が急変して呼吸が停止してから約5時間足らずのうちに覚せいして大泣きすることは通常は考えられず,意識障害はもっと長く数日単位で続くことから,その可能性を否定する証言をしている。
また,P68教授は,他の点でも,北陵クリニックにおいてP03に対しされた処方や処置はいずれも妥当なものであり,P03の状態や諸検査の結果からも,P03が容体急変を起こす徴候は認められないと証言しており,以上のP68教授の証言も前同様に信用できる。
さらに,P03を小児科担当医として診察し,容体急変の機会にも立ち会ったP18医師,転送後のP03の診療に当たったP33医師,及び,後記のとおりP03の診療録を検討して急変原因を調査したP87医師も,それぞれ自身の臨床医としての経験及び医学的知見に基づき,P03の症状の経過や処方,処置,諸検査の結果等を踏まえても,容体急変の原因となる疾患や疾病等が見当たらず,筋弛緩剤が投与された可能性を除けば,その説明がつかない旨一様に証言している。
以上によれば,結局,P03がこれまでに検討した以外のことを原因として容体を急変させた可能性も否定されるものと認められる。
(3)小括
以上のとおり,P03の容体急変の原因はマスキュラックス等の筋弛緩剤の投与によるものと考えた場合,これと符合する症状が多々認められ矛盾するところはなく,十分説明が可能である一方,他にP03の容体急変時の症状を合理的に説明し得る疾患等の原因は認められないのであるから,結局,P03の容体急変は筋弛緩剤の投与によるものと断じられる。
そして,前記のとおり,容体急変後の当日に採取されたP03の血清からベクロニウムが検出されたこともその裏付けになるとともに,上記の筋弛緩剤がマスキュラックスであることも確定づけられるというべきである。
ア 前記のとおり,容体が急変した当時,P03には点滴が施行されており,点滴ボトルには,輸液セット,三方活栓,エクステンションチューブなどが順次接続され,サーフロー針により静脈ラインが確保されていたこと,平成12年2月2日午後4時40分ないし50分ころから,抗生剤パンスポリンを調合した生食の点滴投与が続いていたところ,同日午後5時22分ないし23分ころ,三方活栓から注射器内の透明な液体約2ないし3mLがP03の体内に注入されたこと,その1ないし3分後に前記のとおりP03の症状に変化が生じたことが認められる。
イ 以上の事実を前提として,P11教授は,マスキュラックスの投与方法に関して以下のとおり証言する(甲261,276)。
マスキュラックスを三方活栓から注射器を用いて注入した場合の効果は,静脈注射により直接単回投与した場合とほぼ同じと考えてよく,点滴投与の場合より効果の発現が非常に早くなり,投与された幼児は,通常,泣くなどして異常を訴えることができないまま呼吸停止に至る。
P03の急変時の症状は,ある時点以降に急激に現れており,点滴ボトル内にマスキュラックスを混入して点滴投与する方法では,高濃度のものを投与してもこのような症状は現れないと考えられるので,マスキュラックスの投与は,単回投与に近い方法,すなわち,三方活栓から注射器により注入された方法によって行われたと考えてよい。
以上は,筋弛緩剤の専門家であり,その薬効等に専門知識を有するP11教授が,本件において実施されていた点滴及び三方活栓からの注入行為や症状発現の時間経過を考慮した上で供述したものであり,前記の事実経過に符合し合理的な内容を述べるもので,これを信用することができる。
ウ したがって,P03に対するマスキュラックスの投与は,前記のとおり,三方活栓に注射器を接続してP03の体内に液体を注入した機会に行われたもので,マスキュラックスは,あらかじめ上記注射器内の透明の液体中に混入されていたものと認められる。
(1)認定できる事実(P04の症状経過等)
関係証拠(甲49ないし53,80,83ないし91,104,106,107,285,証人P31(甲214),同P18(甲281),同P44(甲284),同P69(甲288)など)によれば,P03の容体急変に至るまでの症状経過,容体急変時及びその後の症状経過並びにその間の関係者の行動等として次の事実が認められる。
ア P04の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等
(ア)P04は,平成元年○月○日,父P70,母P69(以下「P69」という。)の長女として出生し,両親に養育されて生活していた。平成12年10月当時のP04の年齢は11歳で,体重は,約30kgであった。
(イ)P04は,平成12年9月18日,北陵クリニックにおいて,P18医師の診察を受け,急性気管支炎,急性上気道炎,脱水症と診断された。P18医師は,P04の状態について,急性上気道炎が進行した状態で炎症が気管支にも及んだものと考え,パンスポリンテストの結果がマイナスだったため,生食にパンスポリンを調合して点滴投与するなどの処置を行った。この時,P04にパンスポリン投与によるアナフィラキシーショックが発現することはなかった。
翌19日,P04は,再度,P18医師の診察を受け,P18医師は,生食にミノマイシンを調合して点滴投与するなどの処置を行った。
(ウ)同月22日,P04には38.4度の熱があり,レントゲン撮影の結果,気管支炎が少し悪化していることが判明したため,P18医師はP04を入院させることにし,P04は同日から同月26日まで北陵クリニックのN1病室に入院した。退院後の同月30日にP18医師がP04を診察したところ,P04は元気であり,一連の症状から回復したものと考えられた。
(エ)同年10月27日,P04は北陵クリニックにおいて,ジフテリア・破傷風の二種混合ワクチンの接種を受けた。この日,P18医師がP04を診察したところ,P04は呼吸音や心音に異常がなく,咽頭にも特に発赤は認められず,健康な状態であった。P18医師は,P69に「ジフテリア・破傷風予防接種予診票」を記載してもらい,P04がこの日ジフテリア・破傷風二種混合ワクチンの接種を受けることに問題はないと考え,また,P04の母親から同意を得たため,P04に対して同ワクチンの皮下注射を実施した。P04には,翌28日から同月30日まで特に異常は認められなかった。
イ 本件当日のP04が容体を急変する以前の状況(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年10月31日の事象については,「平成12年10月31日」の表記を省略する。)
(ア)10月31日の北陵クリニックの看護職員は,日勤勤務者がP16主任,P15看護婦,P19看護婦,P61助手,P71看護助手(以下「P71助手」という。),遅番勤務者がP10看護婦,当直勤務者が被告人,P72看護助手(旧姓○○,以下「P72助手」と表記する。)であり,被告人は,午後3時46分ころ出勤した。
この日,日勤勤務者は,いずれも午後5時40分ころまでに退勤していたため,それ以降,北陵クリニックに残っていた北陵クリニックの看護職員は,被告人,P10看護婦,P72助手のみであった。
(イ)午後4時5分ころ,P04の妹からP69に対し,P04がお腹を痛がっている旨の電話が入ったため,P69が午後4時45分ころ帰宅すると,P04が「お腹が痛いから,病院に連れて行って。吐き気もある。」と訴えてきた。そこで,P69はP04を北陵クリニックに連れていくことにしたが,P04は,自宅から出て車に乗る前に1度,北陵クリニックに到着してその建物に入る前に1度,さらに,北陵クリニックの待合室で待っている時に1度,合計3度おう吐するということがあった。
(ウ)P04は,午後5時5分ころ,北陵クリニックに到着し,検温などを済ませて,午後6時少し前ころ,小児科診察室において,P18医師の診察を受けた。この時、P04の熱は36.6度であり,P04は胃の辺りを手で押さえながら「お腹が痛い。」と言っており,P69がP18医師にP04が学校で給食を食べた後お腹が痛くなり,夕方には3回ほど吐いてしまったこと,軟らかい便を1回したことなどを伝えた。P18医師が診察したところ,P04の呼吸音は清明で心雑音もなく,腹部からグル音も聞こえず,咽頭部に軽い発赤が認められるだけであり,意識は清明であった。また,P04は右下腹部の圧痛が強い様子であったが,筋性防御は認められなかった。
午後6時ころ,P04に対してレントゲン撮影及び尿検査が実施され,その結果,レントゲン写真上,右下腹部にガスが少し集まっている所見があり,また,尿検査では体調が悪い場合に体内物質が分解して尿に排出されるケトン体がプラスマイナスの反応であった。なお,P04は,レントゲン撮影の際,お腹を痛がり,前かがみにはなっていたが自ら歩いて移動することができていた。
P18医師は,上記検査結果を踏まえても,P04の症状が胃腸炎によるものか虫垂炎によるものかを判断しかねていたが,虫垂炎の場合には診断が難しく虫垂に穴が空いて腹膜炎を引き起こすおそれがあることなどを考慮して,P04を早めに入院させて経過を観察するのが適切であると判断し,入院を打診したところ,P69もこれに同意したため,P04は入院することになり,P04とP69は談話室に移動して入院の準備ができるのを待った。
(エ)P18医師は,午後6時30分ころ,P04の入院が決まり,指示箋に採血と点滴の指示を記載した。点滴に関しては,生食100mLに抗生剤ホスミシン1gを調合したものを1時間当たり100mLの速度で点滴すること,次に,ソリタT1の500mLに20%のブドウ糖2アンプル,ビタミン剤ビスコン1アンプル及び吐き気止めプリンペラン約1.3mLを調合したものを1時間当たり100mLの速度で点滴すること,その後,ソリタT3を1時間当たり50mLの速度で点滴することが指示された。
小児科外来で診察を受けた患者が入院することを知った被告人は,P18医師が指示箋に記載した内容に従って,P04に投与する点滴ボトル等を準備し,薬剤の調合行為を行った。この時,P10看護婦は,小児科や内科の後片づけや戸締まりなどをしていたが,被告人が外来中通路カウンターの小児科内科処置室前付近で点滴の準備をしている姿を見かけて,自らが後片づけをする前に準備してあげればよかったと感じていた。被告人は,通常と同じように,輸液セットに三方活栓をつなげ,さらにエクステンションチューブをつなげて,ソリタT1のボトルにびん針を刺し,輸液セットやエクステンションチューブなどに点滴輸液を満たして,点滴の準備をした。一方,P72助手は,ナースステーション出入口付近でP69からP04が入院することになったと聞き,P69のために簡易ベッドの準備などを行った。
談話室で待っていたP04とP69は,午後6時40分ころ,被告人から「準備できたから,この間の病室の隣の部屋だから。奥の方のベッドで横になっていて。」と声を掛けられたため,N2病室に移動した。この時,P69は,声を掛けてきた被告人が,P04が同年9月下旬ころN1病室に入院したときにお世話になった看護職員であることに気付いた。
P69がN2病室の奥の方にあったベッドにP04を寝かせていると,被告人が入ってきてP04に対して点滴を実施しようとしたが,被告人はP04の血管を確保することができなかったため,他の看護婦を呼ぶために病室から出ていった。午後6時45分ころ,P10看護婦が小児科内科カウンターの流しの辺りで後片づけなどをしていると,被告人がやってきて「P10さん,針がうまく刺せない。」と言ってきたので,P10看護婦は被告人と一緒にN2病室に行き,P04の血管確保を試みた。しかし,P10看護婦もP04に対してうまくサーフロー針を刺すことができず,再度,被告人が手技を行ったところ,P04の左手に血管を確保することに成功した。結局,P10看護婦は,N2病室に5分くらい滞在したものの,その後は,外来の診察室に戻って後片づけを続けた。
上記のとおり,午後6時50分ころP04に対する点滴が開始され,最初,ソリタT1ボトルが点滴され,その後,間もなく,生食ボトルに切り替えられた。被告人はP10看護婦が出ていった後もN2病室に残り,P04に対して「お腹の痛みはどう。」と様子を聞いていた。これに対して,P69が「点滴の痛みで,お腹の方はよく分かんなくなっちゃったんじゃない。」と言ったところ,P04は「点滴慣れたから。」と普通の口調で答えていた。
(ア)午後6時55分ころ,P04が,右手を顔の辺りに持ってきたり,両目を早い間隔でパチパチとまばたきしたり,首を少し左右に振るような仕草をしたため,これを見たP69はP04の様子がおかしいと感じ,P04がものが見えづらくなっているのではないかと思った。そこで,P69がP04に「P04,どうしたの。」と声を掛けると,P04は「何か,目が変。」と答え,さらに,P69が「どんなふうに変なの。」と尋ねると,P04は「も��が二重に見えるっていうか,うーん。」と言って首を左右に振りながら目を細めたりして病室内を見ていたが,話し方は普段どおりで口調もしっかりしていた。
一方,P18医師は,P04を入院させることとし,それに関する指示を出した後も外来患者の診察を続けていたが,午後6時55分ころナースステーションに行ったところ,被告人に会ったためP04の具合について尋ねると,被告人から,「点滴を刺すのに4回もかかっちゃった。お腹が痛くなるとものが見えないとか言っているんですよ。」などと聞かされた。P18医師は,点滴を刺すのに4回もかかったと聞いて,それについてはP04の脱水の程度が思ったよりひどかったのかとも考えたが,お腹が痛くなって,ものがよく見えないという事態になることはあり得ないと考え,また,入院する前,P04にはものがよく見えないという症状は全く認められなかったことから,すぐにP04の様子を見に行かなければならないと思い,N2病室に走っていった。
N2病室に入ってきたP18医師に対し,P69が「何か変なんですけど,ものが二重に見えるって言うんです。」と話し掛け,P18医師が,P04に「P04ちゃん,どうしたの。」と問い掛けると,P04は「ものが二重に見える。」,「何か飲みたい。」,「口がきけなくなってきた。」あるいは「口がききにくくなってきた。」などと少しろれつの回っていない口調で話した。P69がP18医師に対して「何か飲ませていいですか。」と聞いたものの,P18医師はP04の状態がただごとではないと考えたため「やめましょう。」と答えた。このころ,P04は,目が半開きの状態になり,その顔色は外来でP18医師が診察したときよりも更に悪くなっており青ざめていたが,この時点でP04の顔や体に発疹は認められなかった。
さらに,P04は,「あー,あー。」とうなるような声を出し,首を左右に大きく苦しそうに振り始めたので,これを見たP69がP18医師に「先生,何か変ですよ,意識レベル下がっていませんか。」と言うと,P18医師は「すぐに市立病院へ移しましょう。」と言い,病室にいた被告人に点滴を,薬剤等が何も調合されていないソリタT1(北陵クリニックにおいては,何も調合されていない点滴溶液は「たんみ」と呼ばれていたので,以下その呼称で表記することがある。)に変更するように指示して,自らは市立病院に電話をするためにナースステーションに向かった。この時,P18医師は,P04の病状の原因が何であるか全く分からず,重大な病気の可能性があると考え,そのため,人員や物的設備の整っている市立病院にP04を転送した方がよいと判断していた。
P18医師は,午後7時ころ,市立病院の当直医であったP44医師に対して,電話で,11歳の女児が腹痛を訴えて入院したが,入院直後にものが二重に見える,口がきけないなどの神経症状が認められたので至急転院をお願いしたい旨伝えた。このころ,P10看護婦はカウンターの後片づけや物品の補充作業をしていたが,ナースコールが聞こえたためにナースステーションに行ってみたところ,P18医師から「P04ちゃんが変なの。」と言われ,P18医師が電話で急変患者の受入れを依頼しているのを聞き,自らはN2病室に向かった。
(イ)P18医師がN2病室を出ていった後,P04は何か言葉を発して訴えようとしたものの,ろれつが回らない口調であり,P69はP04の発する言葉を聞き取ろうとしたが,全く聞き取ることができなかった。そして,P04は,急にあおむけに寝ていた状態から左側を下にして横向きの状態になって何も言わなくなり,右腕だけをぴくんぴくんと小さく上下させ始めた。また,P10看護婦がN2病室に行ったとき,P04がベッドの上でぐったりとしていたことから呼吸が弱まっているものと思われ,P10看護婦がP04に声をかけたものの反応はなく,痛覚反応を確かめても反応がなかったことから,P10看護婦はP04の意識がないと考えた。そこで,P10看護婦はP04に対する救急処置が必要であると思い,ナースステーションに戻ってそこにあった救急カートをN2病室に運び入れたが,このとき,P18医師はまだナースステーションにおいて電話中であった。
P10看護婦がN2病室において被告人に対して点滴をソリタT1たんみに切り替えることを提案したところ,被告人もこれに同意したので,午後7時ころ,P10看護婦が救急カートの中から新しいソリタT1の点滴ボトルを取り出し,これにボトルを交換する方法で点滴が切り替えられた。また,P04に心電図モニターが装着されたところ,P04の心拍数は50台であり,このころ,P04の全身にけいれん様のぴくつきが認められ,特に左半身に強く現れていた。
そして,P04に対して酸素マスクが装着され1分間に5Lの酸素の投与が開始され,P10看護婦が,P04の上記ぴくつきを見て頭部内の障害の発生を疑って血圧を測定したところ,180/100であった。このころ,P04は,手首の動脈の拍動はあるものの,その指先が白っぽくなってきており,手や足を触ってみると冷たい感じがした。P10看護婦は,P04の血圧を測定する前後ころに,P04の呼吸が非常に弱くなり出したので,アンビューバッグによりバッグアンドマスクの人工呼吸(下顎を持ち上げて気道を確保し,鼻と口をマスクでぴったりと覆いアンビューバッグをつけて,それに酸素をつなぎ,アンビューバッグを押すことによって酸素を肺に送り込む方法)を開始し,引き続き毎分5Lの酸素が投与された。このころ,P04の瞳孔は,両眼とも約5.5ミリの大きさに開いたままで,光を当てても瞳孔が収縮する反応がない瞳孔散大の状態であった。
(ウ)P18医師が,五,六分くらいかかって市立病院への電話を終え,N2病室に戻ると,P10看護婦がアンビューバッグを手に持ち,バッグアンドマスクの人工呼吸を行いながら,P18医師に対してP04の呼吸状態が悪くなってきたと言ってきた。ただし,P18医師自身が,この時点でP04の呼吸が完全に停止していたかどうかを確認したことはなかった。P18医師からP04を市立病院に搬送するように指示が出され,P10看護婦は,P72助手に対して,救急車を手配するように指示した。
このころ,P04は,ベッドの上で体全体をぐったりさせ,目は半開きのままで,顔色も紫に近い青色になって非常に悪く,顔面にチアノーゼが認められ,P18医師がP04に大きな声で呼びかけたり,体を触ったりしてもP04が全く反応しなかったため,P18医師はP04には意識がないと判断していた。P18医師は,P04の酸素飽和度が84%だったことから,P04に対する酸素吸入量を1分間に5Lから10Lに増やしたところ,酸素飽和度が90ないし91%まで改善された。なお,このころ,たん吸引が行われたが,P04からたんは吸引されなかった。
その後もP04に対してバッグアンドマスクの人工呼吸が続けられたが,P18医師が人工呼吸を行っている最中に,被告人によってP04の顔から酸素マスクが外され,被告人が,喉頭鏡でP04の口の中を見て,P18医師に対して,「ああ,気管孔が見える。これなら入りますよ。」などと言って,気道確保の処置を促してきたことがあった。これを聞いたP18医師は,被告人から渡された喉頭鏡を使ってP04の口の中をのぞいてみたものの,気道確保の手技を的確に行う自信がなく,また,その手技を適切に行うことができない場合には,P04の状態を更に悪化させる可能性があると判断したため,P04に対して気道確保の処置を試みることはなく,P04に対してバッグアンドマスクによる人工呼吸が再開された。
その後,P04の心拍数が30ないし40へと次第に低下したため,P18医師はボスミン1アンプルを三方活栓から静脈注射し,また,被告人に対してイノバンを点滴に入れるように指示したところ,被告人が1アンプルを点滴に入れたものの,P18医師はそれでは足りないと感じたため,更にイノバン2アンプルが追加投与された。しかし,P04の心臓が止まってしまい,心電図モニターの波形が一時フラットになるということがあった。
午後7時15分ころ,救急隊が北陵クリニックに到着したが,そのころ,P04は心肺停止状態に陥っていたため,P04に対して心臓マッサージが施行され,午後7時22分ころにはP04の心拍が再開した。また,被告人の介助のもと,救急救命士によって,P04にラリンゲルチューブが挿入され,アンビューバッグがつながれて人工呼吸が実施され,午後7時30分ころには,いったんP04の自発呼吸が確認された。
そして,午後7時32分ころ,P04は,P18医師,P10看護婦,P69が同乗する救急車で市立病院に向かったが,その車中,午後7時48分ころ,再びP04の自発呼吸が停止した。
(エ)P04は,午後7時51ないし52分ころ,市立病院救急センター外来に搬入された。この時,P04の体温は36.4度,血圧は130/58,心拍数は97で,深い昏睡状態にあり,自発呼吸は認められなかった。P04の体に発しんは認められず,瞳孔に左右差はなく,対光反射も認められなかった。また,心臓に不整脈はなく,心雑音や肺の雑音は聴取されなかった。腹部は柔らかく平たんで,腸雑音が聴取されたものの,筋性防御はなかった。肝臓,脾臓は腫大しておらず,膝蓋腱反射,アキレス腱反射が強く出ていたが,項部硬直はなかった。P44医師はP04に挿入されていたラリンゲルマスクを外して気管内挿管を行ったが,その際,筋弛緩剤を投与しておらず,また,挿管の際に,P04が歯を食いしばるようなことはなく,P04に咳嗽反射,嘔吐反射なども認められなかった。
P44医師は,P18医師から救急センター外来の処置室でP04の症状,経過などについて診療情報提供書に基づいて説明を受けるとともに,看護婦からも話を聞いた。この時,P44医師は,意識レベル低下が起きたころにP04の左半身に優位な筋肉が収縮したり弛緩したりするような動きが認められたという話を聞いたため,受け取った診療情報提供書に「左半身につよい間代性ピクつき」と記載した。
P04には,午後8時25分ころから全身に不随意運動,具体的には手や足が強い勢いで屈曲する動きや,体が反り返って硬くなるような動きが出現したため,P44医師は,診療録に「全身性の不随意運動?出現,時折ビクンビクンとし,間欠期は弛緩した感じ」と記載した。なお,P04の動きは,強直した状態が続くわけではなく収まる時期があったが,その収まった時期は力が入っておらず,だらんとしたような感じであった。これに対し,P44医師が,抗けいれん剤を順次何種類も投与した(ある薬剤でけいれんが収まらないと別の薬剤を投与していった。)。P04の不随意運動は収まることはなかったが,その頻度は徐々に減少していった。また,P04には,屈曲していた状態の腕を肩をひねるように内側から回して伸ばして,その後伸ばした状態で硬くなって全身の震えが起きてくるような動きも見られたため,P44医師は,診療録に「肩をひねりながら屈曲していた上肢を伸展し,全身をふるわせる」と記載した。なお,P04に不随意運動が持続していた時点でも自発呼吸は回復していなかった。
そして,午後9時15分ころ,P04に対光反射が鈍いながら出現した。
なお,市立病院において,P04に対して,腹部及び胸部レントゲン検査,腹部CT検査,頭部造影CT検査,血液検査等が実施されたが,その結果からはP04が急変を起こす原因となるような特段の異常は認められなかった。
(ア)上記事実認定に沿う証拠について
以上の事実を認定する根拠となる各供述について検討するに,P69,P44医師及びP31医師については,北陵クリニックないしは被告人との関係であえて虚偽の供述を行うような利害関係は認められず,証言内容も特に不自然な点はなく,その各証言はいずれも高度の信用性を有するというべきである。また,P18医師の供述については,より慎重な吟味が必要ではあるが,全般的には,その内容の合理性,迫真性などからして,自らが体験した事態に関して,具体的かつ誠実に供述しているといえるし,その内容の大部分は,上記のとおり信用性の高いP69,P44医師及びP31医師の証言内容とも符合しているのであり,P04の思いがけぬ急変で心理的に動揺し,記憶の欠落や記憶違いを生じている点がないとはいえない(例えば,P04が容体を急変させた後,被告人がP18医師に勧めた気道確保の手技に関する部分は疑問が残る。)としても,基本的には,その信用性を肯定し得るというべきである。
なお,弁護人は,市立病院への電話連絡を終えて病室に戻ったところ,P10看護婦が補助呼吸を行っていたが,その時点で酸素飽和度が84%を示していたので酸素量を増やした旨のP18医師の証言について,サマリーの記載に反している点などを指摘してその信用性に疑問があると主張する。
この点,サマリーの記載に関しては,それが本来的に業務の過程において機械的に記載されることを考慮すると,一般的にはその信用性は高いと評価できる。しかし,本件サマリーについては,患者であるP04に急変が生じた緊急事態におけるP04の症状やP04に対する処置をかなりの量にわたり記載したものであるという事情があり,そのような状況下において,すべての事項が漏らされることなく,また,実際の順序に従って正確に記���されるとは限らないし,さらに,サマリーを記載した者がすべての記載内容に関して直接認識,見聞しているわけではないという特質が存在する点も無視し難い。そして,本件サマリーを記載したP10看護婦も,本件サマリーの記載に関連して,上記のような事情が存したことを認めており,実際にも,当該サマリーには,その信用性が極めて高いと考えられる救急記録票(甲104)の記載と異なる記載も見られるのであるから,本件サマリーの記載の正確性については,個別的な検討が必要と考えられる。
そして,弁護人が疑問を呈する部分に関するP18医師の証言内容は,非常に具体的でかつ合理的なものであるし,しかも,後に検討するとおり,P04は補助呼吸が開始される前から低酸素血症あるいは低酸素性脳症の状態にあったと推認されるという客観的な症状経過に,P18医師の証言は符合しているのであるから,その信用性は高いといえる。
したがって,弁護人の指摘する点が,P18医師の証言の信用性を揺るがす事情とは認められない。
(イ)上記認定に反する証拠についての検討
a P10看護婦の証言について
本件の事実経過に関して,P10看護婦は,公判廷において,〔1〕P04に対して投与されることになった点滴ボトルの取りそろえは私が行った,〔2〕P04が急変した後,私はナースステーションのカラーボックスからソリタT1を取出し,救急カートに乗せてN2病室に向かい,点滴の切り替え作業のために被告人に渡したと思うなどと供述している。
しかし,P10看護婦は,被告人が逮捕されるまで同棲し,公判開始後も,被告人の無実を信じるとともに,なお結婚を前提とし交際する間柄であることを自認しているもので,そのような立場に伴う心情から,記憶の喚起やその表現の方法に関し中立性を欠く可能性は否定できず,その証言の信用性については,特に慎重に判断しなければならない。
その点も踏まえ,同人の証言内容につき検討するに,〔1〕の供述部分については,P10看護婦は,捜査段階において検察官に対しては,「P04ちゃんに点滴するためのホスミシン入りの生食やソリタTなどは,P02准看護士が準備しました。」と供述している(甲89)ところ,このような供述をした理由について,公判廷において,準備と聞かれると調合,調剤という意味でとらえるので,点滴等の取りそろえまでは考えなかったと供述している。しかし,P10看護婦は,捜査段階における供述調書中で,P18医師がP04の診察をしてから被告人が点滴の準備をするまでの間の状況を述べているが,自らがP04に対する点滴の取りそろえ行為を行った旨の供述若しくはこれを前提とするような供述を全くしていない(被告人が「準備」したのと対応する形で,自分は小児科や内科の後片づけや戸締まりなどをしていたのではないかと思うなどと述べているにとどまる。)。しかも,P10看護婦は,同じくこの調書の中で,P18医師の指示が記載された診療録を自らがナースステーションに持っていったかどうかはっきりしない,仮に,自分が診療録を被告人に引き継いだとしても,被告人に直接手渡したのかどうかはっきりしないなどとも述べており,むしろ,自らP04に対する処置を担当しようと意識していた様子はうかがわれない。これらのことからすると,P10看護婦は捜査段階において,「準備」という言葉を,点滴の取りそろえ行為及び調合行為の両方を含む意味で使用していたと考えるのが自然である。そして,この部分に関するP10看護婦の公判廷における証言内容が必ずしも明確とはいえないことなどの事情を併せ考えると,上記〔1〕の供述部分は信用することができない。
また,〔2〕の供述部分についても,P10看護婦は,捜査段階において検察官に対しては,「救急カートの中から,薬剤が調合される前の新しいソリタT1を出した覚えがあります。」(甲90)と明確に供述していたところ,当公判廷では上記のとおり供述を変えているが,このように供述が変化した理由については,その後いろいろ何度も考えているうちに思い出したなどと供述するにとどまり,およそ合理的な説明付けになっておらず,信用することができない。
b 被告人の供述について
(a)本件の事実経過等に関して,被告人は,〔1〕被告人自らがP04に対する点滴ボトル等を取りそろえたことはない,〔2〕P04が以前北陵クリニックに入院したことのある患者であることには気付かなかったため,P04の名前を「陵子」と間違えて呼んだことがあり,また,以前に入院した部屋を基準にしてP04を部屋に案内したことはない,〔3〕P04への点滴が開始された後2分程たってからN2病室を出たが,P04に特に変わった様子はなかったし,P18医師とナースステーションで会話をしていない,〔4〕その後N2病室に戻るとP04が「喉が渇いた。」などと言っていたが,P18医師が点滴の交換を指示してN2病室から出ていくまでの間に,P04が目の異常を訴えたり,ろれつが回らない口調になったかは覚えていない,〔5〕被告人がP04に対して声掛けをしたところ,内容は覚えていないものの,P04から返答があったが,質問とかみ合うものと若干かみ合わないものとがあり,ちょっと具合が悪いかなとは思ったが,P04の状態はその言葉だけしか把握していない,〔6〕被告人は交換する点滴ボトルを取りに行くためにN2病室を出たところでP10看護婦に会ったため、P10看護婦にソリタを持ってくるように頼んだ,〔7〕被告人は,P10看護婦からソリタのボトルを受け取って点滴を交換し,P04に声を掛けたが,P04の返答はなく寝ているような状態で,特に呼吸や顔色の異常もなく,P10看護婦から「今けいれんあったよね。」と言われたことがあった,〔8〕P18医師がN2病室に戻ってきて,P04のお腹に聴診器をあてて診察をしていたが,被告人は,その際のお腹の動きが少ないとの感覚からP04の呼吸がおかしくなった可能性もあると思い,その理由までは伝えずに,「お腹よりも呼吸の方がちょっとおかしくありませんか。」と言うと,P18医師は,特にP04の呼吸を確かめることもせず,「酸素を。」とだけ言ってN2病室を出ていった,それまでの間,被告人はP04が危険な状態になっているとの認識を持ったことはなく,P04の母親がいつまで病室にいたかも分からないので,同人が慌てたような様子でいたかは答えられない,〔9〕被告人はP04に酸素を投与し,その後アンビューバッグによる補助呼吸が行われた,被告人が,P04に酸素マスクを当てるより前に呼吸状態を確認したか記憶になく,P04のチアノーゼを明確に認識したのは,P04にマスクが装置されたより後になってである可能性が高い,〔10〕その後,N2病室に戻ってきたP18医師に対して,被告人がP04にラリンゲルマスクを挿入するように促したが,その際に被告人が喉頭鏡を使ってP04の口の中をのぞいたことはなく,P18医師は何度かラリンゲルマスクの挿入を試みたが,結局成功しなかった,などと供述する(第111回,第112回)。
(b)そこで,これら被告人の供述の信用性について検討するに,被告人の供述内容には,以下のような明らかに不自然,不合理な点が存在する。
〔1〕被告人は,P04が以前北陵クリニックに入院したことがあることに気付かなかったなどと供述しているが,以前P04が入院した日に被告人は当直勤務をしており(甲49,50),申し送りの際などに何度も名前を聞いているものと考えられ,実際,被告人の申し送りノート(甲393)にも「P04」という名前が記載されていることなどからすると,被告人の供述はにわかに信用できない。また,被告人の供述を前提とすると,被告人は,P04が過去に入院したことに気付かなかったにもかかわらず,P04らに対して入院する病室に移動するように言っただけで特段案内などをしていないということになるが,このような対応は病院の職員の対応としては極めて不自然である。
〔2〕被告人は,上記の各供述とも関連して,P04の容体が急変して大変な事態になったと考え始めたのは,呼吸状態が悪くなったことを自分で確認してからであり,P18医師から点滴を交換するように指示を受けた時点や,P04が被告人の声掛けに反応しなかった時点においては,特に大変な事態になったとは感じなかったなどと供述している。しかし,医師から患者の点滴を交換するように指示されたにもかかわらず,重大な事態が生じたと考えないということ自体極めて不合理であるし(なお,この点に関して,被告人は,点滴をソリタに交換する際,病室を離れてはいけないと考えていたとも供述しており,被告人も事態の深刻さを認識していたのではないかとうかがわれる。),さらに,その後,被告人自らの声掛けに対してもP04の返答がなくなるという事態まで発生していることも併せて考えれば,この点に関する被告人の供述は不自然極まりない。
〔3〕被告人の供述を前提とすると,P18医師は,P04の点滴を交換するように指示して病室を出ていき,その後,病室に戻ってきて,P04のお腹あたりを聴診したものの,被告人から呼吸がおかしいと指摘されると,P04の鼻や口に手を当てたりP04の胸の音を聞くこともなく,P04の服を直して被告人に「酸素を。」と指示したのみで再度病室を出ていったということになるが,2度にわたって病室を離れたり,被告人から指摘を受けても自らP04の状態を確認していないなどの点において,患者の容体急変時の医師の行動として極めて不自然であるといわなければならない。
(c)さらに,被告人は,P04への点滴が開始された後N2病室を出た時にP04に特に変わった様子はなく,また,P18医師とナースステーションで会話をしていないなどと供述しているが,P18医師は診療録に「『おなかが痛くなると目がみえなくなる』と訴える」と記載しており(甲107),この記載が意図的にされたとは到底解されないところ,そのような発言をP18医師自身が直接P04から聞いたり,P69から聞いたとは認められず,結局,この記載の存在は,P18医師がその前提となる言葉を被告人から聞いたことを表しており,P18医師のこの点の供述は,特に確実な裏付けがあるといえる。したがって,その反面として,被告人のナースステーションにおいてP18医師と会話をしていないという供述や,被告人がN2病室を出るときにはP04に特に変わった様子はなかったという供述は明らかに虚偽と認められる。
そのほかにも,被告人の供述は,前示のとおり,信用性の高い他の関係者の供述と大きく食い違っている点が多数存在し,また,被告人には,自己の都合の悪い点については供述を回避する姿勢が顕著に見られるところである。
(d)以上の事情を考慮すると,被告人の前記〔1〕ないし〔10〕の各供述はいずれも信用することができず,むしろ,本件事実経過に関して,あえてことごとく虚偽の供述をしていると考えざるを得ない。
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
(ア)P11教授の証言内容とその評価
P11教授は,P04の症状に関する事実経過等を踏まえて,次のとおり証言する(甲286)。
〔1〕P04が「ものが二重に見える。」,「口がききにくくなってきた。」などと発言したことは,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合する。また,P04が「何か飲みたい。」と訴えたのは,マスキュラックスが口渇感,口が渇くという作用をもたらすことはないので,マスキュラックスの直接的な作用ではないが,のどの中に違和感を感じ,それが何か飲みたいという表現につながったと考えられ,マスキュラックス投与による症状経過と矛盾するものではない。
〔2〕診療録の「C—L低下,〈3〉—300」との記載部分に関しては,この時点でP04に意識があったとしても外部に訴えることができない状態であったと考えられるし,完全に呼吸が止まらなくても,あるいは多少体が動かせるような状態であっても二次的な効果によって意識がなくなってしまう可能性もあり,いずれにしても,上記診療録の記載は,マスキュラックスが投与された場合の症状とは矛盾しない。
〔3〕診療録の「自発R↓」との記載部分が存する点は,P04の1回の換気量が低下したと解釈すれば,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合する(なお,P11教授の捜査段階における検察官に対する供述調書中では,この記載について,呼吸数の減少ととらえた上で,この点も筋弛緩剤の弛緩効果の段階的な発現に合致するとの趣旨の供述記載のある(ただし,呼吸数の減少だけを特に取上げて話しているのではなく,「一連の症状」の一つとして一括して記載されている。)ことが認められる(弁45)が,この点に関して,P11教授は,公判廷において,検察官作成の供述調書の内容は誤りであり,検察官に対しては,通常は必ず補助呼吸をするものの,呼吸数がしっかりあったとしても補助呼吸をしているうちに拾える呼吸と拾えない呼吸が出てくることから,呼吸数も外見上は減少してきたのではないかと言ったと思うと合理的な説明をしており,この点は,供述の信用性に影響する事情とはいえない。)。
〔4〕P04の全身のうち,明らかに左半身に強い���いれん及びぴくつきが認められた点に関しては,この時点でP04の1回換気量が低下しているにもかかわらず,酸素が投与されていないため,P04は,低酸素血症がかなり進み,中枢神経系に何らかの変化が起こった可能性が考えられるところ,四肢に十分に筋弛緩効果が生じていない場合には,単純に手足をびくっと動かす程度のことはできるのであるから,このような症状所見は筋弛緩効果と矛盾しない。
〔5〕P04の血圧が180/100と測定された点は,呼吸抑制の初期の段階において高い血圧が測定されることに照らし,マスキュラックスが投与されて呼吸抑制が生じた場合の症状と符合する。
〔6〕P04に末梢チアノーゼが出現し,手や足を触ってみると冷たい感じがしたとの点は,マスキュラックスが投与された結果,呼吸が抑制され,低酸素血症が生じ,酸素飽和度が低下したと考えれば,マスキュラックスの効果に符合する。
〔7〕診療録の「自発R↓ 6~8回/分」との記載については,1回換気量が更に低下したと考えればマスキュラックスの投与と矛盾がないと考えられるし,また,呼吸数が減少したとすると,マスキュラックスの効果による呼吸抑制により呼吸数が減少することはないため,P04の中枢神経系に何らかの障害が生じたと考えられる。なお,それ以前のP04の症状と比べた場合,この時点で,まだ自発呼吸があるのは不自然ではないかという感じがするが,仮に,この記載が事実とした場合には,P04がマスキュラックスに対する感受性が多少低い場合やマスキュラックスの投与量が少なかった場合にはこの時点において呼吸があったということも考えられないわけではなく,仮に,この記載が事実でない場合には,胸の動きやお腹の動きで呼吸を測定する際に,大きい動脈の拍動と勘違いした可能性や実際の呼吸の中でしっかりと拾うことのできた呼吸数でもって6ないし8回とカウントしたという可能性がある。
〔8〕P04の瞳孔が約5.5ミリの大きさに開いたまま,光をあてても収縮する反応がなくなかったことに関しては,マスキュラックスが投与された場合の効果として対光反射がなくなることはないが,マスキュラックスによる呼吸抑制の結果,低酸素血症あるいは高炭酸ガス血症による中枢神経の障害が発生したためにこのような症状が生じたものと考えられ,筋弛緩剤が投与された場合の症状と中枢神経部分にダメージがあった場合の症状が混在していると考えられる。
〔9〕午後7時30分に自発呼吸が確認されたことに関しては,症状発現の時期から約30分から35分が経過しており,この時点で自発呼吸があったということは,ある程度マスキュラックスの効果が薄れてきていると思われる。
〔10〕午後7時48分に呼吸が停止したことに関しては,マスキュラックスの効果は薄れているが,中枢神経の障害が生じていたと考えられ,この時点において,呼吸が出たり止まったりすることは臨床でよく見られることであって,マスキュラックスの投与による症状経過と特に矛盾はない。
〔11〕市立病院において,膝蓋腱反射やアキレス腱反射が強く出たことに関しては,マスキュラックスの効果が続いていたとすれば,この時点でこのような反射が出ることはないと思われるが,マスキュラックスが投与されてから約50分が経過しており,マスキュラックスの効果が次第に切れてきていると考えられるので,マスキュラックスの作用と矛盾しないと思われる。なお,これらの反射が強く認められたという点については,通常はマスキュラックスの投与によってこれらの反射が強く出ることはないので,P04の神経系に障害が生じていたことを表していると思われる。
〔12〕市立病院において気管内挿管を行った際,P04に咳嗽反射や嘔吐反射が認められなかったことに関しては,マスキュラックスの効果は少しずつ薄れているため,他に障害がなければ,通常,咳嗽反射等が生じると思われるが,この点も,P04の中枢神経系に障害が生じていたと考えられ,不自然ではない。
〔13〕市立病院において不随意運動が見られたことに関しては,マスキュラックスが投与されたと考えられる時点から1時間半程度経過しているので,P04は,ほぼマスキュラックスの筋弛緩作用からは回復していると考えられ,この時点において,全身性の不随意運動が出現しているのは,P04に低酸素性脳症が生じているためと思われる。
P11教授は,以上の各指摘を総合して,P04の急変の原因は,その体内に筋弛緩剤が注入されたこととして説明づけが可能である(厳密には,マスキュラックスの直接的な作用と,マスキュラックス投与による二次的な作用である低酸素血症,高炭酸ガス血症の作用が混在している)旨の見解を述べるところ,この見解は,前示のマスキュラックス等筋弛緩剤の一般的な筋弛緩効果の発現機序,発現態様に沿うものであること,P11教授が筋弛緩剤についての専門的知識を有していること,その証言内容全般を見ても,不自然に感じるところは不自然に感じると正直に供述するなど誠実に証言しているものと認められることを念頭におけば,十分その正当性を肯定することができる。他にP04の急変症状を説明づける(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見いだせない限り,P04の急変は,筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
(イ)弁護人の主張について
これに対し,弁護人は,本件におけるP04の急変症状の内容や事実経過は,マスキュラックスの投与による効果と矛盾すると主張し,具体的には,〔1〕酸素飽和度が84%もある段階で低酸素血症によって瞳孔散大や対光反射の消失が起こることはあり得ないこと,〔2〕P04が急変直前に「何か飲みたい。」と発言したこと,〔3〕P04の呼吸抑制による呼吸苦を示す症状がないこと,〔4〕P04の自発呼吸の回数自体が低下したこと,〔5〕P04の自発呼吸が回復したことなどを指摘し,前出のP58医師(以下,本項においては「P58医師」という。)も弁護人の主張に沿う証言をしている部分があるが,以下のとおり,いずれも理由がない。
a 〔1〕について
既に認定したように,P18医師が市立病院への電話を終えてN2病室に戻ると,P10看護婦がP04に対して補助呼吸を行っており,その時点で測定されたP04の酸素飽和度が84%であったことが認められ,しかも,証拠(証人P11(甲286),同P68(甲287))によれば,呼吸抑制あるいは呼吸停止の状態が継続すれば低酸素血症となり,さらに数分で低酸素性脳症になること,末梢チアノーゼが出現すれば確実に低酸素血症の状態にあるといえることが認められ,両証人は,本件において,午後7時にP04に全身性のぴくつきが見られた原因は,低酸素性脳症により脳の中枢部に障害が起きたためであり,午後7時5分にP04に末梢チアノーゼが出現した時点では,全身的に低酸素状態であり,脳も低酸素状態にあったと推測するところ,この推測は専門的知見に基づく合理的な推測と考えられる。また,P11教授の証言によれば,低酸素血症以外の原因によって,P04の中枢神経が直接的に障害を受けた可能性はないこと,心停止に至る前に,呼吸が抑制されたため中枢神経系に障害が起きる低酸素血症になることは珍しいことではないことが認められる。
以上によれば,P04は,瞳孔散大や対光反射が消失する以前の段階から末梢チアノーゼまで出現するほどの高度の低酸素血症及び低酸素性脳症の状態が継続しており,その影響を受けて中枢神経に障害が発生し,瞳孔散大や対光反射の消失という症状が出現したと合理的に推認することができるのであるから,弁護人の指摘は当たらない(なお,P58医師自身も,この点に関して,P04に対して補助呼吸がされる以前には,P04が更に低い酸素飽和度であった可能性があり,その場合に,酸素飽和度が回復しつつある段階にあったとすれば,酸素飽和度84%の時点で,瞳孔散大や対光反射の消失はあり得ると述べている。)。
b 〔2〕について
P11教授だけでなく,P58医師も,筋弛緩剤が口やのどの筋肉に影響し,その違和感を解消するために何か飲みたいという発言をする可能性があり,この点が筋弛緩剤の効果と矛盾するわけではないと証言しており,この点がマスキュラックスの効果と矛盾するとはいえない。
c 〔3〕について
P11教授の証言によれば,筋弛緩剤を投与された結果,患者が胸の圧迫感を訴えてきた経験があるものの,人によって訴える内容には差違があること,一般的な筋弛緩効果については,最初は緩やかに発現するが,その後,急激に深い効果が現れること,そのため,マスキュラックスを投与された人が外見上呼吸困難を訴えなくても(訴えたくても訴えられない状態を含む。),特に不思議ではないことが認められるのであって,この事実に照らして考えると,この点がマスキュラックスの効果と矛盾するとはいえない。
d 〔4〕について
前示のとおり,P11教授の証言によれば,低酸素血症により中枢神経が障害を受けた場合には呼吸数が減少することが考えられること,また,臨床の現場において,呼吸回数が必ずしも正確に把握できるわけではなく,筋弛緩剤の効果により1回当たりの換気量が相当弱くなると,呼吸数の確認がしにくくなることなどの事実が認められ,この点に関して,サマリーを記載したP10看護婦も,どのような方法でP04の自発呼吸の回数を測定したのか不明である旨供述していることなどに照らして考えると,この点がマスキュラックスの効果と矛盾するとはいえない。
e 〔5〕について
前示のとおり,P11教授の証言によれば,北陵クリニックから市立病院に転送される時点において,P04はマスキュラックスの効果から脱しつつあったものと認められるから,この点がマスキュラックスの効果と矛盾するとはいえない。
なお,以上のほかにも,P58医師は,P04の症状経過の中に,マスキュラックスの投与による効果と矛盾する点があるかのような証言をしている部分が存するが,その証言内容を全体的かつ子細に検討すると,結論的には,必ずしもP04の症状経過とマスキュラックスの投与による効果が矛盾することを述べているものではなかったり,その内実はP04の症状がマスキュラックスの効果と矛盾するとまではいえない程度の指摘にとどまるのであり,結局,P58医師の証言は,P04の症状経過がマスキュラックスの効果と符合するとの結論を左右するものではない。
弁護人は,本件においてP04に急変が生じた原因として,〔1〕プリンペランの副作用,〔2〕アセトン血性嘔吐症,〔3〕急性脳症などの脳症が考えられると主張するので検討する。
(ア)プリンペランの副作用
a 前出のP65医師は,P04の急変原因がプリンペランの副作用(悪性症候群)と考えられる旨供述している。
b しかし,まず,P65医師の証言の信用性を判断する前提として,以下の各点を考慮に入れる必要がある。
〔1〕P65医師は,小児科,その中でも特に循環器疾患,アレルギー等を主として専門分野とする医師であり,悪性症候群に関する専門的知識を有していない。また,P65医師自身が,これまでに悪性症候群の患者を診察したこともない。
〔2〕P65医師は,P04の診療録を見てから悪性症候群の勉強を始め,そこで得た知識を前提として公判廷において供述をしているにすぎない上に,その際に参考にした文献の記載内容を,自己の判断に合致するように解釈したり,報告されている症例における前提事実や特殊事情に注意を払わないなどといった姿勢が少なからず見受けられる。
〔3〕P65医師は,P04の診療録を見たときに,自らの臨床の経験に照らして,その急変原因としてプリンペランの副作用を疑ったと供述しているところ,このような自らの判断を理由付けるために根拠のない推測や想像を交えて証言している部分が見られる。
以上の各点に照らすと,P65医師の証言の信用性を肯定することには,十分な慎重さを要するというべきである。
c 次に,具体的なP65医師の証言内容について検討するに,P65医師は,旧厚生省薬務局が発行する医薬品副作用情報において紹介されている悪性症候群の診断基準(弁34)に,P04の症状経過を当てはめると,〔1〕「発症前7日以内の抗精神病薬の使用の既往」という要件について,P04にはプリンペランが直前に投与されている,〔2〕「高熱(38℃以上)」という要件について,P04は38度以上の高熱が続いている,〔3〕「筋強剛」という要件について,診療録に,全身の不随意運動様のけいれん出現,肩をひねりながら屈曲していた上肢を伸展し体を震わせるという記載があるので,筋強剛の別な表現と思われる,〔4〕「意識障害」という要件について,P04の意識レベルが低下しており,意識障害がある,〔5〕「高血圧,あるいは低血圧」という要件について,P04の血圧が180/100と測定されており,かなり高くなっている,〔6〕「頻呼吸,あるいは低酸素症」という要件について,P04の酸素飽和度が84%となっており低酸素症になっている,〔7〕「振戦」という要件について,診療録に,体を震わせるという記載がある,〔8〕「CK値の上昇,あるいはミオグロビン尿」という要件について,P04のCK値が上昇している,〔9〕「白血球増加」という要件について,P04の白血球が増加している,〔10〕「代謝性アシドーシス」という要件について,P04の血液ガス所見により代謝性アシドーシスが認められる,〔11〕「他の薬物性,全身性,精神神経疾患の除外」という要件について,P04の臨床経過を見る限り,これらは除外されるということになり,P04の症例は悪性症候群の基準を満たしていると証言している。
しかし,P65医師の証言は,例えば,「筋強剛」という要件に関して,P65医師自身,診療録の記載からはP04に筋強剛が認められたかどうかは分からないと述べているように,診療録の記載内容を自己の結論に合致するように解釈した上で悪性症候群の判断基準に当てはめを行うという姿勢が見られる。
また,「高熱」や「CK値の上昇」という要件に関しては,このような症状が発症する前に,P04が呼吸停止や心停止という重篤な状態に陥っていたという特殊事情を考慮することなく,悪性症候群の判断基準に合致するかどうかを検討している。
しかも,「高熱(38℃以上)」という要件に関して,数度しか観察されていない38度を超える高熱のみからこの要件を満たすと判断したり,「高血圧,あるいは低血圧」という要件に関しても,急変直後の1回の測定値のみから直ちにこの要件を満たすと判断しており(なお,P04が市立病院に運び込まれた時点の血圧は130/58であり,その後も,特別に高い血圧値は測定されていない。),判断の確実性や他の可能性への配慮に欠けているといわざるを得ない。
さらに,プリンペランの投与により容体が急変したとして報告されている症例に関し,その中で,急速な呼吸停止や心停止が引き起こされた症例は,通常使用量よりもかなり多くの量が,急速に投与された事例であり,それ以外に急速な呼吸停止などを引き起こした症例は報告されていないことをP65医師自身も認めている。プリンペランの投与量に関しても,P65医師は,プリンペランが点滴に1mgでも投与されれば,P04のような急変が生じる可能性があると証言する一方において,そのような証言の根拠は特になく,プリンペランが10mg投与されて副作用を起こした症例はあるが,それ以下の投与量で悪性症候群が発症した事例はないなどとも証言している。また,プリンペラン投与後症状が発現するまでの時間についても,P65医師は,急速にメトクロプラミドが静脈内に注入されて脳に到達し一気に意識障害,呼吸障害が起き,心臓も動かなくなった可能性も考えられると供述するが,その一方において,P04のように,プリンペランが投与されてから30分もたたないうちに心停止に至った症例は見たことがなく,動物実験でも確認されておらず,上記の可能性に言及したのは自分の想像であるとも証言している。これに関連して、プリンペランが投与されてから1時間後に筋肉の異常等が発生したという症例も報告されている(ただし,呼吸抑制を伴った旨の言及はない。また,本件では,点滴投与開始後5分ないし10分で「急変」が生じており,この点で既に本質的な違いがあると見られる。)が,その事例では,他の薬剤との相互作用が示唆されるなどの特殊事情がうかがわれる。
なお,前認定のとおり,P04に投与されるべきプリンペランは,ソリタT1のボトルにのみ調合されていた(500mLのソリタT1にプリンペラン約1.3mL,すなわち約6.5mg)のであり,その溶液は,P04の血管が確保されるまでのごく短時間,量にしても全ボトルのうちの少量だけがP04の体内に入ったにとどまることは明らかである。
以上の症例報告の内容とP04に投与されたと推測されるプリンペランの量を総合すると,結局,本件程度のプリンペランの単一投与後,その副作用として,本件のようなごく短時間のうちに急激な症状を生じることはあり得ないと考えるべきである。
d 以上のb及びcで検討した諸事情を考慮すると,P65医師の証言中,P04の急変原因がプリンペランの副作用によるものであるとする点は到底採用することができない。
e そして,他にP04の急変原因がプリンペランの副作用によるものであることをうかがわせる証拠はないから,P04の急変原因がプリンペランの副作用によるとの可能性は否定されるというべきである。
(イ)アセトン血性嘔吐症(自家中毒)
a 証拠(証人P18(甲281),同P68(甲287))によれば,アセトン血性嘔吐症とは,自家中毒,周期性嘔吐症などとも呼ばれ,体に対する侵襲等のストレスなどにより体の代謝バランスが崩れ,体内のケトン体(アセトン体)が多量に産生され,激烈なおう吐を呈する病態であり,主たる所見として,尿中にケトン体がたくさん検出され,口からアセトン臭と呼ばれる特有の口臭が認められること,大抵の場合は,身体的疲労や心身のストレスなどのきっかけで同じようなことを何回も繰り返すものの,成長するにつれてその頻度が減り,症状も軽くなって,10歳くらいになると自然消滅すること,その好発年齢は,2歳から6歳くらいであること,アセトン血性嘔吐症に起因して呼吸停止に至るのは,極端に体中の水分が失われるような場合のみであることが認められる。
b この点,P04の急変原因がアセトン血性嘔吐症であることを積極的に裏付ける証拠はない。
むしろ,証拠(証人P18(甲281),同P44(甲284),同P68(甲287),同P69(甲288))によれば,本件においては,〔1〕P04の尿からはケトン体がプラスマイナスしか検出されなかったこと(なお,P68教授は,ケトン体がプラスマイナスだったことは容体急変と関連しないと考えられ,おう吐によりわずかにケトン体が増えるということは非常によくある旨供述する。),〔2〕P04にはアセトン臭が全く認められなかったこと,〔3〕P04は当時11歳であり,アセトン血性嘔吐症の好発年齢ではなかったこと,〔4〕P04が10月31日以前におう吐を何度も繰り返したり,P69に対して腹痛や吐き気を訴えて病院に連れて行ってほしいと頼んだことはなく,また,P18医師が診察していた平成7年3月から平成12年10月までの間にアセトン血性嘔吐症の症状は全く見られなかったこと,〔5〕そもそもP04は脱水を引き起こすほどの激しいおう吐を繰り返していない上に,脱水症がひどくなった場合には,唇などの粘膜が乾いて,体重が減ったり,ぐったりすることがあるが,P04にはそのような所見は認められなかったこと,〔6〕さらに,アセトン血性嘔吐症を原因とするショックとした場合,その前にものが二重に見えるなどの症状を呈することはまず考えられない上に,P04には急激な血圧の低下が見られず,ショック症状とは矛盾する事情があることが認められる。
c 以上の事情を総合すれば,P04の急変原因がアセトン血性嘔吐症やアセトン血性嘔吐症による脱水症状のショックでないことは明らかである。
(ウ)急性脳症などの脳症
a 証拠(証人P44(甲284),同P68(甲287))によれば,10月31日午後8時過ぎに撮影された頭部CT検査の結果には,P04に明らかな出血を思わせる所見や腫瘤は認められず,脳症などの発症の早い時期に出現することのある異常な低吸収を示す部分もなく,また,はっきりした脳浮腫の所見が認められなかったこと,脳症においては,高熱,意識障害,けいれんが三主徴であるとされているが,P04の症状経過においては,当初,高熱や意識障害がなかったことが認められ,併せて,11月6日のP04のCT写真に脳浮腫が現れた原因は,10月31日の低酸素性脳症による結果であると考えられる。
b この点に関して,前出のP58医師は,P04の診療録に,酸素飽和度が84%と記載される一方において,瞳孔が散大し,対光反射がなくなったとの記載があることをとらえて,P04の脳に病変が起こり,それが原因となって呼吸が抑制された,脳の中に何らかの新生物が出てきて脳の中の圧力が上昇して脳ヘルニアを起こし,呼吸中枢,循環中枢が圧迫されて機能しなくなったと考えるのが素直と思われる,脳圧が上昇する原因としては,〔1〕脳に行く血流が増える血圧上昇(ただし,呼吸中枢が損傷される血流の増加というのは,200を超える程度である。),〔2〕脳内の出血である脳卒中,〔3〕脳腫瘍,〔4〕細胞に含まれる水分量が増加する脳浮腫が考えられるなどと供述する。
しかし,まず,診療録の記載に関しては,既に指摘したとおり,P58医師自身も,補助呼吸開始以前にP04の酸素飽和度が更に低い状態にあった可能性があり,その後酸素飽和度が回復しつつある段階にあったとすれば,酸素飽和度84%の時点で,瞳孔散大や対光反射の消失が生じた可能性はある旨供述している。
しかも,P58医師は,抽象的には,上記のとおり,P04の脳に病変が生じた可能性について供述する一方において,上記〔1〕から〔4〕のような病変が生じたかどうかについては,脳のCTやMRIによって判別できる旨供述した上,P04に対する検査結果を前提とした証言においては,10月31日午後8時過ぎに撮影されたP04の頭部CT画像には異常所見は見当たらない,同日午後11時過ぎのCT画像には脳浮腫の傾向があるが局所病変は見当たらず,出血や脳腫瘍もない,脳浮腫は軽い脳浮腫であり心停止の後に見られるような一般的なものであって,呼吸停止や対光反射がなくなるという事態に及ぶものではない,このように,CT画像上,呼吸停止,瞳孔散大,対光反射消失を招くような異常は認められないなどと,実際には上記〔1〕ないし〔4〕の可能性を否定する旨の供述をしている。
以上に照らすと,P58医師の証言は,結局,P04の急変原因が急性脳症などの脳症であること若しくはその可能性を理由付けるものでない。
c 以上のとおり,P04が急変した原因が急性脳症などの脳症でないことは明らかである。
(3)小括
以上に加えて,証人P18(甲281),同P44(甲284),同P68(甲287)及び同P73(甲300)が,それぞれの専門的知見を前提として,当時のP04の症状経過や各種検査結果に照らすと,P04の急変原因として考えられる通常の疾患等は存在しないと証言していることに照らして考えると,P04が急変した原因は,筋弛緩剤の効果によるものと断じられる。
そして,前記のとおり,容体急変後に採取されたP04の血清及び尿からベクロニウムが検出されたこともその裏付けになるとともに,上記の筋弛緩剤がマスキュラックスであることも確定づけられるというべきである。
なお,弁護人は,P04に重篤な症状が残った原因として,P18医師による急変後の対応が不十分であったことなどを論じているが,本件においては,P04が点滴投与を受け始めてしばらくしてからその容体を急変させた原因こそがまさに問題となっているのであって,P04が急変した後における医療処置の適否等は本件の争点でなく,また,それが上記結論に何ら影響しないことは明らかである。
ア 前記のとおり,急変当時,P04には点滴が施行されており,点滴ボトルには,輸液セット,三方活栓,エクステンションチューブなどが順次接続され,サーフロー針により静脈ラインが確保されていたこと,当初,血管確保のために,ソリタT1が点滴投与されたが,血管が確保されたことが確認されると,間もなく生食ボトルに切り替えられ,生食ボトル内の溶液が1時間当たり100mLの速度で投与されたこと,P04は,点滴開始から約5分程度経過したころ,目の異常などを訴えるようになったことが認められる。
イ 以上の事実を前提として,P11教授は,具体的なマスキュラックスの投与方法に関して以下のとおり供述する。
〔1〕P04に対しては,静脈ラインからマスキュラックスが投与されたと考えられる。
〔2〕三方活栓から患者側のエクステンションチューブにマスキュラックスが混入されていた場合には,ものが二重に見えるとか,口がきけなくなったという症状の始まりが,もっと早く発現すると考えられる。
〔3〕一方,P04には点滴開始から5分程度で症状が発現しているところ,点滴速度との関係からすると,点滴ボトルに混入されたマスキュラックスが,点滴ボトルと三方活栓の間のチューブ,三方活栓とサーフロー針の間のエクステンションチューブを通って体内に入ったという可能性は考えられない。
〔4〕したがって,溶解したマスキュラックスの液が三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットに混入されたと考えられ,具体的には,点滴のラインを点滴溶液で満たした上で,三方活栓からマスキュラックスを溶解した溶液が点滴ボトルの方に向けて混入されたと考えられる。
〔5〕上記のような手技,方法については,点滴ルートの中に空気が混入した場合に,その空気を上方に追い出す必要があり,その時に生食を注射器に詰めて,三方活栓から点滴ボトルの方へ押すという行為をすることがあるので,医療従事者が日常行っているものである。
以上は,筋弛緩剤の専門家であり,その薬効等に専門的知識を有するP11教授が,本件において実施されていた点滴の状況や症状発現の時間経過を考慮した上で供述したものであり,特に,不���然,不合理な点は見当たらず,信用することができる。
ウ したがって,本件においては,点滴溶液で満たされたP04に対する点滴ルートに,何者かがマスキュラックスを三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットに混入したものと考えられる。
エ なお,弁護人は,この点に関して,サーフロー針とエクステンションチューブを接続した後の手順としては,エクステンションチューブに三方活栓を介して接続された輸液セットのクレンメを緩めて輸液セットのびん針が刺入されているソリタT1のボトル内の溶液をまず滴下し,点滴ルートを通じて患者の静脈内に輸液が確実に流入していることを確認するが,この際の滴下速度は通常その後の設定速度よりはかなり速く,確認終了までには結果的にかなり多量の輸液が流入するのであって,輸液セット内の三方活栓付近にマスキュラックス溶液が入っていたとしてもエクステンションチューブの先端をサーフロー針に接続した直後に同溶液は点滴ルートを通じてエクステンションチューブ内を満たしていた輸液に続いて極めて短時間のうちに血管内に流入し,その溶液に続いてソリタT1のボトル内の溶液も体内にかなりの量が流入した後にようやく生食ボトルにびん針が差し換えられることになり,その後輸液ポンプをセットすることで1時間に100mLという滴下速度による滴下が開始されると考えられるから,血管確保のために輸液の滴下を開始した直後の比較的早い時間でマスキュラックス溶液も体内に到達することとなり,その場合の筋弛緩作用はP03の場合と同様,点滴滴下開始後5分もたたない早いタイミングで発現しなければならないはずであると主張する。
しかし,証拠(証人P16(甲315))によれば,この部分の手技は,〔1〕患者にサーフロー針を刺入できたことを確認した後,サーフロー針と点滴溶液が満たされたエクステンションチューブの端をつなぎ,その後,クレンメを少し緩めて点滴の滴下を確認し,点滴の滴下が確認できたら,サーフロー針を絆創膏で固定する,〔2〕滴下速度については,クレンメを開いたり閉じたりして調整する,〔3〕輸液ポンプを取り付ける場合には,サーフロー針を患者に刺入した後,輸液セットを輸液ポンプにセットし,輸液ポンプの流量と予定量を設定した上で開始ボタンを押し,その時点でクレンメを全開にするという方法で行われることが認められる。
以上の事実に照らして考えると,点滴の滴下を確認する際の滴下速度がその後の設定速度より速いという事情を念頭においても,患者にサーフロー針が刺入されてから点滴の滴下を確認して点滴を切り替えるまでの間にそれほど多量の点滴溶液が患者の体内に流れ込むとは考えられず,この点において上記の認定を覆すべき事情があるとはいえない。
(1)認定できる事実(P05の症状経過等)
関係証拠(甲49ないし53,110,208,231,243,400,412,証人P74,同P05,同P76,同P18(甲227,291),同P20(甲228,292),同P06(甲293),同P09(甲294),同P19(甲295),同P47,同P15(甲311),同P77など)によれば,P05の容体急変に至るまでの症状経過,容体急変時及びその後の症状経過並びにその間の関係者の行動等として次の事実が認められる。
ア P05が北陵クリニックにおいて治療を受け,入院するに至るまでの経緯
P05は,平成8年○月○日,父P05(以下「P75」という。),母P76(以下「P76」という。)の長男として出生し,両親に養育されて生活していた。P05の平成12年11月13日当時の年齢は4歳で,体重は約15kgであった。
健及びP76は,P05に,生後間もないころから,右手及び右足の機能障害が認められ,脳性麻痺と診断されたことから,平成8年12月ころから,P78センター(以下「P78センター」という。)等でP05に診療を受けさせていたが,その機能障害改善のためP05にFES治療を受けさせることとし,平成12年5月23日以降,P78センター医師の紹介で,北陵クリニックにおいて,P20教授の診察を受けるようになった。
なお,P78センターからの北陵クリニックに対する診療情報提供書には,P05の診断名は,右の痙性片麻痺,すなわち,左側の脳組織の脳出血又は脳梗塞等による部分的壊死により,右半身の筋肉が異常に緊張するような麻痺の状態にあるとされ,また,P78センターでの脳波検査の結果は,右半球の脳波に高振幅徐波や多発性の棘徐波などが認められたが,平成10年6月8日の脳波検査ではあまり目立たなくなっている旨,また,今までてんかん発作はない旨の記載があった。
P20教授のP05に対する初診時の診断も,右の痙性片麻痺であり,P05の右半身には腱反射が非常に亢進し痙性の状態になった麻痺が存在し,所見として,P05は右手の指の開きがよくできず,右腕は,自然な状態ではひじがほぼ90度近く屈曲して,手首については少し内側に向き,指も親指がてのひらの中に入り,他の指も内側に屈曲している状態であり,その際に両親は,P05が日常生活上,ほとんど右手を使わず,本を読む際に押さえるのに使う程度であることを話し,また,P20教授は,両親からP05が歩行時につまずく傾向がある旨聞いた上,P05が,歩行時,特に右足を前に出す際に,つま先が床のほうに下がる傾向があることを確認した。P20教授は,P05の右手と右足の麻痺の程度は,右足に関しては,小走りに走る程度のことは可能で軽いが足首は他の部分より重く,右手に関しては,ひじと肩は比較的軽いものの,指に関しては中等度の麻痺があると判断した。なお,P05には右の上下肢以外には麻痺している部分はなかった。
P05は,その後,両親又はP76に付き添われて,平成12年7月11日,8月19日及び9月5日に北陵クリニックに来院してP20教授らの診察を受けたが,P05の両親はP05に対しFES治療に伴う手術を受けさせることを希望し,P20教授はP05に上記手術を施行することを決定した。
P05に対する手術は,同年11月13日に実施されることとなり,また,上記手術についてはP20教授が執刀するほか,当時P21大学大学院医学系研究科運動機能再建学分野の講師をしていたP47医師及びその同僚のP79医師(以下「P79医師」という。)が助手を務め,麻酔はP74医師(以下「P74医師」という。)が担当することになった。
P05は上記手術を受けるため,同年11月6日に北陵クリニックに入院した。その後の入院期間中の病室はN2病室である。
FES電極埋込手術とは,手足の運動機能が完全に又は一部麻痺した患者に対し,筋肉内の末梢神経に電極を埋め込み,そこに電気刺激を与えることにより患者の運動機能を代替又は治療するために行われるものであり,具体的な手順としては,電気刺激を与えて該当する神経の部位を探し,皮膚をメスで1箇所当たり三,四mmの大きさで切開し,専用の針を使うなどして最大径1.2mmくらいのひも様の電極を皮下1mmないし三,四mmの深さに通してはわせ,電極の端を皮膚の下から出して,そこにコネクターを付けて外部の装置と接続することで電気刺激が可能な状態にするものであり,電極は,ポインターの先端と筋肉の支配神経が接する運動点に当たる部分の複数箇所と,他に筋肉が収縮しない部位の1箇所(不関電極)にそれぞれを埋め込まれるものである。
(ア)P05には,次のとおり,上記入院前及び退院後の合計2度にわたり,てんかん発作と思われる症状が出現した。
a P05は,平成12年7月28日,自宅で,トイレの行き帰りに歩きにくそうにしていたので,P76が支えて介助していたところ,トイレからの帰り,両目の黒目が右に寄って,左右に揺れるように小さく動き,右手の手首から先が左右に小刻みに動き,右足の足首から先のほうが左右に細かく振れるような動きのけいれんが見られたが,その際,右手と右足以外の体の部分には異常はなく,会話にもきちんと応じており,呼吸が苦しそうな様子やP05自らが不調を訴えたことはなかった。その後P05は,P76と共に救急車で病院へ運ばれて,抗不安薬でありけいれん止めにも用いられるダイアップ坐薬と点滴の処置を受けたところ,上記けいれんや黒目の向きの異常も治まった。
b P05は,北陵クリニックから退院した後の平成12年12月16日午前2時半ころ,平熱は37度くらいのところを,38.5度くらいの熱があったときに,両親がいる場で,FES治療の電流を流していなかったにもかかわらず,突然,「電気をしないで。」などと言い出し,右手の手首から先が上下にぴくぴくと小刻みに小さく動き,1度目の発作と同様,両目の黒目が右側に寄り左右に細かく動く状態になった。なお,その際,左手足には何も異常がなく,呼吸や意識にも異常はなくて,ろれつが回らないということはなく会話をすることもでき,自ら苦痛や不快感を訴えることもなかった。その後,P75が,上記1度目の発作の際の搬送先の病院で処方を受けていたダイアップ坐薬を肛門に入れたところ,しばらくして手の動きが治まり,救急病院で点滴の処置を受けたところ,1時間くらいで目が右に寄らなくなって自由に動かせるようになった。
(イ)P05は,上記1度目の発作の後,搬送先の病院で,ダイアップ坐薬を処方されていたものの,2度目の発作が起きるまでの間は,P05に対して,ダイアップ坐薬や抗てんかん剤が使用されたことはなく,上記2度目の発作の後は,発作の再発を防ぐために,テグレトールという薬を処方されて,毎日朝晩飲むようになり,以後,発作が起きたことはなかった。
エ 北陵クリニック医師のP05に対する入院後の診断,処方,処置の内容等
北陵クリニックでは,P05が入院すると,FES治療に関することを除く,入院中の健康管理に関する諸検査や処方,処置の指示はP18医師が主治医として担当することとなった。
P05は,入院当初は咳嗽などを伴う軽度の感冒症状があったが,廊下を走り回り,庭へ散歩に出,ベッドで飛び跳ねるなどの活気を見せ,P18医師から内服薬を処方されるなどの治療を受けた後,平成12年11月11日ころには上記の症状も治まり,それ以外には手術を受けるまでの間,P05の体調は良好で問題が生じたことはなかった。
P18医師は,同月9日午後,日勤のN病棟担当として勤務していたP16主任に対し,手術前日からのP05に対する医療処置について,「全身麻酔手術用指示」と題する書面に記載して指示をした。その指示内容のうち点滴に関するものについては,〔1〕手術当日の午前9時ころから飲水禁止とした上ソリタT1及びソリタT3をそれぞれ500mLずつ点滴,〔2〕手術中に抗生剤パンスポリン0.5gを調合した生食100mLの点滴,〔3〕手術後に20時間かけて500mLのソリタT3を2本点滴,〔4〕手術後にパンスポリン0.5gを調合した生食100mLの点滴,翌14日以降16日までについては,〔5〕パンスポリン0.5gを調合した生食100mLを1日2本点滴,〔6〕パンスポリンを点滴していない間はソリタT3の500mLを点滴というものであった。
オ 平成12年11月13日午後9時ころP05に点滴投与された薬剤が準備された状況等
(ア)北陵クリニックにおける手術目的の入院患者に対する点滴の準備及び施行手順について
北陵クリニックにおいて,FES手術を受けるために入院した患者に対する点滴の準備及び施行の手順については,通常は次のとおり行われていた。
患者に他の疾患がない場合,入院当日から点滴されることはなく,入院後最初に点滴されるのは手術当日の朝の時点であり,手術当日以降の投与の点滴指示については,全身麻酔手術用指示という書面に点滴以外の処置と共に記載され,これを医師から看護婦が受け取って準備されていたが,全身麻酔手術用指示による指示は,指示が出された日の病棟担当看護婦にされるのが通常であった。
指示を受けた看護婦は,指示書を見ながら,まずカーデックスや入院注射処方箋にその内容を記載し,その後は他の入院患者の場合と同様,空き箱に患者の名前の書いた紙を貼り,木目カラーボックスから取り出した点滴ボトルや薬剤を入れて,黒色カラーボックスに保管していた。
そのボトルや薬剤が最初に取り出されるのは,手術当日の午前中の,朝の申し送りが終わってから後が多く,手術前に投与されるものは,日勤の病棟担当か,その日の手術担当の看護婦が取り出し,取り出した点滴ボトルに名前を記入し,輸液セット,三方活栓,エクステンションチューブをつけて,患者の病室へ行き,点滴投与を開始していた。
FES手術を受ける患者には手術中と手術後にも点滴が行われるのが通常であり,手術中の点滴の準備は,患者を手術室に入室させるとき,手術担当の看護婦が手術の直前に空き箱からボトルや薬剤を取り出していた。手術中の点滴ボトルの交換は,手術担当のうち間接介助の看護婦が担当であり,空き箱から取り出すのも通常は間接介助の看護婦だが,直接介助の看護婦が取り出すこともあった。なお,手術担当の看護婦のうち,直接介助とは,執刀医又はその助手の医師に器械を渡したり清潔操作などを担当する者であり,間接介助とは,患者の一般状態の把握、必要物品の補充及び輸液の交換などを担当する者である。空き箱から取出した点滴ボトルについては,調合しないまま救急カートの上に置き,患者が入室するとき一緒に手術室へ運び,手術が始まって一段落した段階で,執刀医及び麻酔医に確認してから調合して点滴投与の作業をしていた。
FES手術後の当日に予定される点滴のボトルや調合する薬剤は,その日の当直勤務者が出勤する前の,夕方の申し送りより以前に,日勤の病棟担当看護婦がナースステーション内で,空き箱から出して,まだ患者名が書かれていない場合は記入し,ワゴンの上に順番に並べており,当直勤務の時間帯に投与するものについては,調合以降の行為は当直の看護婦がしていた。
手術のある場合,ほぼ必ず,その当日の手術中と手術後に抗生剤を調合した点滴が投与されており,医師から指示が出された抗生剤については,看護婦は,その段階では抗生剤を調合する生食のみを準備して,黒色カラーボックス内の当該患者用の空き箱の中に入れ,その後抗生剤についてのアレルギーテストの結果が陰性であることが判明した後に,抗生剤についても入れていた。
また,手術後の抗生剤の投与時刻については,術中の抗生剤を投与した時間から6時間以上あけるように決められていた。
(イ)本件について
P16主任は,平成12年11月9日午後の日勤の時間帯に,P18医師から,P05に対する処方について前記の指示を受けると,その内容を入院注射処方箋及びカーデックスに書き込み,P09看護婦(以下「P09看護婦」という。)の協力を得て,ナースステーションにおいて,その指示に従った処置をするための準備を行った。P09看護婦が,P05に対する点滴に使用する生食やソリタの点滴ボトルのうち,手術当日分のものとして生食フィシザルツPL100mLのボトルを2本,500mL入りソリタT3のボトルを3本,500mL入りソリタT1のボトルを1本,14日以降使用するものとしてフィシザルツPL100mLのボトルを6本,すなわち,合計12本の未使用の点滴ボトルを,それぞれ木目カラーボックスから無作為に取り出して準備し,さらに,手術中及び手術後の点滴に使用する生食であることを明確にするため,フィシザルツPL100mLのボトルのうち2本の,それぞれ容器のラベルが貼られていない裏側に,黒のマジックペンで,それぞれ「P05くん」と記載し,その1本については,「P05くん」という記載の下に空白を空けた上「11/13 ope中」と,もう1本については,同様に「P05くん」という記載の下に空白を空けて「11/13 ope后」と記載した上,これらをP05の名前を記載した紙を貼付した空き箱に入れ,その箱を黒色カラーボックスに置いた。
また,前記P18医師の処方〔2〕,〔4〕及び〔5〕の調合に用いられるパンスポリンのバイアルについては,P16主任は,同日の段階ではパンスポリンテストが未了であったために上記黒色カラーボックス内に準備するのは見合わせ,同月10日,P05に対し施行されたパンスポリンテストの結果が陰性であったことから,P16主任がパンスポリン8本を,上記黒色カラーボックス内に入れた。
なお,被告人の同日以降の勤務形態については,同月9日夕方から翌10日朝にかけてと,同月11日夕方から翌12日朝までが,それぞれ当直勤務であった。
(ア)平成12年11月13日における北陵クリニックの看護職員の勤務状況は,日勤勤務者がP06婦長,P16主任,P10看護婦,P19看護婦,P15看護婦,被告人及びP63助手であり,半日勤勤務者がP80看護助手(以下「P80助手」という。),遅番勤務者がP09看護婦,当直勤務者がP77准看護婦(以下「P77看護婦」という。)及びP71助手であった。
そして,被告人は,同日午前7時58分ころ北陵クリニックに出勤し,P05に対するFES治療のための手術の介助を担当し,同日午後7時13分ころ退勤した。
(イ)手術前の状況
被告人は,平成12年11月13日午前9時ころ,P05が入院していたN2病室に赴き,前記P18医師の処方に従い,P05の左手甲にサーフロー針を刺入して血管を確保するなどの,P05に対しソリタT3の点滴を開始する作業に関与し,その後,P05に対し実施する手術の準備等をした。
P05には,上記のとおり,午前9時ころからソリタT3の500mLのボトルによる点滴が,1時間150mLの滴下速度で施行されていたが,同日午後零時15分ころにその投与が終了し,P16主任は,点滴薬剤をソリタT1に切り替え,引き続き同じ滴下速度でその点滴がされた。
P18医師は,P05に対する手術前投薬として,同日午後零時50分ころに,手術中の唾液や胃液などの分泌を抑制するため,その作用のある硫酸アトロピン0.25mgを,午後1時5分ころに,P05を落ち着かせるため,鎮静作用も持つ鎮痛剤のソセゴン0.2mgを,それぞれ三方活栓からの側注の方法で投与した。
(ウ)手術当時の状況
その後P05は,同日午後1時10分ころ手術室に入室し,P05に対する手術は,同所において,まず,手術開始に先立って,P05に対する全身麻酔が同日午後1時15分ころから導入施行され,P74医師によりP05に対し筋弛緩剤が投与されたが,その際に用いられたのはサクシン(20mgのもの,1アンプル)のみであり,マスキュラックスは投与されず,また,筋弛緩剤投与の準備にあたっては,P74医師が手術前に使用薬剤をサクシンとすることを決定した後に,その準備がされたものである。
その後,午後1時45分ころから,P05に対する手術が行われた。執刀医はP20教授,助手はP47医師及びP79医師,麻酔医がP74医師,看護婦による手術介助については,直接介助が被告人,間接介助がP16主任で,これに見習いのため補助者としてP09看護婦が加わった。前記電極埋込手術の一般的な手順どおりの方法により,右上肢に11本,右下肢に4本の電極を埋め込み,手術中の出血はほとんどなく,輸血もしないまま,同日午後3時55分ころに予定通りの処置を終えて手術を終了し,午後4時5分ころに麻酔も終了した。
なお,P05に対する手術中の抗生剤パンスポリンの点滴投与については,P16主任が,事前に黒色カラーボックスのP05の名前を書いた空き箱の中から「ope中」等と記載のある生食フィシザルツPL100mLのボトル及びパンスポリンのバイアルを取り出したものを使用し,同人が手術室内で調合,準備の上,同日午後2時30分前後ころに行われたが,手術中にパンスポリンを投与したことで,P05にアレルギー反応の症状が現れることはなく,発疹が出たり,血圧が急に下がることもなかった。
(エ)手術終了直後の状況
被告人は,同日午後4時10分ころ,手術中も継続投与されていたソリタT1の点滴を受けさせたままの状態で,P05を抱きかかえて,健及びP76がP05の戻ってくるのを待っていたN2病室に戻り,P05をベッドに寝かせた。
病室に戻ったころのP05は,「おしっこしたい。」,「右のお手々が痛い。」などと言って大泣きし,尿意を訴えるとともに,手術部位を痛がっている状況であり,体温は35.8度で,軽度の悪寒があり,脈拍は104,血圧は129/83であり,酸素飽和度の心電図モニター上の数値は95ないし96%であった。
P18医師は,そのころ,外来診療を中断して,P05の術後の様子を確認するためN2病室に赴いたが,その際にP05が上記のとおり訴えていたことから,その場にいた看護婦に対し,P05に対する,アンヒバ坐薬200mg1個の挿入と,導尿と尿道カテーテルの交換を指示してから同室を後にした。
P05に対し,同日午後4時15分ころに導尿が,4時25分ころに被告人により尿道カテーテルの交換が,4時30分ころに上記アンヒバ坐薬の挿肛が実施された。なお,被告人は,上記交換作業を終えたころにN2病室から出た。
その後間もなくすると,P05の様子は落ち着き,P05は,ベッドに横になりながら,機嫌よく好きなビデオを見ており,ろれつが回らなくなるようなこともなく会話ができる状態で,飲水禁止が続いたためのどの渇きを訴えることはあっても,痛みを訴えることも,具合が悪い様子もなく,外見上手術時の麻酔の効果が残っていることを疑わせる様子もなかった。
P75は,P05の様子が元気であったことから,同日午後5時30分ころ,その後の看護を妻に委ねて帰宅のため北陵クリニックを後にした。
(オ)その後の状況
ところで,同日当直勤務であったP77看護婦は,同日午後3時51分ころ出勤し,午後4時30分ころから,ナースステーションにおいて,同日の日勤の病棟担当であったP15看護婦から入院患者の状態等に関する申し送りによる引継ぎを受けたほか,続いて,手術担当であったP16主任からも,手術中のP05の状態等についても申し送りを受けた後,午後5時30分ころにN2病室を訪室したが,その際P05の状態は,心拍数は110,体温が37.4度,脈拍が91,血圧は103/38で,酸素飽和度の数値は97%であり,P05には手術部位の痛みやのどの痛みはなかった。
その後,P77看護婦は,午後5時40分ころ,P05にそれまで投与していたソリタT1の投与が終了したことから,点滴をソリタT3の500mLの新しいボトルに交換して,1時間に50mLの速度で滴下させた。
P18医師は,手術後にP05の病室を訪れた際,上記のとおり,P05に異常が認められず,術後の回復が良好であったことから,従前の予定では,自身が手術日当日に北陵クリニックに泊まることになっていたものの,その必要はなくなったと考え,いったんは当直を取りやめる意向をP06婦長に対して告げた。
これを聞いたP06婦長は,P18医師が,同年10月のラリンゲルマスクの講習会があった機会に,P47医師の申入れを断って自身が当直する旨断言していたにもかからわず,このように態度を変えたことに不満を感じたものの,その場では特に何も言わなかった。
しかし,その後,P06婦長は,同日午後6時ころに急きょ双子の小児患者の入院を受け入れたこともあり,P05の容体がその後悪化した場合,看護スタッフのみでは対応しきれない旨述べて,P18医師に予定通り当直するよう強く要請し,P18医師もそれを受け入れて翻意し,同日当直することに決めた。
なお,同日日勤勤務であったP10看護婦は午後5時47分ころ,P19看護婦は午後5時48分ころ,P16主任は午後6時58分ころ,P15看護婦は午後7時ころ,被告人は午後7時13分ころ,いずれも勤務を終了して北陵クリニックを出た。被告人が北陵クリニックを退勤した時点で,北陵クリニックに残っていた看護スタッフは,P06婦長,P09看護婦,P77看護婦及びP71助手の4人であった。
同日午後6時45分ころにP77看護婦がN2病室を訪れた際のP05の様子は,酸素飽和度は97ないし98%で,体温は37.5度であり,血圧は95/38であり,訪室時P05はうとうとしていたが,血圧測定のために巻いたマンシェットの圧がかかることに対して,痛いと言って,痛そうな表情をし,それで目が覚めた様子でジュースが飲みたいということを訴えた。
午後8時ころ,P18医師は,事前に麻酔担当のP74医師から,午後8時に水を少量与える飲水テストを実施して異常がなければ,その後は水分を摂取させてよいとの指示が出ていたことから,N2病室へ行き,P05に水分を少し与えて様子を見るために,氷のかけらを持参してこれを口に含ませる飲水テストを実施し,その際P05はそれに対する吐き気も,むせ込みもなく,のどの痛みを訴えることもなかったため,水分を摂取することを認めた。
その後,P77看護婦が来室した際,P76がP05に対しスポーツドリンクを与えたところ,P05はこれを飲み,「おいしいね。」と言っており,笑顔が見られ,その際にも,のどの痛みや手術の部位の痛みを訴えることはなく,また,手術部位の足にむくみはなく,外見上息苦しそうな様子もなかった。また,その際のP05の尿量は200mL,血圧は96/37,心拍数は110台,酸素飽和度は97%であり,あらかじめ「全身麻酔用手術指示」と題する書面によりされていた術後指示に従って,それまで行われていた1分間3Lの酸素投与は中止された。
P05は,午後8時30分ころから,ベッド上であおむけの状態で眠りに就いた。
キ 術後の抗生剤の点滴の準備,投与及びP05の容体急変前までの状況
P06婦長は,本来の担当者であるP77看護婦が他の職務で忙しくしていたことから,自分が代わりに,それまでの間に投与開始時刻を午後9時ころとすることに決まっていた,手術後の抗生剤の投与である前記処方〔4〕の点滴を実施することとし,同日午後8時55分ころ,その点滴薬剤を調合するため,ナースステーション内における薬剤調合場所である銀色ワゴンの上に,その後P05に継続投与する予定のソリタT3の点滴ボトルや,前記入院した双子の小児患者のための点滴ボトルと共に,マジックインキで「P05くん」「11/13 ope后」と記載されているフィシザルツPL100mLの点滴ボトル1本とパンスポリン0.5g入りのバイアル1本が置かれていたので,これを用いて,パンスポリン0.5gを生食に調合した。具体的な調合の方法は,通常行われていたとおり,容量5ccの注射器を取り出して18ゲージの注射針を付け,上記フィシザルツP��の点滴ボトルのゴム栓上に貼られたビニールシールをはがし,上記注射針をゴム栓に差し込んで,注射器を用いて生食を3mLくらい吸い上げ,これをパンスポリンのバイアルの栓に針を刺入して,パンスポリンのバイアルの中に生食を注入し,そのバイアルを両手で持ってパンスポリンの粉末が完全に溶けるまでかくはんし,その後,パンスポリンが溶解した生食を注射器で吸い上げ,再度,生食ボトルのゴム栓に針を刺して注入するというもので,P06婦長は,これを1,2分の時間内に行った。上記フィシザルツPLの点滴ボトルのゴム栓及びその表面に貼られていたビニールシールは,注射針を刺したことがあったとしても,そこに一見しただけで容易に気付くような顕著な痕跡は残らない構造になっており(前記第2の5(2)),P06婦長も,上記調合の際,ビニールシールやゴム栓に既に注射針を刺した痕跡が残っていたかについては気付かなかった。一方,パンスポリンのバイアルについては,一度キャップを外した後元通りにはめ直すことはできない構造になっているところ,上記調合に用いたパンスポリンのバイアルには,それ以前にキャップを外した形跡はなかった。
なお,この時点では,前記の同月9日にP09看護婦が記載した「P05くん」及び「11/13 ope后」という記載の間の空白部分に,何者かにより,被告人を含む北陵クリニックの看護婦らが看護記録の記載等において時刻を表す記号として用いていた「°」と数字を合わせた,午後9時という意味を示す「21°」という記載が黒色マジックインキによりなされていた。
P06婦長は,ナースステーション内で上記のとおりP05に対する点滴薬剤の調合を終えると,これを持ってN2病室に赴き,同日午後8時55分過ぎころから午後9時少し前ころまでの間に,点滴スタンドに新たに,上記パンスポリンを調合した生食の点滴ボトルを吊るし,輸液セットのびん針をそれまでP05に投与していたソリタT3のボトルから上記生食の点滴ボトルに差し替えて,輸液ポンプで点滴の滴下速度を1時間に100mLに設定して同ボトル内の点滴溶液の滴下を開始し,その後輸液ポンプのアラームが鳴るようなこともなく順調に滴下が続いた。このときのP05は眠っており,外見上異常は認められなかった。
午後9時ころ,P77看護婦がN2病室を訪れると,P05は眠っており,P77看護婦が近づくといったん目を覚ましたものの,「このまま寝る。」と言って寝てしまった。そのときのP05の心拍数は80ないし90であり,外見上呼吸が苦しそうな様子はなかった。また,そのころ,P18医師もN2病室を訪れたが,その際もP05は眠っており,心拍数は80くらいで安定した状態だった。
P06婦長は,退勤前の午後9時20分ころにもP05の様子を見るため病室を訪れたが,その際もP05はあおむけで寝ており,外見上P05の異常は認められず,P05に投与されていた点滴は,輸液ポンプのアラームが鳴ることもなく,順調に続いていた。
P09看護婦は午後9時10分ころ,P06婦長は午後9時25分ころ,それぞれ勤務を終了して,北陵クリニックを出た。
P05は,午後8時30分ころに眠って以降,上記P77看護婦の訪室の際に一度目を覚ました以外は,普段どおり寝息をたてて,あおむけに寝ており,体にけいれんがあるなどの異常な点はなかった。また,N2病室の照明は,消灯時刻の午後9時を過ぎても点灯したままの状態になっており,P76は付き添い用のベッドに座って時折P05の様子を見ていたが,P06婦長により点滴交換がされて以後,下記急変前にその点滴ボトルや点滴医療器具に触れた者はいなかった。
(ア)ところが,P05は,午後9時30分ころ,P76がいる前で,「うっ,うっ,うっ。」と3回くらい,のどの奥から聞こえるような苦しそうな声を発し,目は閉じたままで開かず,顔面そう白で,ぐったりしている様子であり,あおむけに横たわったまま全く動かなかった。P76は,P05が同年7月28日にけいれんを起こしたことがあったことから,てんかん発作が再発した可能性を考えて,P05の右腕の様子を確認したものの,けいれんなどの動きは認められず,P05は,両腕を体の線に沿って足に向けて伸ばし,足も二本とも伸びてあおむけになった状態であった。
一方,そのころ,N2病室にあった心電図モニターは,P05に接続された測定用の電極を通じて心拍数及び心電図の波形が無線で送信される状態で,同日午後9時以降にナースステーションに持ち込まれて置かれていたものであるが,そこに表示されているP05の心拍数が140台ないし160くらいに上昇していたのを,当時ナースステーションにいたP18医師及びP77看護婦が認めた。その後P77看護婦は,P18医師の指示を受けて直ちにN2病室へ向かい,同所で,P05の異変をナースステーションに知らせようと立ち上がっていたP76から,「様子がおかしいので,ナースコールを押そうと思っていたところです。」と言われ,P05を見たところ,P05はあおむけに寝て,目を閉じ,両目のまぶたをぴくぴくさせており,呼び掛けにも反応はなく,手足には力が入っていない状態であり,その体を見える範囲で観察したところ,両目のまぶた以外のP05の体にけいれん様の動きは認められなかった。なお,P77看護婦はこの時点でのP05の呼吸の有無については確認しなかった。
P77看護婦は直ちにナースコールのボタンを押し,これを聞いたP18医師は,ナースステーションからN2病室に駆けつけ,P05の症状を観察したところ,P05は顔面にチアノーゼを呈しており,大声で呼び掛けたり揺さぶったりしても,全く反応がなく,体の力が抜けてぐったりした状態であり,呼吸状態を確認したところ,当初は,ややあえぐような呼吸が少しなされていたが,その後は聴診器を当ててみても呼吸音が聞かれず,また,鼻や口元に手や顔を持っていっても,息がかかってくる感じがない状態になり,聴診器を当てたとき心臓の音は聞こえ,心拍数がかなり上がっていることが確認された。
(イ)そのころ,P18医師は,ナースステーションから心電図モニターを運び込んできたP77看護婦に対し,抗けいれん作用を有するダイアップ坐薬を持ってくること,点滴をたんみのソリタT1に交換すること,P20教授に電話して連絡を取ることを指示する一方,自身はP05に対してマウス・トゥー・マウスによる人工呼吸を開始した。
P77看護婦は,P18医師の指示どおり,N2病室に持ち込まれていた救急カートから500mL入りのソリタT1の点滴ボトルを取り出して,それまでP05に投与されていたパンスポリン入りの生食の点滴ボトルと切り換え,また,小児科外来からダイアップ坐薬を持参したが,結局,P05にけいれんは認められないと判断したP18医師が挿肛の指示を出さなかったため,P05には投与されなかった。
(ウ)P77看護婦は,心電図モニターをN2病室に運び込んだ後,これを用いてP05の酸素飽和度を測るため,P05の左手又は左足のいずれかの指にフィンガークリップを装着したところ,午後9時38分ころにおける酸素飽和度は86%であり,以前の値よりも下がっている状態であった。そのころ,P18医師及びP77看護婦は,P05に対する人工呼吸の方法を,それまでのマウス・トゥー・マウスから,バッグアンドマスクによる人工呼吸に切り換え,アンビューバッグには酸素ボンベをつないで,1分間に7Lの酸素を送り込んだ。
なお,フィンガークリップとは,他方の端に心電図モニター本体と接続する端子があるフィンガークリップコードと一体をなす心電図モニターの付属品であり,クリップ様の形状をしたもので,これを心電図モニターに有線接続した上で,患者に装着することにより,患者の酸素飽和度を測定することが可能になるものである。患者への装着は,患者の手の指の1本を,その先端をクリップの支点部分に向けてしっかり挟み込ませる方法により行うもので,正しく装着されていないと,検出信号レベルが弱まり,酸素飽和度の正確な測定はできない。北陵クリニックにあったフィンガークリップは,成人用のものしか存在せず,P05にもそれが用いられた。
(エ)上記のバッグアンドマスクによる人工呼吸が継続されていたところ,午後9時40分ころには,P05の酸素飽和度は100%まで上昇し,心拍数が118であり,吸引を行ったところ,口腔内から少量のだ液が取れたが,たんや異物は吸引されず,その際,P05には咳嗽反射や嘔吐反射は認められなかった。
午後9時48分ころには,P05の酸素飽和度の心電図モニター上の数値は,25%まで下がったことをP77看護婦が確認したが,その際の心電図モニターに接続されたフィンガークリップが,P05の指に正しく装着されていたか否かについては確認されていない。
午後10時ころのP05の心拍数は102,血圧は172/90であり,また,酸素飽和度は,心電図モニター上の数値としては,測定できない状態であったが,この際のフィンガークリップの装着の状態についても確認されていない。
(オ)この間,P77看護婦又は同人から指示を受けたP71助手により,P20教授,P47医師及び看護婦らに対してP05が急変したこと及びその対応のため北陵クリニックに来てほしい旨の連絡がされ,電話連絡を受けた看護婦らは,同日午後10時ころまでの間に,P06婦長,P10看護婦,被告人,P09看護婦及びP19看護婦の順で,順次北陵クリニックに駆け付けたが,そのころのP05の症状は,顔面そう白で,全身の力が抜けてだらんとした状態であおむけに横たわり,外見上意識は確認できず,バッグアンドマスクによる人工呼吸を受けても,それに対応する胸郭の受動的な動きがある以外には,自発呼吸を確認できる動きはない状態だった。
(カ)被告人も同棲していたP10看護婦からは遅れて自宅を出発したものの,上記のとおり,午後10時ころには北陵クリニックに到着し,その後間もなくN2病室にいったん入り,同所で,P18医師,P77看護婦,P06婦長及びP10看護婦が在室して救命処置を行っていることや,P05に対してバッグアンドマスクの方法による人工呼吸が施されている様子などを目にするなどしたが,結局被告人は,その救命措置に加わることなく,N2病室を出て、リハ室へ向かい,少なくとも後記のとおりP20教授が駆けつけて来るまでの間は,同病室には戻って来なかった。
(キ)その後,午後10時5分から10分ころまでの間に,P20教授が到着して,N2病室に入室し,その後P20教授はP05に対し,挿管チューブによる気管内挿管を,合間にバッグアンドマスクで酸素を送り込みつつ,2度試みたものの失敗し,気道を確保することができず,P05の心拍数は40くらいにまで低下した。そのため,P18医師の指示を受けたP77看護婦は,午後10時10分ころ,ボスミン2分の1アンプルを三方活栓から静注し,また,P05のソリタT1の点滴ボトル内にイノバン1アンプルを混注した。
なお,P20教授が入室してP05の様子を見た際も,P05はあおむけに横たわり,全身の力が抜け,アンビューバッグにより空気を送り込まれた際に受動的な動きとして胸が上下するだけであり,外見上意識が全くないと判断される状態で,普通に寝ているときのような筋肉の緊張が全くなかった。また,その後挿管を試みた際も,P05には咳嗽反射も嘔吐反射もなく,嫌がるなど自ら体を動かすような動きもなく,呼吸状態についても,胸郭の動きがなく,挿管操作のため顔をP05の口に近づけても息の出入りが確認できず,喉頭蓋ないしその周辺の筋肉にも動きがなく息の出入りが認められず,自発呼吸が停止した状態であった。
(ク)P47医師は,P20教授が2度目の挿管を失敗して間もなく,N2病室に到着し,午後10時15分ころ,P20教授と交替して挿管を試み,直ちに挿管チューブによる気管内挿管を行って1回で成功させた。なお,P47医師が入室した際のP05は,あおむけに寝て,ぐったりと力が入っていない状態で,身動きはなく,上記挿管の際には口は抵抗なく簡単に開き,気道を見る際に周囲の分泌物の吸引を行ったが,気道を閉塞するような大きなたんが取れたということはなく,挿管チューブを気管内に挿管して固定した際にも,咳嗽反射も嘔吐反射もなかった。その後P47医師は,上記挿管チューブをアンビューバッグに接続し,自らアンビューバッグをあまり圧を上げすぎないように慎重に押して手動で加圧する方法での人工呼吸を実施し,その頻度については初めは多めで,その後はおよそ1分間に18回程度のペースであり,被告人はこれを見て後に看護記録に「呼吸回数18回/min」などと記載した。
(ケ)被告人は,遅くともP47医師がN2病室に入室して以降は,同室内に戻り,同室内でP47医師による挿管等のP05の救命措置の介助に当たった。
(コ)午後10時22分ないし23分ころ,P18医師は,P05から検査のために左そけい部の大腿動脈から約0.2mLの血液を採取し,それを,血液のペーハー,酸素分圧,二酸化炭素分圧等が測定できる器械であるアイスタットでの分析に用い,残りを廃棄して消費し,その検査結果は午後10時26分ころにプリントアウトされた。
(サ)午後10時30分ころ,P47医師はP05に対する人工呼吸をアンビューバッグを用いた手動による方法から,人工呼吸器を接続して自動的に換���する方法に切り換えることとしたが,北陵クリニック内には人工呼吸器がなかったため,麻酔器のレスピレーターで代用することになり,被告人らがこれを手術室から運び込んで,その後P47医師が被告人と相談の上で換気回数や1回当たりの換気量を設定し,この方法による人工呼吸が実施された。そのころ,P05の酸素飽和度は100%に上昇し,血圧は79/53であった。
そのころ,P47医師は,仮にP05のまぶたが少しでも開いた場合,角膜が乾燥して傷つく可能性があると考え,それを予防するため,通常全身麻酔手術の際に人工呼吸開始後の患者に対しても行われているアイパッチ又はアイテープと称する目を保護するためのテープ(以下「アイパッチ」という。)をP05の両まぶたの上に貼った。
(ア)午後10時45分ころのP05の心拍数は140で,血圧は142/48であった。
そのころ,P06婦長がP05の静脈血を採取しようとして,左足の足背部付近に駆血帯を巻いて注射針を刺した。すると,P05は,これに反応してぴくんというように左足を動かす痛覚反応を示した。そして,それと連続するように,周囲にいた医師,看護婦らがP05に声を掛け,P05の目に貼っていたアイパッチを外すと,P05は目を開け,また,呼び掛けに対してうなずく反応を短時間のうちに示し,外見上意識回復を確認できる状態になった。なお,上記採血については,結局P05の血管が確保できなかったため,P06婦長はこれを断念し,実施されなかった。また,午後9時30分ころに前記のとおりP05の容体が急変した後,上記意識回復が確認されるまでの間,P77看護婦が最初に訪室した際に両まぶたにけいれん様の動きを認めた以外には,P05の体にけいれんを認めた者はおらず,また,P05の顔等,皮膚が露出している部位に発疹が出たのを認めた者はいなかった。
(イ)午後10時55分ころ,P05に挿入されている挿管チューブに空気が通る音の中にだ液が混じったような音がして,P05に咳嗽刺激によると思われる反応があった。
午後11時5分ころのP05の血圧は132/61であり,また,そのころ,P05の酸素飽和度の心電図モニター上の数値が,78%まで下がり,その後,少なくとも吸引等の医療処置が何らとられないうちに(なお,フィンガークリップを装着し直す作業がされた可能性は否定されない。),その数値が95%まで上がった。
そのころ,P05に対して,いったん麻酔器から外した挿管チューブの中にそれより細い吸引カテーテルを挿入して吸引を実施したところ,少量の白いたんやだ液を吸引できたが,それは気道を閉塞するようなものではなく,また,麻酔器による人工呼吸を継続したままで,口の中に別の吸引用のチューブを入れて口腔内の吸引をしたところ,奥にチューブを入れた際に,P05にむせるような咳嗽反射があった。
(ウ)午後11時15分ころ,P47医師は,P05に低酸素性脳症が起きていたことを想定し,脳浮腫等を防止するため,脳圧を下げる薬剤であるグリセオールの点滴投与を指示し,P05に対する点滴は,500mLのソリタT1からグリセオール100mLのボトルに交換され,1時間に100mLの速度で施行された。
このころ,P47医師は,P05の意識回復を確認した後,P05から,酸素分圧等の検査のため,2mLくらいの血液を採取することとしたが,その際に,P18医師から「多めに取ってください。」などと言われたことから,P05の左鼠蹊部の大腿動脈から,容量10ccくらいの注射器を使用して,七,八mLくらいの動脈血を採取した。なお,採取された血液のうち一部は,アイスタットによる検査に用いられ,その検査結果は,午後11時18分ころにプリントアウトされた。
(エ)午後11時20分ころのP05の酸素飽和度は100%,血圧は102/35,体温は37.1度,心拍数は127であった。
午後11時30分ころ,P05の口腔内を吸引したところ,だ液が吸引でき,また,挿管チューブの中を吸引したところ,粘稠性のたんが中等量吸引できたが,そのたんは挿管チューブを詰まらせてしまうほどの量ではなく,また,吸引カテーテルの中にたんが付いてなかなか通過できないような固さのあるものではなかった。
午後11時55分ころのP05の酸素飽和度の表示上の数値は97%であり,血圧は129/56だった。また,そのころにも吸引が行われたが,それまでになされた吸引と同様,気道をふさぐほどの多量のたんが取れたり,異物が吸引されたことはなかった。
その後も,P05は,再び容体を悪化させるようなことはなく,翌14日午前零時15分ころには,挿管チューブが挿入されているのを嫌がって,左手でそれを指さし顔を横にふるなどの活発な動きを見せるようになり,同日午前6時48分ころには,挿管チューブが抜管されて人工呼吸も終了した。
そして,P05は,その後,同年12月5日に北陵クリニックを退院したが,それまでの間に,P05が体調を崩したり,呼吸苦ないし呼吸困難に陥ったり,意識が薄れるようなことはなかった。
また,P05は,北陵クリニックを退院した後も,前記のとおりてんかん発作と思われる症状は一度あったものの,呼吸困難に陥ったり,意識を失ったりすることは一度もなく,同年11月13日の容体急変を原因とする後遺症も生じていない。
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
P11教授は,P05の症状に関する事実経過等を踏まえて,次のとおり証言する(甲314)。
〔1〕筋弛緩剤の効果,効果の発現機序,効果と呼吸との関係は,容体急変時のP05のような4歳の子供についても,成人とほぼ同じと考えてよく,そのまま当てはまる。
マスキュラックスの筋弛緩効果については,筋弛緩の効果が先に現れる筋肉が完全に弛緩する以前に,後に効果が現れる筋肉も弛緩し始めるので,四肢の筋肉に効果が及んだ段階でも,最初に効果が現れる目の周りの眼瞼筋や動眼筋が完全には弛緩していないこともあり得るが,この点も成人と4歳の子供とに違いはない。
また,筋弛緩剤を点滴投与した場合,単回投与の場合に比べて,筋弛緩効果の発現がゆっくり段階的にみられるものの,排せつされる量に比して十分な量が投与されれば,発現時間は遅くなっても,単回投与と同様の効果が最終的には現れると考えてよいが,この点も,成人と4歳の子供で同様と考えてよい。
〔2〕P05には,FES電極埋込手術の全身麻酔の際に,筋弛緩剤であるサクシン20mgが投与されているが,サクシンの作用発現時間は非常に早く,1分前後で完全な筋弛緩効果が得られ,また,効果の持続時間が四,五分で,10ないし12分程度で完全に回復する短時間作用性の筋弛緩剤であり,P05への投与量も通常量の範囲内であり,遅くとも投与された当日午後1時30分ころにはサクシンによる筋弛緩の効果はなくなっていたとみてよく,その効果が,容体急変時の午後9時30分ころまで持続したり,そのころに再び効果が発現したことは考えられず,分解速度も非常に早いことからサクシンが血中にとどまっていたこともあり得ない。
〔3〕P05の急変時及びその後の症状は,次のとおり,マスキュラックスが投与されたことによる症状と,特に矛盾するところはない。
〔4〕午後9時30分ころにP05の心拍数が140ないし160に上昇したことについては,マスキュラックスの直接の作用ではないが,低酸素血症の初期の段階では心拍数が上昇するので,呼吸抑制が起きた一つの証拠であり,マスキュラックスが投与されて呼吸抑制が生じた者の症状に符合する。
そのころ,P05が「うっ,うっ,うっ。」と声を出したのは,未だのどの周りの筋肉が完全には弛緩しておらず,全体の25%くらい筋力が残っていると考えられ,その場合,そのような言葉にならない声が多少出ることはあり得る。
〔5〕その後,呼び掛けに反応しない状態になったのは,マスキュラックスが全身に作用した場合の,仮に本人に意識があっても反応できない状態になることと符合する。
〔6〕なお,全経過を通じての,P05の意識の有無については,マスキュラックスの直接の効果ではないものの,呼吸の抑制による低酸素血症及び高炭酸ガス血症の結果として,一時意識を失っていた可能性はある。
〔7〕看護婦が病室に駆けつけたとき,P05が両目のまぶたをぴくぴくとさせていたものの,目を閉じており,他の部位にはけいれん様の動きがなかったことについても,この時点では呼び掛けに答えたり,目を開けるなどの反応を示すための,相当の力を要する動作を可能にする筋力は失われていたものの,眼瞼筋が完全には弛緩しておらず,けいれん様の単純な動きが可能な筋力は残っていたと考えられる。
この段階ではまだP05に意識があった可能性もあり,その場合,前記のうめき声やまぶたの動きは,P05が何かを訴えるために声に出したり,目を開けたりしようとしたものの,それができずにそのような結果になった可能性もある。
〔8〕P18医師が病室に駆け付けた当初に,P05にややあえぐような呼吸が少し認められたものの,その後呼吸があるかないか分からない,ほとんど呼吸がない状態になったことも,マスキュラックスが投与された場合の症状と符合し,最初にあえぐような呼吸が見られたのは,この段階では呼吸筋が完全には弛緩されていなかったからと考えられる。
P18医師が確認した,P05の顔面チアノーゼは,マスキュラックスの投与により呼吸抑制が生じ,それが放置された結果と符合し,この段階で100%ではないにせよ確実に呼吸抑制があったと考えてよい。
〔9〕酸素飽和度の測定上の数値が,午後9時48分ころに25%,午後10時ころには測定できない状態になったことについては,それが実際の数値であることは,もしそうなら非常に深いチアノーゼが出現し,心拍数もほとんど心停止に近い状態になるはずであるからあり得ず,そのような測定結果になったのは,当時心電図モニターのフィンガークリップがP05の指に正しく装着されていなかったため,正しい酸素飽和度が測定されなかったことによると思われる(なお,この点に関しては,P11教授が証言するとおり,上記酸素飽和度の測定上の値が他の測定値や当時のP05の容体と整合しないことに加え,前記のとおり,北陵クリニックにあったフィンガークリップが成人用の大きさのものであり,P05が小児である上に当時バッグアンドマスクや吸引等の救命処置がされていたことからすれば,装着された部位から外れやすい状況にあったといえること,P20教授及びP09看護婦は,P05に対する救命処置中に看護婦がフィンガークリップの位置を直す光景を見たことがあった旨証言し,P18医師も,直接その光景を見ていないものの,これまでの経験からP11教授と同旨の証言をしているもので,以上からすれば,上記P11教授が証言するとおりの事実関係であったと認められる。)。
〔10〕午後10時ころに,血圧が174/90であった点については,マスキュラックスの直接の作用ではなく,低酸素血症及び高炭酸ガス血症により体に加わったストレスによる影響と思われる。
〔11〕P20教授が気管内挿管を試みたり,P47医師が気管内挿管をした際,P05に咳嗽反射や嘔吐反射がなかったことについては,マスキュラックスが投与されたため深い筋弛緩作用が生じている場合と符合する。挿管チューブが挿入された午後10時15分ころには,マスキュラックスによる筋弛緩作用から回復が始まっている時期になっていると思われるが,なお筋弛緩作用が深いままであったと考えられ,嘔吐反射や咳嗽反射がなくても不思議ではない。
〔12〕午後10時45分ころに,P05に痛覚反応が認められ,目を開けて声掛けにうなずいたことについては,容体急変後1時間余りたってからこのような回復を見せたのは,この時点ではマスキュラックスの筋弛緩効果がだいぶ切れて筋力が相当回復したためと考えてよく,時間的経過と症状とはほぼ一致する。
P11教授は,以上の各指摘を総合して,P05の急変の原因は,その体内に筋弛緩剤が注入されたこととして説明づけが可能である旨の見解を述べるところ,この見解は,前示のマスキュラックス等筋弛緩剤の一般的な筋弛緩効果の発現機序,発現態様に沿うものであること,P11教授が筋弛緩剤についての専門的知識を有していること,その証言内容全般を見ても,誠実に証言しているものと認められること,後記のとおりP68教授やP47医師ら他の医師の証人も,自らの臨床経験と医学的知見に照らし,P05が前記のように急変し容体が悪化しながら短時間で後遺症もなく回復した経緯に関して,他の原因による可能性を否定しつつ筋弛緩剤の投与を仮定すれば説明できる旨の整合性を有する証言をしていることなどを念頭におけば,十分その正当性を肯定することができる。他にP05の急変症状を説明づける(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見いだせない限り,P05の急変は,筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
弁護人は,P05が容体を急変させたのは,筋弛緩剤が投与されたことによるものではなく,他に原因��ある旨主張し,具体的には,〔1〕てんかん発作,〔2〕たん詰まり,〔3〕FES電極埋込手術の影響を指摘するので,以下検討する。
(ア)てんかん発作
a 前記のとおり,P05には,手術前の平成12年7月28日と,手術後の同年12月16日の二度にわたり,てんかん発作を疑わせる症状が発現しているので,前記容体急変の原因も,同様のてんかん発作によるものではないかを検討するに,この点に関し,P68教授は,次のとおり,その可能性を否定する証言をしている(甲325)。
てんかんとは,脳の神経細胞が,突然に過剰に活動することによって発作症状が起きる病気で,てんかん患者は,突然に異常な活動を起こす細胞を脳の中に持っているために発作を起こす。てんかん患者の脳の中の異常な活動をする神経細胞は,目に見える発作を起こさないときにも異常な活動をしており,脳波を記録すれば,その異常な場所は,記録上はスパイク波(棘波)として出現し,その場所と,発作が現れる身体の部位に関連性が認められる。
てんかん発作には大きく分けて,異常な神経細胞が脳の中心部にあると考えられて,発作を起こすと同時に脳全般に興奮が行き渡って全身的に発作を起こす全般発作と,脳の部分的な細胞に異常があり,部分的に症状が現れる部分発作があり,さらに部分発作の中には,脳の部分的な異常を原因として,体の部分的なところにのみ発作が現れ,意識は障害されない単純部分発作と,脳の部分的な,主として側頭葉の細胞の異常を原因として,部分的発作症状に加えて意識に何らかの障害を伴う複雑部分発作とがある。
P05に平成12年7月28日と同年12月16日の2度にわたり現れた症状は,臨床発作像からてんかん発作が疑われるところ,右手や右足に運動性の発作があり,両目の黒目が右に寄るなどの共通した部分症状があり,しかもいずれも意識が障害されていないことからすれば,単純部分発作であると認められる。この点は,P05に対して実施された8回(平成8年12月10日,平成9年6月3日,平成10年6月8日,平成12年6月23日,同年8月25日,同年12月1日,平成13年3月16日及び平成14年3月11日)の脳波検査の結果(甲328,329),共通して,脳の左側の前頭部から側頭部にかけての四半分にスパイク波が頻発し,左半球全体に徐波が出ていることによっても裏付けられる。すなわち,この徐波の出現は,左半球の機能が悪いことを示唆しており,スパイク波の出現部位は,右の手足を支配している場所であるから,2回のてんかん発作とこの脳波所見は合致し,P05に対する頭部CT写真(甲327,平成12年11月8日及び同月15日撮影)の結果に照らしても,左側頭の細胞中の,壊死せず残っている周辺の細胞に異常な活動が出ていると思われるので矛盾しない。P05が発作のとき両目の黒目が右側を向いたのも,同じ部位の異常を原因としていると考えてよく,両目の筋肉は両方一緒に連動して動き,病巣が脳の左側にある場合,それと反対側の右側を向くことが推測される。
これに対し,平成12年11月13日の容体急変時に現れた症状は,前記の2回の単純部分発作とは違い,症状に左右の差がなく,けいれん様の動きはまぶたに少しあっただけで(このまぶたの動きも,同日の症状は黒目が片側を向くような左右差がなく,2回のてんかん発作の際の目の症状とは異質である。),手足にはなく,他方外見上は意識が消失したかのような症状が認められたのであるから,もしこれがてんかん発作によるものなら,全く異なった発作が起こったと考えざるを得ない。しかし,てんかん患者は,通常同様の発作を繰り返すもので,他の種類の発作を起こすことは考えにくく,多様な発作を起こすのは,脳の異常が広範囲にわたり,週単位や日単位の頻回の発作を繰り返す患者に限られるところ,P05はこれに当てはまらず,同日のP05の症状はてんかん発作とは考えられない。
同日のP05の症状が,当初はてんかんの部分発作だったのが,さらに脳の神経細胞の異常部位の興奮が脳の他の部分へ波及して全身性の発作につながった可能性についても,P05の場合,最初に身体の部分的症状が全くみられなかったのに,それが短時間で全体に波及し,母親ら周りの人間が観察できず全般発作になったというのは考え難い。脳の神経細胞の異常が他へ波及する場合の身体症状は,P05の場合なら,体の右半身全体,さらに左半身へと広がる形をとるはずで,最初から一足飛びに呼吸中枢へ及ぶことは考えにくい。
全身麻酔手術をした影響でてんかん発作が誘発されたり,てんかん発作を起こした場合の症状がより重篤になるということもなく,それ以前に抗てんかん薬を投与したことのない患者に対して手術日に限ってそれを投与する必要もないので,P05に対してその日全身麻酔手術をしたことが,前記急変の原因がてんかん発作であるとの疑いを抱かせる事情にはならない。
また,仮に神経系の障害で咳嗽反射や嘔吐反射が消失するとすれば,それは脳幹部にも障害が及んだ非常に重篤な状態を考えざるを得ないところ,そのような障害が脳に起こったとすると,P05のように容体急変の約1時間15分後という短時間でそれが回復することは考えにくい。
b 以上のP68教授の証言は,他の点に関する同人の証言と同様の理由からその正当性を認めることができる上,P05にされた手術がてんかん発作を誘発ないし増強させた可能性を否定する点はP11教授及びP20教授も同旨の証言をし,咳嗽反射や嘔吐反射が消失した場合の早期回復が通常考えられないことについてP47医師も同旨の証言をするなど他の証拠によっても裏付けられており,他方,その正当性を疑わせるような証拠は存在しない。
c なお,P18医師は,平成12年12月4日付けのP78センター医師あての連絡文書においては,P05の急変原因として喀痰による窒息かてんかん発作も考えられる旨記載したことが認められるが,P18医師は,そのように記載した理由について,P05にはけいれんも認められずてんかん発作が原因ではないと思っており,また,この文書を記載した当時は既に原因として被告人による筋弛緩剤投与を疑っていたものの,確証がないままこの時点で,その疑いを書くわけにいかず,便宜上の説明として記載したにすぎず,抗けいれん剤を投与したほうがよい旨記載したのは,急変原因とは関係なく,脳波上の所見からそのように考えた旨証言しており,その証言内容は当時の状況と照らし不合理ではなくこれを首肯できる。もっとも,P18医師は,捜査段階においては,上記記載に関し,「容体急変の原因についてはっきりした原因が分からなかった。あくまでこの時点で考えられる可能性として,私の意見を書いた。」旨も供述しており(弁72),これに照らせば,P18医師が上記記載をした段階で,喀痰による窒息やてんかん発作により容体が急変した可能性を全く否定してはいなかったことがうかがえるが,上記検面調書中の供述によっても,P18医師が喀痰による窒息やてんかん発作のいずれかが原因であるとの強い認識を抱いていた事実がないことは明らかである。以上のとおりであるから,上記の記載が存在し,これに加え,仮に当時P18医師がその可能性を想定していたことがあったとしても,前記認定に反してP05の急変原因がてんかん性発作であることを疑わせる事情にはならない。
d 以上の点からすれば,P05の容体急変の原因がてんかん性発作によることは否定されるというべきである。
(イ)たん詰まり
次に、P05の急変原因が,たんがのどに詰まったことを原因とする窒息等によるものと考えられるかどうかを検討するに,まず,そもそも前提となる事実として,P05に対しては,前記のとおり,容体急変後の午後9時40分ころから意識回復が確認された午後11時55分ころまでの間に,しばしば口腔内や気道の周囲の分泌物の吸引が行われているものの,だ液や粘稠性の中等量のたんが吸引されることはあっても,気道を詰まらせるような大きさや硬さのあるたんやその他の異物は一切吸引されなかったのであり,このことだけからも,P05に前記のような重篤な症状を引き起こすようなたん詰まりがあったことは否定されるというべきである。
さらに,P05は容体急変時,睡眠中に,突然苦しそうな声を発しただけでぐったりした状態となり,その後容体回復以前に目を覚ましたり,努力性の呼吸やせきやむせ込みなどをした事実はなく,一方でバッグアンドマスク等による人工呼吸により酸素飽和度が上昇したことが認められるところ,P11教授,P68教授,P47医師及びP18医師の証言を総合すれば,たん詰まりがあった場合には,仮に睡眠中であっても詰まったたんを出そうとして努力性の呼吸をし,目を覚まして息苦しさを訴えるはずであること,また,気道を閉塞するようなたんが詰まっていた場合,バッグアンドマスク等による人工呼吸を行っても,詰まった箇所より先の気管に酸素が行き渡らず,これにより低酸素血症が解消することはあり得ないことが認められるのであり,以上からすれば,P05の容体急変時の症状はたん詰まりによる症状とは矛盾し,これが原因となった可能性は否定されるというべきである。
なお,この点,P18医師は,前記P78センター医師あての連絡文書においては,P05の急変原因として喀痰による窒息の可能性にも言及しているが,前記のてんかん発作に関する記載と同様の理由によりされたものと認められる。また,P47医師は,P05の容体回復後にP20教授及びP18医師と急変原因について話し合った際に,たん詰まりの可能性について言及したことがあるものの,P47医師の証言によれば,その発言はP05の症状をきちんと分析した上で出した結論ではなく,他に容体急変原因が分からず,もとより筋弛緩剤の投与など思い及ばなかったところ,その場でとりあえずの思いつきとして高齢者のたん詰まりを想定してそう言ったにすぎないことが認められ,公判廷においては,たん詰まりが急変原因となることを明確に否定しているのであり,以上からすれば,いずれもP05の急変原因がたん詰まりであることの疑いを生じさせる事情にはならないと認められる。
また,弁護人は,診療録(甲231)中の,看護記録の午後9時40分の欄に酸素飽和度が100%に上昇したことや吸引を行った旨の記載があることと,P18医師記載の診療録(入院2号紙)中に「吸引にてupする」との記載があること,さらにP18医師が検察官に対し上記記載につき「吸引をした結果,酸素飽和度が上がったという意味です。」と供述していること(甲110)を合わせると,当時酸素飽和度が100%に上昇したのはたんの吸引によってであると認められ,たん詰まりを疑わせる事実がある旨主張する。しかし,前記(1)ク(エ)の事実については,当時実際に吸引を担当したP77看護婦が,吸引した際に口腔内から唾液が少し採れたが,たんや異物は吸引されなかった旨明確に証言しているところ,同証言は,同人が吸引の結果として看護記録上「口腔内より唾液少量(+)」とのみ記載していたことによっても裏付けられていて信用することができ,同証言だけからしても,これを明らかに認めることができる(P18医師も,これに沿う内容の証言をしている。)。また,P18医師は,自身が診療録に上記の記載をした事情については,人工呼吸や吸引などの一連の作業をしているときにいったん酸素飽和度が上がったことを書くつもりで「吸引にてup」と書き間違えてしまった旨,検察官に対し上記のように供述したのは,実際の当時の記憶を十分に整理しないまま,診療録の文字どおりの説明をしてしまったもので事実とは異なる旨証言しており,その証言内容に不自然な点は認められないこと(このことは,上記検面調書において,P18医師が,一見して誤記と分かる単位の記載につき訂正を加えていることと矛盾するものではない。)からすれば,上記P18医師の記載が,P05に気道をふさぐようなたん詰まりがあったことの疑いを生じさせるものとは認められず,この点は,仮にその記載をした当時のP18医師において,吸引作業が酸素飽和度の上昇に何らかの寄与をした可能性があるとの認識を抱いていたとしても異なるものではない。
(ウ)FES電極埋込手術の影響
弁護人の主張中には,P05が受けたFES電極埋込手術の影響についても急変原因に結びついた可能性がある旨いう部分がある。
しかし,前記の事実経過に照らせば,P05が容体急変したのは,手術が終了してから5時間以上経過して後のことであるところ,P05は手術直後から大泣きするなどして麻酔から覚せいし,その後の覚せい状態も良好であったことは明らかであるから,手術の際に施行された全身麻酔の影響が残存して,これが容体急変の引き金となった可能性は否定される(この点は,P11教授,P47医師及びP18医師がその旨証言しており,他方これを疑わせる証拠は存在しない。)。
また,FES電極埋込手術特有の侵襲の影響が残存した可能性についても,前記のとおり,手術の際メスで切開する切り口は1箇所当たり三,四mmにすぎず,P20教授及びP47医師の証言によれば,その際の出血は静脈性のものがあるだけで,ガーゼでしばらく押さえておけば治まる程度であり,P05の場合も含め,同手術で輸血を必要とすることはなく��また,手術中の電気刺激は,周波数3ないし20ヘルツ程度の電流を,電極を埋め込んだ刺激部位と不関電極との間に局所的に流すだけで,脳にその電流が影響を及ぼすことはなく,同手術の侵襲は大きなものではないことが認められるのであり,前記認定の事実経過のとおり,手術後の経過が良好であったと認められるP05が,手術後5時間以上経過した後,前記のような突然の容体急変及びその後の経過をたどったことが,同手術の影響による可能性はないものと認められ,この疑いを生じさせる証拠は存在しない。
(エ)その他の可能性
P05の急変原因として,その他のものによる可能性が考えられるかについても,まず,抗生剤パンスポリンの投与によるアナフィラキシーショックの可能性については,P68教授及びP18医師は,急変時のP05にアレルギー様症状のくしゃみ,鼻水や発疹などの初期症状がなく,血圧の急激な降下もなく,事前のパンスポリンテストの結果も陰性であり,手術中にもパンスポリンが投与されているのに容体の変化が見られなかったことからその可能性を否定できる旨の証言をしており,これを信用することができる。
そして,P68教授は,北陵クリニックにおいてP05に対しされた処方や処置はいずれも妥当なものであり,P05の状態や諸検査の結果(平成12年11月7日,同月13日及び同月14日採取の血液検査,同月7日及び14日に採取の尿検査,同月9日及び14日撮影の胸部レントゲン写真,同月8日及び同月15日撮影の頭部CT写真)にも,容体急変の原因となるような所見はなく,脳浮腫及びそれを基盤として起こる高熱等がないことや,いったん重篤な症状となりながら短時間で容体回復した経過からは,急性脳症等の脳への障害が原因となったとも考えられず,筋弛緩剤投与の可能性を除けば,他にP05の容体急変を医学的な見地から合理的に説明し得る病変,障害等はない旨証言しており,これも前同様に信用できるから,結局,P05がこれまでに検討した以外のことを原因として容体を急変させた可能性も否定されるというべきである。
(3)小括
以上のとおり,P05の容体急変の原因をマスキュラックス等の筋弛緩剤の投与によると考えた場合,これと符合する症状が多々認められる一方で,これと矛盾する事情は存しないところ,そのほかにP05の容体急変時の症状を合理的に説明し得る疾患等の他の原因は認められないのであるから,P05の容体急変は筋弛緩剤の投与によるものと断じられる。
そして,前記のとおり,P05から容体急変後の当日に採取された血清及び容態急変時にP05に対する点滴投与に用いられていたボトル内の残溶液からベクロニウムが検出されたこともその裏付けになるとともに,上記の筋弛緩剤がマスキュラックスであることも確定づけられるというべきである。
ア 前記のとおり,容体が急変した当時,P05には点滴が施行されており,点滴ボトルには,輸液セット及びエクステンションチューブなどが順次接続され,サーフロー針により静脈ラインが確保されていたこと,平成12年11月13日午後9時前ころ,点滴ボトルがそれまで投与されていたソリタT3から抗生剤パンスポリンを調合した生食に交換されて,その点滴投与が続いていたこと,P05は上記点滴ボトルの交換のころには寝入るなどしており,特に異常は認められなかったところ,午後9時30分ころ以降,前記の急変時の症状が確認されたこと,上記点滴ボトルの交換の後からそれまでの間,点滴ボトルや点滴医療器具に触れた者はいなかったこと,その後,上記の静脈ライン及び点滴医療器具は維持されたまま,点滴ボトルのみがソリタT1に切り換えられたことが認められる。
イ P11教授は,マスキュラックスを点滴によって投与した場合の一般的な効果,及び,P05事件に関する事実経過を前提として認められるマスキュラックスの投与方法に関して,以下のとおり証言する(甲261,314)。
〔1〕マスキュラックス(ベクロニウム)の投与方法として,単回投与と点滴投与の方法とを比較すると,単回投与のほうが,効果の発現する時間が非常に早いのに対し,点滴投与の場合には,効果の発現をもう少しゆっくり段階的に観察することができる違いがあるが,骨格筋への筋弛緩効果の発現の順序に違いはない。
効果の発現の程度については,単回投与の場合は一時に投与される量により決まるが,点滴投与の場合には,点滴の中に入れた筋弛緩薬の量と,それをどのぐらいの速さで投与するかにより決まる。
マスキュラックスを投与した場合の血中濃度は,点滴投与の場合には,その溶液を入れるスピードに比例し,排せつされる量と反比例する。単回投与の場合に比して,全体として同じ量を投与した場合の効果の程度自体が変わることがあるかについては,投与スピードによるので,点滴投与を24時間とか48時間という時間をかけてやれば,明らかに違うが,ある一定の,例えば1時間ないし3時間程度の間に投与するのであれば,単回投与に近い効果は出ると思われる。
〔2〕P05に対する投与方法は,P05の症状経過等に照らせば,午後9時ころから投与されたとされる,生食のボトルにマスキュラックスが混入されたと考えるのが最も合理的である。
おおよその計算であるが,上記ボトル内に鑑定で検出された濃度のマスキュラックスが混入されていたとした場合,マスキュラックスがP05の体に入り始めるのは,点滴ボトルの交換時には,サーフロー針までの間の点滴セットの中に,それまで投与されていたソリタT3の溶液が残っているので,その約10分くらい後の午後9時10分ころからと考えられ,午後9時30分ころには,点滴なので少しずつ作用が現れると思われるが,筋力が全体の25%程度に抑制された症状が見え,その後点滴ボトルがソリタT1に切り換えられているが,その後も点滴セットの中に残ったマスキュラックスの溶液が約10分かかって入るので,実際にマスキュラックスが投与された時間は,午後9時10分ころから午後9時40分ころまでと思われ,午後9時40分ころから50分ころまではほぼ100%の筋弛緩効果が出て,それから徐々に回復に移ったものと考えられる。
仮にP05に対しマスキュラックスが単回投与されたとすれば,もっと発現時間が早くなり,午後9時ころに単回投与をしたなら,午後9時30分ころには呼吸が完全に止まっているはずであり,単回投与ではないと考えられる。
以上は,筋弛緩剤の専門家であり,その薬効等に専門知識を有するP11教授が,本件において実施されていた点滴や症状発現の時間経過を考慮した上で供述したものであり,前記のP05の症状経過や,P05に対しマスキュラックスを投与することの可能な経路が上記の点滴医療器具以外になく,午後9時前の点滴ボトルの交換以降,症状発現より以前にこれに触れた者がいないことなどの事実に符合し合理的な内容を述べるもので,これを信用することができる。
そして,前記のとおり,P05に対する点滴投与に用いられていたボトル内の残溶液からベクロニウムが検出されたこともこれを裏付けている。
なお,上記P11教授の証言を前提とすると,P05の体内にマスキュラックスが入り始めてからおよそ20分程度の間は,格別P05が症状を訴えることも,付き添っていたP76が異常を認識することもなかったことが認められるが,この点については,当時P05がベッドに横たわり寝入っていたことからすれば,点滴により徐々にマスキュラックスが投与されたとしても,相当程度の呼吸抑制等の効果が現れるまではP05が自身の異常に気付かず,P76もこれを認識しなかったとしても不自然ではないし,その後,P05が「うっ,うっ,うっ。」という声を出した時点では,既に相当程度の筋弛緩効果が四肢筋や呼吸筋にまで及んでいたと考えられるのであるから,P05が上記のような声を出したり,まぶたをわずかに動かす程度のことは可能でも,それ以上に外部から確認可能な形で言葉や体の動きにより異常を訴えたり,努力して呼吸回数を増やすようなことが不可能又は困難な状態になっていたと考えられるのであり,そのような動きや訴え等が確認されなかったことも不自然とはいえず,前記のP11教授の証言の信用性を疑わせるものはない。
ウ 以上の点からすれば,P05に対するマスキュラックスの投与は,前記の,平成12年11月13日午後9時前に,点滴ボトルが生食のボトルに交換され,その中の溶液が点滴投与された機会に行われたもので,マスキュラックスは,あらかじめ上記生食の点滴ボトル内に混入されていたものと認められる。
そして,前記のとおり,P06婦長は,上記点滴ボトルの交換の直前に,上記点滴ボトル内にパンスポリンを調合しているところ,P06婦長の証言によれば,その際に使用したパンスポリンのバイアルにはそれ以前に開封された痕跡がなかったことが認められるから,パンスポリンが粉末の薬剤であることからしても,犯人が上記パンスポリンのバイアルのほうにあらかじめマスキュラックスを混入しておくことは不可能であったと考えられる。
したがって,犯人は,上記調合より以前に,上記点滴ボトルの中にマスキュラックスを混入していたものと認められる(なお,P06婦長は,上記調合の機会には,上記点滴ボトルに注射針を刺した痕跡があることは気付かなかった旨証言しているが,既に述べたとおり,この点は,フィシザルツPLの点滴ボトルが,ゴム栓やその表面のビニールシールに針を通しても容易に気付くような顕著な痕跡が残らない構造であることからすれば,不自然ではない。)。
関係証拠(甲49ないし53,152,165ないし167,208,417,証人P81,同P82,同P19(甲318),同P16(甲321),同P83,同P18(甲308)など)によれば,P07の症状経過として,次の各事実が認められる(争いがある部分についての補足は後記のとおり)。
ア P07の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等
(ア)P07は,明治43年○月○日生まれの女性で,平成12年11月24日(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。)当時の年齢は89歳であり,当時の正確な体重は不明であるが,平成6年以降の測定記録に残るものは約55kgから約62kgで推移しており,これらの数値から大幅に変動した様子はうかがえない。
(イ)P07は,11月15日から北陵クリニックに入院して診療を受けていたところ,入院した際の症状は,発熱,吐き気,下痢などであったが,入院後は,次第に症状が改善され,11月24日より前の時点で,主治医のP84医師(以下「P84医師」という。)が退院を検討するくらいになっていた。なお,P07には,入院中,右足にサーフロー針が留置されて,常時点滴が施行されていた(11月21日以降は,1日当たり,パンスポリン1g入りフィシザルツPL100mL2本,ビスコン入りラクテックD500mL1本,薬剤が入らないソリタT3の500mL2本)。
イ 本件当日のP07が容体を急変する以前の状況
(ア)11月24日における北陵クリニックの看護職員の勤務状況は,日勤勤務者がP16主任(小児科外来担当),P19看護婦(病棟担当),被告人(病棟担当),P61助手及びP71助手であり,半日勤勤務者がP15看護婦,遅番勤務者がP09看護婦,当直勤務者がP06婦長及びP80助手であった。また,前日の23日夕方から24日朝までの当直勤務者は,P10看護婦及びP72助手であった。そして,被告人は,同日午前8時9分ころ北陵クリニックに出勤して,同日午後6時6分ころ退勤した。
(イ)11月24日朝,P07は,食欲があり(前日からやや落ちていたものの,主食を2分の1,副食をほぼ全部食べた。),体温(36.8度),血圧(124/65)に異常はなく,体の不調や痛みを訴えることもなかった。ちなみに,P07は,以前から手足に強度の麻痺があり(右手は多少何センチか腕を上げ下げし,左手は指が動くくらいで,足は両方とも動かない状態),いわゆる寝たきりの状態であったが,思考能力,会話能力には全く問題がなかった。
(ウ)午前9時15分ころ,それまで施行されていたソリタT3の500mLの点滴のボトル内の溶液がほとんどなくなったので,点滴ボトルがパンスポリン1g入りフィシザルツPL100mLに取り替えられ,1時間に100mLの滴下速度での点滴が開始された。その後,P07は,およそ15分ほどの間は,入院していたN10病室のベッド上に,体を右側を下にして横たえた状態で,同室していた付き添いのP81(以下「P81」という。)らと雑談をしていた。
ウ P07の容体急変後の状況
(ア)ところが,午前9時35分より少し前ころ,P07は,急に元気を亡くした様子で,切羽詰まったような早い口調で,「具合悪いから,そっち向けて。」と体の向きを変えるよう訴えた後,P81が「おなか痛いんでないの。」と問うと,あまり大きくはない声で「左胸」と答えた。P07はその後は声を発することがなく,ぐったりした状態になり,P81がP07の体の向きを左が下になるように変えたときにも,普段の体位交換の際には細かい指示を出すP07が,このときは何も言葉を発しなかった。��た,P07がうめき声を上げたことはなく,脂汗もかいていなかった。急激な体調の変化を察したP81は,上記の体位交換後,直接ナースステーションに行き,そこにいたP19看護婦にP07の異常を伝えた。
(イ)P19看護婦は,直ちにN10病室に赴いた。P19看護婦が病室に駆け付けた際,P07は目を閉じて左側を下にして横たわっており,汗をかいたり,苦しそうな声を出すことはなく,チアノーゼも出ていなかった。P19看護婦が,「どこが苦しいの。」と声を掛けたところ,P07は,胸の前に置いてあった手をわずかにとんとんと動かして,小さい聞き取りづらい声で「ここ。」と言った。その後P19看護婦が,手動の血圧計でP07の血圧を測ると,250/110と,極めて高い値を示し,心拍数を計ると92であり,不整脈は認められなかった(なお,P19看護婦が看護記録中に「左側の胸が苦しいと」と記載したのは,同看護婦自身,P07から「胸が苦しい」との訴えがあったときに,すぐに心臓という思い込みを持ってしまったし,その後,P12医師(以下「P12医師」という。)から心筋梗塞が原因だったという話も聞いたので,そのときに「左胸」というふうに感じたのだと思うと供述しており,上記看護記録中の記載は,必ずしもP07自身が「左側の胸」ないし「左胸」と口頭で述べたことの裏付けとなるとはいえない。)。
(ウ)その後,P19看護婦から依頼を受けた臨床検査技師のP82(以下「P82技師」という。)がN10病室に行き,午前9時40分ころから9時50分少し前までの間に,それまで左側を若干下にした形で横たわっていたP07の体位をあおむけにして,その体に電極を装着した上で,心電計で何度もP07の心電図を測定し,その都度プリントアウトしたが,「人工ペースメーカ心電図?」との理解し難い解析結果の表示が繰り返された。その間,P07は,P82技師が声を掛けてもそれに対する応答や反応はなく,体位を変えた際にも体の力が抜けた状態であり,目を閉じたまま,発汗やうめき声はなく,苦もん様の表情を浮かべることもなかった。
(エ)その後,午前9時54分ころまでの間にP07に心電図モニターが装着され,これにより計測された午前9時54分ころの状態は,血圧が179/70,心拍数は57であり,酸素飽和度は測定したものの表示がされなかった。
そのころ,P12医師が診察し(ただし,状況は後記のとおり),酸素ボンベによる酸素吸入が行われた。また,P07に点滴されていたボトルは,ソリタT3の500mLのボトルに換えられた。そのころ,P07は,顔色が青白く,手足の爪や口唇にはチアノーゼが出,苦しむ様子もないまま閉じた目から線状に涙が流れていた。また,声を掛けても,体がわずかに動く程度の何らかの弱い反応があっただけで,それもすぐ消失する状態であった。
(オ)その後,午前10時5分前後の段階で,下あごが弱々しく上下に動く,下顎呼吸様の動きがみられるとともに,心拍数が低下し(30ないし40。なお,この段階で血圧は169/74であった。),心臓マッサージを施行すると,回復することもあったが,午前10時30分ころ,心拍が全くなくなり,死亡が確認された。
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
P11教授は,P07の症状に関する事実経過等を踏まえて,次のとおり証言する(甲331)。
〔1〕初期にP07が胸部の違和感を訴えたのは,筋弛緩剤を投与した場合,横隔膜等に効果が生じるより以前でも,上気道の閉塞のような症状が出れば,呼吸抑制が生じて,呼吸が十分できずに,胸が苦しいと感じたためと理解できる。マスキュラックスの効果によることを前提とすると,これは点滴投与による症状と考えてよい。この段階での呼吸抑制は,舌根沈下によるものと考えられる。
〔2〕午前9時30分過ぎころに血圧が250/110となった点については,上も下も非常に高い。P07は高血圧症があったが,従前,上が200を超えることすらなかったもので,普通の高血圧だけではなかなか説明がつかない。しかし,呼吸抑制に起因する低酸素血症により交感神経の興奮が起こったことによるとすれば心拍数が普段より高い92となったことも含め説明がつく(この点は,後記のP85教授,P86教授も同旨の指摘をしている。)。低酸素血症の初期症状として血圧が上昇することは,教科書にも載っており,症例報告もある。
〔3〕当初,顔色が普通で,問い掛けに対し弱いながらも答え,若干手を動かせる状態であったことは、呼吸抑制が初期の段階であること,また,上気道の閉塞を含む呼吸抑制は手足の弛緩より早い時期に現れることに照らすと,矛盾はない。
〔4〕その後声を発しなくなり,呼び掛けに対しても返事をしなくなったのは,咽頭,喉頭の筋力低下の表れであり,これも,四肢の筋肉麻痺より前に現れる。
〔5〕午前9時54分ころには,顔面そう白で,口唇,爪にチアノーゼが出現している。この段階では,呼吸が相当抑制された状態に陥っていると考えられる(なお,この呼吸抑制に,呼吸筋自体の筋力の低下に加え,舌根沈下の影響が含まれることは上記のとおりである。)。
〔6〕その後の心拍数低下と心臓マッサージによる持ち直し,そして,最終的に死亡に至る経過においては,心臓の酸素不足が高度に起きていると考えられる。これは,マスキュラックスそのものの作用というより,呼吸抑制による低酸素血症のため,心臓の働きが悪くなったものと解される。
〔7〕下顎呼吸(脳が全般的に死に至り延髄の呼吸中枢の機能のみが残っている場合に見られるもので,通常,換気は行われない(証人P85。なお,同証人の専門分野等は後記のとおり)。)出現後完全な心停止まで20分ないし30分かかっていることについては,個人差もあり一概に言えないが,通常,大体このような経過で死亡に至るものであり,その間心臓マッサージが行われていたことや,心臓が比較的低酸素血症に強いのに対し,脳が低酸素血症に非常に弱いことからしても説明がつく。
〔8〕なお,午前9時15分ころに交換された点滴ボトルの中にマスキュラックスが入っていたとして,これがP07の体内に実際に入り始めてから症状が出現するまでの時間的間隔が短すぎないかという点については,確かに,点滴ボトルを替えても,従前施行されていた点滴の残りの分がP07の体内に入り終わるのにおよそ七,八分かかると考えられることなどからして,投与量からいわゆるEDの値(前記のとおり,拇指内転筋の筋力を失わせる程度を%で表したもの)を割り出すと,50をかなり下回る可能性がある。ただし,その基準となる拇指内転筋の感受性は他の筋肉に比べ鈍感であり,また,P07が,89歳と高齢で,寝たきりであったことから,実際のP07の呼吸抑制に関連する筋肉の筋弛緩剤に対する感受性は,もう少し高かったと推測される。また,個人差もあるので,不自然とはいえない。
〔9〕さらに,その程度の筋弛緩効果であるとすると,呼吸機能の著しい低下を来すということと矛盾するのではないかという点については,いずれにしても,P07の筋に残った力は点滴投与を前提とすると,平生を100として50ないし75くらいと考えられるが,P07が寝たきりの状態で,もともと筋の萎縮が存することを加味すると,非常に呼吸機能が低下したとしてもおかしくないと考えられる(ちなみに,看護記録によれば,11月18日,P84医師の指示により酸素吸入が中止されたが,その後の酸素飽和度の値は,継続して,おおむね92ないし93%程度(低くて91%,高くて97%)で推移しており,通常と比較し,P07には,低酸素血症になりやすい状況があったとうかがわれる。また,P85教授の証言中,女性は男性より,また,高齢者は非高齢者より,一般に呼吸筋が弱いとの点も,上記の説明を補強するものと解される。)。
P11教授は,以上の各指摘を総合して,P07の急変の原因は,その体内に筋弛緩剤が注入されたこととして説明づけが可能である旨の見解を述べるところ,この見解は,前示のマスキュラックス等筋弛緩剤の一般的な筋弛緩効果の発現機序,発現態様に沿うものであること,P11教授が筋弛緩剤についての専門的知識を有していること,その証言内容全般を見ても,誠実に証言しているものと認められることを念頭におけば,十分その正当性を肯定することができる。他にP07の急変症状を説明づける(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見いだせない限り,P07の急変は,筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
これに対し,弁護人は,P07の急変が心筋梗塞によるものであり,筋弛緩剤が投与されたことによるものではない旨主張するので,検討する。
なお,心筋梗塞は,心臓を養う冠動脈が動脈硬化などにより狭くなり,そこに血栓が詰まって血液が流れなくなることで心臓の筋肉が壊死するために生じるもので,死亡の危険を伴うような症状の重いものから,それほどの危険を伴わない症状の軽いものまである(後記証人P86の証言等)。
(ア)心筋梗塞が否定されることについて
a P85教授の証言
このうち,まず,P07の急変が心筋梗塞によるものとの見方が可能か否かに関連して,P21大学医学部附属病院医局部内科老年科及び同大学医学部老年・呼吸器病態講座の教授であり,主に呼吸器病学,老人病学を専門として臨床と研究の経験を有するP85(以下「P85教授」という。)(甲334)は,P07には過去に受けた診断や,北陵クリニックへ入院後になされた血液や尿などの検査結果からは,容体急変の徴候とみられるような異常な所見は認められないとした上で,前記P07の症状経過等に基づき,大要次のとおりの見解を述べている。
P07は,急変直後血圧が上昇し,その後も相当時間血圧が高めに維持されていたが,少なくとも,この間,血液の循環は保たれていたと考えられる。このように血圧が維持されている間にチアノーゼが出たとすれば,その原因は,循環障害ではなく,呼吸障害であると考えられる。ちなみに,チアノーゼが出現するのは,呼吸障害が生じてすぐではなく,その障害が最終段階に至ってからである。
P07に見られた一連の症状,容体急変から死亡に至る経過は,呼吸障害によるものと考えると矛盾なく説明できる。
そして,心筋梗塞については,これを裏付けるような心電図の所見はなく,むしろ,死亡に至るほどの心筋梗塞であれば,血圧が下がり,冷や汗をかき,また,いわゆる苦もん様の症状等が生じるはずであるが,そのような所見が全くない。
また,P07が胸が苦しいというような訴えの後,何も話さなくなり,反応しなくなったという点も,心筋梗塞の症状と合致しない。
なお,心筋梗塞で血圧が高くなって死亡する例が全くないかどうかについては,発症直後に不整脈になって心室細動で急転直下死亡する例が絶対にないとはいえないが,普通は考えられない。血圧が最初高めに維持した場合,痛みも数時間続くことが多い。いずれにしても,血圧が高いまま死亡することはなく,途中からでも,冷や汗をかいて心拍出量が下がり,痛みを訴えて死ぬことが多い。要するに,心筋梗塞により短時間で死亡するなら,最初はともかく,死亡前には血圧降下,冷や汗,苦もん等の症状が出ないとおかしい。
b P86教授の証言
また,同じ事柄につき,P21大学医学部の名誉教授で,主に循環器系,特に血圧の病気を専門として臨床と研究の経験を有するP86(以下「P86教授」という。)(甲383)は,やはり,前記P07の症状経過等に基づき,大要次のとおりの見解を述べている。
すぐ死ぬような重い心筋梗塞の場合には,心臓の血液を送り出すポンプ作用が相当失われるため,普通,血圧が急激かつ非常に下がってショック状態になる。経験上まずほとんどそうであるし,文献上の記載もそうである。
軽い梗塞の場合は,他の部分の代償作用で血圧が上がることもあるが,短時間で死ぬようなものではあまり見られない。また,P07の場合の250/110という値は,このような原因による血圧上昇としても,上がりすぎだと思う。私はこのような経験はないし,文献上もこれほどの例は見られない。
さらに,心筋梗塞によりショック状態に陥り,脳への血液の供給が低下すると意識を失うことはあり得るが,P07の場合,意識障害が生じていながら,なお血圧がかなり高い状態で推移している点は,脳への血液の流れが悪かったとは考えられないから,心筋梗塞の症状では説明できない。
なお,午前10時5分ころになって心拍数が30ないし40と低下している点は,心臓の働き自体が弱っていると考えられるが,まだかなり力はあったともいえる。むしろ,それまでは相当の血圧があり,この時期になってから弱ってきたのは,心臓自体が死亡する原因になるほど悪くなかったことを強く示唆している。
また,心電図の波形については,それのみから心筋梗塞の可能性を完全に否定することはできないものの,11月17日に取られたP07の心電図に特に異常はなく,その1週間後にP07が心筋梗塞により亡くなる徴候はないし,容体急変後の11月24日午前9時48分ころと午前9時49分��ろに取られた心電図の波形も,それと比較して頻脈の影響によるもの以外には著明な変化は見られない。
c 以上のP85教授及びP86教授の各見解は,それぞれ前示のとおりの専門的な立場から,誠実にされたものと認められ,正当なものというべきである。
d なお,前認定のとおり,P82技師が繰り返し心電計を用いてプリントアウトした心電図上,ことごとく「人工ペースメーカ心電図?」との分析結果が示された点も,P07の心電波形が心電計に組み込まれている通常想定される心筋梗塞等による心電波形のいずれにも当てはまらないものであったことを意味し(証人P82),少なくとも,P07の身体の異常が心筋梗塞等通常想定される心臓疾患によるものではなかったことを強く推認させる事柄というべきである。
以上を総合すると,P07の急変症状は,心筋梗塞によるものではないと認めるのが相当である。
a これに対し,P12医師(甲219,弁1)は,P07の急変は心筋梗塞によるものであるとする一方,これが筋弛緩剤の投与によるものとは考えられない旨,弁護人の主張に沿う証言をしている。しかし,まず,同医師の証言の信用性,正当性を判断する前提として,次の各点を考慮に入れるべきである。
〔1〕同医師は,主として内科消化器系を専門分野とする医師であって,呼吸器系,循環器系や筋弛緩剤関係の専門的知見を有しない。
〔2〕同医師の証言内容には,他から聞いたところをそのまま自分の意見に組み入れて述べている箇所が多い。また,その前提となる相手方に対する情報提供の仕方及び回答内容の把握,表現の点で適切,正確かどうかも疑問が多い。
〔3〕同医師の証言中には,基本的な前提事実につき,明らかに事実に反する供述をしている箇所が少なからず見受けられる(例えば,心電図モニターの表示機能,アダラートの形状,N10病室への1回目,2回目入室の時間的間隔等)。
〔4〕同医師自身,最初N10病室へ行く前から「心臓に何かある」と直感したと供述しており,この点に強い先入観があったと見ざるを得ない。また,P81から簡単に事情を聞いただけで「心筋梗塞」と発言した点や,P82技師から心電図の記録紙を見せられた記憶がないとする点(その事実があったことは上記記録紙の存在並びにP82技師及びP16主任の各証言から明らかであり,仮に,この点の供述を虚偽ではなく,善意に解するとしても,心電図の所見を軽視したものといわざるを得ない。)なども,そのような先入観の表れと見るべきである。
以上の各点に照らすと,もともと同証人の証言の信用性を肯定することには,十分な慎重さを要するというべきである。この点を踏まえ,同証人の証言内容につき個別に検討する。
b P12医師は,まず,P07の急変が心筋梗塞によるものであるとの見解を示し,その根拠として,〔1〕病歴,〔2〕左胸の痛みを訴えたこと,〔3〕心電図上STの上昇が見られたことを指摘し,併せて,〔4〕〔ア〕心筋梗塞発症時に血圧が上昇することもあり,また,〔イ〕P07にチアノーゼが発現した点も,P07の血圧が一時的にゼロになった時期があることを想定すれば矛盾はないとも供述する。
しかし,〔1〕の点は,P07が高血圧,高脂血症,痛風,下腿静脈血栓などの既往症を有することから,心筋梗塞をいつ起こしてもおかしくないという趣旨と解され,それ以上の意味はないというべきである。
次に,〔2〕の点については,最初N10病室へ行った際,P81から「P07が『左側の胸苦しい(後に「痛い」と訂正)。』と叫んだ。叫んだあと意識をなくした。」と聞いたというのであるが,P81の供述からして,少なくともP07が大声で叫んだという事実は存しないと認められる上,すぐに意識をなくしたとすると,その後も血圧が維持された点の説明がつかないことは,前示のP85教授,P86教授指摘のとおりである。
さらに,〔3〕の点について,P12医師は,〔ア〕当日とられた心電図(甲167)上STの上昇が読み取れ,さらに,〔イ〕当時,心電図モニター上,もっと明確なSTの上昇が見られたと供述する。しかし,〔ア〕については,P12医師がいわゆる循環器系の専門的知見を有しないことに照らし,その見解は,にわかに信用し難い。もっとも,P12医師は,その根拠として,P117医師(以下「P117医師」という。)に上記心電図を読影してもらったので,自信をもって言えると述べるが,他の箇所では,P117医師の話は明らかな心筋梗塞とはいえないが「心筋梗塞の疑いは見られる」程度の答えだったとか,P117医師にはP07の症状等についてあまり詳しい話はしなかったとも述べており,その供述自体あいまいであって,P117医師がP12医師と同様の読み方をしたということ自体,たやすく信用できない。他方,循環器系の専門的知見を有するP85教授及びP86教授は,いずれも,上記心電図上,少なくとも心筋梗塞の典型的な波形としてのSTの上昇を読みとることはできないと述べており,結局,〔ア〕の点を正当な指摘とすることはできない。また,〔イ〕の点については,客観的な裏付けを欠き,当時N10病室に入室して心電図モニターを見る機会があった者の中で,同様の証言をしている者が皆無である(かえって,P83は,入室後間もなくの約1分間,モニターの異常を確認した範囲では,ST波自体が現れていなかった旨供述している(甲323)。)上,P12医師自身,はっきりと見たはずのSTの上昇(心筋梗塞の極めて有力な判断根拠であることは,むしろ,P86教授が指摘している。)を,その場では,周囲の者に全く指摘,言及しなかった(少なくとも,そのような証言は全く存しない。)ことに照らしても,到底信用することができない(この点,P12医師は,診療録中の医師記載部分にも,モニターでSTが上昇した旨記載しているが,P07の死因が心筋梗塞であるとの認識に基づき事後的に記載したものにすぎず,他の同医師の記載部分も不正確であることなどに照らせば,これも信用することができない。)。
また,〔4〕の点をみると,〔ア〕について,P12医師は,専門的な知見を有しないため当然とはいえ,一般的に心筋梗塞発症時に血圧が上がる場合もある(そのこと自体はP85教授やP86教授も否定していない。)と述べるにとどまり,どのような場合に,どの程度の血圧上昇があるかといった,より個別具体的な事柄に触れるものではない(なお,P12医師自身,文献で確認した範囲では,これほど著しく上昇した例はなかったと供述する。)。〔イ〕についても,P12医師は,P07の血圧(上)が179ないし169という高い値を示している間にゼロに急降下した可能性があるように述べているが,関係記録(看護記録等)や関係者の証言によっても,P07の血圧がこのように推移したことをうかがわせる具体的な状況は全く見られない上,チアノーゼが一時的な血圧異常ですぐに生じるものではなく,継続的な低酸素血症の末期的な症状であること(P85教授の証言)や心筋梗塞時に高かった血圧が急降下することがあり得るのはまだしも,それがまた急上昇することの説明は困難であることなどに照らし,P12医師の想定自体あり得ない事柄といわざるを得ない。このように,〔4〕の各点も,いずれもP85教授やP86教授がP07の症状を心筋梗塞で説明することに矛盾があるとする点の有効な反論にはなり得ないというべきである。
以上のとおり,P12医師がP07の急変原因を心筋梗塞と判断する点については,いずれもこれを十分理由づけるだけの根拠を欠くことが明らかである。
c 次に,P12医師は,併せて,P07の急変が筋弛緩剤の体内注入による筋弛緩の効果に起因するとは考えられないとし,その根拠として,〔1〕意識がなくなった段階でも自発呼吸が継続したこと,〔2〕P07に見られた下顎呼吸は,筋肉が麻痺したらあり得ないこと,〔3〕酸素吸入したら途端に酸素飽和度の値が93に上昇したことを挙げる。
しかし,まず〔1〕の点は,結局,見ただけで(それ以上,直接確認の手段を講ずることなく)そのように判断したというにとどまり,少なくとも,P07に十分な(酸素の体内への採り入れに格別支障がない程度の)自発呼吸が継続した状況を裏付ける証言たり得ないというべきである。
また,〔2〕の点についても,P11教授が指摘するとおり,P07の場合,呼吸筋の弛緩自体は完全なものではないにもかかわらず,呼吸が著しく抑制されて低酸素血症に陥ったと解し得る以上,筋弛緩剤の投与を否定するだけの根拠とはならないというべきである。
さらに,〔3〕の点について,P12医師は,心電図モニターとは異なる「パルスメーター」と称する機器で酸素飽和度の計測をした看護婦からその旨の報告を受けたというのであるが,酸素飽和度の値がもし測定されていれば,それは,心電図モニター上に自動的に表示されるはずであり,看護婦がこれとは別にわざわざ計測し,それをP12医師に伝えるということ自体がおかしいし,いずれにせよ看護婦がこれを確認したのであれば,当然看護記録に記載するはずであるところ,そのような記載は見られない。また,心電図モニターで記録した結果によれば,当時,酸素飽和度については測定不能の状態が継続していたことが認められる(甲165)。併せて,前記のとおりP12医師の証言全般にうかがわれる信用性にかかわる問題も念頭におけば,この証言も,たやすく信用することができない。
以上のとおり,P12医師がP07の急変を筋弛緩剤の投与によるものとすることに疑問を呈する点は,いずれも採用することができない。
(3)小括(P07の急変原因及びマスキュラックスの投与方法)
以上検討したところによれば,P07の急変は,筋弛緩剤の投与によるものとして十分説明が可能である一方,心筋梗塞によるものとは考えられず,他に,具体的にP07の症状を説明し得る病態は見当たらないから,結局,P07の急変の原因は,筋弛緩剤の投与によるものと断じられる。
また,P07に対し筋弛緩剤が投与された方法については,容体が急変した当時,P07には点滴が施行されており,点滴ボトルには,輸液セット及び延長チューブなどが順次接続され,サーフロー針により静脈ラインが確保されていたこと,11月24日午前9時15分ころ,点滴ボトルがパンスポリンを調合した生食に交換されて,その点滴投与が続いていたこと,P07はその後も談笑するなどしており,特に異常は認められなかったところ,午前9時35分少し前ころ以降,前記の急変時の症状が確認されたこと,上記点滴ボトルの交換の後それまでの間,P07に対しては下剤であるラキソベロン20滴が経口投与されただけで,点滴ボトルや点滴医療器具に触れた者はいなかったこと(この点はP81の証言(甲307)から明らかである。),その後,上記の静脈ライン及び点滴医療器具は維持されたまま,午前9時54分ころ,点滴ボトルのみがソリタT3に切り換えられたことが認められ,これに,上記のP11教授の証言を総合すれば,マスキュラックスは,あらかじめ上記生食の点滴ボトル内に混入されてP07に点滴投与されたものと認められる。
そして,前記のとおり,P07に対する点滴投与に用いられていたボトル内の残溶液からベクロニウムが検出されたこともその裏付けになるとともに,上記の筋弛緩剤がマスキュラックスであることも確定づけられるというべきである(なお,同ボトル溶液からは,12月14日から同月18日にかけて,P42吏員により実施された予備試験の結果,臭化ベクロニウムの構成元素であり,P07に対し処方された医薬品には含まれていない臭素が検出された(甲156,159)が,このことも,以上の事実を補強する一事情というべきである。)。
関係証拠(甲181,182,190,証人P08,同P16(甲321),同P09(甲322),同P18(甲308)など)によれば,P08の症状経過として次の各事実が認められる(なお,弁護人は,P08の供述の信用性にも疑問を呈するが,同人も,北陵クリニックと全く無関係の第三者であるばかりでなく,北陵クリニックでの診療行為を受ける中で身体の急変に見舞われたのであって,仮に北陵クリニック側からの何らかの作為的な働きかけがあったとしても,これに応ずるものとは到底考えられず,その具体的な供述内容,殊に,自己の身体に生じた異常な状態とこれに対する対応に関する事柄は,高度の信用性を有するというべきである。)。
ア P08の北陵クリニックにおける受診の経緯及び本件前日までの経過等
(ア)P08は,昭和30年○月○日生まれの男性で,平成12年11月24日(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。)当時,年齢は45歳であり,身長は約180cm,体重は約82ないし86kgであった。
(イ)P08は,11月18日,北陵クリニックを受診し,この際はP84医師の診察を受けて,急性気管支炎と診断され,ミノマイシンの点滴投与を受けるなどしたが,点滴中や投与後に,めまい,呼吸苦や,目,舌,体等の異常や違和感が生じたことは一切なかった。
イ 本件当日のP08が容体��急変する以前の状況
(ア)P08は,なおせきが治まらない等の症状が続いたので,11月24日,北陵クリニックを再度受診した。そして,P12医師の診察を受け,前回同様,ミノマイシンの点滴を受けることになった。
(イ)午後4時10分ないし15分ころ,整形外科処置室のベッドにあおむけに横たわっていたP08に対し,P09看護婦が,P08の左ひじの内側の静脈に点滴ボトルや輸液セットが接続された状態の翼状針を刺入して血管確保し,クレンメを目分量で調節して,およそ40分くらいで終了するようにセットした点滴(ミノマイシン100mgが調合された生食フィシザルツPL100mL)の投与を開始した。その後P09看護婦は同室を退出し,室内にはP08一人が残った。
ウ P08の容体急変後の状況
(ア)P08は,上記の姿勢のまま,点滴投与を受けていたところ,点滴開始後10分くらいして,目のピントが合わなくなり,次いで,目のまぶたが開けづらくなった。そのころP08は,右手を額に当てる動作をしたことがあったが,この時点では手に力が入らないという感じはなかった。
(イ)さらに,舌がもつれて思うように動かなくなり,つばを飲み込もうとしても,なかなか飲み込めなくなり,また,舌がのどの奥に落ち込む感じがあり,呼吸がしづらく苦しくなった。
(ウ)P08は,消防署主催の普通救命講習会に参加した経験からその知識を有していた舌根沈下が生じ,気道の一部がふさがれたことを自覚し,まず,あおむけのまま,あごを突き出すことで気道を確保しようとしたが,首に力が入らず,あごを上げることができなかった。その後P08は,舌根沈下の状態を解消するため,あおむけから横向きになって呼吸を確保しようと考え,体を左側に向けようとした。しかし,そのころには,手足にも力が入りにくくなっていて,容易にはできず,全身の力をふりしぼってようやく横向きになることができた。姿勢を変えた結果、P08は,舌が落ち込んで気道がふさがる感覚はなくなり,幾分か呼吸が楽になったように感じたが,若干の苦しい感覚は残っていた。
(エ)その後,P08の呼吸状態はまた苦しくなったが,今度は舌根沈下の感覚はなく,腹や胸の辺りに力が入らなくなり,深く息を吸い込むことが困難となってきた。また,その間も,従前の目,まぶた,舌,手足及び首などに表れた症状も継続していた。P08は,浅い呼吸を小刻みにして回数を多くすることで酸素を取入れようと努力したが,呼吸状態は弱まっていき,人を呼ぶのを気恥ずかしく感じたことから,呼吸の苦しさをしばらく我慢していたが,その間にもますます呼吸が苦しくなったところ,丁度廊下を通る人の気配を感じ,精一杯声を出そうとして「看護婦さん。」などと言って助けを求めたが,その際はか細い声しか出なかった。
(オ)P16看護婦は,午後4時50分ころ,P08の声を聞きつけて訪室し,P08に問いかけると,P08は,「呼吸が苦しい。身体に力が入らない。」と,とても小さな声で訴えた。
P16主任は,クレンメを止めて点滴を中止したが,それまでP08に投与されていたボトル内の点滴溶液の残量は約7ないし8mLであった。
(カ)その後もP08に上記の各症状が継続していたところ,やや間を置いて(その間に,P16主任から報告を受けたP12医師が訪室し,P08は,力が入らないことや,呼吸がうまくできないことをか細い声で告げたが,P12医師は,「おかしいな,抗生物質のせいだろうかな。」などと言うだけで,他にP08に対する診察,処置や看護婦に対する指示をしないまま退出した。),酸素マスクで酸素吸入が開始され,点滴もラクテックDに切り換えられて投与された。P08は,そのころにも,体に力が入らない状態が続いており,自力で起き上がるようなことはできず,P16主任がマスクを装着した際にも自ら頭を上げて協力することはできず,P16主任は,通常,患者の協力も得て酸素マスクを装着するときとは異なり,P08の頭部が片手だけでは持ち上げることができないほど重く,左腕をP08の頭の下に入れて持ち上げて,ようやくマスクのゴムをP08の後頭部に掛けた。
(キ)その後,P18医師が来て,問診し,手を握らせて力の入り具合を見るなどしたが,P08は,手に力が入らず,しっかり握り返すことができなかった。P18医師は,P08に,もう少し休んでいくように促し,当時はP08の症状が点滴されていたミノマイシンの副作用によるものと考えていたことから,点滴(上記ラクテックD)に,その副作用を抑える目的でソルコーテフの混注を指示した。
(ク)P08は,酸素吸入を受け始めても,直ちに正常な呼吸をすることはできず,当初は小刻みの呼吸を続けたが,徐々に快方(上記各症状の軽減,消失)に向かい,妻子が北陵クリニックを訪れた午後5時30分ないし45分ころには,まだ完全な快復ではなく,目も若干ピントが合わない状態であったものの,発声や体の力の入り具合も相当に改善され,初めてベッドから立ち上がって,点滴を続けたまま息子に付き添われて自力歩行してトイレまで行ける状態になった。
(ケ)そして,午後7時前後には,ほとんど正常に戻ったので,P18医師の入院の勧めを断り,午後8時少し前ころには北陵クリニックを退出し,自分で自動車を運転して帰途についた。
(コ)なお,P08が上記のとおり異常を呈した後,少なくともP08の胸,顔,首,手の部位に発疹は見られなかった。また,酸素吸入が開始される前ころのP08の状態として,血圧は124/74,心拍数は68,酸素飽和度は95%との値が計測されている。
ア 筋弛緩剤(マスキュラックス)の効果と符合し,矛盾がないことについて
P11教授は,P08の症状に関する事実経過等を踏まえて,次のとおり証言する(甲331)。
〔1〕目のピントが合わず,まぶたが開けづらくなるということで,最初に目に症状が現れている。動眼筋が麻痺すると,目の焦点が合わず,ピントの調節がうまくいかなくなる。眼瞼筋に麻痺があると,まぶたを持ち上げることができなくなる。この段階で手を動かすことができるのは,四肢筋の麻痺が比較的遅れることから矛盾はない。
〔2〕舌の麻痺やつばを飲み込めないことは,咽頭筋の麻痺やこれによる嚥下障害と考えられる。目の症状に次いで,首の周りの症状が出ている。
〔3〕舌根沈下の症状は,喉頭筋,咽頭筋の麻痺が高度になり,自分で舌を上手に出すことができなくなることの現れである。
〔4〕あごをうまく突き出せないというのは,首の周りの筋肉の脱力感の現れである。
〔5〕横向きになるのがやっとで,手足に力が入らないということは,完全ではないものの,背筋,四肢筋へと麻痺が進んでいることを示している。
〔6〕体位を横向きに変えても呼吸が苦しく,次第に腹に力が入らなくなり,息を深く吸い込むことができなくなったという症状は,肋間筋,横隔膜にも弛緩作用が及んで,息を大きく吸う力が障害を受けていることの現れである。
〔7〕声を出そうとしても,か細い声しか出ない点については,咽頭筋,喉頭筋の麻痺が進んでいる上に,腹から声を絞り出すのに使われる筋肉まで麻痺してきたので,声が出せなくなったと考えられる。
〔8〕その後にP08が回復した経過も,筋弛緩剤の効果が消失したと考えて矛盾はない。
〔9〕なお,ミノマイシンの副作用の一つとして,呼吸困難の症状を呈するPIE症候群というものがある。しかし,これは,肺炎の一種で,発熱,せき,ぜい鳴,運動時の息切れ等の症状を伴うもので,症例報告では,10日以上ミノマイシンを内服したとき発現するとされており,時間的経過等が筋弛緩剤による症状発現とは全く異なる。
〔10〕P08の前記測定時の血圧が124/74であったことが,筋弛緩効果が生じたものとして低すぎることはない。
また,P08が急変時に投与されていた点滴ボトルから検出されたマスキュラックスの濃度等から概算した場合,体重当たりの投与量はED90の値を少し超えるもので,点滴投与による効果発生の程度は,単回投与による効果発生のおよそ半分であり,P08には大体45ないし50%程度の効果が生じたと考えられるが,P08のベクロニウムに対する感受性が平均人と変わりなければ,その症状と投与量は符合すると考えてよい。P07の場合にED50程度で換気が困難になったことと矛盾しないかという点については,次のように考えられる。確かに,P08の場合,呼吸抑制の結果低酸素血症が起きているということはなかった。しかし,P08は,肺活量が相当下がって予備能力が少なくなり,深い呼吸ができず,酸素不足の状態となりながらも,一所懸命努力して,短い呼吸を何回もしており,その結果,酸素飽和度もある程度保たれ,それが95という数値に反映されていると思う。
〔11〕P08が,脱分極性の筋弛緩剤を投与した際に認められる,筋のちく溺という収縮現象を自覚していないことからして,投与されたのは,筋弛緩剤のうちでも,非脱分極性のものだと考えられる。そして,投与方法については,筋弛緩効果が,目に始まって,全身に及び,さらに呼吸器も麻痺するというように段階的に現れていることを踏まえると,単回投与ではなく,点滴で投与されたと考えることが合理的である。
P11教授は,以上のように指摘し得る各点を総合して,P08の急変時の症状は,マスキュラックス等の非脱分極性筋弛緩剤が点滴投与された場合の症状に符合し,これに起因する可能性が一番強く,他方P08に生じた一連の症状を他の病気あるいは病体で説明するのは困難であるとの見解を述べるところ,この見解は,前示のマスキュラックス等筋弛緩剤の一般的な筋弛緩効果の発現機序,発現態様に沿うものであること,P11教授が筋弛緩剤についての専門的知識を有していること,その証言内容全般を見ても,誠実に証言しているものと認められることを念頭におけば,十分その正当性を肯定することができる。他にP08の急変症状を説明づける(少なくとも,その具体的な可能性を残す)原因が見いだせない限り,P08の急変は,筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
これに対し,弁護人は,P08の急変がミノマイシンの副作用によるものである旨主張する。
しかし,ミノマイシンの副作用としては,点滴時における血管痛を除けば,いわゆるアナフィラキシーショックが考えられるが,その場合には,点滴の初期の段階で,じんましんや循環器系の変化,すなわち,血圧低下,冷や汗,循環系の抑制,皮膚反応,喉頭の浮腫,喘息様に気管が狭くなり,非常に努力性の喘息様の呼吸をしようという症状が起こるはずである(以上は,格別信用性に問題がうかがわれないP11教授(甲331)及びP18医師(甲308)の証言により認められる。)ところ,前記のP08の症状経過に照らしても,P08が上記のアナフィラキシーショックを起こしたことをうかがわせる事情は全くない。
もっとも,この点に関しては,まず,P18医師が当時P08のために,ミノマイシンの副作用が見られるので,その投与を差し控えるべき旨の書面を作成してP08に交付したこと(甲190,証人P18(甲308))が一応問題となる。しかし,P18医師の証言によれば,同人は,当時はP08の症状が点滴されていた薬剤であるミノマイシンの副作用によるものと考え,喉頭に生じたじんましんというべき浮腫の影響で声を出しにくくなっているとの判断から,上記のような書面を作成したものであり,当時,喉頭の浮腫の有無を直接確認したわけではない旨証言するところ,この証言内容は,当時の状況等に照らせばごく自然であり,信用することができる。したがって,P18医師が上記の書面を作成したことから,実際に,P08にミノマイシンの副作用によるアナフィラキシーショックが発現していたと推認することは到底できない。
次に,P12医師(甲219,弁1)は,P08にめまいの症状が生じていた旨証言し(なお,P08の診療録中のP12医師が記載した部分にも,同旨の記載がある。),この点をP08のアナフィラキシーショック発現の一つの根拠とするもののようにも述べている。しかし,そもそも,P08自身,めまいという症状が存したとの供述を一切していないばかりか,そのような症状があったことやその訴えをしたことを明確に否定しており,P12医師以外の看護婦等の証言中にも,P08がそのような訴えをした旨の供述部分はないこと(被告人のこの点に関連する供述の信用性については後記のとおり),ミノマイシンの副作用の一つとして,めまいという症状が仮にあるとしても,アナフィラキシーショックとの関連で言えば,血圧の低下等循環系の抑制の結果として生じるものと解されるところ,P08にこのような血圧の低下等の異常があったとうかがわせる証拠はない(かえって,血圧については,前記のとおり124/74という値が計測されている。)ことに照らすと,上記のP12医師の証言部分は,それ自体が虚偽であるか,何らかの誤解や憶測に基づくものかはともかく,少なくとも,P08にアナフィラキシーショックの症状が発現したことを裏付けるものとは到底いうことができない(ちなみに,P12医師も,ミノマイシンは非常に安全な薬で,血管痛の副作用はよくあるが,P08のような状態になった例(酸素吸入が施されたような例を指しているものと推測される。)は初めて経験したとも証言している。)。
また,被告人は,P08に対し酸素吸入をしようとしたところ,P08が「いや,大丈夫です。いりません。」と言って,上半身を起こしたが,「ああ,やっぱりめまいがする。」と言って横になった旨供述する。しかし,この被告人の供述部分は,P08並びに同室していたP16主任及びP09看護婦がいずれも明確に否定している上,少なくとも,P08が呼吸の苦しさや全身の脱力感を訴えていたこと(だからこそ酸素吸入の措置が考えられたのであり,また,全身の脱力がなかったならば,寝たまま必死に看護職員を呼ぶような事態そのものが想定し難い。),そして,P08が呼吸の苦しさ等を抱えながら,酸素吸入を拒否するがごとき行動に出ること自体が極めて不自然で通常考えられないことなどに照らし,到底信用することができない。
以上のほか,弁護人の主張を理由あらしめる証拠はなく,その主張は採用することができない。
(3)小括(P08の急変原因及びマスキュラックスの投与方法)
以上検討したところによれば,P08の急変は,マスキュラックス等の非脱分極性筋弛緩剤によるとの説明づけが可能である一方,これがミノマイシンの副作用によるものでないことは明らかであり,他にP08の急変を具体的に説明し得る可能性のある病態は見当たらないから,結局,P08の急変は,マスキュラックス等の非脱分極性筋弛緩剤の投与によるものと認めるのが相当である。
その投与方法については,P08の症状経過から点滴投与と考えられる旨の前記P11教授の証言が信用できることに加え,P08が急変したのは,前記のとおり,パンスポリンが調合されたフィシザルツPLの点滴溶液が投与されて間もなくしてのことであり,症状が現れて後になるまで,他にP08が摂取し,あるいは投与されたものはないことからすれば,上記点滴溶液の入ったボトル内にこれが混入されて,P08に点滴投与されたものと認められる。
そして,前記のとおり,P08に対する点滴投与に用いられたボトル内の残溶液から,ベクロニウムが検出されたことも,その裏付けになるとともに,上記の筋弛緩剤がマスキュラックスであることも確定づけられるというべきである。
以上に検討したとおり,本件において各被害者は筋弛緩剤マスキュラックス(ベクロニウム)の効果によりその容体を急変させた事実が認められ,その具体的な投与方法についても,既に認定したとおりである(なお,付言するに,前記のとおり,臭化ベクロニウムは人間の体内において生成されることはなく,また,各事件の事実経過に照らすと,正規の医療行為の一環としてマスキュラックスが各被害者に投与された事実はない。)。
そして,既に認定した各事件の事実経過を前提とした場合,過失行為によりマスキュラックスが各被害者に投与されたことをうかがわせるような事情は全く認められない。むしろ,後に詳しく認定するように,そもそも,マスキュラックスは,北陵クリニックにおいて,全身麻酔を伴う手術においてしか使用されておらず,通常の業務においてよく使用される薬剤とは区別して手術ボックスの中に保管されていたなどの事情に照らすと,マスキュラックスが他の薬剤と間違えて患者に直接投与されたり,他の抗生剤と取り違えて点滴に調合されるなどという事態はおよそ想定し難いのであるから,上記に認定したようなマスキュラックスの具体的な投与方法は,それ自体,本件各犯行が故意に引き起こされたものであることを強く推認させ,しかも,P05事件,P07事件及びP08事件の3件において連続して点滴ボトルにマスキュラックスが投与されたという事実は,この推認を補強するものといえる。
したがって,本件においては,何者かが故意にマスキュラックスによる効果発生を企図して,マスキュラックスを各被害者に投与したものと認められる。
なお,弁護人は,本件につき,P20教授,P18医師(以下,両名を「P20夫妻」ということがある。)及び捜査機関の思い込みによって事件がでっちあげられた旨主張する。
しかし,既に認定したように,本件各被害者が急変した原因はマスキュラックス投与の効果によるものであると認められること,被害者の生体資料や被害者に投与されていた点滴ボトルなどからマスキュラックスの成分であるベクロニウムが検出されていることなどの事実が認められることに照らすと,上記の弁護人の主張は,これらの点で既に理由がないものといわなければならないが,念のため,本件捜査の経過等についても検討する。
本件捜査の経過等については,関係証拠(各項目見出し末尾の括弧内記載のもの)によれば,以下の事実が認められる。
(1)北陵クリニック側において患者の容体急変の原因に関して不審を抱いた経緯について(甲21,証人P18(甲229),同P20(甲230),同P31(甲247)など)
ア 北陵クリニックは,本来,FES治療の研究と開発を行うための母体となる医療機関として開設されたものであって,容体を急変させるような可能性のある重症の患者を入院させるための医療機関ではなく,実際,入院中の患者が突然死亡するという事例は皆無に近かった。
ところが,平成11年に入ると,北陵クリニックにおいて,容体を急変させて死亡したり,意識不明の重体に陥る患者が現れ始めた。このような事態に関して,P18医師は,当初,高齢の患者については,いわゆる老衰であろうと考え,乳幼児については,いわゆる突然死的な容体急変と考えていた。
さらに,平成12年5月以降になると,月に二,三人の患者が容体を急変させるようになったものの,P18医師は,その中には容体が回復する患者も存在し,また,同じ原因で容体急変が生じているとは考えなかったため,容体急変患者に共通の事柄や急変時の状態について詳細な検討をせず,個別に原因を考えるにとどまっていたが,P18医師が主治医でない患者もおり,また,既往症もまちまちだったため,結局,その原因は不明なままであった。
イ 平成12年10月31日,P04の容体が急変するという事態が発生したが,P18医師は,その原因が分からずにいたところ,同年11月7日,P31医師からP04の急変について,原因となるような疾患が見つからず,医学的に説明することができない,P04が非常に重篤な状態になったのは点滴直後に呼吸が停止したことによる二次的なものであり,呼吸が停止した原因については何も分からないなどと言われたため,P04に対して何か毒物が投与されたのではないかと不安を感じるとともに,それ以前に急変したり,急死した患者についても,毒物が投与された可能性があるのではないかと不安を抱いた。そこで,P18医師は,同日以降,北陵クリニックで容体を急変させた患者や死亡した患者の診療録等を調査し,書面を作成するようになった。
P18医師は,診療録等の調査,書面の作成を通じて,ほとんどの症例において,まず,呼吸停止が起こり,次いで心停止が起こっていること,血圧等が測定できた患者については,いずれも呼吸停止時に血圧や心拍数が上昇していること,身体に力が入らないというような筋の機能が阻害されている症状を訴えていること,点滴中か血管確保の処置がされているときに容体が急変していること,医学的に見て容体を急変させる原因が認められないこと,患者の容体が急変する際に,何らかの形で被告人が関与していることなどに気付いた。
P18医師は,点滴中に容体を急変させる患者が多かったことから,その原因の一つとして,抗生剤に対するアレルギー反応ないしこれによるショック症状をも想定してみたが,この場合は,血圧が急激に下降する現象が認められるところ,北陵クリニックで容体を急変させた患者の血圧は上昇しており,この点で抗生剤によるショック症状ではないと判断した。また,上記のとおり,P18医師は,患者に対して何らかの薬剤が投与されているという疑いを持ったものの,それが何であるか見当がつかなかった。
P18医師は,すぐに,P20教授に相談し,作成した資料を見せながら,平成11年7月以降,北陵クリニックにおいて容体が急変する患者が増加したこと,急変時に被告人が直接的あるいは間接的に関与していたと思われることなどの説明をするとともに,このままでは不安であり,警察に届け出たいなどと話した。しかし,P20教授は,P18医師に対し,被告人が関与している証拠がなく,被告人の人権侵害にもなり得るため十分に注意して対処しなければならないと話し,結局,P20教授が知り合いの法医学の専門家に相談することになった。
ウ 平成12年11月9日,P20教授が東京都監察医務院院長P116(以下「P116院長」という。)に対して,P18医師の作成した書面を見せて相談したところ,P116院長から血液,尿などの生体資料や点滴ボトルなどの証拠物件を保管しておくようにとの助言を受けた。P20教授は,P18医師にP116院長から受けた助言を伝えるとともに,被告人の行動に注意し,容体の急変した患者から血液を採って血液検査をするように話した。この時点においても,P18医師は,P20教授に対して警察に届け出たいと話していたものの,P20教授から警察に届け出ることを控えるように説得されたため,この段階ではP18医師やP20教授が警察に相談することはなかった。
エ そして,同月13日,その日FES手術を受けたP05が手術後点滴中に容体を急変させたため,P18医師とP20教授は,P116院長の助言に従って,P05の血清やP05に投与されていた点滴ボトルを保管した。P05が容体を急変させたことからP18医師は,被告人が毒物を投与しているのではないかという疑いを更に強め,翌14日,P31医師に対して,P04の容体急変についてどうしても納得できないことがあるので相談したいという手紙やP04が急変したときの状況の記録などを内容とするファックスを送信し,日程調整の結果,P18医師とP31医師が同月30日に会うことになった。一方,P20教授も,P05が急変した翌日である同月14日にP116院長に対してP05の急変を報告し,P116院長から生体資料やデータなどをしっかり保管しておくようにとの助言を受けた。また,P20教授は,同日,従前北陵クリニックにおいて使用していた生食の点滴ボトルをすべて廃棄し,キャップのしっかりした新しい点滴ボトルに取り替えるように指示を出した。
P18医師は,さらなる患者の容体急変という事態を生じさせないために,被告人を辞めさせること,被告人を勤務から外すこと,北陵クリニックの病棟を一時閉鎖すること,北陵クリニックの診療そのものを一時停止することなどを考えたものの,それらを実行に移すことができないまま,同月30日を迎えた。
(2)市立病院側において北陵クリニックから転送される患者の急変原因に関して不審を抱いた経緯について(証人P31(甲247),同P87(甲248),同P88(甲249))
ア P31医師は,平成12年9月,同じ市立病院のP89医師から,喘息発作で北陵クリニックに入院していた5歳の男児が原因の分からない呼吸停止に陥り市立病院に転送されたものの死亡したという話を聞き,同児の診療録を調べたところ,喘息発作の増悪であるとしても経過が非常に急であって不自然であるという印象を持った。また,それ以前にも北陵クリニックから原因の分からない呼吸停止の患者が市立病院に転送されてきたことがあったため,P31医師は,当時の市立病院副院長兼小児科部長であるP87(以下「P87医師」という。)に対し,北陵クリニックから原因のはっきりしない呼吸停止の患者の転送が続いていること,前日にも喘息発作で入院した男児が点滴中に突然手足をばたばたさせて苦しがった後で呼吸停止に至り転送されたことを報告するとともに,同一の医療機関から小児の急変患者が続けて転送されてくるのは不自然な感じがするという感想を話した。これを聞いたP87医師も,一つの医療機関から続けて原因のはっきりしない呼吸停止の患者が転送されたことについて不審の念を抱き,P31医師から急変した患者の診療録等を受け取って調査を行ったところ,いずれも点滴中あるいは点滴後に突然意識障害や呼吸停止の症状を呈しており,しかも,入院中の基礎疾患からは考えにくいような原因不明の呼吸停止を呈していることが判明した。そこで,P87医師は,平成12年9月下旬ころ,もともと知り合いであったP22総婦長に電話をして,北陵クリニックの状況について尋ねたところ,P22総婦長から救急蘇生の上手な先生が辞めてしまったなどと聞かされたが、それが救急患者が続くことの説明にはならないと感じたものの,それ以上突っ込んだ質問はせず,急変したときは呼吸停止に陥るよりもっと早い段階で紹介して欲しいと申入れるにとどめた。
イ 同年10月31日,P04が原因の分からない呼吸停止ということで北陵クリニックから市立病院に転送され,P31医師自��も連絡を受け救急センターに駆け付けて医療措置に加わった。P31医師は,P04の救急処置に当たった医師らとP04の症状の原因について検討したが,その原因は分からなかった。
翌11月1日,P87医師は,P31医師から,北陵クリニックに腹痛を訴えて入院し点滴による治療中であった患者が,点滴が始まって間もなく,ものが二重に見える,口がきけないということを訴え,意識の低下やけいれん様のぴくんぴくんとした動きが見られ,そのうちに呼吸が停止したこと,市立病院において,頭部CT検査,腹部CT検査等が実施されたが,突然の呼吸停止を来すような脳出血,脳血栓などの病気は見つからなかったことなどの報告を受けた。P87医師は,この報告を聞いて,それ以前にP31医師から報告を受けていた北陵クリニックからの転送患者と比べてみると,点滴中あるいは点滴後に意識障害あるいは呼吸停止の症状を呈している点,死亡者以外では呼吸が非常に短時間に回復している点などが非常に似ていると感じるとともに,北陵クリニックの診療態勢に何か問題があり,大変なことが起こっていると考え,当時の市立病院院長に報告するとともに,呼吸の専門医で市立病院麻酔科部長であるP88(以下「P88医師」という。)に意見を求めることにした。
ウ 同年11月初旬,P87医師は,P88医師に対し,患者の入院診療録,外来診療録,退院記録のコピーなどの資料を見せながら,「北陵クリニックから続けて呼吸停止等の患者さんが搬送されてきているけれども,麻酔科的に見て何かないでしょうか。」と尋ねた。
P88医師は,渡された資料のうち,P04の資料から検討を始めたところ,P04について呼吸停止という事態を引き起こすような脳疾患などの症状が認められず,腹痛に対する北陵クリニックの処置が誤っていることもなく,急変後の処置も妥当であると考えられた。そして,P88医師は,P04が点滴の投与中に,ものが二重に見えるという目の症状や口がきけないという口の症状という筋弛緩剤投与の初期に見られる症状を訴えており,基礎疾患からは考えられない唐突な呼吸停止が現れていたため,P04の急変について筋弛緩剤の投与を疑った。その他の患者についても,点滴投与を受けており,のどが苦しい,せきができないなどと訴えたり,手足をばたつかせたり,眼球が固定され,急にぐったりする,顔面そう白になりチアノーゼが出現するなどの様子が観察され,しかも,症状発現から呼吸停止に至る時間的経過が非常に短いという共通点が認められたため,筋弛緩剤投与時に見られる症状として十分説明できると感じられた。
そこで,P88医師は,P87医師に対し,複数の患者に,ものがよく見えないとかものが二重に見える,せきができないという症状や,暴れたりもがいたりという症状が見られること,原因が今ひとつはっきりしないままに呼吸停止しており,その多くは非常に短時間で回復しているという特徴があること,いずれも点滴中あるいは点滴後に起こっていることなどの共通した症状が見られることを指摘し,これらの症状が筋弛緩剤を使用したときの初期の効果に似ていると話した。
P87医師は,P88医師との話合いの内容を市立病院院長に報告したところ,事実関係を確認する必要があるということになったため,P31医師に対し,北陵クリニックのP18医師と直接話ができるように連絡を取るように指示し,上記のとおり,P31医師とP18医師が日程調整を行った結果,同月30日に会うことになった。
なお,P88医師は,P87医師との話合いの後も,自らの意見が間違っているのではないかと考えて,何度も資料の検討を繰り返したものの,患者に筋弛緩剤が投与されているのではないかとの疑いは消えなかった。
(3)平成12年11月30日の面会について(証人P18(甲229),同P20(甲230),同P31(甲247),同P87(甲248))
同年11月30日夕方,P87医師は,P31医師同席のもと,市立病院の小児科部長室でP18医師と会った。P87医師は,P18医師に対して,北陵クリニックから原因不明の呼吸停止の患者が何人も転送されていることに不審をもち,心配なので同席した旨告げた上,北陵クリニック側の事情を尋ね始めた。P18医師は,予想外にP87医師が同席し,上記のように告げられたため,P20教授からは極秘にするよう言われていたものの,この際,一連の事情を打ち明けようと考え,北陵クリニックでは小児患者だけでなく成人患者にも点滴中あるいは点滴後に原因不明の呼吸停止になって急変したり,中には死亡する患者もいること,患者の容体急変には特定の職員が関与している疑いがあること,最近もFES手術を受けた男児が手術は無事に終了し麻酔からも完全に覚せいして呼吸や循環状態も安定していたにもかかわらず,手術後の抗生剤を点滴中に突然呼吸が停止したことがあったことなどを話した。これを聞いたP87医師は非常に驚き,当初,筋弛緩剤のことを直接に尋ねるつもりはなかったものの,P18医師に対して,筋弛緩剤を北陵クリニックにおいて使用しているかどうか尋ねた。これに対して,P18医師が一瞬ピンと来ず,「えっ,筋弛緩剤と言いますと。」と聞き返したため,P87医師が「例えばサクシンとかミオブロックとか。」と商品名を挙げて説明したところ,P18医師は「サクシンならあります。手術のときに使っています。」と答えた。そこで,P87医師は,P18医師に対して,何者かが治療以外の目的で筋弛緩剤を患者に投与したため患者の容体が急変した疑いがあることを説明した。
なお,P87医師から見て,P18医師は大変疲れている様子に見えた。
そして,P87医師は,その後市立病院にやって来たP20教授に対しても,北陵クリニックの患者に筋弛緩剤が投与されている疑いがあることを話した。
P87医師から患者に筋弛緩剤という具体的な薬剤の種類を挙げてその投与の疑いがあると聞いたP20教授とP18医師は,警察に届け出ることを決意し,P20教授が,P21大学のP90教授(以下「P90教授」という。)に相談し,P90教授から県警本部刑事部捜査第1課に話してもらうことになった。
(4)その後の捜査経過等について(甲14,20,40,54,209,210,証人P51,同P18(甲229),同P20(甲230),同P06(甲251),同P16(甲330)など)
ア P20教授は,同年12月1日,P90教授に会い,P18医師の作成した資料を見せながら,それまでの経緯やP87医師から筋弛緩剤による事件の可能性が高いという話を聞いたことなどを伝えたところ,P90教授が宮城県警察の上層部に話をするということになった。その後,県警本部刑事部捜査第1課長から詳しく話を聞きたいと言われたP20教授は,一番事情を詳しく知っているP18医師と会ってほしいと伝え,P18医師が翌2日午後4時に県警本部に行くことになった。
一方,P87医師から患者に筋弛緩剤が投与された可能性を指摘されたP18医師は,同月1日夜,一人で北陵クリニックの筋弛緩剤の在庫調査等を行った。まず,北陵クリニックにある筋弛緩剤の種類について調査したところ,サクシンとマスキュラックスがあることが分かり,在庫調査表の記載から平成12年3月31日の棚卸し時点で,サクシン40mgが10アンプル,サクシン20mgが10アンプル,マスキュラックスが13アンプル存在していたことが判明した。また,北陵クリニックにおける平成12年4月から同年11月末までの手術数は6件であり,平成12年8月17日にマスキュラックス10アンプルが納品され,同年11月10日にマスキュラックス10アンプルが発注されていることが判明した。一方,P18医師が手術室や薬品庫を調査したところ,サクシン40mg2アンプル,サクシン20mg3アンプルを発見し,マスキュラックスについては粉末は発見できず,溶解液のみ20アンプルを発見した。以上の在庫調査の結果,P18医師は,北陵クリニックにおいて,サクシン及びマスキュラックスが不足していることに気付き,この日発見したサクシンを持ち帰って自宅の冷蔵庫に保管した。
イ P18医師は,同月2日午後4時ころ,自らが作成した「SUDDUN DEATH」と題する資料(甲54添付),被告人の履歴書,患者の診療録を持参して県警本部に行き,対応したP51刑事,P36刑事,P45刑事に対して,持参した資料を見せながら,北陵クリニックにおいて原因不明の急変患者が発生していること,市立病院のP87医師から筋弛緩剤が患者に投与された可能性があるとの指摘を受けたこと,北陵クリニックの筋弛緩剤の在庫調査を行ったところ薬剤が不足していたこと,被告人が患者の容体急変に関与しているのではないかとの疑いを有していることなどを話した。P51刑事は,P18医師の説明には何ら裏付けがない状況であり,P18医師の説明だけでは北陵クリニックにおける急変患者の発生が犯罪によるものかどうか分からず,また,被告人が関与しているかどうかも不明であったため,P18医師に対して,北陵クリニックにおける薬剤の管理を徹底することなどを助言した。また,P18医師から,その日も被告人が当直勤務であることから不安を抱いている旨の話があったので,P51刑事は,自らの携帯電話の番号をP18医師に教えて,何かあったらすぐに電話するようにと伝えた。
ウ 同月3日,午前11時過ぎころ,P18医師からP51刑事に対して,北陵クリニックに入院中の小児患者であるP91(以下「P91」という。)の容体が急変したとの連絡が入った。P18医師は,P91の症状に関して,それまでの容体を急変させた患者とは異なっており,精神安定剤や睡眠剤などの投与が疑われること,P91に投与されていた点滴は被告人が調合したものであることなどを説明し,P51刑事は,P18医師に対して,P91に投与されていた点滴ボトルやP91の血液を保管するように助言した。P51刑事は,今後の北陵クリニックの運営等に関して,直接P20教授と話をする必要があると考え,P20教授に県警本部に来るように要請した。
そして,同日午後5時過ぎころ,P20夫妻が患者のボトル等を持参して県警本部に来たため,P51刑事,P36刑事,P45刑事が対応した。P51刑事は,P20夫妻が持参したもののうち,P05に投与されていた生食ボトル1本及びP05の血清1本,P91に投与されていた生食ボトル3本及びP91の血液2本については領置手続をとったが,だれに投与されていたか特定できない点滴ボトルについては領置手続をとらなかった(なお,P51刑事は,P91に関する資料については,直ちに鑑定に付することを考えていたが,P05に関する資料については,P90教授から鑑定しても薬剤等が検出されにくいなどという話を聞いていたため,直ちに鑑定に付することは考えていなかった。実際,P91に関する資料については,翌日鑑定嘱託がされているが,P05に関する資料については,同月7日に鑑定嘱託がされている。)。P51刑事は,P20夫妻に対して,北陵クリニックを閉鎖することができないかどうか,北陵クリニックの病棟を閉鎖することができないかどうか,北陵クリニックにおける当直を強化することができないかどうか,被告人を退職させることができないかどうかなどについて打診したものの,P20教授はいずれも困難であると説明した。
しかし,P20教授とP18医師は,県警本部から帰る車の中で今後の対応について話し合った結果,被告人に北陵クリニックを辞めてもらうしかないとの結論に達し,そのためには看護婦の責任者であるP06婦長及びP16主任に納得してもらう必要があると考えた。
エ P20教授は,同日午後8時前ころ,北陵クリニックに到着し,帰宅していたP06婦長及びP16主任を北陵クリニックに呼び出した。そして,両名に対して,最近,北陵クリニックにおいて容体が急変する患者が多いこと,そのことでP18医師がノイローゼ気味になっていること,容体急変の原因について市立病院の医師等から,患者の点滴に筋弛緩剤が投与された疑いがあると言われていること,患者の容体急変はほとんど被告人が当直の時に起こっており,被告人が点滴に筋弛緩剤を投与した疑いがあることなどを話し,被告人を辞めさせるつもりであるとも告げた。これを聞いたP06婦長やP16主任は,被告人の平素の仕事ぶりなどからP20教授の話がとても信じられず,はっきりしていることかどうか,少なくともはっきりしていない段階で辞めさせるのは時期尚早ではないかなどと反論したが,P20教授は,急変の間隔が狭まっているので早く対処しなければならず,早急に辞めてもらうなどと答えた。P06婦長及びP16主任は,なおもP20教授の話をにわかに信じることができなかったため,北陵クリニック内の筋弛緩剤を確認することになった。
そこで,P20教授,P06婦長,P16主任にP18医師を加えた4人で,北陵クリニックにおける筋弛緩剤の在庫確認が行われた。P06婦長とP16主任は,薬品庫にあるスチール製の棚にある手術ボックスのマスキュラックスの保管されている引出しを取り出して,マスキュラックスの本数を確認したところ,マスキュラックスの粉末が9アンプル,マスキュラックスの溶解液が11アンプル存在していた。そして,注文ノートを確認したところ,マスキュラックスが平成12年8月17日及び同年11月10日にそれぞれ10アンプル注文されていた。また,マスキュラックスの使用状況についてひと研究費明細書及び麻酔記録用紙を確認したところ,平成12年3月以降北陵クリニックの手術において使用されたマスキュラックスは1アンプルであり,さらに,平成12年3月の棚卸しの調査結果を確認したところ,棚卸しの際にはマスキュラックスが13アンプル残っていたことが判明し,結局,マスキュラックスが23アンプル不足していることが明らかとなった。その後,P16主任は,手術室など別の場所にマスキュラックスが保管されているのではないかと考え,P06婦長と共に手術室を調査したところ,マスキュラックスの溶解液20アンプルを発見したが,マスキュラックスの粉末は発見することができなかった。
P06婦長,P16主任,P20教授,P18医師の4名は,マスキュラックスの在庫確認の結果について,メモを作成しておくことにし,P06婦長が在庫確認の際にマスキュラックスの粉末及び溶解液の本数並びにそれぞれのロット番号をメモ用紙に記載していたもの(甲209)の写しを作成した上で,4名それぞれが署名し,押印又は指印した(甲210)。この時に発見されたマスキュラックスの粉末及び溶解液は,P20教授とP18医師が保管することになった。なお,4人はサクシンの在庫についても,P18医師が持っていたサクシンの数を確認したものの,マスキュラックスの使途不明の本数が多く,その確認の方に時間がかかったことなどから,サクシンについては上記メモ用紙に記載することはなかった。また,上記在庫確認の際,P06婦長とP16主任は,事務員がマスキュラックスを業者に返品しているかもしれないと考えていたため,P06婦長がマスキュラックスの返品の有無を確認することを忘れないように,上記メモ用紙に「11/10注射伝票確認」と付記し,後日,P16主任が返品伝票を確認したところ,返品されているマスキュラックスは存在しないことが判明した。
P20教授とP18医師が北陵クリニックから帰った後,P06婦長とP16主任が遠心分離器にかけられたP91の血液を捜したものの,結局,発見することができず,その際に,ごみ箱から利尿剤ラシックスの空アンプル3本を発見するとともに,救急カート内の睡眠鎮静剤ドルミカムの本数が増加していることに気付いた。ドルミカムに関しては,P16主任が数日前に救急カートに5アンプル存在していることを確認していたにもかかわらず,救急カートに6アンプル存在しており,薬品庫から3アンプルが持ち出されていた上に,12月2日に1箱が発注されていることが確認された。そのため,P06婦長及びP16主任は,これらの事実と容体を急変させたP91の症状から,ラシックス及びドルミカムがP91に投与されたのではないかとの疑いを抱いた。
オ P20教授は,被告人に北陵クリニックを辞めてもらうことを決心し,翌4日朝,P06婦長とP16主任に対して,被告人に北陵クリニックを辞めてもらうように話をする旨伝えた。この時,P06婦長及びP16主任は,P20教授に対し,前日,ラシックスの空アンプルを発見したことやドルミカムが不足していることに気付いたことを報告した。
その後,P20教授は,県警本部に行き,P51刑事らに対して,筋弛緩剤の在庫確認を行ったこと,ラシックスの空アンプルを発見したこと,被告人に北陵クリニックを辞めてもらうつもりであることなどについて話し,ラシックスの空アンプル3個などを提出した。
なお,同日,被告人が北陵クリニックを退職するに至った経緯,同日深夜,被告人が針箱を持ち出そうとした際の状況等については,後に詳しく認定するとおりである。
カ 同月5日朝,P51刑事,P45刑事,P52刑事が北陵クリニックに行き,前日保管を依頼していた2個の針箱の任意提出を受けてこれらを領置した。同日午後,県警本部において,2つの針箱に関する実況見分が実施され,その結果,小さい針箱の中からマスキュラックスの粉末の空アンプル19本などが発見された。
キ そして,P51刑事は,その後の捜査に関して,患者の血液,尿や患者に投与されていた点滴ボトルを収集して鑑定を行うこと,北陵クリニックにおける薬剤の不足状況を確認すること,急変患者の症状経過等を調査すること,筋弛緩剤の薬効や作用機序について調査すること,患者に対して行われた治療行為や急変後の救急処置が適切であったかどうかを確認することなどの方針を立てた上で,捜査を遂行し,平成13年1月6日,被告人が逮捕された。
上記認定の基礎となる各証言の信用性について付言するに,まず,P87医師,P31医師及びP88医師については,本件と何ら利害関係を有していない第三者であって,これらの者があえて虚偽の供述をするような動機は全く見当たらない。しかも,その証言内容についてみても,記憶の範囲内で具体的に述べられており,不自然なところがない上,例えば,北陵クリニックから転送されてくる患者に筋弛緩剤が投与された疑いが生じた際の心境についても,それぞれ,あってはならないこと,考えられないことと考えて動揺し,半信半疑の気持ちであったなどと臨場感をもって語られている。また,各人の証言内容は相互に符合しているだけでなく,P18医師やP20教授の供述内容とも符合している一方,細かい点まで不自然に一致しているわけでもない。これらの事情からすれば,P87医師,P31医師及びP88医師の各証言はその信用性が極めて高いというべきである。
そして,P06婦長及びP16主任の各証言についても,同様にその内容は具体性があって,不自然な点は見当たらない。しかも,両名は,例えば,P20教授から被告人が患者に筋弛緩剤を投与している疑いがあるとの話を聞いた際の心境について,それぞれ,とても信じられない気持ちであった,一緒に働いていた被告人がそんなことを行うとは信じられなかったなどと供述し,婦長,主任という立場で被告人と共に勤務していたため,にわかにはP20教授から聞かされた話を信じることができなかったという当時の揺れ動く心情を迫真性をもって語っており,実際,そのような心情から,自ら在庫調査を行っただけでなく,在庫調査を行った後においても,どこかに筋弛緩剤が保管されているのではないか,何かの間違いではないかと考えて,P20教授,P18医師の指示とは別に返品の有無を調べたりした(その後も,後に認定するとおり,両名は,被告人から退職を了承した旨聞かされたときも,更にそれぞれの割り切れない心情から被告人に問い掛け等をしている。)というのであって,その供述は,P20教授,P18医師の供述内容と符合する点もさることながら,これらと切り離しても独自に十分な信用性を有するものといえる。
また,P51刑事の証言についても,具体的で不自然さはなく,虚偽の供述を行うべき理由も全く見い出せないから,その証言の信用性を肯定し得る。
さらに,P18医師及びP20教授の各供述についても,その内容はそれぞれ極めて具体的で,およそ体験した者でなければ語り得ないものといえるし,それぞれの時点における自らの心境も包み隠すことなく明らかにされている。その上,両者の供述は,客観的な証拠とも符合し,既に検討した立場を異にする市立病院の医師らの証言,P06婦長やP16主任の証言,捜査官の証言のいずれとも符合するものであり,やはり,その信用性は高いということができる。
以上のとおり,本件においては,北陵クリニックから転送されてくる急変患者に疑問を抱いた市立病院の医師と,P04の急変原因に関して疑問を抱いていたP18医師が面談し,市立病院の医師から患者に筋弛緩剤が投与されている可能性が指摘されたことを受けて,P20夫妻が警察に相談するに至ったこと,P20夫妻から相談を受けた警察においても,当初から,P20夫妻の相談内容を肯定的にとらえたわけではなく,その後,必要な捜査が遂げられた結果,被告人に対する嫌疑が強まり,被告人の逮捕に至ったことが優に認定されるのであり,このような事実経過に照らせば,本件において,P20夫妻や捜査機関の思い込みによって事件がでっちあげられたというような事情が存在しないことは明白である。
以上の点に関し,弁護人は種々の指摘をしているので,順次検討する。
(1)弁護人は,P18医師が,平成12年11月7日にP31医師からP04の病状説明を受けたことがP04を含む患者の急変原因を疑い調査を始める契機になったと証言している点に関して,P18医師の捜査段階における供述調書(甲21)及びP18医師が県警本部に相談したことに関する捜査報告書(甲54)において,平成12年11月7日にP31医師からP04の病状説明を受けたことなどについての記載がないことを指摘して,その証言の信用性には疑問が残ると主張する。
しかし,既に検討した諸事情に照らして考えると,P18医師の公判廷における証言はその信用性が高いと評価できるのであって,上記甲21及び甲54の各書面中に平成12年11月7日のP18医師とP31医師とのやり取りに関する記載がないからといって,この点がP18医師の公判廷における供述内容の信用性を動揺させるような事情になるとはいえない。
(2)弁護人は,市立病院側が転送小児患者の急変原因に不審を抱いた経緯,患者に筋弛緩剤が投与された疑いを抱いた経緯に関する検察官の主張には疑問があり,その裏付けとなる市立病院の各医師の証言の信用性にも疑問があると主張する。
しかし,既に検討したように,市立病院のP87医師,P31医師及びP88医師の各証言は,その信用性が極めて高いと評価できる。
弁護人は,〔1〕P87医師やP31医師が北陵クリニックから転送されてくる急変患者について不審を抱くに至った経緯やその内容,〔2〕P88医師が患者に筋弛緩剤が投与された可能性を導き出した検討方法,〔3〕P87医師及びP31医師とP18医師との面会に関する事情などについて疑問点を指摘するが,いずれについても,各証言内容に不自然な点は見当たらず,各証言の信用性を否定するような事情はない。
(3)弁護人は,P18医師の平成12年12月1日の筋弛緩剤の在庫調査に関する証言内容,ひいては,P18医師がこの日筋弛緩剤の在庫調査を行ったかどうかについては疑問があると主張する。
しかし,この点に関するP18医師の証言についても,特に不自然,不合理な点はなく,その信用性は高いといえる。なお、弁護人は,甲41及び甲48の記載内容とP18医師の証言との間の矛盾を指摘してP18医師の証言の信用性に疑問を呈しているが,そもそも北陵クリニックにおいて医師は原則として薬剤の管理,発注等に関与しなかったのであるから,P18医師が筋弛緩剤の在庫調査を証言において述べたような方法で行ったとしても不自然ではないし,また,甲41及び甲48の記載は,納品書や注文ノートの一般的な状況に関するものであり,具体的な12月1日の在庫調査に関するP18医師の証言と必ずしも矛盾するとはいえず,P18医師の証言の信用性に影響を及ぼすものでもない。
(4)弁護人は,宮城県警はP18医師から相談を受けて直ちに捜査に着手している,宮城県警は被告人の持ち出そうとした針箱の中身を問題とする前に別件逮捕に踏み切ろうとしたなどと主張する。
しかし,既に検討したとおり,P51刑事ら警察側は,P18医師から相談を受けた当初から,P20夫妻の言をそのまま信じたものではなく,むしろ,客観的な裏付けのない話として,慎重に対応しようとしていたことが十分うかがわれるのであって,警察側が初めから一方的な思い込みをもって捜査に着手したと疑うべき具体的な事情は存しない。また,例えば,別件逮捕を意図していたかどうかの点についても,前認定の事実経過のほか,P51刑事が,被告人の不審な行動を目の当たりにしたP36刑事に対して,慎重な対応を求めていたことなどからしても,そのような意図はなかったものと認められる。
(5)弁護人は,P91が急変した件が別件逮捕を狙ったものであると主張する。
しかし,P91が急変した件の捜査経過に関するP51刑事の証言の内容は合理的で自然であるし,最終的にP91が急変した件を立件しなかった理由などについても合理的に説明されているのであって,弁護人の指摘するような事情は見当たらない。現に,被告人がP91が急変した件に関する事実を被疑事実として逮捕された事実,または逮捕されそうになった事実はない。
(6)弁護人は,12月3日夜にはマスキュラックスの行方不明数の割り出しまでは行われていない疑いがあると主張する。
しかし,この点に関するP06婦長,P16主任,P18医師及びP20教授の各証言は,いずれも具体的であるだけでなく,これを裏付ける客観的な証拠も存しており,弁護人の指摘する点を考慮に入れても,その基本的な信用性が失われるべきものではない。
(7)弁護人は,被告人が12月4日北陵クリニックから持ち出そうとした針箱には手術で使用した筋弛緩剤のアンプルのみが入っており,針箱内のマスキュラックス粉末の空アンプルの本数は8本の可能性が高く,針箱内にマスキュラックス粉末の空アンプル19本が存在したことは証明されていない旨主張する。
しかし,12月4日に被告人が北陵クリニックから持ち出そうとした針箱に関する実況見分の方法及びその結果などに関して,特に不自然な点は見当たらず,弁護人の指摘する点を考慮に入れても,実況見分調書(甲22)の記載内容は十分に信用することができるのであって,弁護人の主張は理由がない。
なお,証拠(証人P16(甲309))によれば,助成金の対象となる手術において用いられたマスキュラックスの空アンプルは,ひと研究費明細書を記載するためにナースステーションに運び込まれ,ナースステーションのプラボトル・アンプル入れのごみ箱に廃棄されることが多いことが認められ,また,既に認定したとおり,北陵クリニックにおいては医療廃棄物の分別が厳格に行われていたのであるから,これらの事情に照らすと,そもそも手術で使用されたマスキュラックスの空アンプルが針箱に廃棄されていたとは容易に想定し難く,したがって,針箱内に手術で使用したりあるいは手術のために準備した筋弛緩剤のアンプルのみが入っていたという弁護人の主張はその前提において不合理である。
(8)弁護人は,平成12年当時北陵クリニックの経営状況がかなり苦しく,経営状況を改善しようとしてそれまで受け入れなかったような重い症状の患者を受入れるようになったために北陵クリニックにおいて容体を急変させたり死亡したりする患者が多数見られるようになったと主張し,この事実が事件性を否定する背景事情として重要である旨指摘する。
しかし,本件各被害者が北陵クリニックで点滴処置を受ける時点において重い症状を呈していたというような事情はなく,容体を急変させる前は普通によく見られる比較的軽度の症状を呈していたり,手術後の順調な安定状態にあったものであり,また,本件における事件性との関係では,患者の容体急変の原因を医学的に説明することができるか否かが重要であるところ,既に認定したとおり,本件各被害者の容体急変の原因は,筋弛緩剤の効果以外には,およそ医学的に説明することができないことが明らかであるから,弁護人の指摘は失当である。
なお,P20夫妻がかえって大きな社会的な批判を浴びかねない職員の重大な犯罪行為をあえてでっちあげで作出すべき契機は見出し得ないし,このような事件作出に市立病院側や警察側がかかわるということもあり得ないというべきである。
以上検討したとおり,P20夫妻及び捜査機関の思い込みによって事件がでっちあげられたとの弁護人の主張に理由がないことは明らかである。
1 はじめに
本項においては,本件の各事件の犯人が被告人であると認められるか否かを検討することとし,以下,被告人がマスキュラックスを不正に使用した事実があること(2),各事件について,いずれも犯人が被告人であると認められること(3ないし7),被告人の捜査段階における自白等の言動(8)及び動機に関する事情(9)についてそれぞれ論ずる。
2 被告人がマスキュラックスを不正に使用した事実
(なお,以下においては,「平成○年度」という表記を用いることがあるが,例えば,「平成10年度」とは,平成10年4月1日から平成11年3月31日までの期間を意味する。また,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。)
(1)北陵クリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが存在していた事実
関係証拠(各項目見出し末尾の括弧内記載のもの)によれば,以下の事実が認められる。
ア 北陵クリニックにおけるマスキュラックスの在庫数,使用数,発注数等について
(ア)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの在庫数(甲12,38ないし40,48,209,210など)
北陵クリニックにおいては,事務長により,各年度末に薬剤の棚卸しが実施されていたが,その結果判明した各年度末におけるマスキュラックスの在庫数は,平成10年3月31日において10アンプル,平成11年3月31日において7アンプル,平成12年3月31日において13アンプルであった。
そして,平成12年12月3日,P20教授,P18医師,P06婦長及びP16主任により行われた在庫調査の結果,この時点でマスキュラックスが9アンプル存在していることが判明した(その内訳は,ロット番号が「2956869Y」のもの8アンプル,「24973794」のもの1アンプルであった。なお,同月4日,鑑定に使用するために,マスキュラックス1アンプル(ロット番号が「24973794」のもの)が領置されたため,同月9日に実施された実況見分の際には,マスキュラックスの在庫は8アンプルであった。)。
(イ)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの使用数(甲13,38,47,48,証人P11(甲261)など)
マスキュラックスは,主として,全身麻酔を伴う手術において使用される薬品であるところ,北陵クリニックにおいて,マスキュラックスは全身麻酔を伴う手術以外においては使用されていなかった(なお,被告人も,公判廷において,同様の趣旨の供述をしている。)。
そして,北陵クリニックにおいて,正規の医療行為の一環として手術において使用されたマスキュラックスの数は,平成10年度に1本,平成11年度に12本,平成12年度(ただし,平成12年11月30日まで)に1本であった(なお,上記のとおり,手術で使用された以外に,平成12年12月4日に鑑定に使用するためにマスキュラックス1本が領置されている。)。
(ウ)北陵クリニックにおけるマスキュラックスの発注数及び納品数(甲12,38,41,42,45,46,48,336,390など)
北陵クリニックから納入業者に対して発注されたマスキュラックスは,平成11年5月15日に10アンプル1セット,同年6月2日に10アンプル1セット,同年12月11日に10アンプル2セット,平成12年8月17日に10アンプル1セット,同年11月10日に10アンプル1セットであり,実際に,納入業者から北陵クリニックに納品されたマスキュラックスは,平成11年5月17日に10アンプル1セット(そのロット番号は「21917486」),同年6月2日に10アンプル1セット(そのロット番号は「21917486」),同年12月13日に10アンプル2セット(そのロット番号は「24973794」),平成12年8月17日に10アンプル1セット(そのロット番号は「2935459Y」),同年11月10日に10アンプル1セット(そのロット番号は「2956869Y」)であった。
(エ)北陵クリニックに納品されたマスキュラックスが廃棄,返品等された可能性(甲12,証人P16(甲330))
北陵クリニックにおいて,薬剤師が常駐しなくなった平成9年暮れころから,P50元事務長の所に,看護婦などが期限切れの薬剤等を持ってくるようになったものの,P50元事務長はその廃棄の仕方等が分からなかったため,とりあえず廃棄すべき薬剤等を段ボールに入れて保管するようにし,その後も,期限の切れた薬剤をその段ボールに保管していた。結局,P50元事務長は,一度も,その段ボールの中身を廃棄することなく平成12年12月を迎え,同月4日,その中身を確認したところ,その中にマスキュラックスは含まれていなかった。また,P50元事務長が,納入業者に対して,いったん北陵クリニックに納品されたマスキュラックスを返品したことはなく,P50元事務長以外に期限の切れた薬剤を保管したり,薬剤の返品の手続を行う職員はいなかった。なお,既に認定したとおり,P16主任が,平成12年12月3日にマスキュラックスの在庫確認をした後,同年11月10日に納品されたマスキュラックスが返品されているかどうかを確認したところ,返品されたマスキュラックスはなかった。
したがって,北陵クリニックに納入されたマスキュラックスに関して,使用期限が切れたために廃棄されたり,納入業者に返品されたために,その在庫数が減少したことがあったことをうかがわせる事情は認められない。
なお,被告人は,全身麻酔を伴う手術の準備において,2種類の筋弛緩剤を準備しておき,使用しなかった筋弛緩剤については廃棄していた旨供述しているが,後に詳しく検討するように,この点に関する被告人の供述は到底信用することができず,したがって,このような理由によりマスキュラックスが正規の医療行為以外に費消されたとは考えられない。
(オ)北陵クリニックにおいて使途が不明であるマスキュラックスの数
上記に認定した各年度末におけるマスキュラックスの在庫数,各年度におけるマスキュラックスの使用数及び納品数に基づいて使途が不明であるマスキュラックスの数について検討すると,平成10年3月31日の在庫数が10アンプル,平成10年度の納品はなく,使用数が1アンプルで,平成11年3月31日の在庫数が7アンプルであったことから,平成11年3月31日における同年度内の使途不明数は2アンプル,平成11年3月31日の在庫数が7アンプル,平成11年度の納品数が40アンプル,使用数が12アンプルで,平成12年3月31日の在庫数が13アンプルであったことから,平成12年3月31日における同年度内の使途不明数は22アンプル,平成12年3月31日の在庫数が13アンプル,平成12年度の納品数が20アンプル,使用数が1アンプルで,平成12年12月3日の在庫数が9アンプルであったことから,平成12年12月3日における同年度内の使途不明数は23アンプルであったことがそれぞれ認められる。
また,マスキュラックスが北陵クリニックに納入された時期に着目して検討すると,平成11年12月13日にロット番号「24973794」のマスキュラックスが20アンプル納品されているところ,同日以降平成12年12月3日までのマスキュラックスが使用された手術件数は2件であり(甲47,48),平成12年12月3日時点における当該ロット番号のマスキュラックスの在庫数は1アンプルであるから,少なくとも17アンプルが使途不明であり,平成12年8月17日にロット番号「2935459Y」のマスキュラックスが10アンプル納品されているところ,同日以降平成12年12月3日までのマスキュラックスが使用された手術数は1件であり(甲47,48),平成12年12月3日時点の当該ロット番号のマスキュラックスの在庫数はゼロであるから,少なくとも9アンプルが使途不明である。
イ 北陵クリニックにおける薬剤の発注状況,管理状況等について
(ア)北陵クリニックにおける薬剤の発注状況(甲11,12,13)
北陵クリニックにおいては,薬剤師が常駐しなくなった後である平成9年8月ころから,薬剤が少なくなってきたことに気付いた看護婦や准看護婦が注文ノートに必要と思われる薬剤の品名,数量等を記載し,事務職員がそれに基づいて発注手続を行い,遅くとも数日後にはその薬剤が納入されていた。また,被告人が北陵クリニックに勤務するようになった後においては,准看護士も注文ノートに必要と思われる薬剤を記載するようになった。なお,当初は,発注手続を行う事務職員がある程度決まっていたため,注文ノートに発注者の氏名が記載されていなかったが,平成11年6月ころからは,実際に発注手続を行った者の氏名が注文ノートに記載されるようになった。
そして,このような発注手続を行う過程において,院長,婦長等一定の責任を有する者によってその内容が吟味されることはなかった。
(イ)北陵クリニックにおける薬剤の管理状況(甲11,12)
北陵クリニックにおいては,前記第1の4のとおり,薬剤師が常駐しなくなった平成9年7月ころ以降は,薬剤が保管されている薬品庫が日中は特に施錠等されずに解放されていたため,理事長室の金庫に保管されていた向精神薬を除いては,部内者であればだれでも自由に薬品庫に立ち入って,帳簿等に記録することなく薬剤を持ち出すことができる状態であった。また,夜間は,薬品庫に施錠がされていたものの,薬品庫のかぎを開けることができるマスターキーがナースステーションの机の中に保管されており,結局,夜間においても,マスターキーの場所を知っている者であればだれでも薬品庫内に立ち入ることができた。そして,北陵クリニックの看護職員はだれでもマスターキーの保管場所を知っていた。その後,平成12年10月25日ころに持ち出しノートが備えられてからは,薬剤を薬品庫から持ち出した際に,日付,薬剤名,数量等を記載するようになったものの,実際に薬剤を持ち出した者が持ち出しノートに記載しなければ,持ち出された薬剤の種類や数量を把握することはできない状態であった。
また,経理処理の関係から,事務長による薬剤の棚卸しが実施されていたが,その内容は,事務長が毎年年度末に薬品庫内の各医薬品について在庫数を確認し,その結果を記載した在庫調査票を作成するというものであった。
なお,前認定のとおり,マスキュラックスは,北陵クリニックにおいては,薬品庫の中の手術ボックスに保管されていたが,この手術ボックスにはかぎ(施錠設備)が取り付けられていなかった。
ウ 推認される事実
以上認定の事実及びこれから導き出される事実についてみるに,北陵クリニックにおいては,特に平成11年度,12年度に多数の使途不明のマスキュラックスが発生し,その数が20を超える程度にまで及び,さらに,平成11年12月13日に納入されたマスキュラックスについては1年足らずの間に少なくとも17アンプルが,平成12年8月17日に納入されたマスキュラックスについては4か月足らずの間に少なくとも9アンプルが使途不明になっていることからすると,このような使途不明のマスキュラックスが発生した原因は,単に看護婦等が誤って廃棄したとか,持ち出しノートに記載するのを忘れていたことがあったなどの事情によるのではなく,何者かが少なくとも正規の医療目的ではない何らかの不法な目的であえて持ち出したことによるものと推認するのが相当である。そして,前記認定事実のとおり,北陵クリニックにおいては薬剤の不足に気付いた看護婦等が各々発注手続等を行っており,その薬剤を発注する必要性等に関して吟味されることがなく,しかも,看護婦等は自由に薬品庫から薬剤を持ち出すことができ,平成12年10月25日ころからは,薬剤を持ち出した者が原則としてその旨持ち出しノートに記載することとされたものの,その記載は自主性に委ねられ,さらには,年度末に事務長によって薬剤の在庫調査が行われていたが,その調査の内容は,機械的に在庫数を確認するのみであって,納品数,使用数と在庫数を照合したり,不要な薬剤の納入や不自然な発注等を調査することまでを念頭においたものではなかったのであり,結局,北陵クリニックにおいては,薬剤に関して,長期にわたり特に管理らしい管理はされていなかったという事情がうかがわれる。
したがって,上記のような使途不明のマスキュラックスが発生した原因については,特段のチェックを受けることもなく薬剤を容易に発注したり持ち出したりできる管理状況であったことを認識していた北陵クリニック内部の人間が,そのような状態を利用して,自らの不法な意図を実現するためにマスキュラックスを勝手に持ち出したためであると推認できる。
(2)被告人とマスキュラックスのかかわりについて
ア 被告人の勤務状況等
(ア)北陵クリニック以前の病院における勤務状況等(甲340ないし342,345,347など)
被告人は,平成4年4月から,准看護士としてP25において勤務するようになったが,その際に,外来・検査・手術室の担当となって,手術や救急外来の介助を行っていた。被告人自身それらの仕事を好んでおり,手術の際には,てきぱきと仕事をこなしていたため,上司などから正看護士の資格を取ることを勧められていた。
また,その後勤務したP27病院においても,被告人は,手術の介助等を的確に行っていたため,医師からの信頼も厚く,正看護士の資格をとるように勧められており,同僚からも一目置かれる存在であった。また,被告人は,急変した患者の救命措置などができると評価されていたことから,救命措置の勉強会において,他の職員を指導するということもあった。
(イ)北陵クリニックにおける勤務状況等(甲8,13,47,50,351,360,361,証人P16(甲330)など)
被告人は,北陵クリニックの採用面接において,手術室勤務を希望する旨述べていたものの,実際には,外来,病棟,夜勤のすべてを担当することを前提として,平成11年2月,北陵クリニックに採用された。
北陵クリニックで勤務するようになると,被告人は,必ずと言っていい程手術への立会いを希望するようになり,実際,被告人は手術の介助に慣れていたため,ほとんどの手術に立ち会うようになっていき,いつの間にか手術の担当は被告人であるというようになっていった。
実際,被告人は,北陵クリニックにおいて行われた手術のうち,少なくとも,平成11年には36件中17件,平成12年には15件中6件の手術に立ち会っており,そのうち,筋弛緩剤が使用された手術については,平成11年には12件中10件(このうち,マスキュラックスが使用された手術については,10件中8件)に,平成12年には4件中2件に立ち会った。
また,被告人は,救命救急の場面になると,非常にてきぱきと,かつ生き生きと仕事をしており,北陵クリニック内部の勉強会において,被告人の作成した急変時のマニュアルが配布されるということもあった。
(ウ)以上(ア)及び(イ)の各事実によれば,被告人は,担当職務の中で,手術の介助や救命措置を得意としており,この点に関しては医師や同僚からも信頼されていたこと,北陵クリニックにおいても,手術の介助を積極的に希望しており,実際にも手術に立ち会うことが多かったこと,北陵クリニックにおいてマスキュラックスやサクシンといった筋弛緩剤を使用する手術については,そのほとんどに被告人が立ち会っていたことが認められる。
イ 薬剤の在庫状況等に関する被告人の認識
被告人は,当公判廷において,手術があると聞くと,気付いた時には,手術ボックスの中の薬剤を確認したり点検するようにしていた旨,また,自らが手術の担当となっている場合には,事前に手術ボックスの中のマスキュラックスの本数等を確認していた旨,さらに,このような在庫確認を行った際に,多数のマスキュラックスの溶解液だけが余っていることに気付き,それらをマスキュラックスの箱にまとめて入れ,箱の表面に「溶解液のみ」と記載して保管したことがあった旨供述しているところ(第107回),少なくとも,被告人が上記のような機会を通じてマスキュラックスの存在,状況,本数等の認識を有していたことは疑いがない。
一方,証拠(証人P16(甲431),証人P06(甲432))によれば,P06婦長やP16主任は,被告人から,マスキュラックスの溶解液のみ多数余っているのを発見したことや,それらをまとめて保管することにしたこと等に関する報告を受けたことはなかったものと認められる(なお,被告人は,この点に関して,マスキュラックスの溶解液のみが余っている事実をP06婦長かP16主任かのどちらかに報告した旨供述するが,その一方において,その事実に気付いた時は不思議に思ったものの,特にその原因を調査したり納品状況を確認することはなかったなどと医療従事者として極めて不自然,不合理な供述しており,このような被告人の供述は容易に信用することができない。これに対し,P06婦長やP16主任は,仮に被告人から報告を受けていたならばその原因や在庫等について調査をしていたはずであるなどと合理的な供述をしており,両者の証言はその信用性が高いといえる。)。
そして,既に認定したように,被告人が北陵クリニックにおいて実施された手術,特に,筋弛緩剤が使用される大半の手術に立ち会っていたという事実を併せ考えると,被告人は,頻繁に薬品庫の薬剤について,在庫を確認する機会があり,実際にも在庫を確認していたと考えられ,したがって,被告人は手術ボックス内の薬剤の在庫の推移や不足の程度等について十分認識していたものと推認できるし,当然,マスキュラックスについても,その在庫の推移や不足の程度等について把握していたと推認するのが合理的である。
ウ 平成12年8月17日及び同年11月10日のマスキュラックスの発注について
前記のとおり,平成12年8月17日及び同年11月10日に,北陵クリニックから納入業者に対してマスキュラックスがそれぞれ10アンプルずつ発注され,その日のうちに,納入業者から北陵クリニックにマスキュラックスが納入されたことが認められるところ,証拠(甲336,証人P06(甲251),証人P16(甲330))によれば,マスキュラックスを発注した注文ノートの筆跡は,いずれも被告人のものであることが認められ(いずれについても,その記載内容や記載状況は合理的であるし,上下の記載との連続性等に関しても,特に不自然な点は見当たらず,例えば,何者かが被告人が発注したように見せかけるためにその記載をしたといったような形跡はうかがわれない。),したがって,被告人が平成12年8月17日及び同年11月10日に,それぞれマスキュラックス10アンプルを注文したことが認められる。
なお,被告人は,公判廷において,平成12年11月10日のマスキュラックスの発注に関しては自らが発注し,注文ノートに記載したと供述するものの,同年8月17日のマスキュラックスの発注に関しては自ら発注したことはなく、注文ノートに記載したこともないと供述する(第107回)。しかし,同年8月17日の注文ノートの記載について,日ごろから被告人の筆跡を目にする機会を多数有していたP06婦長及びP16主任がそろって明確に被告人の筆跡であると供述している上,実際,注文ノートの8月17日にマスキュラックスを注文した欄には,「○○」との署名がされており,当時,北陵クリニックにおいて「○○」と署名してマスキュラックスを発注する可能性がある職員は被告人以外には考えられないという事情を併せ考慮すると,両名の供述の信用性は高いと評価できる。これに対して,被告人は,8月17日のマスキュラックスを注文した部分の筆跡と自己の筆跡の類似性に関しては,他の筆跡と自己の筆跡の類似性に関する供述と比較しても,殊更あいまいかつ不自然な供述を繰り返しているのであって,このような被告人の供述は到底信用することができない。
そして,証拠(甲47,48)によれば,平成11年12月13日にマスキュラックス20アンプルが納品され,同日以降平成12年8月17日までの間にマスキュラックスが使用された手術は1件しかなく,また,平成12年8月17日以降同年11月10日までの間にマスキュラックスが使用された手術は1件しかないという事実が認められるところ,この事実に照らして考えると,平成12年8月17日及び同年11月10日に,わざわざマスキュラックス10アンプルずつを発注しなければならないほど,それまでの間にマスキュラックスが正規の医療行為の一環として使用されその在庫数が減少していたとは到底考えられない。
したがって,被告人は,正規の医療行為の一環としてマスキュラックスがそれほど使用されていない時期に,2度にわたってマスキュラックスを自ら発注していたと認められる。
エ 平成12年12月4日被告人が北陵クリニックから持ち出そうとした小さい針箱の中から発見されたマスキュラックスの空アンプルについて(甲22)
既に認定したように,平成11年12月13日に北陵クリニックに納入された20アンプルのロット番号「24973794」のマスキュラックスについては,正規の手術に用いられた可能性があるのは多くても2アンプルであり,平成12年12月3日時点において,少なくとも17アンプルが使途不明となっていると認められ,後に詳しく検討するとおり,被告人が,北陵クリニックを退職することとなった平成12年12月4日夜,北陵クリニックから持ち出そうとした小さい針箱の中から,マスキュラックスの粉末の空アンプル19本が発見され,そのうち,14本がロット番号「24973794」の空アンプルであったことが認められる。
これらの事情にかんがみると,平成11年12月13日に北陵クリニックに納入されたマスキュラックス20アンプルのうちの多くが,何者かによって正規の医療行為以外の目的で使用され,その空アンプルが被告人の持ち出そうとした小さい針箱に廃棄されていた可能性が極めて高いといえる。
オ 当直勤務の仮眠時間中の薬品庫への出入りについて
証拠(証人P71(甲386))によれば,北陵クリニックにおいては,当直勤務を看護婦等と看護助手の組み合わせで行うことが多く,看護婦等はナースステーションにおいて,看護助手はFES診察室において仮眠をとっていたこと,当直勤務の仮眠時間中に,被告人が薬品庫に出入りしていたことがあったことが認められる。
したがって,被告人には,当直勤務の際に,人知れず,薬品庫内の薬剤を持ち出すことができる機会があったといえる。
(3)小括
以上によれば,(1)で認定したとおり,北陵クリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが多数発生しており,その一方において,(2)で認定したように,被告人が,マスキュラックスやサクシンといった筋弛緩剤を使用する手術に多数立ち会い,少なくとも,その度に,薬品庫内の薬剤を確認していたため,当然,マスキュラックスについても,その在庫の推移や不足の程度等について把握していたと考えられること,薬剤を確認する際に,マスキュラックスの溶解液のみが多数余っていることを認識していたにもかかわらず,特に上司等に報告していないこと,正規の医療行為を前提とした場合,新たなマスキュラックスを発注する必要があるとは到底考えられない時期に,2度にわたって合計20アンプルのマスキュラックスを発注していること,被告人は退職が決定した当夜,使途不明であるロット番号のマスキュラックスの空アンプルが多数入った小さい針箱を北陵クリニックから持ち出そうとしたこと,被告人は,薬品庫内の薬剤を持ち出す機会を十分に有していたことなどの事情が認められる。このような,被告人の行動について考察すると,自らの職務の中でも手術への立ち会いを希望していた被告人は,手術前に積極的にマスキュラックスの在庫を確認するなど一定の責任感を持って手術の介助に当たっており,マスキュラックスの使用目的,危険性等について十分な知識を有していた一方において,およそ不自然と考えられる時期にマスキュラックスを注文したり(しかも,平成12年8月17日に被告人が注文して納入されたマスキュラックスはそのほとんどが使途不明となっている。),マスキュラックスの溶解液のみが余っている事態に直面しても婦長等に相談しなかったりという医療従事者として極めて不合理かつ不可解といわざるを得ない行動をとっている。しかも,被告人が北陵クリニックからの退職��決定した日に持ち出そうとした針箱から使途が不明であるマスキュラックスの空アンプルが多数発見されるという到底偶然の出来事とは考えられない事態が発生していることを併せ考えると,北陵クリニックにおいて使途不明のマスキュラックスが発生していた原因は,そのほとんどが被告人の医療行為以外の目的での意図的な行動によるものであると推認するのが合理的である。
なお,弁護人は,北陵クリニックにおいて行方不明となったマスキュラックスは被告人とは無関係であると主張し,平成8年度に納入されたマスキュラックス10本が行方不明になっていることなどを指摘している。
しかし,北陵クリニックにおいて平成8年度に手術で使用されたマスキュラックスの数は証拠上明らかとなっておらず,結局,平成9年3月31日時点におけるマスキュラックスの不足数は不明といわざるを得ないのであって,弁護人の主張は,その前提に疑問がある上,仮に被告人の就職前から弁護人指摘の事実があったとしても,上記認定の各事情(単に,マスキュラックス多数が行方不明になっているばかりか,これと被告人を結びつける数々の客観的事情が存する。)を総合すれば,少なくとも被告人が北陵クリニックに就職して以降,北陵クリニックにおいて多数のマスキュラックスが行方不明になっていることに,上記のとおり被告人が関与していること自体はやはり合理的に推認できるのであって,弁護人の主張は理由がない。
ア 認定できる事実
関係証拠(甲17ないし22,211,証人P51,同P36,同P52(甲196),同P18(甲229),同P20(甲230),同P06(甲251),同P16(甲330)など)によれば,以下の事実が認められる。
〔1〕P20教授は,12月4日,被告人に北陵クリニックを退職してもらおうと考えて,その日勤務が休みであった被告人を呼び出した。P20教授は,被告人が自主的に北陵クリニックを退職してくれるとよいと考えて,被告人に対して,「P02君がP25に戻りたいという旨の話をP25の婦長にしたということだね。そういう希望があるのかな。」と切り出したものの,被告人は,P20教授と一緒にFESをやっていきたい旨答えた。そこで,P20教授が「家内が今,非常にノイローゼ状態になっている。心身共に衰弱している状態になってきている。医学的に説明できない急変患者が何人か出ている。その時にP02君が当直とかそういうことでいることが多く,P02君と組むことに非常に不安を感じている。搬送された側の救急部の看護婦がどうして北陵であんなに理由の分からない急変があるのかということで騒ぎ出してる。」という話をしたところ,被告人は,P20教授の予想に反して,「じゃ,私が辞めればいいんですね。」と言ってきた。これを聞いたP20教授は非常にびっくりしたが,「そうしてくれるとありがたい。」と言い,その後,二人は,被告人から12月一杯の給料及びボーナスが欲しいという要望や早く転職したいので就職先をあっせんして欲しい,P25に行きたいので院長に伝えて欲しいなどの要望が出されたため,P20教授は,これらの要望にはできるだけ沿いたい旨話すなどした。
P20教授は,P51刑事(なお,この段階までのP20教授,P18医師と警察側との折衝経過等は前記のとおり)に対して,被告人が自分で辞めると言ったので安心したと報告し,P18医師やP06婦長に対しても被告人が辞めることになったと伝えるとともに,P92事務長代理(以下「P92事務長代理」という。)に対して,被告人が辞めるので退職手続を進め,給料等について被告人の希望に沿うようにしてほしいと話した。P06婦長は,P20教授からの連絡を受けて,P16主任に対して被告人が辞めることになったことを伝えた。また,P18医師は,被告人が辞めることになったと聞いて安心するとともに,被告人が報復のようなことをするかもしれないと不安にもなった。
〔2〕その後,被告人は,北陵クリニックのナースステーションにおいて,白っぽい紙袋に私物を入れたり,レントゲン室において,他の職員と雑談したりしていた。
レントゲン室において,P92事務長代理が,マスキュラックスを連想させる「マス」という言葉を発したため,P06婦長は,被告人を手術室に連れ出し,被告人に対して,本当に納得して辞めるのか,自分だったら自分に非がなければ絶対に辞める承諾はしないなどと話したところ,被告人は,P20教授に頼まれて北陵クリニックに来たのだからP20教授から辞めろと言われたらそれでいいと話していた。
また,P16主任は,北陵クリニックのマスキュラックスの在庫が不足していることを確認し,また,それまでの急変時に被告人が立ち会うことが多かったことから,被告人がマスキュラックスなどを患者に投与したのではないかという疑いを有していたが,一方で,同僚として一緒に働いてきた被告人がそんなことをするはずがないという思いも有していたため,被告人に対して「本当に納得して辞めるの。」などと尋ねたところ,被告人は「教授から辞めて欲しいと言われたので仕方ない。おれがいると急変が起こるって言うし,P18先生,ノイローゼになるって言うし,おれが辞めれば済むことだから。」などと言った。それに対して,P16主任が「簡単に納得できるの。」などと聞くと,被告人は「教授に頭下げられれば納得するしかないでしょう。この先どうしよう。」などと言い,P16主任が「退職させられるのを待ってもらうように教授に頼もうか。」などと言ったが,被告人は「それはいい。辞めれば済むことだから。」などと話していた。
P06婦長が,午後6時半ころ,外来介助の仕事を終えてレントゲン室に行ったところ,被告人は,北陵クリニックの職員に対し,P20教授とのやり取りの様子,P18医師に対する不満,給料やボーナスのことなどを話しており,その後,午後8時半ころ,北陵クリニックから退出した。
被告人が帰宅した後,午後9時過ぎころに,P06婦長は,P20教授に対して,被告人が帰宅したことを伝えるとともに,被告人から預けられた退職届を渡した。
〔3〕P20教授から被告人が北陵クリニックを退職することになったとの連絡を受けたP51刑事は,被告人が病院内の患者に腹いせ行為をしたり,薬剤を持ち出すなどのトラブルが発生することを防止するなどの目的から,合計6人の警察官を北陵クリニック等へ派遣した。そのうち,被告人の行動確認を指示されて北陵クリニックに派遣されたP36刑事及びP52刑事は,被告人の車が北陵クリニックの敷地内に駐車していることを確認して張り込みをしていたものの,その後も被告人の車に動きがなかったため不自然に思い,午後8時ころ,P36刑事がP51刑事に北陵クリニック内に被告人がいるかどうかを確認してほしいと連絡すると,その後,P51刑事から北陵クリニック内のリハ室に被告人がいるようだという連絡が入るとともに,P18医師と接触して被告人の所在を確認するよう指示が出された。そこで,P36刑事は,P18医師に案内されて,職員通用口からリハ室の方へ行き,リハ室前の廊下からリハ室内のインストラクター室に被告人がいることを確認した。
その後,被告人が何らかの薬剤を持ち出すことを懸念したP51刑事から,警察官らに対して,被告人に対する職務質問を実施するように指示が出され,被告人の車が北陵クリニックの敷地内から出て行ったため,その後をつけていった警察官らが,移動中の被告人の車を停めて職務質問,所持品検査を実施した。しかし,被告人の車から薬品類は特に発見されず,午後9時ころ,その旨P51刑事に連絡を取ると,P51刑事は,警察官らに撤収するように指示を出したが,P36刑事とP52刑事は,被告人のアパート付近まで行って今しばらく被告人の様子を見ることにした。
〔4〕午後10時前ころ,被告人のアパートの部屋から被告人と思われる男性及び女性の2名が出てきて,それまで被告人が運転していたのとは別の車(パジェロミニ)を発進させたので,P36刑事はP51刑事に連絡を入れた上でその車を追尾したところ,その車は北陵クリニックの敷地に入っていった。P36刑事がその旨P51刑事に連絡し,P51刑事がP20教授と連絡を取ったところ,外出していたP20教授から被告人が北陵クリニックにやって来るような用事はないと聞いたため,P51刑事は不自然に思って,P20教授に北陵クリニックに戻って被告人が何をしているか調べてもらうように依頼した。
一方,北陵クリニックに入った被告人は,ナースステーションにおいて,当直勤務だったP62看護婦やP61助手に,「おれ,辞めることになった。荷物を取りに来た。」などと話して,ナースステーション内のカウンター引き出しの中の私物を白い引出物を入れるような大きな紙袋に入れ,その後,手術室の方向に向かって出ていった。この時,P62看護婦やP61助手が被告人に対して医療廃棄物を捨てるプレハブ小屋の鍵を貸したことはなく,また,被告人自身がその鍵を取り出したこともなかった。
そして,P51刑事から依頼を受けたP20教授が北陵クリニックの内部に入って被告人を捜したところ,手術室の前のアコーデオンカーテンを開けて出て来た被告人と会った。この時,被告人は,白っぽいカーディガン様のものを着て白い引出物を入れるような大きな紙袋を手に持っていたが,わきに抱えるなどP20教授から見えるような形で,針箱を持っているということはなかった。
その後,被告人がナースステーションに戻ったため,P20教授もナースステーションに入って,机の上に置かれた被告人の荷物が入れられていると思われた白い紙袋の中を上からのぞき込んだところ,上の方まで荷物が入っていることは確認できたものの,その具体的な中身については確認することができなかった。そして,被告人は,P62看護婦らに「また改めて来ますから。」などと言って帰っていった。この時にも,P62看護婦やP61助手が被告人に対してプレハブ小屋の鍵を貸したことはなく,また,被告人自身がその鍵を取出したこともなかった。
〔5〕P36刑事がP51刑事と電話で連絡を取っている時に,被告人が職員通用口から出てきたため,P36刑事は車を降りて被告人の元へ近づき,P52刑事もP36刑事の後に続いた。被告人は,白っぽいカーディガンを着て白っぽい引出物を入れるような大きな紙袋を右手に提げて持っており,P36刑事から「何をしている。P20教授はどうした。」などと声をかけられると,「教授は中にいますので案内します。」などと答えて,職員通用口から北陵クリニック建物内に入っていった。なお,この時,被告人が,針箱を手に持ったり,小わきに抱えるなどしていたことはなかった。
P36刑事も被告人に続いて職員通用口から内部に入ったが,その直後,その視界から被告人の姿が消え,バタバタという足音が聞こえたため,P36刑事は被告人が逃げたものと考え,その足音を頼りにして被告人を追いかけ,外来中通路の方に行ったが,被告人の姿は既に見えなかった。P36刑事は,外来中通路沿いにある診察室,処置室等に被告人がいないかを順次確認しながら前進していくと,手術室前室(以下,単に「前室」ということもある。)の方から明かりが見えたためその方向に進んでいった。そして,P36刑事が手術室前室に入ったところ右手の方から人の気配がしたため,その方向に近づくと,更衣室の中で,被告人が前にかがみながら,その左手に白っぽい紙袋を持ち,右手を前に伸ばして脱衣かご付近の床上に置かれた針箱に手を掛けている状態が目に入った。P36刑事が被告人に対して「何をしてる。」と声をかけると,被告人は一瞬びくっとしてP36刑事を振り返りながら右手で針箱を手繰り寄せるような行動をとり,P36刑事が特に説明を求めたわけでもないにもかかわらず,「自分がオペ室で使った医療用のごみを捨てるのを忘れたので取りに来た。」などと息を切らすようにしながら説明した。また,被告人は,その針箱を右手で抱えて更衣室から前室に出て,前室の流し台付近の床にあった大きい針箱の隣にその針箱を置き,P36刑事が特に尋ねたわけでもないのに,大きい針箱を指さしながら,「これと同じようにオペで使ったごみをこのように置いておくんです。」などと説明した。P52刑事もP36刑事の後を追いかけてきて,手術室前室で追いつき,被告人が針箱のことを話すのを聞いていた。
その後,被告人が前室から立ち去ろうとしたため,P36刑事が被告人に対し,P20教授の所在について質問したところ,被告人は,ナースステーションかリハ室にいると答えたため,P36刑事は,P52刑事と被告人をその場に残してリハ室に行った。そこで,P20教授に出会ったP36刑事は,P20教授に対し,職員通用口にいたところ被告人が出てきて職務質問したらクリニックに戻るような格好をしながら突然走り出して逃げたので追いかけ,ある部屋にいるところを押さえたが,そのとき針箱に手を掛けていたなどと報告するとともに,P51刑事にも電話で事実経過を報告した。
〔6〕P36刑事は,P20教授と共に,手術室前室に戻り,P52刑事及び被告人を加えた4人で,理事長室に移動した。P36刑事とP20教授は,P52刑事と被告人を残して二人で被告人が逃げた経路に薬品類が隠されていないか,物の移動がないかどうかを確認したが,薬品類を発見することはできなかった。
一方,理事長室に残されたP52刑事は,被告人と話したところ,被告人がこの日で病院を退職することになったこと,明日病院に来ることになっていること,紙袋の中の品物は持ち帰るのを忘れた私物の資料であることなどと話したため,明日病院に来るならばその時に持ち帰ればいいのではないか,わざわざ夜中に来なくてもいいのではないかなどと言ったが,被告人は何も答えなかった。
その後,理事長室において,P36刑事が被告人に「なんでこんな時間に来るんだ。」と尋ねたところ,被告人は「明日でもよかったが忘れ物を取りに来た。P18医師がいない時間を見計らって来た。」などと答え,針箱については,「オペで使った医療用のごみで,自分が使った物であるから責任を持って処分するつもりで来た。」などと話していた。P36刑事が針箱の中をのぞいたところ,大きい針箱には注射針や電極針が少し入っていただけであったが,小さい針箱には注射針やアンプル類などがほぼ満杯の状態まで入っていた。また,P52刑事や応援に駆けつけた警察官が紙袋の中身を確認したところ,その中には雑誌等が入っていたが,紙袋の大きさと比較するとその量は少ないものであった。
P36刑事は,P51刑事に対し,針箱の中身はごみであり,薬品類の持ち出しは確認できなかったと報告し,被告人を帰宅させた。
〔7〕P51刑事は自らも北陵クリニックに駆けつけ,午後11時15分ころ,北陵クリニックに到着して,理事長室に入ったが,職員通用口のところで帰宅する被告人とすれ違うということがあった。また,P18医師も被告人が帰ったことを確認して理事長室に入った。
P51刑事,P52刑事,P20教授,P18医師らは,理事長室において,代わる代わる丸い開口部から針箱の中をのぞき込み,小さい針箱の中には一番上にマスキュラックスの空アンプルがあることをそれぞれ確認した。
P51刑事がP20教授及びP18医師に対して,針箱が手術室に置いてあるものかどうかを尋ねたところ,両者の記憶があいまいだったため,P06婦長に確認することになった。P06婦長は,翌5日午前零時30分ころ,理事長室に到着し,針箱に関して,アンプルと針は分別されており針箱にアンプル類は入れないはずである,手術室に針箱を置くように指示したことはなく見たこともないので置いてあるはずがないなどと説明した。
この日,二つの針箱は,それぞれビニール袋に入れられ,その鍵をP18医師とP92事務長代理のみが持っていた理事長室の金庫に保管されることになった。
〔8〕翌12月5日,上記二つの針箱の実況見分が行われ,被告人が更衣室において手を掛けていた小さい針箱の中には,マスキュラックスの粉末の空アンプル19本(そのロット番号の内訳は,「24973794」のもの14本,「2935459Y」のもの3本,「2956869Y」のもの1本,「21917486」のもの1本),サクシンの空アンプル8本など数種類の薬剤の空アンプル,FES手術において使用する電極や針などが入っていた。
イ 上記認定事実に沿う証拠について
以上の認定事実の基礎となる各証言は,その内容がいずれも具体的で,非常に印象的で記憶に残る出来事を多数含んでいる上,相互に良く符合しており,その信用性は基本的に肯定し得るものというべきである。
なお,弁護人は,P36刑事及びP52刑事の証言について,被告人を追いかけた際にナースステーションから漏れてくる明るい照明に気付かないのは不自然,不合理である旨,また,手術室前室の出入口にはクリーンマットシートが敷いてあり,その上を歩いたときには音がするのであるから,P36刑事から声を掛けられた被告人がびくっとしたとの供述は信用できない旨主張する。
しかし,当時,P36刑事やP52刑事は,北陵クリニックから出てきた被告人を呼び止めたところ,突然,被告人が逃げ出したため,被告人を追跡するという一種の緊急事態に置かれ,被告人の所在を見出そうとする方に意識を集中させながら,慣れない北陵クリニックの建物内部の少なくとも明るい照明のない通路部分を進んでいく過程で進路わきのナースステーションから漏れる明かりより,ほぼ正面から漏れてきた手術室前室の明かりの方に気が入ってそちらに向かったと解し得るのであって,このような具体的な状況下で,P36刑事やP52刑事がナースステーションの照明に気付かなかったからといってそのことが必ずしも不合理,不自然とはいえない。
また,被告人が,北陵クリニックから針箱を持ち出そうとしたところ,突然,P36刑事に呼び止められたため,急いで手術室の更衣室に逃げ込んだというこれまた緊急事態に直面していたことを前提とし,併せて,土足でクリーンマットの上を歩いた場合の音の程度は,履いていた靴やクリーンマットの踏み方などに左右され得ることなどの事情を考慮すれば,被告人において,近づいてくるP36刑事らがクリーンマットの上を歩く音に気付かなかったとしてもやはり不自然とはいえない。
ウ 被告人の供述の信用性について
(ア)12月4日の言動等について,被告人は,次のとおり供述する(第14回ないし第18回)。
〔1〕被告人は,12月4日,休日にP20教授から呼び出された。そして,P20教授から「いやあ,うちのがちょっとこのごろノイローゼになっちゃってさ。P02君が当直のときに急変が多くてさ。それでうちのがちょっとまいっちゃったんだよ。」と言われ、被告人が「それでお話というのは何でしょうか。」と聞くと,P20教授は「実は仕事を休んでくれ。」と言ってきたので,被告人が「仕事を休めということは当直を休めということですか。」と聞くと,P20教授は「いやあ,そうじゃなくて。仕事をちょっとの間休んでくれ。」などと言った。被告人は「12月一杯働いてから休むということじゃ駄目なんでしょうか。」と言ったが,P20教授が「本当はうちのを休ませればいいんだけれども,今は病院にとって稼ぎ時だし,あなたも知ってるようにうちは赤字経営だからうちのを休ませるわけにはいかない。郁子がよくなるまでP02君にちょっと休んでいてほしいんだ。」と言ったので,被告人が「それは12月から休めということなんですか。いつから休むんですか。」と聞くと,P20教授は「明日から休んでくれ。」と言ってきた。これに対して,被告人が12月分の給料,当直代などの手当て,ボーナスの支給,P25で勤務できる手配を要望したところ,P20教授は「こっちからの勝手なお願いだからちゃんとそのとおりするから。」と答えた。さらに,P20教授は「今日中に退職届を出してくれ。」と言ってきたので,被告人が「退職届ですか。休職扱いじゃないんですか。」と言うと,P20教授は「そうだ。悪いけど書いてくれ。」と言い,被告人が「退職届は12月31日付けでよろしいでしょうか。」と確認すると,P20教授は「今日付けで書いてくれ。」と言ってきたので,被告人が「教授,それはおかしいんじゃないですか。」と言ったが,P20教授は「いやいや,それはちゃんとこちらの方で給料出すようにするから今日付けで書いてくれ。」と言ったため,被告人は「教授がそう言うんなら,そのとおり書きます。」と承諾した。
〔2〕その後,被告人は,北陵クリニックに戻り,ナースステーションの前まで行ったところ,P06婦長とP10看護婦に会い,P06婦長から,「本当に辞めるの。」などと話しかけられた。そして,被告人は,P06婦長から段ボール箱を受け取って,その中に,ナースステーションなどにある私物を入れた後,退職届を記載して,P06婦長に渡した。また,被告人は手術室のワックス掛けを行ったが,その際に,大きい針箱と小さい針箱を更衣室の方に移動させたことがあった。
ワックス掛けが終わった後,被告人は,P12医師,P84医師及びP18医師にあいさつをした。その後,被告人がリハ室にいた時に,リハ室出入口のドア付近に,P18医師とスーツ姿の男性二人くらいを見掛けたことがあった。
被告人は,荷物を入れた段ボール箱を車に積み込んで,帰途についたが,その途中で,警察官から職務質問及び所持品検査を受けるということがあった。
〔3〕被告人は,自宅に帰ってから,ナースステーションに,手術や救急に関する私物の本やカタログなどを置いていることに気付き,それを取りに行こうと考えた。P10看護婦から「明日でもいいんじゃないの。」と言われたが,被告人は,P18医師に会いたくない気持ちがあり,夕食を食べに行きながらということで,その日に北陵クリニックに行くことにした。被告人とP10看護婦は,P10看護婦の運転する車(パジェロミニ)で北陵クリニックに向かい,被告人は,ナースステーションにおいて,自宅から持参した紙袋に私物の本などを入れた。ナースステーションでP20教授に会い,被告人は,麻酔記録用紙を渡した。被告人は,更衣室を確認に行ったところ,捨てようと考えていた小さい針箱をそのままにしていたことに気付いた。被告人は,丸いはめ込み式のふたが閉められている針箱を左わきにはさみ,紙袋を左手で持って手術室を出たところ,アコーデオンカーテンのところでP20教授と出会った。
そして,被告人は,ナースステーションに「じゃあ,帰ります。」と声を掛けて,北陵クリニックから帰ることにした。
〔4〕被告人が,小さい針箱を左わきに挟み,紙袋を左手で持って職員通用口から一,二歩出たところで,P36刑事から「おいおい,どこへ行く。」と声を掛けられてその右腕をつかまれ,そのまま「ちょっと中に入れ。いたところに戻れ。」と言われた。職員通用口内に入った後P36刑事から腕を放された被告人は,普通に歩くスピードで外来中通路を通って手術室に向かい,その後ろをP52刑事が同じスピードで付いてきた。そして,被告人は靴をサンダルに履き替えて前室のドアをセンサーで開け,電気をつけて前室に入り,更衣室の電気をつけて,針箱や紙袋を置いたところ,P52刑事の後に来たP36刑事から「ここで何やってたんだ。」と聞かれたので,被告人は,荷物を取りに来た,ごみを捨てようと考えていたなどと答えた。すると,P36刑事が針箱を指して「それはどこにあったものなんだ。」と聞いてきたので,被告人は,説明しようとして針箱をカラーボックスのわきに移動させた。また,P36刑事から「P20教授はどこにいる。」と聞かれて,被告人が「ナースステーションかリハビリ室にいると思います。」と答えると,P36刑事は手術室から出ていき,被告人がP52刑事の足を見たところ,土足だったため,「オペ室なんでサンダルに履き替えてください。」と言うと,P52刑事は「ごめん,ごめん。」と言ってサンダルに履き替えに行くということがあった。
その後,戻ってきたP36刑事から,「今持ってたもの,触ってたものを持って付いてきなさい。」と言われたので,被告人は,紙袋と2つの針箱を持って,理事長室に移動した。理事長室において,被告人は,小さい針箱のふたを開けるように言われてふたを開け,その中身について,「手術で使った電極とかアンプル,針とかが入ってます。」などと説明した。なお,被告人は,理事長室において,P45刑事から「本当は逮捕してもいいんだからな。」と言われたことがあった。
その後,P45刑事から「帰っていい。」と言われ,被告人は,北陵クリニックから帰っていった。なお,被告人が職員通用口から外に出たときに,北陵クリニックの駐車場に,鉄格子のようなものが張られている護送車のような車が駐車してあった。
(イ)以上の被告人の供述の信用性について検討するに,被告人の供述には,次のような明らかに不自然,不合理な点があることを指摘することができる。
〔1〕まず,退職をめぐる被告人とP20教授とのやり取りに関して,被告人の供述を前提とすると,被告人は,P20教授から,まず,仕事を休んでくれと言われ,これを承諾すると,次に,退職届を出してくれと言われ,さらに,その日付けの退職届を提出するように言われたということになり,しかも,被告人は,これらの要求に対して,特段強く抵抗するわけでもなく応じたということになる。
しかし,当初仕事を休むように話してきたP20教授が,被告人がこれに応じるや,いきなりその日付けの退職届を提出するように言ってきたというのは極めて唐突で不自然である上に,P20教授から休職や退職の話をされると予期していなかった被告人が,休職することだけでなく,退職することについてまで,特段に強い抵抗もせずに短時間で応じるに至ったという事実経過は,それ自体あまりに不自然,不合理といわなければならない。しかも,この時に,被告人がP20教授から伝えられた理由も,休職や退職の話を予期していなかった人間を納得させられるといえるかどうか甚だ疑問の残る内容であるし,当時の心境に関する被告人の供述内容も,自己に非がないのに突然退職の話を持ち出された者のそれとしては,少なくとも感情の変化が読み取れず,不自然の感を免れない。
〔2〕次に,被告人が北陵クリニックの職員通用口から帰ろうとしたところ,P36刑事に止められて,手術室前室に戻ることになった時の状況について,被告人は,普通に歩くスピードで外来中通路を歩いた,後ろからP52刑事が付いてきたなどと供述し,さらに,前室に入る際に,自らは靴をサンダルに履き替えた,P52刑事やP36刑事が前室の前にあるマットの上を歩く音を聞いた,P52刑事が土足のまま手術室に入ってきたことにしばらく気付かなかったなどと供述する。
しかし,仮に,被告人の供述するように,被告人が警察官らと一緒に普通に手術室前室まで到着し,格別心理的な動揺もなく自らは靴をサンダルに履き替えたというのならば,当然,病院に勤務経験のある被告人が,警察官らにも靴を履き替えるように話すはずと考えられるし,しかも,被告人が供述するように,警察官らがマットの上を歩く音を聞いていたにもかかわらず,しばらくの間警察官が土足であることに気付かなかったというのも不自然である。
しかも,この日当直勤務であったP62看護婦は,この時の様子について,捜査段階において,検察官に対して,「ナースステーションの北側の,ナースステーションと事務室の間の通路の方から,『バタバタ』という感じの音が聞こえてきたのです。」,「クリニックの職員通用口の近くの厨房の方から,小走りにやってくるP02君の姿と,その後ろの方から付いてくる人影が見えたのです。」などと供述している(甲18。なお,P06婦長の証言(甲251)によれば,P62看護婦は,その夜のうちにP06婦長に対し,不審な出来事として同様の話をしていることが認められる。)ところ,その供述内容は,特に不自然,不合理な点がなく,供述調書の記載からして,記憶があいまいな点はその旨正直に供述し,内容を読み聞かされた後に訂正を申し立てるなど真しに供述していることがうかがわれる上に,P62看護婦が当公判廷においてはむしろ被告人に殊更有利な証言を行おうとする態度が見られたという事情が存することを併せ考慮すれば,上記P62看護婦の供述は,その信用性が極めて高いと評価できるのであって,被告人の供述内容は明らかにこの信用性の高いP62看護婦の供述内容と相いれないものである。
〔3〕また,被告人が,12月4日の夜,小さい針箱を北陵クリニックの外部に持ち出そうとしたこと,その際に,ごみ捨て場であるプレハブ小屋の鍵を持っていなかったことについては,被告人も特に争っておらず,この時の状況について,P18医師に会わないように,夜,北陵クリニックに忘れ物を取りに行ったところ,満杯になった針箱を捨てるのを忘れていたことに気付き,これをプレハブ小屋に捨てようと考えたが,プレハブ小屋にかぎが掛かっていることは知らなかったなどと供述している。
しかし,まず,被告人自身,上記のように供述する一方において,給料などを取りに行くために,12月4日以降にも再度北陵クリニックに行く予定があったなどと供述しているのであり,それにもかかわらず,わざわざ,この日の夜中に再度北陵クリニックに行ったというのは不自然の感を免れない(なお,被告人の供述するところによっても,この日の夜に再度北陵クリニックに行かなければならないような緊急の重大な事情があったとは認められない。)。しかも,被告人は,そのような行動をとった理由の一つとして,P18医師に会いたくなかったことを挙げているのであるが,その一方で,この日の夜北陵クリニックの駐車場にP18医師の車が停まっていたことを認識していたとも供述しているのであり,これらの事情を考慮すると,被告人の供述の不自然さは顕著である。
また,被告人は,プレハブ小屋の鍵の存在を知らなかったと供述しているが,その一方において,被告人自身も,プレハブ小屋の鍵が保管されていたナースステーションの事務机の引き出しの中を見る機会が何度もあり,その引き出しの中に保管されている他の鍵の存在については認識していた旨供述している上,プレハブ小屋の鍵には「プレハブ用」との表記があり(甲37),一見してプレハブ小屋の鍵と分かる状況にあったことなどの事情に照らすと,殊更,プレハブ小屋の鍵の存在のみを認識していなかったという被告人の供述は不自然,不合理といわなければならない。しかも,P71助手は,自らがごみを運ぼうとしている際に,被告人がプレハブ小屋の鍵を引き出しから取出して渡してくれたことがあった旨供述しているところ(甲386),特にその信用性に疑いを差しはさむような事情は見当たらず(なお,弁護人の主張する事情はおよそその信用性を減殺させる事情とはいえない。),被告人の供述が信用できないことを裏付けている。
さらに,被告人は,小さい針箱を左わき下に抱えて手術室を出てナースステーションに声を掛け,針箱を左わきに挟んだまま職員通用口から出たと供述しているが,北陵クリニックから退出する直前に被告人がナースステーションに来たときの様子について,P62看護婦は,検察官に対して,「P02君が戻ってきたので,P02君に,『おにぎり食べてかない。温めておいたよ。』と声を掛けたのですが,P02君は,『いいっすよ。』と言うので,私が,『何で,チョコフレークもあんのに。』と引き留めようとすると,P02君は,『また改めて来ますから。』などと言って,帰って行ったのです」,「この時も,P02君からプレハブの鍵を貸して欲しいなどとは言われていませんし,この時は,P02君に向かって2,3分間ほど立ち話をしていましたから,P02君の様子を目にしていたわけですが,P02君がプレハブの鍵を机の引き出しから取り出すようなことはしていません。また,P02君は,この時,白い紙袋は持っていませんでしたが,私は,どこかに,荷物を一時置いてきたのだろうと思いました。」などと供述しているところ(甲18),上記のとおり,P62看護婦の供述はその信用性が高いと評価でき,被告人の供述内容は,この点でも明らかにP62看護婦の供述内容と矛盾している。
〔4〕被告人は,自分も小さい針箱にマスキュラックスの空アンプルを捨てたことがある,全身麻酔が予定されている時に被告人が筋弛緩剤を準備しておくことがあったが,マスキュラックスとサクシンの両方を準備しておいたため,使用しなかった筋弛緩剤の空アンプルも廃棄していたなどと供述している。
しかし,まず,既に認定したように,医療廃棄物の分別が厳格に行われていた北陵クリニックにおいて,本来空アンプルを捨てることが予定されていない針箱に筋弛緩剤の空アンプルを廃棄していたとの被告人の供述は極めて不合理である。しかも,被告人が供述するように,2種類の筋弛緩剤をあらかじめ準備しておき,使用しなかった方は廃棄していたなどという扱いは,その内容自体,非常に不自然,不合理である上,筋弛緩剤の準備状況等に関して,被告人が就職して以降北陵クリニックにおいて手術の際に筋弛緩剤を使用したことのあるほとんどすべての麻酔科医は,手術の内容や患者の状態などの事情を考慮して,自らが筋弛緩剤を準備した,あるいは,介助者に具体的な筋弛緩剤の種類や量を特定して依頼したと供述しているところ(甲252ないし260),これらの者があえて虚偽を述べる事情はうかがわれず,その供述内容も合理的かつ自然であって,十分信用し得ることとの対比においても,これらの供述と相反する被告人の供述は到底信用できない。その上,前記のとおり,被告人が持ち出そうとした小さい針箱からは,ロット番号が「24973794」のマスキュラックスの粉末の空アンプルが14本発見されているが,このロット番号のマスキュラックスは20アンプルが平成11年12月13日に北陵クリニックに納入されたものであり,同日以降平成12年12月4日までの間に筋弛緩剤が使用された手術は5件にすぎず,そのうち被告人が立ち会った手術も3件にとどまることに照らしても,被告人の供述内容が不合理であることは明らかである。
(ウ)以上の事情を総合考慮すると,被告人の上記一連の供述中,前記認定に反する部分は,いずれも到底信用することができない。
エ 弁護人の主張について
弁護人は,プレハブ小屋の施錠について,ごみ捨ては助手の仕事であったためプレハブ小屋に出入りしたことのない准看護士であった被告人がかぎを掛ける仕組みになっていたことを知らなくてもおかしくない旨主張するが,上記認定のとおり,被告人がプレハブ小屋の施錠について認識していたことは優に認めることができる。しかも,弁護人の主張を前提とすると,12月4日夜,P61助手が勤務していることを認識していた被告人が,なぜわざわざ自らごみを捨てようと考えたのか,また,ごみを捨てたことがない被告人が,なぜ当直勤務であったP62看護婦やP61助手にごみの捨て方等について何ら尋ねることもなくごみを捨てようとしたのかといった点について合理的な説明がつかないものといわなければならない。
また,弁護人は,P10看護婦を罪証隠滅行為のいわば共犯者に巻き込む心積もりのない被告人が,わざわざ,P10看護婦の車で,P10看護婦の運転で,P10看護婦と一緒に北陵クリニックに向かうという行動をとるのか疑問であると主張するが,後に認定するように,被告人は,針箱をわざわざ紙袋に入れ,しかも,外から見ても分からないようにした上で持ち出そうとしたことが認められ,仮に被告人の計画した通りに進行したとすれば,P10看護婦も含めてだれにも気付かれることなく,北陵クリニックから針箱を持ち出すことができたのであるから,P10看護婦の車で,P10看護婦と一緒に被告人が北陵クリニックに行ったとしても,そこに何ら不合理な点はない。
オ 推認される事実
前記ア認定の各事実によれば,被告人は,12月4日,P20教授に対して格別の反発も示さずに退職の意思表示をし,その日の夜,いったん帰宅した後,特段差し迫った用事がなかったにもかかわらず,再度北陵クリニックに赴いたこと,そして,被告人はそれまでに針箱を自ら捨てたことがなかったにもかかわらず,マスキュラックスをはじめとする薬剤の空アンプルなどが多数入れられた針箱を北陵クリニックの外に持ち出そうとしたこと,被告人は,針箱を廃棄すべきプレハブ小屋にはかぎが掛かっていることを認識していたにもかかわらず,北陵クリニックから針箱を持って外に出た際にその鍵を所持していなかったこと,針箱をわざわざ白い紙袋に入れ,外からは見えないようにしていたことなどの事実が認められ,これらの事実によれば,被告人は,針箱の中に,他人に見られたくない,他人に見られては都合が良くない物が存在していることを認識しつつ,北陵クリニックを退職することが決まった日の夜に,北陵クリニックからこの針箱を持ち出して,人知れずその内容物を処分するか,少なくともいずれかに隠匿しようと考えていたという事実を推認することができる。
(5)まとめ
以上のように,北陵クリニックにおいては多数の使途不明のマスキュラックスが発生していたが,その原因は被告人の意図的な行動によるものであり,また,被告人は12月4日の夜に北陵クリニックから持ち出そうとした針箱の内容物をひそかに処分,隠匿しようとしていたことが推認される。
そして,被告人が持ち出そうとした針箱の中から使途が不明であるロット番号のマスキュラックスの空アンプルが多数発見されていること,被告人は,12月4日夜にわざわざ再度北陵クリニックに赴いた理由,針箱を持ち出そうとした目的,針箱の内容物等に関して全く不自然,不合理な内容の虚偽の弁解を重ねていることなどの事情を併せ考えると,被告人は,北陵クリニックにおける薬品の管理状況が極めてずさんであった間げきをぬって,正規の医療行為として使用する以外の目的でマスキュラックスを発注した上,納入されたマスキュラックスを実際に不正に使用するなどし,その結果生じたマスキュラックスの空アンプルを針箱に廃棄していたところ,この針箱を12月4日に持ち出そうとしたものであることが合理的に推認できるというべきである。
(1)三方活栓からの注入行為をしたのが被告人であること
前記のとおり,P03が容体を急変させたのは,何者かが注射器を三方活栓に接続してマスキュラックスを注入したことが原因であると推認することができ,P03事件の犯人を特定するためには,本件注入行為を行ったのが何者であるかが極めて重要な事実と認められる。ところで,弁護人は,被告人が注射器を病室外から持ってきたことはあるものの,本件注入行為には関与していない旨主張し,被告人もその旨の弁解をするので,まず,この点につき検討する。(なお,以下,本項においては,平成12年2月2日のことを「本件当日」ということがある。)
ア 被告人の本件注入行為に関する各目撃供述の要旨
P03の両親及び複数の北陵クリニック看護職員は,本件注入行為をしたのは被告人であるとして,これを目撃した状況やその前後の状況について,捜査段階又は公判廷において,概要次のとおり供述している。
(ア)P13看護婦の検面調書(甲60)における供述
P03をN3病室に移動させた後もP03に施行していた点滴が何度か滴下不良になり,被告人が「ヘパ生持ってくるから。」などと言って一人で病室を出ていき,その後5分以内に戻ってきた。
そして,被告人は,P03につながれている点滴ルートの三方活栓から,持ってきた注射器を使って,注射器の中に入っていた薬液を注入していた。注射器の大きさ,薬液の容量は覚えていないが,中の薬液が透明だったことは覚えている。
私は,被告人が注入行為をする様子を,ベッドを挟んで1メートルほどの距離で見ていた。私のどちらかの隣にはP10看護婦がおり,被告人の隣にはどちら側かにP16主任がいた。被告人とP16主任の後ろに他の人たちがいたが詳しい位置は覚えていない。
被告人が「ヘパ生持ってくるから。」と言っていたので注入した薬液はヘパ生(ヘパリンアップジョン1000と生食を調合したもので,血液が固まるのを防いで,点滴液を流れやすくする効果がある。)と思っていた。三方活栓からヘパ生を注入することを「ヘパフラッシュ」と言い,略して「ヘパフラ」と呼んでいることから,その後看護記録を記載するときに,ヘパフラと記載した。ヘパ生の調合割合については,記載しているとき,被告人から,ヘパリンアップジョン1000が0.1cc,生食が9ccと聞いたため,その内容を「ヘパフラ(0.1cc,NS9cc)」と記載した。(なお,北陵クリニックの診療録(甲78)の該当個所にはそのとおりの記載がある。)
(イ)P14の証言
病室を移動して15分くらいした後,被告人が,いつ病室を出ていったのかは記憶にないが,入口から,右手に注射器を持って病室に入ってくるのを見た。被告人は右手の親指の腹のほうを注射器の押し棒に当てて,人指し指と中指とで挟んで持っており,注射器の先は上を向き,押し棒は引いた状態だったが,針がついていたかは覚えていない。その注射器本体の先端から押し棒の先端までの長さは10センチくらいであり,被告人の中指と親指の間隔は5センチくらい,注射器の太さは1センチから1.5センチくらいで,注射器の筒は透明で,中には透明な液体が,半分より少し多いくらい入っていた。
被告人は,注射器を持って,点滴の管の途中にある三方活栓(なお,同証人はコックのようなものと表現しているが三方活栓を指すことは明らかである。)に注射器を刺して液体を入れた。私はベッドの足元側の入口側にいて,それを目撃した。
病室内には,被告人のほかに四,五人の看護婦がおり,被告人は点滴スタンドの右横に立っていた。注射器を持って入口から入って来ると,そのままその場所まで行き,少し前かがみになるようにして,三方活栓を左手で持ち,その後ふつうに背を伸ばして立った状態で,右手に持っていた注射器の先を三方活栓に刺した。少なくともその時点で注射器に針は付いておらず,また,三方活栓にキャップのようなものがあったかは覚えていない。それから被告人は,左手に持っていた三方活栓のレバーを右手の指でどちらかに回し,その後,三方活栓に刺さった注射器を,人指し指と中指で挟み,親指の腹で,注射器の棒をゆっくりと押し込み,入っていた液体の半分くらいの量を注入した。
それから被告人は,注射器を三方活栓から抜いたが,三方活栓にキャップをはめたかは覚えていない。それを見ていた私は,被告人や他の看護婦から説明があったわけではないが,点滴の管の途中に液体を入れて、点滴の流れを確かめるためにやったと思った。被告人がその後注射器をどうしたかは覚えていないが,P03に対する点滴は,その後も続いており,落ちが遅くなることはあっても完全に止まることはなく,輸液ポンプのアラームが鳴ることもなかった。
P03に接続された点滴セットの三方活栓に注射器を接続したのは被告人だけであり,他に同様の行為をして液体を注入した者はいない。
(ウ)P15看護婦の証言(甲263)
病室移動後も,滴下不良を知らせる輸液ポンプのアラームは鳴っており,P16主任がP03の足の向きを変えたりしていた。その際のサークルベッドの廊下側の端の近くには,私,P16主任,被告人がおり,私からベッドを見て右隣にP16主任,その右隣に被告人がおり,被告人が点滴スタンドの最も近くにいた。被告人はその後,何かを「持って来る」と言って病室を出て行ったが,その際にP16主任が被告人に対しヘパ生を持ってくるようになどとの何らかの指示を出したことはなかった。その二,三分後,被告人がN3病室に入ってきた場面は見ていないが,P03のベッドわきの点滴スタンドの横の,ほぼ元いた位置と同じ所に戻ってきた。被告人は,中に透明の液体が入っており,注射針とキャップが付いた5ccの注射器を,左右いずれかだったかは覚えていないが一方の手に持っていた。
被告人は,少し前かがみになって,三方活栓を注射器を持っていない方の手でつかみ,その後普通の立った姿勢になり,三方活栓のキャップと注射器の針を取り,注射器を三方活栓のキャップがあった部分につないだ。その後被告人は,立ったまま,三方活栓のレバーを点滴ボトル側に90度ひねり,注射器の内筒を押して,透明な液体の一部を注入した。内筒を押すスピードは普通だったと思う。私は,その間被告人の手元をずっと見続けていた。私は,被告人は点滴の詰まりを取るためのフラッシュという行為をしたのだと思った。被告人は自ら三方活栓から注射器の中の薬剤を注入しており,被告人が持ってきた注射器をP16主任に手渡したことはない。被告人が注入している間,それに対しコメントを口にする看護婦はおらず,被告人自身も無言だった。被告人がその後注射器をどうしたか覚えていない。
(エ)P16主任の証言(甲315)
N3病室でP03の足の角度を調整しても点滴の落ちが悪く悩んでいたところ,被告人が,「詰まっているかもしれないからおれヘパ生持ってくる。」と言って,病室を出て行った。ヘパ生を持ってくることについて私が被告人に頼んだことはないし,私から被告人に言葉を掛けた事実もない。私は被告人がナースステーションに行ってヘパ生を調合して注射器に詰め,それを持ってきてヘパフラをするつもりなのだと思った。被告人がN3病室から出て行って,再びN3病室へ戻ってくるまでに二,三分くらいかかった。二,三分と思う理由は,その間私は,通常ヘパ生の調合は,1分もかからず,仮にヘパリンを薬品庫から取り出す作業が加わるにしても1分くらいで可能であるにもかかわらず,このときは,ヘパリンを詰めてくるにしては少し時間がかかるなと思っていたし,その間P03の足の角度を変えながら点滴を見たり,P03の母や他の看護婦と話をして待っていたことからである。
被告人が入ってきたとき,5cc用の注射器を右手に持っており,押し棒は引き出された状態で,注射針とそのキャップが付いていた。その後被告人が三方活栓につないで中の液体を注入した。
被告人は,私の右側に来て,まずベッドのわきに少し垂れていた三方活栓を手に取った後,黄色いキャップを外し,持ってきた注射器を三方活栓の口に入れ,三方活栓のレバーを操作してボトル側にひねって,輸液ボトルの方向をオフにし,注射器の押し棒を押して,中の液体をP03の方に流し入れた。このとき,被告人が押し棒を押すスピードは,通常薬剤を注入する場合と同程度だった。注射器の中の液体は透明なもので,それが5ccくらいの量が入っていたうちの半分くらいを注入した。私はそれを見て,半分注入しただけでサーフロー針の詰まりが良くなったのかなと思った。注入時の被告人の姿勢は,立った状態のまま,頭だけを少し前に下げるようにしており,三方活栓は腰付近の高さにあった。その後被告人は,三方活栓のレバーの操作をし,元通り注射器の付いている口の方向をオフにしてから,注射器を三方活栓から外し,三方活栓にキャップをした。
被告人が側注した注射器には,書き込みはされておらず,マジックで「ヘパ生」と書かれてはいなかった。被告人の注入行為を見ていた際の私と被告人との距離は二,三十cmくらいで,私はしゃがんだ状態で見ており,注射筒の目盛りが書かれた面が上を向いており,目盛りのある部分とない部分が半分ずつ見えた。注射器も中の液体も透明なので,仮に反対側に「ヘパ生」と書かれてあったとしても,そのような記載があれば見て分かるはずであるが,記載はなかった。
なお,被告人が三方活栓から液体を注入した時点では,滴下状態を見るために輸液ポンプを外してあったが,被告人の注入後,滴下状態は少し良くなり,点滴はゆっくり落ちていた。
(オ)P17の証言
被告人は,どこから持ってきたかは覚えていないが,筒の長さが五,六cmくらいの注射器を使い,普通に立った姿勢で,点滴の管の途中にある三方活栓(同証人は,薄緑のレバーがついた器具と表現している。)から透明な液体を注入した。被告人は注入の際無言であったが,点滴の落ちを良くする作業をしていると思った。
イ 本件注入行為をした主体につき,本件当日又は翌日に言及された状況に関する関係者の供述の要旨等
(ア)P33医師の証言(甲264)
P33医師は,市立病院においてP03に救命措置を講じている間に,P03の両親と面会した際の状況につき,次のとおり証言しており,また,市立病院におけるP03の診療録(甲79)中にも,その証言にあるとおりの記載がある。
診療録綴中の,既往歴や入院に至った経緯を書く「Admission Record」
(アドミッション・レコード)の「Present Illness」の欄の,「“看ゴ婦さんが注射器をもってきて入れた”と父」との記載,及び,外来診療録中の,「シリンジで押したりしていた 父“注射器もってきて入れた”と」との記載は,いずれも私が記載したものである。これらの記載は,市立病院において,P03が集中治療室に入院する前に,P03の両親から搬送に至る経過を聞いた際,受けていた点滴の具合が悪くなり,器械が鳴るようになって,母が抱っこした状態で看護婦にその処置をしてもらったとの話があり,その際,父から,そのときに注射器を持ってきて何か液体を入れたとの話を聞いた。その直後に容体が変化しており,それが原因で容体が急変したのではないかということを,父親が興奮して強く言っていたので記載した。父親は,注射器に入っていた液体を三方活栓からP03に注入したと言っていたと思った。
そのような行為をだれがしたと言っていたかについては,医師ではない旨言っていたことは記憶しているが,看護婦と言われたか,看護士と言われたかの記憶はなく,「男の看護婦が注射器を持ってきて入れた」旨言われた可能性もあるが,明確な記憶はない。上記書面中の「看ゴ婦」との記載も,必ずしも女性の看護職員であることを意味する記載ではなく,医師ではない,医療従事者で患者に処置を行う人として,一般的に看護婦としたものである。
また,「Admission Record」の上記記載の右側の,「北陵クリニックに確認したが点滴okで結局は入れてないと」との記載と,外来診療録の上記記載の右下の,「北陵クリニックに問いあわせ 何も入っていないシリンジで押そうと思ったが結局押さなくてもすんだとのこと」との記載も,いずれも私が記載したものであるが,これらは,父親が言っていたことを確認するため,P03が入院した翌日の同年2月3日午前9時前後に,北陵クリニックに電話をして,P18医師に問い合わせをしたところ,何も入っていないシリンジで押そうと思ったが,結局,押さなくて済んだという返事だったので,それを記載したものである。北陵クリニックに電話した際は,最初は他の職員が出て,その後にP18医師に替わってもらった。そして,P18医師に対し,お父さんからP03が急変する直前に,注射器を持ってきて何か入れたようだという話を聞いたので,そういうことがあったのか確認したいのでお電話しましたと話すと,P18医師から,ちょっと待つように言われ,後に,上記診療録に書いた内容のように,空の注射器を持ってきて入れようとしたが,結局点滴からの滴下が大丈夫と分かったので何も入れなかったと聞いた。その回答を待っていたときは,電話はつながったままであり,P18医師がだれかに確認しているようだった。
(イ)上記P33医師が証言した事項に関連する,関係者の証言の要旨は次のとおりである。
a P14は,P33医師に対し上記申立てをした状況等につき次のとおり証言している。
私は当時,看護婦の資格については,看護婦,看護士,准看護婦及び准看護士は知っていたが,いずれも看護婦と呼び,男性については,男の看護婦さんと呼んでいた。被告人のことは,最初は白衣を上に着ているので,周囲の看護婦がさん付けで呼んでいるのを聞いておかしいとは思いながらも,医者だと思っていたが,P03のベッドを移動する作業に加わっているのを見て,医者ならそのようなことはしないと思い,看護婦と思った。
市立病院でP03の治療が終わるのを待っていた際,風邪で入院しただけなのに,点滴の途中から注射をして間もなく息が止まってしまったということで,その注射が原因ではないか,そのときに使うべきでない薬を間違って注射したのではと思った。それで妻に対しても,「あいつ,注射間違ったんじゃねぇのか。」と言うと,妻は「うんうん。」と言ってうなずいた。その後,救急センター処置室にP33医師から呼ばれて入り,P03の症状や今後の治療予定についての説明を受けた際,北陵クリニックに風邪で入院して,点滴の管の途中に男の看護婦が注射をして間もなく急変したので,間違った注射をしたんじゃないかなどと言うと,P33医師からは,北陵クリニックに使った薬を問い合わせてみる旨言われた。P33医師に言った「男の看護婦」という言葉は被告人を指して言ったものである。
b P17は,本件当日,市立病院でP33医師から説明を聞いた際,P14が,「その病室にいた男の人が注射器で点滴の途中から何かを入れて,その直後に急変した。」という話をしたと思う旨証言している。
c P16主任は,次のとおり証言している(甲315)。
平成12年2月3日朝,日勤の病棟担当でナースステーションにいたところ,P18医師から被告人に電話があり,私が出て被告人に代わった。その後被告人から電話の内容を聞くと,「P18先生がおれに話があるから残ってろって。」と言われた。その後被告人はナースステーションからいったんいなくなってから,再び戻ってきた。私が被告人に「P18先生の話,何だったの。」と聞くと,被告人は「P03ちゃんのお父さんが市立病院の先生に,おれがP03ちゃんに変な薬を入れたから,それから急変したと言ったらしい。それで,市立病院の先生からP18先生に問い合わせがあった。」,「何を入れたのか確認された。」と言っていた。それで私が「何を入れたの。」と尋ねると,被告人は「ヘパリン0.1ccに生食5ccだよ。ヘパリンは注射器を湿らせる程度しか入れてない。それの2ccしか注入してない。」と言っていたので,私は「それだったら,特に問題ないよね。」と言った。その後,被告人はP03のお父さんのことを「あのおやじ,余計なこと言いやがって。だから,おれは最初から嫌いだったんだ。」と言っていた。
d P15看護婦は,2月3日以降の日にP16主任から,同人が被告人から聞いた内容として,被告人がP03に注射器内の液体を注入したことに関して,被告人がP18医師から注意された旨の話を聞いたことがあり,また,それと同じ機会かは分からないが,やはりP16主任から,市立病院医師から電話が来て,P03の父親が何か注射をしてからおかしくなったと言っている旨の話を聞いた,P16主任が電話を受けたという話の内容ではなく,他のだれかが電話を受けたということだと思う,その結果どうなったかについては聞いていない旨証言している(甲263)。
e P18医師は,次のとおり証言している(甲275)。
平成12年2月3日朝に北陵クリニックにいたところ市立病院の医師から電話があり,P03の父が,P03の容体が急変する際に,北陵クリニック内で,点滴の三方活栓から何かを注射した後容体が急変したと何回も繰り返し言っているが,これはどういうことなのかと聞かれた。その主体について「男」又は「男性」の,「看護婦」又は「看護士」との言葉で言われた記憶であり,急変時に処置に加わった被告人のことを指していると思い,院内に残っていた被告人に連絡を取り,帰らないよう言って,会って事情を聞いた。被告人は,P03の点滴の落ちが悪い,詰まっているかと思ったので,何も入っていない注射器を持っていき,フラッシュしようとした(又は押そうとした)けれども結局しないで済んだと言っていたので,被告人が言ったことをそのまま市立病院医師に伝えた。
ウ 上記ア,イの各供述の信用性について
そこで,以下,上記ア,イの各供述について更に検討するに,各供述が基本的に信用できると認められる理由として,以下の事情を指摘することができる。
(ア)前記アのとおり,P03の両親及び北陵クリニック看護婦ら,合計5名の者が,いずれも被告人が本件注入行為を行ったと明言する上,被告人が使用した注射器の状態,三方活栓の操作などの注入行為に関する状況はもちろん,その前後の状況に関しても,記憶にある事項とない事項を明確に区別した上で,相当具体的に供述しており,その供述内容も合理的で何ら不自然なものはなく,しかも各人が相互に整合性のある内容を述べているのであり,この点だけからも,各人の供述の信用性は相当に高いものと評価することができる。
なお,各人の供述中には,本件注入行為をした際の,室内にいた被告人以外の者の存在ないし位置関係や,被告人と点滴スタンドの左右の位置関係などに関しては,不明確ないし食い違う部分も認められるが,被告人が,P03のいたベッドの入口側の端付近に設置された点滴スタンドの前の,これに最も近い位置に立って注入行為をしたとの,本件の認定において重要であるだけでなく,当時もP03本人の様子と並んで最も関係者が関心を抱き注目すべき事項に関しては,一致して供述しているのであって,その余の,更に離れた位置にいる複数の者のある時点での位置関係や,被告人や点滴スタンドのベッドと対比しての若干の左右の位置関係などについては,各人が当時の位置から認識した内容をすべて明確に記憶し得なかったとしても不自然とはいえず,これが上記の信用性を減殺するものとはいえない。
(イ)前記アの各供述者のうち,特にP14及びP17は,本件以前から,治療を受けた患者ないしその親族の立場でしか北陵クリニックとかかわりがなく,当然のことながら,自らの娘であるP03の急変に関与することも関与を疑われることもない,その意味では全くの第三者的立場にあるのであり,そればかりか,両名において,P03が北陵クリニックの診療行為を受ける中で,急変に陥ったことから,北陵クリニックの関係者に対し,必ずしも良い感情を抱いていないことは常識的にも容易に推測され,現に,P14は,「北陵クリニックは信頼できない。」旨述べているところであって,例えば両名がクリニック関係者の一部の者の働き掛けにより意識的にその者に有利な証言をするといった事態はなおさら想定し難いのであり,両名が記憶に反してまで殊更虚偽の供述をする事情は全く認められない。
そして,この点は,他の北陵クリニックの看護婦についても同様であり,例えば当時の状況として被告人に罪をなすり付けなければ自身に嫌疑が向けられるような具体的なおそれがあったとは到底いえないし(この点弁護人は,本件注入行為をしたのはP16主任であり,同人は被告人を犯人としなければ自身が疑われる立場にあったというが,同人が本件注入行為をしたと疑わせる証拠はないのはもちろん,そもそも同人は,注射器を持参してきた被告人とは異なり,仮に本件注入行為をしたことを疑われても,被告人から受け取った注射器を用い,そのままヘパリンフラッシュの意図で注入したとしか認められない立場にいるのであるから,いずれにしても捜査機関からP03事件の犯人であるとの疑いを抱かれる具体的なおそれがあったとはいえない。),ほかにもP13看護婦,P16主任及びP15看護婦の3名それぞれが,あえて意図的に虚偽の供述をすべき特段の事情があると認められないのはもちろん,記憶違いのまま上記のように具体的でかつ他の者と符合する供述をしたとも認め難い(なお,看護婦間で口裏合わせをした可能性が否定されることは後にも付言する。)。
(ウ)前記イ(ア)のP33医師の証言については,市立病院診療録の客観的記載に加え,同(イ)記載の他の者の証言とも符合しており,証言内容も記憶のない点に関してはそのとおり率直に述べた上で相当程度具体的に述べられており,搬送先の病院で救命処置に当たったにすぎない同証人があえて虚偽を述べる事情も認め難いから,その信用性は明らかに肯定することができる。
したがって,P33医師の証言及びこれに符合する関係者の証言等によれば,少なくとも,P14が,P03の容体急変について,当初から三方活栓からの注入行為に原因があるものと疑っていたこと,その上で同人は,注入行為の主体について,P33医師に対し,「持ってきて入れた」旨述べており,注入行為に用いた注射器を他の場所から持参してきた人物と同一人物であることを前提とした話をしていたことが認められる。
以上からすれば,P14は,P03の容体急変について,当初から,三方活栓からの注入行為に原因があるものと疑っていたのであるから,その当時から,注入行為をしたのが何者であるかについては関心を抱き,意識して記憶にとどめていたはずであり,その記憶内容が容易に減退したり変容するとは考え難いところである。しかも,P14は,その注入行為をした者について,注射器を他の場所から持参してきた人物,すなわち被告人と同一人物であるとの前提での言動をとっていたことも上記のとおり認められる。
そうすると,同人が当公判廷において,前記ア(イ)のとおり,本件注入行為の主体が被告人であると明言していること,及び,前記イ(イ)aのとおり,当初から注入行為の主体を被告人と認識した上で,被告人を指す意味で「男の看護婦」との言葉を使ってP33医師に状況を説明するなどしたこと(P33医師の証言でもそのような表現がされた可能性は否定していないことは前記のとおりである。)などの,同人の前記各証言内容は,いずれもそのような事件当時からの明確な記憶に裏付けられているものと推認できるのであり,この点でも一層信用性が高いと認められる。
(エ)前記イ(イ)aの点でのP14の証言が信用できることは上記のとおりであり,そうすると,同(イ)記載の他の者の証言も,P14の証言やP33医師の証言と符合する経過を述べており,あえて虚偽を述べる事情も認められないことから,いずれもおおむね信用することができるところ,このうちP16主任及びP18医師は,いずれも,同年2月3日の朝,被告人から,被告人自身が本件注入行為をし,あるいはしようとしたことを自認する言葉を聞いた旨証言しており,このことも前記アの各目撃供述を裏付ける一事情と認められる。
なお,同(イ)d記載のとおりP15看護婦が証言する,P16主任がP15看護婦に対して,P18医師が被告人に注意をした旨言ったとの点は(P15看護婦は検面調書(弁56)でも同旨の供述をしている。),P18医師の証言等からすれば,P18医師は被告人に対しP33医師からの問合せ内容を確認しただけで,具体的な注意までしたとは認められないものであるが,この点は,P16主任が同cのとおり被告人から聞いた話から,被告人がP18医師から何らかの注意を受けたものと考えて,その旨P15看護婦に伝え,あるいは同人がP16主任の言葉をそのように認識したと考えれられるのであり,不自然とはいえず,これが他の点についての証言の信用性まで損なわしめるものとはいえないし,むしろ,P15看護婦が,平成12年2月3日又はその後間もないころの時点で,被告人が本件注入行為をしたことや,それをP14が急変原因ととらえていたことが話題となっていた旨述べる点は,P16主任等他の関係者の供述の信用性を裏付けるものといえる。
(オ)また,前記ア(ア)のとおり,P13看護婦は,本件注入行為を直接目撃してこれをヘパ生によるフラッシュと認識した状況に加え,その後,被告人がその行為をしたことを前提にヘパ生の調合割合について被告人に尋ね具体的な回答を得たことをも供述している。このうち,P13看護婦が何らかの方法で調合量について確認して記載したことは看護記録の記載から裏付けられており間違いなく認められるところ,その数値については,それが真実か否かはさておいて,直接は本件注入行為の前提となる調合行為をした者にしか語り得ない性質のものであり,P13看護婦がその条件を満たす者に上記の確認行為をしたことは明らかに認められるのであって,P13看護婦が,実際には他の者に確認したにもかかわらず,それを被告人と誤認して記憶し,注入行為の主体と併せて事実に反する供述をするような事態は考え難いというべきである。以上からすれば,P13看護婦が被告人に確認した旨述べることは,同人が本件注入行為をした主体を被告人と意識して記憶していたことを裏付け,また,P13看護婦の確認に対し被告人が具体的な回答をした旨述べることは,前記(エ)と同様,被告人が本件注入行為の後に,それを自身がしたことを自認する言動をとったものとして,その点でも前記アの各目撃供述を裏付けるものと評価することができる。
エ 各証言の信用性に関する弁護人の主張について
なお,弁護人は,前記ア,イの各供述につき,次の事情があるので,その信用性が否定される旨主張するが,後記のとおり,いずれも採用できない。
(ア)P14が本件注入行為の当時病室に在室していたか否かについて
弁護人は,本件注入行為の際にP14が病室内にいたことは疑わしく,その証言は信用できない旨主張する。
しかしながら,P14は,P03がS1病室に入院した当初から付き添い,その後N3病室に移動する際も行動を共にし,N3病室へ移動後も,P03が急変して看護婦に外で待ってくださいと言われるまで,病室に在室していた旨明確に証言しているところ,P14がその間に認識した内容として述べることは,既に認定した事実経過や前記の他の関係者の述べることと良く符合していることに加え,P14が在室していたことについては,妻であるP17がその旨明確に証言するほか,P03の病室に在室したことのある他の関係者も,概要,「P62看護婦と一緒にP03と両親をS1病室に案内した。N3病室内で輸液ポンプのアラームを調整したとき,P03の両親がいたと記憶している。P03が急変し,アンビューバッグによる人工呼吸を開始したころに両親にN3病室から出てもらった。」(甲60P13看護婦の検面調書),「S1病室へ行った際,P03と両親がおり,P14は廊下側から見てサークルベッドの後ろ側にいた。N3病室に移動した後もP14がいた。本件注入行為の際も,P14はいたと思うが,具体的位置は分からない。P03の急変後,両親を病室からホールに連れて行った。」(証人P15(甲263)),「パンスポテストの確認のためS1病室へP13看護婦と共に行った際,P14もいたと思う。」(証人P18(甲275))、「病室の移動をするためにS1病室へ行ったとき,P14がいた。サークルベッドに一方のさくが下りない不調があったところ,移動の直前にP14に直してもらい,みんなで『お父さんすごい。』などと言って拍手して騒いだことがある。N3病室への移動中,P14は荷物を運んでくれたりした。被告人が注射器を持って帰るまでの間,ヘパフラをして駄目なら点滴を差し替えねばならないと両親に話をしていた。本件注入行為の際もP14は病室内にいた。P03の急変後,両親を部屋から出すよう他の看護婦に指示を出した。」(証人P16(甲315))などと,P14の在室の状況につきP14の証言と符合する内容を供述していることからすれば,この点に関する上記P14の証言についても疑念を差し挟む余地はなく,P14が本件注入行為の際N3病室に在室していたことは明らかである。
この点に関して,P03の入院時から点滴のための血管確保を試みるまでの間S1病室に居合わせたP62看護婦は,その際の状況等について,弁護人の主尋問に対し,「私が一人でP03と母親を談話室に案内したが,そのときP14はいなかった。その後S1病室で母親から聴取したり,P03に対し採血をし血管確保を試みた間も,父親らしき男性を見たことはない。それらしき男性は,その後談話室で母親がP03をあやしていた際にわきに立っているのを見ただけである。」旨,P03がS1病室にいた時点でのことではあるが,父親の在室を否定するかのごとき証言をしている。しかし,上記証言は,そもそも娘の容体を心配して母親と共に北陵クリニックへ赴いていたP14が,他の用事があっての一時的な退出ならともかく,そのような事情がないのに,入院時の案内や,その後の一連のP03に対する処置の間,一切病室を訪れなかった旨述べるその内容自体が不合理であること,P14のほか前記P13看護婦等他の者の供述と明らかに反する内容を述べていること,P62看護婦自身,反対尋問の機会には,「私の見えている範囲内にはいなかったのは確か。いつも周りを見ている訳ではない。だれかが入ってくれば扉が開いて気付くと思う。P13看護婦は一緒にいた記憶はないが,同人についてははっきりした記憶はない。」などと,視界にとらえない範囲でP14が在室した余地を残す内容に供述を後退させている上,明確な記憶を有しないP13看護婦の在室の有無と対比して何故P14の在室が否定できるのかを明らかにし得ておらず,不明確で動揺が認められること,P62看護婦は,捜査段階においては,S1病室への入院時P03の父親も一緒だったと思う旨の相反する供述をしていること(甲429),さらに,前記のとおり,P62看護婦の信用性は全体的に慎重に検討せざるを得ない事情があることを総合すれば,父親の在室に関する前記証言も信用することができず,前記認定を疑わせるものはない。
また,この点に関し,被告人の公判供述中にも,P14がP03の病室にいたところを,N3病室への移動の前後を問わずおよそ見ていない,父親らしき人を見たのは,病室を移動する際に,ホールの談話室付近に座っている人を見ただけで,当時は父親とは思わなかった,P14がP03のサークルベッドのさくを直すのを見たり,その際に言葉を交わしたことはないなどと,P14が病室内にいたことを否定するかのごとき供述をしている部分がある。しかしながら,被告人は,自身の供述によっても,遅くともN3病室への移動の際から,P03が急変した後の処置にまでかかわっていたにもかかわらず,それまでの間,およそP14が在室しなかった旨述べる点は,娘の容体を気遣う父親の心情に照らしても誠に不自然であり,父親の在室を裏付ける前記関係者の供述と相反している上,被告人自身,他方においては,「見た範囲とか,記憶している中ではお父さんはいなかった。見てない範囲でいた可能性はあるとは思う。私が出入りした際にもいたという記憶がないので。」などとあいまいな内容を述べており供述が一貫性を欠いていることに照らしても,上記供述は到底信用することができない。
(イ)P14が被告人を看護職員と認識していたか否かについて
弁護人は,P17の捜査段階における供述(甲408)によれば,P17は,平成13年1月に被告人が逮捕された報道に接するまで,被告人のことをずっと医師であると思い込んでいたことが認められ,これによればその夫であるP14も同様に被告人のことを看護職員としては認識していなかったはずであるから,P14がP33医師に対して告げた本件注入行為の主体について,「男の看護婦」と言ったとするP14の証言は信用できず,これを看護職員である旨聞いたとするP33医師の証言によれば,その主体は被告人以外の人物を指したことになる旨主張する。
しかしながら,前記イ(イ)a記載のとおり,P14の証言によれば,本件注入行為の主体に関し,P14とP17が市立病院で直接言葉を交わした機会にも,その主体についてP14は「あいつ」という表現を用い,P17はこれにうなずくだけで,その職種を特定せずに話をしていたことが認められるから,P14とP17が職種に関し異なる認識を持ったままであっても決して不自然とはいえず,P14がP33医師に対し「男の看護婦」と言った際にも,P17はP14の言葉のすべてを明確には認識せず,同b記載の証言のとおり,被告人を指して男と言ったことだけを記憶にとどめ,職種に関しては上記のように思い込んだままとなったとしても,この点も不自然とはいえない。以上からすれば,これが前記認定を疑わせる事情とはいえない(なお,前記のとおり,P33医師がP14から聞いた内容につき,注射器を他の場所から持参してきた人物をも含む趣旨で「看ゴ婦」との表現を用いて記録していることも,P14の証言を裏付けているといえる。)。
(ウ)看護婦らによる口裏合わせないし記憶のすり合わせの可能性について
弁護人の主張中には,本件注入行為をした人物等に関し北陵クリニックの看護婦らが前記のとおり符合する供述をすることについて,各人が独自の記憶に基づいて供述するものではなく,各看護婦間において口裏合わせないし記憶のすり合わせがなされた可能性がある旨いう部分がある。
しかしながら,まず,P14及びP17がそのような口裏合わせに加担すべき事情の全くないことは既に指摘したとおりであるところ,関係看護婦間のみで独自に口裏合わせをすべき動機付けは存在せず(既に指摘したとおり,そもそも各看護婦も虚偽の供述をすべき理由はない。),結果としても,関係看護婦は,P14及びP17が述べるのと相当具体的な点についてまで整合する事実関係をそれぞれ明確に供述しているのであるから,これが意図的に虚偽の事実をねつ造するための口裏合わせをした結果によるとは到底いえない上,その証言内容の具体性,明確性等,既に指摘した信用性を肯定すべき事情に照らせば,単に不相当な方法により記憶を喚起した結果として,善意のまま虚偽の事実を思い込みにより証言したという可能性も否定されるというべきである。
この点,P62看護婦は,看護婦間での口裏合わせについて,捜査機関からそれを容認する発言があったことや,実際に看護婦間で「あんときはこうだったじゃない。」などのやり取りがあった旨証言するが,その供述内容自体具体性を欠いており,既に指摘した事情に照らしても同人の証言の信用性を軽々に認めることはできない上,仮に看護婦間で本件に関し事後に何らかの話題が出たことがあったとしても,それが虚偽内容の供述に結びつくようなものであったと認められないのは前記のとおりであるから,P62看護婦の同証言をもって前記認定が左右されるものではない。
(エ)各供述の変遷について
弁護人は,そのほかにも,前記各証人の信用性を否定すべき事情として,その供述内容に捜査段階や以前の公判供述等との間に変遷があることを指摘するが,以下のとおり,これが既に認定した各証人の証言の根幹部分の信用性を損なわせるものとはいえない。
a P14の証言について
弁護人は,P14の証言と同人の検面調書における供述(弁59)を対比すると,〔1〕S1病室への入院前の談話室にいたP03の様子,〔2〕S1病室でのベッド交換の際の被告人の存在,〔3〕被告人が注射器を持って病室の入口から入ってくるところを見たか,〔4〕被告人が三方活栓のレバーを操作するところを見たか,〔5〕P03の異常を最初に発見したときP03が目をぱちぱちしていたか,〔6〕急変後P33医師に話をする段階で被告人の名前を知っていたかについて,いずれも相反する供述をしていると指摘する。
しかしながら,〔1〕については,いずれもP03が元気であった旨述べる点では共通しており,異なる部分はそれぞれ別の時点を述べたものとも評し得るし,仮に食い違いがあったとしてもささいなものというべきであること,〔2〕については,P14は,当初その際に被告人がいたと述べていた公判供述においても,最終的にはベッド移動時の記憶と混同した可能性を自認していること,〔3〕については,P14は公判廷においては,被告人が入口から入るところから見た旨証言しているところ,検面調書においても,被告人が点滴スタンドに近づくのを見た旨は述べているもので,必ずしも両者が矛盾するとはいえない上,食い違いがあったとしてもそれは被告人が入口付近にいた際にも明確に見ていたか否かという点にすぎないこと,〔4〕については,公判供述の方が検面調書に比してより具体的に供述しているにすぎず,格別両者が矛盾しているとはいえないこと,〔5〕については,検面調書において「何回かゆっくり瞬きをした」とある部分が公判供述では「目をぱちぱちと強くし,それからゆっくりまばたきをした」旨述べられているものではあるが,両者の差異は,同じ事実に関し別の表現を用いたともとれる程度のものにすぎないともいえ,不自然な変遷があるとはいえないこと,〔6〕については,確かに実質的な相反供述に当たると評価できるところ,検面調書において被告人の名前を分からなかった旨の記載がされた事情については,P14はそのように述べた記憶はない旨証言しており判然とはしないが,P14があえて虚偽の供述をすべき事情のないことは前記のとおりであり,より具体的に供述された公判供述の方が信用できると思われるし,少なくともP14がP33医師に対し,被告人を指して「男の看護婦」と述べたとする基本的部分は一致していることなどからすれば,以上〔1〕ないし〔6〕のいずれの点に関しても,実質的に相反する供述とまではいえないか,仮にそれに該当するとしても,主要な事項に関するものとはいえず,その他の点に関するP14の証言の信用性にまで影響を及ぼすものではないというべきである。
b P16主任の証言について
P16主任は,検面調書(弁50)においては,P33医師からP18医師に問い合わせがあった際のこととして,「P18医師からP02(被告人)に対して電話連絡があったらしく」との供述をしており,弁護人は,これをとらえて,P16主任が自ら電話の取り次ぎをした旨述べる前記イ(イ)cの証言と矛盾すると主張するが,P16主任は自分が電話の取り次ぎをしたとしても,P18医師と被告人との会話の内容までは聞いていないと証言しているのであるから,検面調書において,その後に被告人から聞いた内容を録取する際の前置きとして,上記のような表現が用いられたとしても,必ずしも不自然とはいえないし,仮にこの点についていずれかの時点での記憶に不明確なものがあったのだとしても,少なくともP18医師から被告人に電話による問い合わせがあったと認識したとの点では一貫した供述をしているのであって,この点をもって前記証言の全体の信用性が損なわれるとはいえない。
また,P16主任の証言と同人の前記検面調書における供述を対比すると,そのほかにも,ヘパフラは医師の指示がなくとも看護婦の判断でできる措置であるかどうかの点及びP03への最初の点滴針の刺入の際介助した者の職種がどうであったかの点についても異なる供述をしているが,後者の点については表現の差異ともとれる上,両者とも,記憶の変容に基づき実質的に異なる供述をしたものとしても,ささいな点にすぎないというべきであり,前同様に,前記証言の信用性に影響するものとはいえない。
c P18医師の証言について
P18医師の供述等については,〔1〕P18医師が記載した前記の「SUDDUN DEAT��」と題する書面(甲54添付)中のP03事件に関する記載としては「点滴施行中突然呼吸停止」とあるだけで,本件注入行為については触れられていないこと,〔2〕また,P03の急変に関し,P14が被告人に対して直接詰め寄るような場面はなかったにもかかわらず,P18医師の供述を元にして作成された平成12年12月24日付け捜査報告書(甲55)添付の一覧表中のP03事件に関する記載には,「父親が,『P02が点滴の途中にある側管辺りから注射した。』のを目撃しその直後に容態急変したことで詰め寄る」との事実と異なる記載がされていること,〔3〕さらにP18医師は当初,公判廷において,本件注入行為をしたのが被告人であるとの指摘が父親からあったことは確かだが,その後時間がたったために記憶が定かではなく,それが本件当日にP14から直接言われたのか,翌日にP33医師から言われたのかよく覚えておらず,また,患者の父親が被告人に対して直接詰め寄ったように記憶していたため〔2〕のように警察に話したが,その後P33医師からの問い合わせを受けてP18医師が被告人に問いただしたのではないかと警察で確認され,そうだったのかもしれないというふうに考え直したが,はっきりしたところは覚えていないなどと供述していたこと(甲229)に関して,前記イ(イ)eのP18医師の証言(甲275)と対比して変遷の認められる部分がある。
しかしながら,急変事例の一つとして各事件の概要を把握しようとしていたにすぎない〔1〕の段階で,P18医師が直接目撃したわけではない本件注入行為についてまで明確な記憶を喚起し記載しなかったとしても不自然とはいえないし,〔2〕及び〔3〕に関しても,確かにこの点に関する従前のP18医師の記憶にあいまいな点ないし事実とは異なる推測が含まれていたことは認められるものの,前記イ(イ)eのP18医師の証言内容は,同イ記載の他の者の証言や市立病院の診療録の記載に符合し,同診療録の記載を見直すなどして記憶を喚起した上でなされたものとして,おおむね信用できると認められるのであり,P18医師が従前これと異なるかあいまいな記憶を持っていた理由については,同人が証言するとおり,P03事件の発生から捜査の開始までに時間経過があったことから,警察からP33医師からの問い合わせの事実を確認されるまでの間は,その事実に関する記憶を喚起することができないまま,それがP33医師からの伝聞であることを忘れて,P14が被告人の注入行為をとらえて強く発言したことがあったとの点だけを思い出し,これを元にした推測としてP14が被告人に対し直接詰め寄った可能性があったかのような,事実に反する認識を一時持ち,再び時間の経過により減退した記憶を喚起しないまま,捜査の端緒全般に関する当初の公判供述において〔3〕のとおり証言したものと理解できるのであるから,これをもって,P33医師の問い合わせを受けた状況に関するP18医師の証言全体の信用性が損なわれるものとはいえない。
被告人は,自身が本件注入行為を行ったことを否定するとともに,これに関係する当時の状況や,その後本件注入行為を自認する言動をとったかなどの点につき,〔1〕ヘパ生のことを言い出したのは私ではなくP16主任であり,P16主任から「ヘパ生持ってきて。」と言われたので,私は「ヘパ生」との言葉を口に出すことはなく,「うん」,「はい」又は「分かった」とだけ言って,ナースステーションへ取りに行った,〔2〕ナースステーションのワゴン上にある銀色のトレーの中に,注射器が二,三本置かれており,1本だけ内筒が引かれた注射器があったので取上げた,その注射器は内筒が目盛り一杯に引かれ,シリンジの外筒の目盛りが書かれていない側に,黒いマジックで記載された,外筒の半分くらいの長さはあったと思われる,見て分かるくらいの大きさの文字で,「ヘパ生」と書かれてあった,〔3〕N3病室を出てから,同病室に戻ってくるまでの所要時間は,上記注射器と酒精綿を取って来ただけであり,注射器の確認にも時間をかけていないので,大体30秒くらいでできる行動だと思う,〔4〕持参した注射器と酒精綿はP16主任に渡したが,その後どうなったか,だれが本件注入行為をしたかは分からない,〔5〕P03の看護記録への記載事項についてP13看護婦に対し口添えした事実はない,〔6〕2月3日の朝にP18医師と会った記憶はなく,市立病院医師からの問い合わせの件で話をした事実もない,などと供述する。
しかしながら,以上の被告人の供述は,本件注入行為を否定して〔4〕のとおり述べる部分はもちろん,その他の部分についても,いずれも既に信用性を認定した関係者の供述等(〔1〕については前記P13看護婦の検面調書並びにP15看護婦及びP16主任の各証言,〔2〕については前記P16主任の証言に加え,「本件当日,P03が市立病院に転送された後にN3病室の片付けをした際,床頭台の上に,容量5ccで,約二,三ccの透明な液体が入っていた注射器があり,その後これを処分して捨てた。そのシリンジの外筒には「ヘパ生」との記載はなかった」旨,これを裏付ける状況を述べるP15看護婦の証言,〔3〕については,前記P13看護婦の検面調書並びにP15看護婦及びP16主任の各証言,〔5〕については,前記P13看護婦の検面調書,〔6〕については,前記P18医師及びP16主任の各証言)と明らかに反する内容を述べるものであること,これに加え,その証言内容自体,本件注入行為に密接する,注射器をN3病室に持参した後の状況ひとつをとっても,「ヘパフラで滴下不良が改善しなければ点滴針の差し換えを手伝う必要があると思って部屋にとどまったのだが,私はP16主任に注射器等を渡すとすぐに一,二歩下がって離れ,その後はP13看護婦と並んで立って何か話しながら,点滴筒やP03の方を見ていたものの,P16主任がその後どうしたか,直接見ていないので,何をしたかはっきりとはいえず,ヘパフラをするところも見ておらず,見なければならないとも思わなかった」などと,誠にあいまいかつ不自然である上,被告人が自認するとおり,以前はP16主任が本件注入行為をしたと弁護人に対し述べていたこととも矛盾する内容を述べていることなどからすれば,いずれも到底これを信用することはできない。
カ 上記の点に関するその他の証言の信用性について
前記オの諸点に関して,〔1〕P10看護婦が,「ヘパフラをしてみようと言い出したのはP16主任だったと思う」旨,〔2〕P62看護婦が,本件当日午後2時台のこととして,「P03に対する点滴薬剤の取りそろえを行った後,トレイに載せた点滴ボトル等を持って,仮置きのためナースステーションに行った際,ワゴン上のトレイに,ヘパ生の入った容量5ccの注射器2本が置いてあった」旨,それぞれ被告人の弁解に沿うかのような証言をしている。
しかしながら,まず〔1〕のP10看護婦の証言については,同人は反対尋問においては,その点に関し「はっきりと覚えているわけではありません。」とも述べている上,捜査段階ではヘパフラを提案した人物を特定せず「だれかが」と述べていたこと(甲428)とも矛盾すること,さらに同人は本件注入行為に関しても,その際病室内に居合わせたかどうか覚えておらず,その場面を見た可能性もあるが,だれが行っていたかは覚えていないなどとあいまいな証言をしていること,これに加え同人には,既に指摘したとおり,その証言の信用性について慎重に検討すべき事情があることを併せ考えれば,P10看護婦の上記証言が,P16主任がヘパフラを提案したことを疑わせるに足りるものとはいえず,この点に関する被告人の供述が裏付けられるものともいえない。
また,〔2〕のP62看護婦の証言についても,ナースステーションのワゴン上に薬剤の入った注射器が置かれることや,同人が述べる行動が日常的な業務の中でもあったことは自認しつつ,上記証言に係る光景を見たのが本件当日のことであったと特定できる具体的な根拠は述べていない上,見たと述べる注射器2本に必ずされているはずの薬剤の記載があったか否かも確認していないと述べるなどその証言内容が具体性を欠いていること,関係証拠によれば,ヘパ生の入った注射器がナースステーションのワゴン上に置かれるのは,ヘパロック(サーフロー針を留置したままの患者に対し一時的に点滴を中断する際,刺入部位の血液の凝固を防止するため,エクステンションチューブ内にヘパ生を入れ,これと他の二方の口にキャップをした三方活栓のみを残し,他の点滴器材を取り外すことをいう。)をする患者がいる場合の,その人数分に限られるところ,同人は当時ヘパロックを必要とする患者がいたかや,自らヘパロックに関与したかについてもあいまいな供述に終始していること(なお,同人の供述中には,本件当日ヘパロックを必要とする患者がN病棟だけで二人いたと思う旨述べる部分もあるが,被告人の申し送りノート(甲393)の記載によっても,同病棟にそのような患者が複数人いた事実は認められない。),本件当日,日勤看護婦として当初は単独で,P62看護婦が出勤後は同人と二人で病棟を担当していたP15看護婦は,当時北陵クリニックにおいて,ヘパロックの予定時間とは無関係にヘパ生を作り置きすることはなかったとの認識を有し,本件当日ヘパロックの患者はいなかったと思う旨証言しているもので(甲263),少なくともP15看護婦が上記の時間帯にヘパ生用の注射器を作り置いておいたとは考え難いこと,P62看護婦は上記のとおり,本件当日ナースステーションに入った理由は点滴ボトル等の仮置きのためであったと証言するところ,同人は捜査段階においては点滴ボトル等は診察室の裏(外来診療区域)に仮置きした旨,これと相反する供述をしていたこと(甲429),これに加え,P62看護婦の証言については前記のとおり全体としても慎重に検討すべき事情が認められ,以上からすれば,同人の上記証言は信用性に乏しいといわざるを得ず,少なくともこれが前記の被告人の供述を裏付け,その信用性を増強させるものとはいえない。
キ 小括
以上のとおりであるから,その信用性を肯定できる,前記ア,イ記載の関係者の各供述によれば,被告人が本件注入行為をしたことに加え,その当日,被告人が「詰まっているかもしれないからおれヘパ生を持ってくる。」などと率先して提案した上でN3病室を出たこと,既に調合されたヘパ生入りの注射器を取ってくるだけなら,ナースステーションとの距離及び被告人の供述に照らしても,かかっても30秒程度で可能である(仮に自らヘパリンを取り出して調合する場合であってもその作業には1分程度しか時間を要しない。)ところ,被告人が病室を出て戻ってくるまでに二,三分の時間が経過したこと,被告人が持参し本件注入行為に用いた注射器は容量5ccのもので透明な液体で満たされ,その外筒には「ヘパ生」などとの薬剤名の記載はされていなかったこと,被告人は,P03に接続された点滴器具の途中にある三方活栓に同注射器を接続し,三方活栓のレバーを点滴ボトル側に向けてから,同注射器の内筒を押し込み,約二,三mLの液体をエクステンションチューブ及びサーフロー針を介してP03の体内に注入したこと,P03が市立病院に転送された後,P13看護婦から本件注入行為により注入した薬液の内容を聞かれた際,被告人は,ヘパリン0.1mLを生食9mLに調合したものである旨、本件注入行為を自認しつつ注射器及び液体の容量につき虚偽の事実を述べたこと,さらに被告人は,翌日の朝,P33医師からの問い合わせを受けたP18医師から事情を尋ねられた際,P03の点滴の落ちが悪かったので何も入っていない注射器でフラッシュしようとしたが結局しないで済んだ旨虚偽の回答をし,その後P16主任からP18医師との会話の内容を聞かれた際,ヘパリン0.1ccに生食5ccを調合したものを2ccしか注入していない旨本件注入行為をしたことを自認するとともにP14を非難する言葉を述べたことが認められる。
そして,これに反する内容を述べる前記被告人の供述についてはこれと対比して信用できず,前記P10看護婦及びP62看護婦の供述もこれを裏付けるものではなく,前記の他の関係者の供述と相反する供述に関しては,被告人はその内容からしておよそ単なる記憶違いによるとは考え難い事項について明確に述べているのであるから,あえて不合理な弁解を弄しているものと認められ,ほかにも以上の認定を疑わせるに足りる証拠はない。
(2)その他の認定できる事実及び被告人が不合理な弁解をしていることについて
関係証拠(主要なものは括弧内に記載する。)によれば,既に認定したP03の症状経過等及び上記の事実に加え,さらに,後記ア記載の事実を認定することができ,同イ記載のとおり,被告人はこれと異なる弁解をするがいずれも信用できず,他の証拠にも上記認定を疑わせるものはないと認められる。
ア 認定できる事実
(ア)被告人は,本件当日,P03がS1病室からN3病室へ移動するより以前にも,次のとおりS1病室に出入りし,P03の状態を自ら把握し,それを前提とする言動をとっていた。
a 被告人は,P16主任らがS1病室でP03に対するサーフロー針の刺入を試みている際,看護��の上に白衣を羽織った姿で同病室に現れ,サーフロー針を刺入できそうな部位を助言するなどした(証人P14,同P16(甲315))。
b 被告人は,申し送りが終了した後,P03の様子を見るため,自らS1病室へ赴いて点滴の滴下状態を確認するなどし,その後,午後5時ころ,ナースステーションで,その場にいた看護婦らに対し,「点滴の落ちが悪い。」,「何とかしてくれ。」などと言い,さらに「夜一人になるし,ナースステーションに近い,N3に移した方がいい。」などと言って病室の変更を提案した(甲60,証人P15(甲263))。
(イ)被告人は,病室を変更する際にも,サークルベッドの移動等を行うため,P16主任,P15看護婦及びP13看護婦と共にS1病室内に入り,同病室内で,サークルベッドの片方のさくがうまく下がらない不具合があったことから,P14に対し,「お父さん,そのさく直せる。」などと声を掛け,P14がその不具合を直した(証人P14,同P16(甲315),同P15(甲263))。
(ウ)P03は,前記認定のとおり,本件注入行為の1ないし3分後には,目を閉じ,眠るように頭を前に垂れて力が抜けた状態となり,これを見ていたP17,P14,P16主任,P15看護婦及びP13看護婦は,P03が眠りについたものと思っていたところ,被告人だけが,P03に近づき,P03のあごの辺りに手をやるなどして,「P03ちゃん,息してないよ。」又は「あれ,P03ちゃん,呼吸してないんじゃない。」などと発言して,P03の呼吸停止を指摘した。上記の他の者は,被告人の指摘を受けてから,初めてP03の異変に気付き,驚きの声を上げたが,そのころには,P03には前記の顔面がそう白になり口唇が紫色になるチアノーゼの症状が急激に発現し,P13看護婦らもP03に近づくなどして自発呼吸の停止が確認できる状態になった(甲60,78,証人P14,同P15(甲263),同P16(甲315),同P17)。
(エ)被告人がP03に対しマウス・トゥー・マウスの方法による人工呼吸を開始したころ,P13看護婦は,被告人やP16主任から医師を呼ぶよう指示を受けたことから,外来診療区域にいたP64医師とP18医師にP03の容体急変を知らせ,ナースステーションにあった救急カートをN3病室に搬入した。その後,前記のとおりP64医師が同病室に駆けつけてきたが,被告人は,それまでの間,同病室内にとどまり,マウス・トゥー・マウスの方法による人工呼吸を続けており,P64医師が同病室に到着すると,「先生,挿管だよね。」などと言って,P64医師に対して気管内挿管を促し,その後P64医師は被告人の介助を受けながら気管内挿管を行った。(甲60,78,証人P15(甲263),同P16(甲315))。
被告人は,前記アの各事項に関し,(ア),(イ)については,P03の入院時にS1病室に入ったことは一度もなく,上記のような言動を取ったこともない旨,(ウ)については,P03の異変に最初に気付いたのは自分の横に立っていたP13看護婦であり,同人が「なんかP03ちゃん変。」と言ったので,自分がP03に近づいて呼吸状態を確認したものであって,そのとき,P03の顔や唇に若干のチアノーゼがあったものの非常に悪い状態ではなく,P03の呼吸は弱くなり,呼吸回数も少なくなっていたが,呼吸停止を確認したことはなく,その旨の発言もしたことはない旨,(エ)については,P03に対しマウス・トゥー・マウスを二,三回やった後は,救急カートからアンビューバッグを取り出し,P03にマスクを装着してバッグアンドマスクの人工呼吸をし,その後自分でMR室へP64医師を呼びに行き,P64医師が病室に到着した後,P64医師が気管内挿管をすると言ったので自分が準備した旨,それぞれ弁解する。
しかしながら,被告人の上記弁解については,いずれも前記のとおり全体として信用性を肯定できる関係者の供述や看護記録の記載等と明らかに食い違う内容を述べていること,被告人の弁解によれば,病室移動の手伝いに行ったのにサークルベッドをS1病室から搬出する作業には加わらず,P13看護婦からは,P03が「変」と言われただけなのに,率先して呼吸状態の確認をする一方で,その場では意識や脈拍の有無は確認せず,周囲の看護婦に対しP03の呼吸状態の悪化を告げたり,医者を呼ぶよう求めたりすることもなかったなどというのであって,その内容自体が誠に不自然,不合理であり,以上によれば,前記認定に反する被告人の弁解は,関係証拠と対比して到底信用できず,殊更虚偽を述べているものと認められる。
また,P64医師の証言中には,前記ア(エ)に関し,「P03の急変の連絡を受けたのはMR室にいたときである。」,「病室に駆けつけたとき,看護婦が,アンビューバッグの処置をやっていたか,やろうとしていたかと思う。」,「気管内挿管をすることにしたのは私の決断であり,病室内で気管内挿管をすることを最初に口に出して言ったのは私である。」などと,被告人の弁解に沿うかのような供述をしている部分がある。しかし,同人の証言内容は,他方で,P03の件以外にも3件北陵クリニック内での患者の容体急変時の処置に携わったことがあることを自認しつつ,それぞれ急変を知った際の,連絡を受けた方法や,その際に自分が外来診療区域とMR室のいずれにいたか混同して思い出すのが難しい,P03の件についても,だれからどのような方法で急変の連絡を受けたかや,連絡を受けて病室へ行った際一人だったか他の者と一緒であったか覚えていない,病室に着いたときアンビューバッグは置いてはあったがP03の口にマスクは装着されておらず,既にアンビューバッグによる人工呼吸を始めていたかは分からない,気管内挿管を介助した看護婦がだれだったか覚えていないなどという,誠にあいまいなものであることに加え,P64医師は,同人が認識する被告人の人柄等を根拠に被告人の無実を信じており,本件につき捜査中の時期に自らP14に電話連絡を取って,事件はでっち上げであると伝えるなど中立性を欠く言動をとっているもので,そのような同証人の立場に照らしても,その証言の信用性は全体としても慎重に検討せざるを得ないことを併せ考えれば,同人の証言中,前記アで認定した事実に反する部分は,他の証拠と対比して信用することができない。
(3)結論
以上を踏まえ,P03事件の犯人を被告人と認定することが可能かどうかを以下検討する。
まず,P03の体内にマスキュラックスが投与された態様が,三方活栓に注射器を接続して点滴ルートに注入するという,本件注入行為によることは既に認定したとおりであり,本件注入行為は,P03事件における客観的な実行行為と評価できるところ,前記(1)認定のとおり,本件注入行為を行ったのは被告人であると認められる。
そして,前記(1)認定のとおり,被告人が本件注入行為に使用した注射器には,「ヘパ生」等の薬剤名の表示は何らされておらず,在中していた液体も無色透明なものであったのだから,その外見上からは,在中の薬剤がいかなるものであるかを判別することはできず,これを知り得た者は,実際に薬剤を調合した者か,その者から伝え聞いた者に限られるというべきであるところ,被告人は,N3病室を出て上記注射器を持参して戻った経緯につき,実際には自ら率先してヘパ生を取りにいく旨言ってN3病室を後にし,その後戻ってくるまでに二,三分の時間を要したのに,「P16主任から言われたので取りに行き,『ヘパ生』と記載された調合済みの注射器を,30秒くらいで持ち帰った。」旨,虚偽の弁解を弄するのみで,注射器に在中の液体がいかなるものであるかを認識した経緯や,なぜ持参だけのために上記時間を要したかについて合理的な説明を全くなし得ていないのであり,結局,被告人自身が,上記注射器や在中の薬剤の準備行為を行ったものと考えるほかはなく,これを疑わせる余地はない。そうすると,マスキュラックスの保管状況や形状に照らし,上記準備行為を行った被告人が,他の薬剤と誤認するなどして,それとは知らずにマスキュラックスを注射器内に混入することもおよそ考え難いのであるから,以上を総合すれば,被告人が,上記病室から出た機会に混入したか,あるいは,事前に被告人において混入済みの注射器を,他の者に知られずに保管していた場所から持ち出したかの方法で,いずれにしても,意図的にマスキュラックスを上記注射器内に混入した上,これをN3病室に持参し,P03の体内にマスキュラックスを注入し容体を急変させる故意をもって,本件注入行為に及んだことも明らかに認められる。
以上のとおりであるから,これまでに指摘したことのみをもってしても,被告人がP03事件の犯人であると優に認定することができるのであり,これを疑わせるに足りる証拠はない。
さらに付言するに,被告人は,P03事件に関し,前記(2)で認定したとおり,P03が病室を移動するより以前から,病室に2度赴き,夜間に当直看護婦として一人で対応することになるP03の状態を自ら直接把握し,P03に対する点滴の滴下状態が不良であることなどを認識し,その改善や病室の変更を訴えていたこと(前記(2)ア(ア)),病室移動の際,在室していたP14と会話までしたこと(同(イ)),本件注入行為の後,周囲の他の者はP03が単に寝入ったものと思っていた際,被告人ただ一人が,いち早くP03の呼吸停止を指摘したこと(同(ウ)。なお,この点は,被告人のみがあらかじめP03の容態急変を予測していたことをうかがわせる意味でも,被告人が犯人であることを裏付ける間接事実の一つであると評価できる。),その後も病室にとどまりP03の症状経過を把握することが可能な立場にあり,P64医師が到着するや率先して気管内挿管を具申し,これが行われると自らその介助に当たっていること(同(エ))などの各事実が認められるところ,それらはいずれも,P03事件の事件性,被告人の犯人性,犯行計画ないし犯行動機又は前記P14の証言の信用性にかかわる事実として,被告人に不利に働く事実と認められるところ,被告人がこれらの事実に関して殊更虚偽の供述をしていることも,上記のとおりP03事件の犯人を被告人と認定したことを裏付けているといえる。
以上のとおりであり,P03事件については,最も直接的な証拠があり,独自に犯人性を確実に認定し得る。
そして,P03事件の犯人が被告人であるという事実は,次のとおりP03事件との共通性が認められる他の事件についても,その犯人がいずれも被告人であることを推認させる事情の一つとなり得るというべきである。
すなわち,P03事件を含む,本件起訴に係る5つの事件は,いずれも北陵クリニック内において,近接する時期に(いずれも平成12年の事件であり,P03事件を除く4件は,同年10月31日から11月24日までの1か月弱の間に連続して発生している。),患者に医療行為のために接続された点滴医療器具を用い,点滴投与中に,点滴ボトルからエクステンションチューブまでの点滴ルートのいずれかにマスキュラックスを混入する方法で,これを患者に投与したという,極めて特異な犯行方法が用いられたという点で,いずれも共通しているところ,そのような各事件の特異性,共通性,及び,各事件の当時上記の具体的犯行方法が犯人以外の北陵クリニック関係者において判明していたことをうかがわせる事情もないことを併せ考えれば,偶然にして複数の犯人がそれぞれ別の事件を引き起こしたものとは考え難く,これを疑わせる特段の事情が他に認められない限り,いずれの事件も同一の犯人の手で引き起こされたものと推認することが可能である。
これに加え,被告人には前記認定のとおり,マスキュラックスの発注及び管理に深くかかわり,これを不正使用した事実や,その使用済みの空アンプルを持ち出そうとするなどの不自然な行動をした事実が認められ,にもかかわらず,被告人は,これらに関しても不自然,不合理ないし虚偽の弁解に終始しているのであって,これらの点も,各事件の犯人がいずれも被告人であることを推認させる事情として指摘することができる。
前記認定した事実関係に基づきP04事件の犯人性について考察する。
(1)犯行の機会を有する人物
既に認定したように,P04事件においては,点滴溶液で満たされたP04に対する点滴ルートの三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットにマスキュラックスが混入されたことが認められるところ,点滴ルートを点滴溶液ですべて満たした上で人知れず三方活栓からマスキュラックスを混入するという行為を行う機会を有する人物はおのずと限定される。
この点,既に認定したように,P04の点滴に関しては,点滴ボトル等の準備行為,薬剤の調合行為,点滴セットの準備行為や取付け行為,点滴セットに点滴溶液を満たす行為などをすべて被告人が単独で行っていることが認められるところ,被告人には,上記認定のような方法でマスキュラックスを投与するという行為を行う機会があったことは明らかである。その反面,当時,北陵クリニックに勤務していた被告人以外の北陵クリニック関係者がP04の点滴ルートが点滴溶液で満たされてからP04に対する血管確保の手技が行われるまでの間(少なくともP10看護婦が被告人に求められて血管確保のためにN2病室に行くまでの間)にこの点滴ルート周辺に近づいた形跡は全く認められず,また,それ以外の第三者が,北陵クリニックの職員の目を盗み,しかも,三方活栓から点滴ボトル側に向けてマスキュラックスを混入するという専門的知識を要する行為を行ったとも考えられない。
したがって,本件におけるマスキュラックスの具体的な投与方法は,本件犯行が被告人によって行われたものであることを強く推認させる事情といえる。
そして,本件におけるP04の急変前後の被告人の言動についてみてみると,前記認定のとおり,まず,被告人は,P04が身体の異変を訴え始めたころ,それを認識していたにもかかわらず,P04に対する処置を何らとることなくN2病室を出て行き,ナースステーションにおいて,P18医師に対して「点滴刺すのに4回もかかっちゃった。お腹が痛くなるとものが見えないとか言っているんですよ。」などと緊迫感のない発言をした上,P18医師からP04の点滴ボトルを交換するように指示を受けたものの,直ちにこの指示に従うことはなく,その後病室に駆けつけたP10看護婦が点滴ボトルの交換を言い出して初めて点滴ボトルを交換したものであり,さらに,P18医師やP10看護婦が,P04に対してバッグアンドマスクの方法による人工呼吸を行っている最中にそのマスクを外し,喉頭鏡でP04の口の中をのぞき込んだ上,P18医師に気道確保するように促すなどしていることが認められる。
以上のような被告人の言動は,およそ医療従事者(特に被告人は,当時唯一の当直担当看護婦として,率先してP04の対応に当たるべきはずの者である。)が患者の容体急変時にとる行動とはかけ離れた極めて特異なものであり,このことは,他の北陵クリニック職員が緊迫感,緊張感をもってP04に対する救急処置を行っていることと比較すれば一層明白であって,このような事実自体,被告人が本件犯行の犯人であるとの推認を補強する有力な事情といえるし,他面,このような被告人の言動は,いずれも被告人が本件犯行の犯人であるとするならば,合理的に説明することができる性質のものである。
(3)動機となり得る要素の存在
また,被告人自身,公判廷において,本件当時,P18医師がP04を入院させるか否かの判断を迷っていたため,このような状態に対していらいらした気分であったことを認めているが,後述のとおり,被告人の犯行動機の一つとして,P18医師に対する不満の存在が挙げられるところ,本件において,当時,被告人には上記のようにP18医師に対して具体的な状況としても不満を高じさせる要素があったというべく,被告人が犯行に及ぶ動機において格別不自然,不合理な点があったとはいえない。
(4)被告人の弁解の虚偽性
被告人は,P04事件に関し,前記第4の5(1)で認定したとおり,P18医師の指示箋による指示に従って,P04に対する点滴の準備をボトル等の取りそろえの段階から自身で行ったこと(前記第4の5(1)イ(エ)),P04が以前にも患者として北陵クリニックに入院していたことに気付いていたこと(同),容体急変時,P04にマスキュラックスによる効果と符合する経過で,短時間で重篤な症状の発現があったことや,それに関連した被告人の言動(同(1)ウ)に関する各事実について,それらはいずれも,P04事件の事件性,被告人の犯人性,犯行計画ないし犯行動機にかかわる事実として,被告人に不利に働く事実と認められるところ,被告人は,これらに関しても前示のとおりことごとく殊更に虚偽の供述をしていることが認められるのであり,この事実もまた被告人が犯人であるとの推認を補強する事情というべきである。
(5)結論
以上検討したとおり,本件においては,P04に対する点滴が準備されて点滴セットに点滴溶液が満たされた後に三方活栓から点滴ボトルに向けてマスキュラックスが混入されたと認められるところ,P04に対する点滴の準備はすべて被告人が一人で行ったものであり,被告人には,上記方法によりマスキュラックスを混入する機会が十分存在した反面,被告人以外の者が準備された点滴ルート周辺に近づいた形跡はなく,さらに,被告人がP04の点滴にマスキュラックスを混入する動機も認められ,併せて,被告人が本件時特異な言動をとったことや重要な点で種々虚偽の供述を重ねていることを総合すれば,本件犯行は被告人によるものであると断定できる。この結論は,本来,捜査段階における自白の存在とその評価をまつまでもなく,到達し得るところであるが,後に検討するとおり,被告人は,捜査官による取調べの当初において,任意に自らがP04に対してマスキュラックスを投与したことを認める供述をしていたことが認められ,その独自の信用性も肯定し得るのであって,この自白の存在は,上記の結論を更に強固なものとする関係にあるといえる。そして,このような事実認定の独自の強固性,確実性にかんがみると,P03事件の犯人性で指摘したと同じ理由により,P04事件の犯人が被告人であるという事実もまた,他の残りの事件(P05,P07,P08事件)の犯人がいずれも被告人であることを推認させる事情の一つになるものというべきである。
(1)被告人に犯行が可能であったこと
以下のとおり,被告人には,P05に投与される以前に点滴ボトル内にマスキュラックスを混入する機会があったことに加え,混入の時点で,対象となる点滴ボトルがP05に対する手術後(「術後」ともいう。)の抗生剤の点滴投与のために用いられるものであること等につき認識可能であったこと,さらに,平成12年11月13日(以下,同日のことを本項では「本件当日」ということがある。)北陵クリニックを退勤する以前に上記投与の開始予定時刻を知り得たことが認められる。
ア 点滴ボトル内にマスキュラックスが混入された時間,場所について
前記のとおり,P05事件の犯人は,P05に対して本件当日午後9時前ころから投与された,パンスポリンが調合された生食フィシザルツPL100mLの点滴ボトル(以下,調合や表面への記載の前後を問わず,これを「P05ボトル」ということがある。)内に,同日午後8時55分ころにP06婦長がパンスポリンを調合するより前の時点で,ビニールシールが貼られたままのゴム栓に注射針を刺入して溶液を注入するなどの方法で,事前にマスキュラックスを混入しておいたものと認められる。
そして,犯人がP05ボトルにマスキュラックスを混入した可能性が認められるのがいつの時点より後のことであるかについては,前記のとおり,P09看護婦は,同月9日午後の日勤時間帯に,木目カラーボックスから,P05ボトルを含む,生食フィシザルツPL100mLの点滴ボトル8本を取り出し,このうち一つに「P05くん」「11/13 ope后」と記載しているところ,それまでの間は,取り出された8本の生食のボトルはいずれも外観上未使用かつ患者名等が未記入の状態であったもので,P09看護婦は無作為にこれらを取り出し,更に無作為で選んだ1本に上記のとおり記入したものにすぎないのであるから,犯人が投与対象者も投与時期も何ら確定しない段階でそのような行為に及ぶことは通常は考え難く,結局,特定の患者を対象として行われたことを前提とする限りは,上記混入の可能性があるのは,P09看護婦が上記のとおりP05ボトルに記入するなどした上,これを他の点滴ボトルと共に,P05の名前を記載した紙を貼付した空き箱に入れ,黒色カラーボックス内に置いて以後のことであると認められる。
なお,P05ボトルの所在については,その後,本件当日の申し送りの前後ころから遅くとも午後5時半ころまでの間には,黒色カラーボックス内の空き箱から取り出されて,ナースステーション内の銀色ワゴン上に,これに調合するためのパンスポリンのバイアル及び他の入院患者のための薬剤,輸液類と共に,患者別にそろえて置かれていたところ(入院患者に対する夜間の点滴の準備のため,このように薬剤や輸液をワゴン上に取りそろえる行為は,日勤の病棟勤務者又は当直勤務者によって日常の業務としても行われているものであるが,本件当日に上記行為を行った者がだれであるかについては証拠上不明である。以上については,P06婦長(甲293)及びP15看護婦(甲311)の各証言等関係証拠によって認められる。),犯人がP05ボトル内にマスキュラックスを混入する機会については,P05ボトルが上記ワゴン上に置かれるより以前の方が,他の者の目に触れぬ時機を選ぶという観点からは,より容易であったとは思われるものの,その後についても可能性自体は否定されない。
以上のとおりであるから,犯人は,平成12年11月9日午後にP05ボトルが黒色カラーボックス内に置かれた後、本件当日午後8時55分ころにP06婦長が調合のためこれを手にしようとするまでの間の,いずれかの時点で,P05ボトルが存在したナースステーション内の黒色カラーボックス又は銀色ワゴン上からP05ボトルを取出し,その付近で,又は,一時的にこれを他の部屋へ持ち出すなどした上で,その中にマスキュラックスを混入し,その後これを元あった場所に戻したものと認められる。
イ 被告人が上記混入を容易になし得たこと
被告人は,前記のとおり,平成12年11月9日夕方から翌10日朝にかけてと,同月11日夕方から翌12日朝にかけて,それぞれ当直勤務をし,また,本件当日も手術担当として勤務し,同日午後7時13分ころ退勤するまでの間北陵クリニック内にとどまっていたのであるから,以上の間に,ナースステーションに出入りして,P05ボトルを取り出し,これをマスキュラックスの混入に必要な時間,自己の支配下に置く機会は十分にあったと認められる。
また,混入されたマスキュラックスのアンプルは,薬品庫内の手術ボックスに保管されており,北陵クリニック職員のうちその所在を知る者であれば取り出すことが可能な状況にあったところ,これに加え,被告人は,手術の予定がある場合,事前に手術ボックスの中身を点検して薬品類の有無を確認していたことや,P05の手術に際しても,同月9日夜から翌10日朝にかけての当直勤務時間帯には,手術ボックスの引き出しを開けてマスキュラックスのアンプルの数を確認し,その在庫が少ないと判断し,新たにマスキュラックス1箱(10アンプル分)の注文依頼を注文ノートに記載したと自認していること(第107回,第115回)や,既に認定した,被告人の北陵クリニック内におけるマスキュラックスの発注及び管理への関与の状況からすれば,被告人は,上記混入のために,他の者に不審に思われない形で,マスキュラックスのアンプルを自己の支配下に置いておくことも,他の北陵クリニック職員と比しても,より容易になし得たと認められる。
ウ 被告人が,上記混入より以前に,P05ボトルの状態及びそれが投与される際の一定の状況について,事前に知り得たこと
(ア)P05ボトルの準備状況及び所在についての認識
P16主任の証言(甲309)等関係証拠によれば,被告人は,当直担当者として平成12年11月9日夕方の申し送りに参加し,その機会に日勤の病棟担当者であったP16主任から,P05に投与するための点滴ボトルにつき,既に黒色カラーボックス内に準備してある旨申し送りを受け,したがって,被告人は,遅くともその申し送り以降は,P05ボトルを含む点滴ボトルが,P05用のものであることを表示された空き箱内に入れた状態で同所に準備されて置かれていることを認識していたことが認められる(なお,この点に関しては,被告人も,同日の申し送りの際に聞いたかどうかは記憶がはっきりしない旨は述べつつも積極的に否定してはおらず,また,一般的にも手術を受ける患者に対しては,手術中及び手術後に抗生剤の点滴投与がされ,手術当日より前に黒色カラーボックス内にそのための点滴ボトルが準備され,準備後は申し送りの対象となることや,P05に対し投与する予定の点滴ボトルについても,遅くとも本件当日朝の時点では準備されていた認識があったことは自認している。)。
(イ)P05ボトルの記載についての認識
P05ボトルには,黒色カラーボックス内の空き箱に置かれるより前の時点で,P09看護婦により,「P05くん」「11/13 ope后」との記載がされており,P05ボトルを直接確認するだけでも,同所にあった8本の生食の点滴ボトルのうち,P05ボトルこそが術後の抗生剤の投与に用いられることを予定されたものであることを認識し得たといえる。
そして,P09看護婦の証言(甲294)によれば,平成12年11月9日,同人は,準備した生食の点滴ボトル8本のうちP05ボトルを含む2本につき,それぞれ「ope中」,「ope后」と記入していたものの,手術当日の担当者がその記載に気付かずに先に記入のない点滴ボトルを使用し,書き込みをした点滴ボトルが残ってしまうのではないかとの懸念を抱いたことから,同日夕方の申し送りの前後ころ,この日当直勤務であった被告人に対し,「オペ中,オペ後と書き入れてしまったけれども,いいかなあ。」などと相���のため尋ねたところ,被告人は「ああ,いいです。」などと,気にする必要はない旨の返答をしたことが認められる。
これに対し,被告人は,上記の事実はない旨供述するが,P09看護婦は上記のようなやり取りがあったことについて,被告人に尋ねた理由も明らかにした上で明確に証言するもので,その内容も自然である上,P09看護婦が殊更虚偽の証言をすべき事情も認められず,その信用性を肯定できるのであって,これに反する被告人の供述は信用できず,被告人は,本件当日のみならず,他の機会に同様のやり取りがあった可能性まで否定するのであるから,単なる記憶違いではなく,虚偽を述べているものと認められる。
以上からすれば,被告人は,遅くとも,P16主任からボトル類を準備した旨の申し送りを受けた前後ころ,P05ボトルを手にしないうちから,同ボトルに,他の生食の点滴ボトルとは区別して,「オペ後」などとの,それが本件当日,P05に対し術後に投与される抗生剤の調合に用いられる予定であることを示す記載がされていることを認識したことが認められる。
(ウ)投与時の関係者の勤務状況についての認識
関係証拠によれば,本件当日から翌朝にかけての関係者の勤務予定については,P05ボトルが黒色カラーボックス内に置かれるより以前の段階で,既に勤務表が作成されていて,看護職員の勤務割当てが決まっていたこと,また,同年10月ころに実施された2度目のラリンゲルマスクの講習会の機会に,P18医師がP47医師の申出を断って自らが本件当日に当直勤務する旨,同講習会の参加者がいる場で発言していたことから,看護職員らの間では,P18医師も北陵クリニックに泊まり込み,P05の容体の把握や急変時の対応に当たることが期待されていたこと,以上のことは被告人も認識していたことが認められる。
エ 被告人が,P05ボトルによる点滴投与開始時刻について,事前に知っていたこと
(ア)P05に対する術後の抗生剤の点滴投与は,P06婦長がP05ボトルにパンスポリンを調合する以前に,投与開始時刻を本件当日午後9時ころとすることに決まり,P05ボトルには,その旨の「21°」との記載も加えられていたところ,被告人は,上記投与開始時刻が何時となったかについては,自分がその決定に関与していないのはもちろん,本件当日にそれを知らされたこともなく,関心外であったから自分で確認しようとしたこともなかった旨供述する。
(イ)しかしながら,まず,関係証拠(証人P16(甲309),被告人(第115回)など)によれば,北陵クリニックにおける術後の患者への抗生剤の点滴投与については,手術中に抗生剤が投与された時刻から6時間以上を空けた切りのよい時刻に開始する扱いとされていたことが認められるところ,被告人は,P05の手術に直接介助の看護婦として立ち会い,P16主任が午後2時30分前後ころに行った手術中の抗生剤の点滴投与の時刻について確認することが可能であったのであるから(被告人もそれがいつ行われたか記憶にはないとしつつも,それを知り得る立場にあったことは自認している。),被告人は,その時刻のみを基にしても,それから6時間以上が経過した,およそ午後8時30分又は午後9時ころにP05ボトルによる点滴投与が開始されるであろうことは予測し得たし,それより以前の,P05ボトルが黒色カラーボックス内に準備されるまでの間にも,P05の手術が午後に行われることは決まっていたのであるから,それを基に術後の抗生剤の投与が当直勤務時間帯の夜間に行われることは予測し得たものと認められる。
(ウ)そして,P16主任は,本件当日,P05に対する手術中の抗生剤を午後2時半ころに投与したことから,術後の抗生剤はそれから6時間以上空けて投与することを考え,午後8時半では当直看護婦が忙しいため,午後9時から投与することを決定し,その旨夕方の申し送りの際に当直勤務であったP77看護婦に申し送るとともに,夕方,P06婦長及び被告人とナースステーションの休憩用のテーブル付近で雑談していた際にも,P06婦長からP05に対する次の抗生剤の時刻を聞かれた際に,「21時」と答えるなどして話題に出した旨証言しているところ(甲309),同証言は,後に認定するとおり,上記三者の間でP05の術後の抗生剤の投与が話題となったのと同じ機会に話題が出た旨述べるもので,内容としても自然であること,P06婦長も,上記の機会に被告人又はP16主任のいずれかから上記投与時刻を聞いて知った旨,P05への術後の抗生剤の投与に関し後記認定のとおりの発言が被告人からあった機会にもその投与時刻を知っていた旨,これに沿う証言をしていること(甲293),P77看護婦も,当直勤務のため出勤後日勤看護婦のだれかから上記投与時刻を聞いており,P16主任からの申し送りの機会に聞いた可能性もある旨,矛盾しない証言をしていること(甲312)などに照らし,その信用性を肯定できる。
したがって,被告人は,上記雑談がされたと証拠上認められる,本件当日午後5時30分ころから午後6時ころまでの間には,上記投与時刻が午後9時からと決まったことについて耳にしていたと認められる。
なお,この点につき,被告人は上記のとおり,本件当日に上記投与時刻が話題に出た場にいたことはなかった旨,これと異なる供述をしているが,後記のとおり,被告人は上記雑談の機会にした自身の発言内容についても不自然な弁解をしているもので,上記P16主任及びP06婦長の証言と対比して信用できない。
(エ)なお,P18医師は,「本件当日の午前中,外来診療を行っていた際,外来診療区域中廊下で,被告人から,『術中に抗生剤が入りますが,術後の抗生物質は,間が少し短くなりますけれども,夜の9時から開始でいいですか。』などと言われ,その際は多忙であったため深く考えず,別に午後9時から始めてもいいだろうと考えて,『いいでしょう。』と返答した,P05が急変した後になって,そういえば,そのように手術前に看護婦が術後の抗生剤の投与時刻を聞いてくることはこれまでになかったと考えた」旨証言している(甲291)。
しかしながら,P18医師がこの点に関し殊更虚偽の証言をすべき具体的事情は認められないものの,他方において,前記のとおり,北陵クリニックにおいては,手術中の抗生剤の投与時刻を基にして術後の投与時刻も決められていたもので,P18医師も自認するように手術前の段階で抗生剤投与時刻が決定されることは通常なかったもので,実際にも,P05に対する術後の抗生剤の投与時刻については,P18医師が証言する被告人のやり取りとは無関係に,P16主任が自身の判断で決めていること,また,仮に被告人が犯人であったとして,術後の抗生剤の投与開始時刻は手術前でもおおよその見当をつけることが可能であり,さらに自らがその時刻の決定に関与せずとも,手術中の立ち会いや,その後の他の看護婦との会話でより具体的な投与開始時刻を認識することは可能であったのであるから,あえて手術前の時点で,通常しない不自然な発言までして,投与時刻を午後9時と確定する必要性がさほどあるとは認められず,また,被告人において,P18医師が上記時刻を了承したことを他の看護婦に口頭で伝えるなどの,投与時刻を午後9時と確定させるための積極的な行動をとったことをうかがわせる証拠もないこと(P05ボトルの「21°」の記載については次に検討する。)などからすれば,P18医師の上記証言に関しては,他の証拠による直接の裏付けを欠いており,証言に係る被告人の行動は,犯人の行動という観点からしてもやや唐突の感を免れないのであり,以上の点からすれば,上記証言内容の真実性についてはなお慎重に検討すべき事情があるというべきであり,したがってこの点については,そのようなやり取りがあったことを否定する被告人に有利に考慮し,更に立ち入って認定することはしない。
オ 「21°」との記載について
前記認定のとおり,P05ボトルにはP06婦長が調合及び点滴投与を行った時点では,何者かにより「21°」との記載が黒色マジックインキにより書き加えられており,また,P06婦長の証言(甲293)によれば,P05ボトルがナースステーションの銀色ワゴン上に置かれていた,遅くとも午後8時過ぎころまでの間にはその記載がされていたことが認められる。
そして,その記載をしたのがだれかについては,P05ボトルにそのような記載をして不自然でないのは,その投与開始時刻を知る者のうち,本件当日に出勤した看護婦に限られるところ(なお,医師のうちでも,P18医師も同人の証言によればその時刻を知っていたことになるが,同人も上記記載をしたことは否定している。),そのような記載をしたことに関しては,投与開始時刻を決めたP16主任(甲309),前記の経緯でその時刻を知ったP77看護婦(甲312)及びP06婦長(甲293)に加え,当日手術に補助として立ち会ったP09看護婦(甲294)や,当日の病棟担当で直接その決定や申し送りに関与する立場になかったP15看護婦(甲311)及びP10看護婦,すなわち,被告人を除く当日の勤務担当看護婦は,いずれもこれを明確に否定する証言をしているのであり,上記看護婦らが正規の業務としてその行為を行ったのなら,殊更これを隠す理由はないこと,さらに,上記「21°」の記載の筆跡は,看護記録に被告人が記載した「21°」の字と比較しても,同一人が記載したものと考えて矛盾はないと思えることも併せ考えれば,上記P05ボトルの記載についても,被告人が退勤までの間にこれをした疑いが濃厚であると認められる。
しかし,他方において,それ以上に被告人が記載したことを裏付ける直接的な証拠は存在しないため,そのような記載をしたことを否定する被告人に有利に考慮し,結論としては,この点についても,上記の事情のみからの積極的な認定はしないこととする。
なお,付言するに,P05への術後の抗生剤の投与時刻が決定され又は話題となったのは,上記のとおり本件当日になってであり,P05ボトルへの「21°」との記載も,おそらくそれ以前にされることはなかったものと認められるものの,犯人は,P05ボトルが黒色カラーボックス内に入れられた時点において,既にP05に対するおおよその投与開始時刻等についての推測は可能であり,具体的な時刻の決定や上記の記載がされるより以前であっても,犯行を計画し,マスキュラックスをP05ボトルの中に混入しておくことは可能であったと認められるから,混入の機会は上記「21°」との記載がされて以降に限定されるものではないし,上記記載をした者がその事実のみから当然に犯人と同一人物であることにはならず,上記記載をした者を特定することが,その者を犯人と認定するための当然の前提条件にならないのはもちろんである。
(2)被告人にP05の容体急変を予測し,急変原因を認識していることをうかがわせる言動があったこと
関係証拠(主要なものは括弧内に記載する。)によれば,後記ア記載のとおり,被告人がP05の容体急変を事前に予測し,急変後にその原因を認識していることをうかがわせる言動をとっていた事実が認められ,同イ記載のとおり,被告人はこれと異なる弁解をするがいずれも信用できず,その他の証人の証言など他の証拠にも上記認定を疑わせるものはないと認められる。
ア 認定できる事実
(ア)被告人は,平成12年11月10日朝,当直勤務を終えた後,日勤の病棟勤務のため出勤していたP16主任に対し,「挿管チューブの5.5頼んであるかな。」と,子供用のサイズの挿管チューブの在庫の有無を聞き,P16主任が,同サイズのものが1本入荷済みであることを確認の上,「もう入っているよ。」と答えると,被告人は,「えー,1本じゃ足りないよ。術後何があるか分からないから。」などと,術中の全身麻酔の際用いられる以外に,更に術後の急変に備えてもう1本の挿管チューブが必要であるとの発言をした。当時,P05以外に子供の手術は予定されておらず,P16主任は,1本ではなぜ足りないのかなと不思議に思いながらも,準備するに越したことはないと思い,「じゃもう1本頼みます。」と言うと,被告人は,「いいよ。僕が翠のP114さんに頼んでおくから。」と言った。なお,その後結局被告人からの追加注文はされず,P16主任がその手続を取った(証人P16(甲309))。
(イ)本件当日午後5時30分ころから午後6時ころまでの間,被告人,P06婦長及びP16主任の三名が,ナースステーションのテレビ前の休憩用のテーブル付近で雑談をしていたところ,その中でP05の術後の容体が落ち着いていて良かったとの話題が出た際,被告人から,唐突に,「今度の抗生剤のときは何があるか分からないから気をつけた方がいいよ。手術中は呼吸管理されてるから大丈夫だったけど。」,又は,「次の抗生剤危ないよね。手術中は麻酔がかかっているから何が起きているか分からない。」などと,P05に対して術後の抗生剤を投与した機会に,P05が容体を急変させる危険があることを示唆する発言をした。
北陵クリニックにおいては,一般的にも看護婦間において,夜間の抗生剤の点滴投与について格別に注意を促し合うようなことはなく,小児に対する消灯後の点滴投与も日常的に行われていたところ,P06婦長は,��れまでにもP05に限って術後の抗生剤の投与を不安に思ったこともなく,被告人の発言を聞いても,なぜ今回だけ改まってそのように言うのだろうなどと思ったのみで,不安を感じることはなく,P16主任も被告人の発言に同調することはなく,両名ともこれを聞き流した。
なお,それに先立つ申し送り等の機会にも,他の看護婦からP05に対する術後の抗生剤の投与を危険視する発言がされたことはなかった(証人P06(甲293),同P16(甲309),同P15(甲311),同P77)。
(ウ)被告人は,本件当日退勤前の午後7時ころ,P82技師,作業療法士のP93(以下「P93療法士」という。)及び理学療法士のP94(以下「P94療法士」という。)らがいたリハ室を訪れた。被告人の姿を認めたP82技師は,「P05君の手術終わったの。」と聞くと,被告人は,「終わった。今,部屋で寝てる。」と答え,P82技師が,「無事終わって良かったね。」と言うと,被告人は,「まだ分からないよ。」と言った。P82技師は,P05がまだ麻酔から覚めていないものと考え,被告人の発言を麻酔が覚めるまでが心配なのかなと思い,「危ないのって,麻酔が覚めるまでのことでしょう。」などと,麻酔から覚せいさえすれば安心なのではないかと問い返すと,被告人は,「それもあるけど,これからどうなるか分からない。」,「点滴は夜中中続くんだし。」などと答えた。
その後,被告人は,その場にいた上記の職員らに対し,「○○ちゃん(P77看護婦のこと)夜勤だから,何かあったらよろしくね。」と言い,P82技師が,これを受けて,「P02君が助けてあげたら。」と言うと,被告人は,「おれはもう帰る。」と言い,P82技師が,「私も帰るし,P02君が帰るんだったら何もないんじゃないの。」と,当時被告人が当直の際に患者の容体急変が多い旨被告人自身が発言していたことをとらえて冗談めかして言ったところ,被告人は,「それはまだ分からない。」などと言い,また,その場に居たP93療法士に対しても,「P93先生よろしく頼みますよ。」と言った(証人P82)。
(エ)P82技師は,本件当日の翌日である,同月14日午前8時30分ころ北陵クリニックへ出勤し,ナースステーション前廊下で出会ったP19看護婦から初めてP05の急変を知らされ,同人と立ち話をしていたところ,その場を通り掛かった被告人は,P82技師に対し,「おれの言ったとおりになっただろう。」と得意気に言った。P82技師は,被告人の発言を冗談で言っているものと思い,自分も冗談のつもりで,「P02君が不吉なことを言うから。」と言い返すと,被告人は,「おれのせいなの。」と言って立ち去った(証人P82) 。
(オ)翌15日午後,当直勤務のため出勤した被告人が,レントゲン室に,放射線技師のP95(以下「P95技師」という。)及びP82技師と共に在室していたところ,P16主任が,同室にP05に対する頭部CT撮影の検査伝票を持参し,脳波検査の指示は出たかとのP82技師の問い掛けに対し,「CTは至急だけど,脳波は容体が落ち着いてからでいいみたいだよ。」などと返答して退室した。
その際,被告人は,「CTなんか撮ったって意味ねえじゃん。脳波だけでいいじゃん。」などと言った(証人P82)。
(カ)同日夕方,ナースステーションにおいて,N病棟担当の日勤勤務であったP16主任は,被告人に対して,申し送りが行われた際,P05の頭部CTが撮影されたことと,点滴のグリセオール(脳浮腫を防ぐための薬剤)をまだ継続中であることを告げた。
すると,被告人は,急にいすにふん反り返って,自信たっぷりな口調で,CT写真を同時に見るようなこともなく,「頭じゃないでしょう。」と言った(証人P16(甲309) )。
イ 被告人の弁解について
これに対し,被告人は,前記アの各事項に関し,いずれも前記認定とは異なる弁解をしているが(第114回,第115回),次のとおり,被告人の供述中,前記認定と異なる部分はいずれも信用できず,その供述に係る事項や供述内容からすれば,単なる記憶違いではなく,虚偽を述べているものと認められる。
(ア)前記ア(ア)について
被告人は,P16主任に対し,P05の手術中の麻酔に使う挿管チューブの在庫が1本では足りず,予備の注文が必要である旨の話をしたことはあるが,それは,不良品があることがあり,挿管する場合には常に予備を準備しておかなければならず,必ず複数で注文していた経験からで,「術後何があるか分からないから。」などとは言っていないと思う旨供述する。
しかし,P16主任は,前記ア(ア)のとおりのやり取りが被告人との間であったことを,当時の心情を交えつつ具体的かつ明確に証言しており,その証言内容は物品請求簿(甲411)の記載にも裏付けられておりその信用性は高いと認められるところ,被告人の上記供述はこれと異なること,上記P16主任の証言によれば,北陵クリニックにおいては小児用の挿管チューブはこれまでも1本単位で注文されていたもので,また,同人は挿管チューブに不良品があったことを経験したり同僚から聞いたこともないことが認められるのであって,被告人が弁解するような,挿管チューブは必ず複数で注文するという扱いが一般的であったとはいい難いこと,被告人は,弁護人の質問の際には,術後に関する上記発言の有無についての供述をせず,検察官の質問に際しては,上記発言があったかについて,「言ったという記憶がないとしか言えない。」などと,完全否定とはいえない余地を残すあいまいな供述をし,さらに裁判官の質問に対しては,結局,当時単に手術中の麻酔のための挿管の予備としてだけでなく,術後の容体急変に対応する気管内挿管に使う可能性も考えていたと思う旨供述を変遷させているもので,以上からすれば,上記発言をしたことを否定ないし記憶がない旨述べる被告人の弁解は信用することができない。
(イ)前記ア(イ)について
被告人は,本件当日午後6時ころ,ナースステーションで雑談をしていた際,少なくともP16主任及びP77看護婦がいる場で,まずP16主任が,「抗生剤テストしてあるけど何があるか分からないよね。」と言い,これを受けて被告人も「そうだよね。」と答え,その後,当直勤務のP77看護婦に術後の抗生剤の投与の際に気を付けてもらう趣旨で,「オペ中はレスピレーター付いているし,具合悪くなっても、急変しても分からないから,気を付けてね。」などと言ったとは思うが,あくまで最初にP16主任が発言したのを受けての話で,自分から進んで「次の抗生剤危ないよね。」などとは言っていない旨供述する。
しかし,P06婦長及びP16主任は,いずれも,前記のとおり,両名と被告人の三人がいる場で,被告人から唐突にP05の術後の抗生剤の投与を危険視する発言が出たことを,当時の心情も交えつつ具体的かつ明確に証言しており,内容も相互に符合し,その信用性は高いと認められるところ,被告人の上記供述はこれと明らかに食い違うこと,さらに,被告人は,上記のとおり「気を付けてね。」などと言って注意を促した相手は当日の当直勤務者であるP77看護婦であり,その際P77看護婦もその場にいた旨供述しているところ,P77看護婦は,被告人からそのように言われたことはない旨,これを明確に否定する証言をしていること(証人P77),被告人は,抗生剤のテストを事前にしても具合が悪くなる人はいるし,P16主任から上記の発言をされても違和感を感じなかった旨供述するが,アレルギーテストの結果が陰性であった患者について,あえてその抗生剤の投与だけをとらえて危険な事態を予測することが一般的であるとは到底いい難いことに加え(この点はP16主任等多くの関係者の証言からも明らかである。),事前テストの結果をさておくとしても,P05に対しては既に手術中も同じ抗生剤の投与がされていたのだから,たとえ全身麻酔時の呼吸管理がされた状態であっても,その際に副作用が起これば,発疹等の出現や急激な血圧の低下によりそれを容易に認識し得たはずであるが,そのような事実もなかったのであり,被告人がその経過を踏まえながら,あえてP16主任が術後の抗生剤投与だけをとらえて危険視することに違和感を感じず,自らも上記のように発言したと述べるのは,その供述内容自体,誠に不自然といわざるを得ないこと,弁護人は冒頭陳述において,被告人が供述する上記のやり取りがあったのは,午後6時ころではなく,当直者への申し送りがあった際である旨主張していたところ,被告人は,検察官からの質問でこの点について問われた当初は,弁護人が被告人の説明を勘違いしたためである旨述べながら,その後の質問において,被告人が自身の著書においても,上記やり取りを「申し送り」の際のものと記載していることや,当公判廷で同日午後4時台の出来事として述べているナースステーションでおやつを口にしたのと同じ機会であったとの記載をしていることを指摘されるや,そのような記載をしたことは自認しつつ,「大まかにしか書いてないとしか言えない。」などとのあいまいな返答に終始し,結局,被告人は,当初は上記のやり取りを午後4時台の申し送りの機会のこととしていたのを,午後6時ころの雑談の機会であると変遷させたと評価することができる上に,そのように供述を変遷させた理由についても場当たり的で首肯できない弁解しかなし得ていないことなどの諸点を指摘できるのであって,以上からすれば,この点に関する被告人の弁解も到底信用することはできない。
(ウ)前記ア(ウ)について
被告人は,本件当日,退勤前にリハ室で,P82技師らがいる前で,P82技師から,「手術終わったの。」などと聞かれ,「うん,終わったよ。」などと答えると,「じゃ,あと安心だね。」などと言われたので,「手術後の方が管理は大変だし,まだ安心はできないよ。」などと答えたことはあるが,P82技師から「麻酔が覚めれば大丈夫でしょう。」との趣旨のことを言われた記憶はないし,「点滴は夜中中続くんだし。」などと言ってはおらず,点滴の危険性がその場で話題に上ったこともない旨供述する。
しかし,P82技師は,被告人との間で前記ア(ウ)のやり取りがあったことについて,例えば,被告人が前記のとおり夜間の点滴をとらえて危険視する発言をしたことに関し,「被告人のその発言を聞いて,理由を点滴に限定していたことから,抗生剤は事前にテストして使うはずだし,ほかにも薬剤を使うのかななどと考え,被告人が何か知っているように思う反面,知ったかぶりをして冗談半分で話しているようにも感じた。」旨述べるなど,当時の心情を交えつつ具体的かつ明確に証言しており,その内容についても,他の者がP05の術後の経過を良好と判断して不安を感じていなかったところ,被告人だけが唐突に夜間の点滴投与だけを取上げてこれを危険視する発言をした旨述べる点は,前記ア(イ)のとおり,時間的に近接する他の機会にも同様の言動があったと述べる前記P06婦長及びP16主任の各証言とも関連性,整合性を有し,相互にその信用性を裏付けているといえることなどからすれば,上記P82技師の証言の信用性は高いと認められるのであり,被告人の上記弁解はこれと明らかに食い違い,信用することができない。
(エ)前記ア(エ)について
被告人は,平成12年11月14日の朝,退勤するまでの間にP82技師と会った記憶はなく,P82技師に対して,「おれの言ったとおりになっただろう。」と言ったことはない旨供述する。
しかし,P82技師は,被告人との間で前記ア(エ)のとおりのやり取りがあったことについて,例えば,同日朝出勤すると,駐車場にP20教授とP18医師の自動車があるのを認め,前夜何かあったのかなと思っていたところ,P19看護婦からP05の急変を知らされたことや,被告人が「おれのせいなの。」と言った際の印象について,「笑って冗談で応じてもらえると思ったのに,顔が笑っておらず,私の目を見ずに遠くを見る感じで言われ,自分の発言を本気で取られたように,予想外に思い,違和感を感じた。」旨供述するなど,当時の心情を交えて具体的かつ明確に供述しているもので,その信用性は高いと認められるのであり,被告人の上記弁解はこれと明らかに食い違い,信用することができない。
なお,P82技師は,捜査段階においては,被告人から,「おれの言ったとおりになっただろう。」と言われたことについては供述していないが(弁65),P82技師は,その理由につき,捜査段階の取調べの際は,被告人から何を話しかけられたかまではっきり思い出せず供述しなかったが,その後に思い出して証言したものである旨供述しているもので,その経過に格別疑念を差し挟むべき事情はなく,これをもって上記証言の信用性が損なわれるとはいえない。
(オ)前記ア(オ)について
被告人は,同月15日に当直勤務のため出勤後レントゲン室で休憩したことはあり,その際にP95技師が同所にいたことはあったものの,P82技師がいたり,P16主任が来た記憶はなく,その場でCT写真が話題に上ったことも,「CTなんか撮ったって意味ねえじゃん,脳波だけでいいじゃん。」と発言したこともなかった旨供述する。
しかし,P82技師���この点についても前記ア(オ)のとおり具体的に供述しており,同人が殊更虚偽を述べる事情はなく,その供述内容は,被告人が,時間的に近接する他の機会にも,P05の容体急変原因について,頭部CT写真で判明するようなものではないことを指摘したとの点で,前記ア(カ)に関するP16主任の証言と関連性,整合性を有し,相互にその信用性を裏付けているといえることなどからすれば,その信用性を肯定できるところ,被告人の上記供述はこれと明らかに食い違い,信用することができない。
なお,証拠(甲231,327)によれば,同日実際にP05に対しCT写真の撮影がされたのは,同日午後3時台の,被告人が出勤しタイムカードを押した時刻より前のことであったことが認められ,したがってP82技師が証言するレントゲン室でのやり取りが,上記時刻より後のことであったとすると,その際に頭部CT撮影の検査伝票が持参されたなどと述べる部分は,既に撮影が行われた事実と一見矛盾しているようにも思われる。しかし,P82技師は,証言に先立って看護記録の記載を確認するなどして,上記の事実関係を認識した上で,なお,「私も,それはおかしいなと思ったが,以前にも,看護婦から口頭でCT検査の依頼がされてから先にCT検査が行われ,その後に伝票を持ってくるということがあったので,多分,そうではないかと思う。」旨述べて,前記の供述を維持しているのであり,また,P82技師が証言する当時のP16主任と被告人の発言の内容も,いずれか一方又は双方が,検査伝票の持参より以前に既に口頭での検査依頼又はCT撮影がなされているとの認識を有した上で発言したものとしても不自然とはいえないから,これをもって前記ア(オ)の証言の信用性が損なわれるものではない。
(カ)前記ア(カ)について
被告人は,同日夕方にP16主任から申し送りを受けた際,P05の頭部CT写真があったので,それを真上の蛍光灯にかざして見ながら,「脳浮腫ないよ。」と普通の会話のように言っただけで,「頭じゃないでしょう。」などとは言っていない旨供述する。
しかし,P16主任は,前記ア(カ)のとおり具体的に供述しており,同人が殊更虚偽を述べる事情はなく,その供述内容は,前記(オ)で指摘した点でP82技師の証言とも関連性,整合性を有する内容を述べるもので,その信用性を肯定できるところ,被告人の上記供述はこれと異なる内容を述べるもので,信用することができない。
ウ 小括
前記認定のとおり,本件当日にP05に対しされたFES電極埋込手術は,無事終了し,その後P05は麻酔から覚せいし,術後の経過も良好であったもので,被告人を除く北陵クリニックの関係者の中には,P18医師に当直するよう説得し自らもいつもより遅くまで居残ったP06婦長など,万が一の症状の変化に備えようとの意識を持った者はいたものの,本件で実際にP05の身に起こったような急激な容体の悪化を,具体的なおそれとして事前に予測するものはだれ一人としておらず,だれもがP05の術後の経過が良好であることにあんどの気持ちを抱いていたもので,また,一般的にも北陵クリニックにおいて看護職員が入院患者に対し夜間に抗生剤の点滴投与をすることは日常業務としてされており,格別これをとらえて危険視されることはなく,P05の場合にも事前のアレルギーテストの結果が陰性で,手術中の抗生剤の投与の際にも何ら副作用は発現しておらず,抗生剤の投与に関しても特別に危険性をうかがわせる事情はなかったものである。
ところが,そのような状況にあった中で,被告人だけが,前記ア(イ),(ウ)のとおり,唐突に,P05に対し本件当日午後9時から予定されていた術後の抗生剤が投与される機会だけをとらえて,「何があるか分からない。」,「これからどうなるか分からない。」などと,これを危険視する発言を,まずP06婦長やP16主任がいるナースステーションで行った上,その発言に同調する者はいなかったのに,続いてリハ室においても複数の関係者の前で繰り返して言い,他の職員にその際の手助けを依頼するなど,当直看護婦のみでは対応しきれない事態が起こり得ることまで明言していたことが認められるのであり,以上の被告人の発言内容は,その後実際に,前記のとおり故意の犯罪行為により引き起こされたものと認定できるP05の容体急変の客観的な時期や状況と符合しており,このように,他に同調したり不審な言動をとる人物がいない中で,ただ一人被告人だけが,犯人でなければ予測し得ない事実を事前に指摘して的中させたことは,被告人がP05事件の犯人であることを疑わせる極めて重要な間接事実であると評価することができ,この点については,同(ア)のとおり,被告人が上記発言より以前の機会にも,P05に術後の容体急変のおそれがあり,その場合に挿管チューブが必要となる可能性がある旨,やはり事後に生じた客観的事実と符合する内容の発言をしていたことや,同(エ)のとおり,急変の翌日に,自身の発言内容が的中したことを得意気に話していたことによっても補強されるものと認められる。
そして,被告人は,同(オ),(カ)のとおり,未だP05の容体急変の原因が判明せず,それゆえP18医師の指示で検査のため頭部CT写真の撮影等が行われていた段階であり,前記認定のとおり客観的にみてもP05の急変原因は筋弛緩剤の投与を除いては医学的に説明のつかないもので,その時点の予測としても軽々にその原因を特定するなどすることは困難であったにもかかわらず,医師から撮影の指示があっただけで,「CTなんか撮ったって意味ねえじゃん。」などと言い,さらに,その後撮影結果を十分検討するようなこともないまま,「頭じゃないでしょう。」などと言い,それぞれ,P05の真実の急変原因を知っているかのような発言を繰り返したもので,この点も前記の容体急変前の各言動と同様,被告人の犯人性を認定するための間接事実の一つとして評価することができる。
(3)その他の認定できる事実及び被告人が不合理な弁解をしていることについて
被告人は,前記(1)ウ,エ及び(2)で指摘の諸点について,いずれも不自然,不合理で,殊更虚偽の供述をしていると認められる弁解をし,前記(2)アで認定したような不自然な各言動に及んだことに関する合理的な説明をなし得ていないところ,被告人は,そのほかにも,下記ア,イのとおりの言動に及んだことが関係証拠により認められる一方,被告人はこれらの点や,下記ウの点に関しても,いずれも不自然,不合理かつ虚偽の弁解をしていると認めることができる。
ア P05の容体急変の連絡を受けて北陵クリニックに到着した後の被告人の言動について
(ア)認定できる事実
関係証拠(証人P18(甲291),同P20(甲292),同P06(甲293),同P09(甲294),同P19(甲295),同P71(甲310),同P77,同P94など)によれば,次の事実が認められる。
a P05が急変した旨の連絡を受けて北陵クリニックへ到着した被告人は,N2病室へ入室するや,直ちに救急カートから喉頭鏡と挿管チューブを取り出して,バッグアンドマスクによる人工呼吸を継続していたP18医師のそばに近づくとこれを差し出し,「先生,挿管しましょう。」などと言って,P18医師に対して気管内挿管をするよう促した。しかし,P18医師は,経験のない気管内挿管を行うより,慣れているバッグアンドマスクを継続して行う方がよいとの考えから,「挿管は今はしない。」と答えた。すると被告人は,ふてくされて怒ったような態度をとり,手にしていた上記器具を置くと,すぐさま無言のまま病室から立ち去った。
b その後,被告人は,ナースステーションに入ると,乱暴な動作でいすに座りながら,同所にいたP71助手が驚くほどに荒れた様子で,P71助手に向かって,「おれ頭に来た。あんなに悪い状態で,挿管しないのはおかしい,おれもう帰る。」などと言い,間もなくしてP71助手が外来診療区域へ赴いていた間に,同所を後にした。
c その後,被告人は,リハ室へ向かった。リハ室では,P93療法士が,P94療法士の手伝いを受けながら,被験者を相手に,静寂を保ちつつ実験をしていた最中であったところ,被告人は同室の病棟側出入口のドアをノックもなく勢いよく開けて入ってくると,激怒した口調で,P94療法士らに対し,大声で「もうやってられねえ。」などと言い,さらに,P05が急変したことや,挿管器具をP18医師の前でそろえたことを言うとともに,「それでもおれに挿管の指示を出してくれない。」,「指示があればおれがやったのに。」などとほとんど一方的に話し,その後しばらくの間,リハ室内にとどまった。
d P06婦長は,緊急状態下で病室を立ち去った被告人に怒りを感じ,被告人を呼び戻そうと考えてナースステーションへ行ったが,同所に被告人がいなかったため,在室していたP71助手に被告人を捜すよう依頼した後,自らもリハ室へ電話をかけた。被告人は当時リハ室内にいたところ,電話が鳴ると,「婦長だから,そっちに向かったって言ってくれ。」とP94療法士に言うやリハ室を出て病室へ向かい,電話に出たP94療法士は,P06婦長に「そちらに向かいました。」などと伝えた。P71助手は,その後,被告人を捜しにリハ室を訪れたが,P94療法士から,「さっきまでいたよ。」と聞き,結局被告人を捜すことをあきらめてN2病室へ戻ったところ,被告人は既に同室に戻っていた。
e 被告人がN2病室に戻ったころ,P20教授が北陵クリニックに到着しN2病室へ駆けつけてきて,その後前記のとおり気管内挿管を2度試みたものであるが,その際,被告人は,挿管チューブと喉頭鏡をP20教授に差し出して,挿管の介助を行った。
(イ)被告人の弁解について
これに対し,被告人は,前記(ア)の各事実があったことを否定し,
a 北陵クリニックへ到着後,N2病室には一,二歩足を踏み入れて,数秒間とどまったのみで,何の手伝いもせず,室内のだれかと言葉を交わすこともなく,P18医師に対し挿管を促すようなこともせずに立ち去った。その際,P05はアンビューバッグで加圧されており,重症だろうとは思ったが,挿管が必要とまで思ったかははっきりせず,P05の容体が急変した原因についても特に考えず,P05のことは心配だったものの,P18医師は以前P47医師に対して自分が当直して対応する旨言っていたので,「じゃ,やって下さい。」という気持ちで,P10看護婦やP06婦長らも在室していたので,まあ大丈夫だろうと思い,自分がいた方がいいとまでは考えず,立ち去った。P18医師に対しての恨みや反感はなかった。
b N2病室を出た後は,ナースステーションへは立ち寄らず,特に帰宅しようとは思わずに,暇つぶしのような気持ちで,行き先はだれにも告げず,まっすぐにリハ室へ向かった。リハ室ではP93療法士やP94療法士との間でP05が急変したことについては話したが,その際に自分が興奮するようなことはなく,執ようにP18医師を批判したこともなかった。その後,リハ室の電話が鳴ったので,だれかが自分を捜していると思い,P05の状態も気になり,再びN2病室へ行き,ドアを開けて数秒中をのぞいたが,P20教授が挿管チューブかラリンゲルマスクを手に持っているのを見て,それが挿管しようとする状況か,抜いた状況か,成功していたか失敗していたかははっきりしないが,P20教授が来ているなら挿管はされて何とかなるだろうと思い,P05の様子を観察することもなく,P05が回復するかどうかまでは考えることなく,再び病室を立ち去った。
c その後,再びリハ室へ戻ったところ,二,三分してP10看護婦が来て,「まだ,挿管されないの。」と話したため,特に理由はないが,その後何秒かリハ室で少し雑談をした後,P10看護婦より遅れてN2病室へ向かい,このときP47医師がN2病室の廊下の奥から歩いてくるのが見えたので,P47医師を大声で呼ぶこともなく,先にN2病室に入室したり,それまでにP05に対する挿管が成功したかを確認することもなく,N2病室の前で歩いてくるP47医師をすぐ近くに来るまで待ち構えてから,「まだ挿管されていません。」などと告げると,P47医師は,「僕入れるからいいよ。」などと言い,その後,P47医師と共にN2病室に入室した。
などと供述している(第114回,第115回,第138回,第139回)。
しかし,前記(ア)aないしeの各事実中,aの事実についてはP18医師,P06婦長及びP77看護婦らがほぼ合致する内容を,b及びcの各事実については,それぞれP71助手及びP94療法士が,dの事実についてはP06婦長,P71助手及びP94療法士が,それぞれ自身の立場から経験した事実について符合する内容を,eの事実については,P18医師,P20教授,P06婦長及びP09看護婦がほぼ合致する内容を(なお,P47医師も,被告人が述べるような,N2病室の外でP05への挿管が未了であると聞いた事実を否定する証言をしている。),それぞれ証言しているもので,以上の関係者の各証言はいずれも具体的かつ明確で,虚偽であることを疑わせる事情はない上,以上の各事実は,被告人が,自身が望むとおりにP18医師が挿管に踏み切らないことに不満��怒りを感じて以後の一連の行動経過に属するものとして,全体として極めて自然であり,各事実が整合性,関連性を有すると評価でき,これらの事実を述べる関係者の証言は互いにその信用性を裏付けているものと評価でき,上記関係者の証言等関係証拠によれば,前記(ア)の各事実があったことは明らかであり,被告人の上記供述中これに反する部分は,この点だけからも信用性が否定されるというべきである。
しかも,被告人の上記供述は,その内容だけをみても,被告人の供述によれば,被告人がいったん退勤するより以前の段階では,被告人において,なお術後のP05の容体が急変する可能性を認識し,被告人が急変時の対応に当たることを期待されて午後7時過ぎまで北陵クリニック内にとどまっていたというのに,また,一方ではP05のことをかわいいと思い,その状態を心配していたと言いながら(第114回,第115回),実際に急変の知らせを受けて北陵クリニックへ赴いた際には,P05がバッグアンドマスクによる人工呼吸をされるほどの重篤な状態になっていることまで認識しながら,P05の急変原因や具体的な状態を全く把握することなく,だれとも会話せず行き先も告げずに病室を立ち去り,次に電話があって訪室した際にも,挿管の場面まで目撃しながら数秒とどまっただけで再び立ち去り,3度目に赴いた際も,何らP05の状況を把握しないまま病室の外でP47医師を待ち続けたというものであって,患者の急変場面に駆け付けた医療従事者にあるまじき,誠に不自然な行動に終始しているといわざるを得ない。それなのに被告人は,そのような行動をとった理由が感情的なものによることを一切否定し,単に,P18医師が,看護職員の介助を受け得ることを前提として,医師レベルでの職務担当に関してした従前の発言や,病室にほかにも看護婦や,後にはP20教授がいたことだけを理由とする,首肯し得ない弁解を述べるだけで,何らそのような行動をとるきっかけとなり得る具体的な事情や自身の心理経過を説明し得ていない(なお,例えば,前記(ア)cに関し,被告人もリハ室に入るなり,P93療法士及びP94療法士に対し,まだ距離のあるところから話し掛けたこと自体は認めているが,このような行動も,それだけでは唐突さを免れず,この点についても被告人がなぜこのような言動に及んだか質問を受けて述べるところは,いかにもあいまいである。)のであって,その内容自体到底信用することができない。
以上のとおりであり,被告人が,信用できる関係者の各証言とは明らかに異なる事実経過を述べていることに,上記の供述態度を併せ考えれば,被告人がこの点に関しても,単なる記憶違いにとどまらず,殊更虚偽の供述をしていることは明らかである。
(ウ)P10看護婦の証言について
なお,P10看護婦は,被告人がN2病室を訪れた後の行動について,「被告人はずっと病室にとどまらずに,部屋から出て行ったが,どういう経緯でいなくなったかは分からない。」,「リハ室へ行って,被告人に対し,P05が挿管されていないことなどを話した。」などと,一見被告人の供述と矛盾しないかのような証言もしているが,同人は,病室に居合わせるなどして状況を具体的に認識し,相当程度その記憶を保持し得た可能性が高いのに,「被告人が出て行く前にP18医師との間でやりとりがあったかは覚えていない。」,「被告人が出て行く場面を見たかはっきり覚えていない。」,「リハ室では被告人と数分間話をしていたが,ほかに何を話したか覚えておらず,被告人に戻って来ない理由を聞いたかも覚えていない。」,「P20教授が挿管を試みたとき被告人がいたような気もするがはっきりしない。」などと,極めてあいまいで具体性を欠く供述を繰り返しているもので,上記のような証言については,これが被告人の供述の信用性を裏付けたり,他の関係者の証言の信用性を疑わせるに足りるものではなく,結局,既に指摘したとおりの、P10看護婦の証言全体の誠実性,信用性を慎重に考慮すべきことを裏付ける一事情としてのみ評価し得るというべきである。
イ その他の事実について
(ア)認定できる事実
関係証拠(主要なものは括弧内に記載する。)によれば,さらに,次の事実を認定することができる。
a P18医師は,前記のとおり,P05に対する手術前投薬として,まず硫酸アトロピンの投与をしたが,その際に,N2病室に同室していた被告人から,「先生,セデーションかけましょう。」と,P05に対し更に鎮静作用のある薬剤を投与することが提案されたが,P18医師は,P05が落ち着いた様子だったため,「その必要はないでしょう。」と言って,これに応じなかった。なお,被告人は,P05が手術を終えてN2病室へ戻り,P18医師から導尿等の指示が出された際にも,「先生,セデーションかけましょう。」などと言ったが,P18医師はこれを受け入れなかった(証人P18(甲291))。
上記手術前投薬のやり取りの後,P18医師は,同病室又はナースステーションのいずれかにおいて,同所にいたP16主任及び被告人に対して,P05の点滴ルートに接続されていた100cmのエクステンションチューブを50cmのものに交換するように指示をした。しかし,P16主任及び被告人の両名は,手術時も100センチートルのエクステンションチューブを用いるのが適当であると考えており,被告人が,むっとした態度を示したので,それに気付いたP16主任は,P18医師には聞こえないように被告人に対して,「とりあえずエクステンションチューブを50センチのものに交換して,手術室に入ってから長くすればいいよ。」と言ってなだめた。その後P18医師が出て行くと,被告人は,怒った態度で,「何も分かってないんだから。」などと言った(証人P16(甲309))。
P05が手術室に入室後,P16主任は,麻酔医による挿管の際,P18医師にその手技を見て身につけてもらおうとの話が看護婦間であったことから,被告人に対し,「P18先生呼んで来ようか。」と言ったが,被告人は,「いいよいいよ。やる気のあるやつは呼ばれなくても来る。」と言ったので,P18医師を呼びに行くのをやめた。その後,P05に対する気管内挿管が終了した後になって,P18医師がP05の様子を見に手術室に入ってきたところ,被告人はそれを見て,怒りながら,「今ころ来て。」と言った。
b P05に対し手術前に投与された筋弛緩剤のサクシンについては,前記認定のとおり,P74医師がサクシンを用いることを決定した後に,その準備がされたものであるが,具体的な準備の状況は,P74医師が,被告人に依頼して持参させたサクシンのアンプルを受け取った後,P74医師自らが開封して注射器に吸い上げる等の準備行為をして投与したものである(証人P74)。
c P06婦長は,前記のとおり,P18医師から,いったん当直を取りやめる意向を聞いた後,最終的には自らP18医師に要請してこれを翻意させたものであるが,その間に,次のやり取りがあった。
P06婦長は,本件当日午後5時30分ころ,小児科外来の診察介助を終え,その後ナースステーション内において,P16主任及び被告人と雑談をしながら休憩していた際,両名に対しP18医師が当直しない意向であることを告げた上で,P16主任と共に,P18医師から気に入られているように感じていた被告人に対し,P18医師に泊まるよう頼んで来てほしい旨依頼した。
すると,被告人は,外来診療区域へ行き,P18医師に対し,「先生,今日泊まるんですか。」などと尋ねたが,P18医師が「すごく調子がいいから,今日は泊まらない。」旨話すと,そのまま無言でナースステーションに戻り,P06婦長らに,「やっぱり泊まらないってよ。」などと伝えた(証人P18(甲291),同P06(甲293))。
(イ)被告人の弁解について
これに対し,被告人は,前記(ア)の各事実があったことを否定する供述をしているが(第114回,第115回),次のとおり,いずれも信用することができない。
a 前記(ア)aの各事実について
被告人は,「手術前投薬の際にN2病室へ行ったことはなく,手術のためP05を迎えに行くまでの間はナースステーションにおり,その間P18医師をナースステーションで見たこともなかった。」,「P18医師に対して『セデーションかけましょう。』などと言ったのは,P05を手術室へ連れて行く際の1回だけであり,P05は既に硫酸アトロピンとソセゴンを投与されていたのに,手術を嫌がって,ベッド上で起き上がって,泣いて騒いでいたので,そう言った。」,「ナースステーションにいたとき,P16主任が入室してきて,『点滴チューブ短いのにしてほしいと言われたんだ。』などと言われ,『どうせオペで長くするのに面倒だね。』などとP16主任に対して言ったことはあるが,P18医師に関する会話はしていない。」,「手術室でもP16主任との間でP18医師に関する会話はしていないし,他の機会にもP16主任が述べるようなやり取りをしたことはない。」旨弁解する。
しかし,前記(ア)aの各事実については,P18医師及びP16主任がそれぞれ明確に証言しており,各供述内容にも不自然な点はなく信用できるのに対し,被告人はこれと明らかに食い違う内容を述べていること,被告人の供述については,手術担当看護婦でありながら,特段用事もないのにナースステーションにとどまり,手術前投薬に立ち会わず,どの薬剤が投与されたかも確認しなかったと述べたり,2度の手術前投薬の際などにナースステーションに出入りすることがあるはずのP18医師の姿を見なかったと述べるなど,それ自体不自然であること,P05が手術室への移動の際泣いて騒ぐなどしたためセデーションを考えた旨述べる点についても,2度の手術前投薬の際,見ていた限りでずっと落ち着いていた旨述べるP18医師の証言があり,これに加え,移動に付き添った健も,P05が手術を嫌がって泣き叫ぶようなことはなかった旨証言しているもので,この点で他の証言と食い違う内容を述べていることなどからすれば,被告人の上記供述は信用することができない。
b 前記(ア)bの事実について
被告人は,「P05の麻酔導入の際,麻酔科医から『サクシン20準備して。』と言われたので,自分がサクシンのアンプルを切って,これをシリンジに吸って準備した後,麻酔科医に渡した。」旨述べている。
しかし,P74医師は,「麻酔を担当する場合,筋弛緩剤を使用する場合にアンプルの開封や注射器に吸い上げる準備は自身が行うようにしており,本件手術に際しても,看護婦にサクシンを持ってきてもらい,この症例の場合導入時にマスキュラックスを使用する医師も多分いるだろうなと思いながら,自分でアンプルを切って,注射器に吸ったと思う。」旨,職務として習慣化している事項に関し,当時考えていたことも交えつつ具体的に証言しているのであって,同人が殊更虚偽を述べたり,記憶違いをしているとは考え難いのであって,その証言は信用することができ,これに反する被告人の供述はこの点だけからも信用することができない。
しかも,被告人は,〔1〕前記のとおり,日ごろは麻酔医からどの筋弛緩剤を使うかの指示を受ける前に,自身の判断でサクシンとマスキュラックスの両方のアンプルを切って,これをそれぞれ別の注射器に入れて準備をし,その後麻酔医から指示を受けた筋弛緩剤が入った方の注射器だけを渡し,残った方の筋弛緩剤については,使用しないままこれを廃棄していた旨,それ自体不自然,不合理な供述をしているところ,P05の手術に際しては,麻酔医の指示を受けて初めてアンプルを切ったなどと,日ごろとは異なる行動をとった旨述べながら,異なる理由につき質問を受けても,初めての小児科の手術であったからなどとの首肯できない弁解を述べるのみであること,さらに被告人は,〔2〕P05事件に関連する自身の筋弛緩剤のアンプルへの関与の状況に関しては,ほかにも,平成12年11月9日夜から翌10日朝にかけての当直勤務中の時間帯に,マスキュラックスのアンプルの数を確認するために手術ボックスの引き出しを開けるなどした事実があるにもかかわらず,検察官の質問に対して,いったんは上記当直の機会に手術ボックスに手を触れたことはない旨弁解したり,〔3〕P05の手術後,使用したサクシンの空アンプルがどう処分されたかに関して,以前,その自著には,弁護人の冒頭陳述の記載と同様,「当日の手術で使用したサクシンのアンプルは,いつもと同様に手術室内にある赤いボックスに入れた。」旨記載していたこと,ところが,P16主任が「ナースステーションへ空アンプルを運び,それをチェックしながら,ひと研究費明細書(甲231)に書き込みをした後,ナースステーション内のプラボトル・アンプル用のごみ箱に捨てた。」旨証言(甲309)するや,被告人は,当公判廷では,通常は手術室内に置いていた赤い針箱に捨てていたが,P05に使われたサクシンの空アンプルについては,自分が捨てたか,他の人が捨てたかはっきりしない旨,上記P16主任の証言と矛盾しない内容に不自然に弁解を変遷させているものの,なぜこの機会にだけいつもと違い自ら上記赤い針箱の中に捨てなかったかにつき,首肯できる説明をなし得ていないことなどの諸点を指摘できるのであって,被告人の供述は,結局,P05の手術時の準備状況にとどまらず,筋弛緩剤のアンプルへの自らの関与の状況全般について不自然,不合理な弁解をしているといわざるを得ず,この点からみても,被告人の上記供述は到底信用できず,殊更虚偽を述べているものと認められる。
c 前記(ア)cの事実について
被告人は,「本件当日の,手術後退勤するまでの間に,P18医師に『先生,今日泊まるんですか。』と尋ねたり,当直するよう頼んだことはない。以前当直すると言っていたP18医師がこの日当直しないことになったことは,午後4時半から6時くらいまでの間に,ナースステーションで,P06婦長かP16主任から聞いて知った。自分がP06婦長からP18医師に当直するよう頼んでほしいと言われたことはない。」と供述する。
しかし,P06婦長及びP18医師は,それぞれ,前記(ア)cのナースステーションと外来診療区域において認識した事実について,相互に符合する内容を具体的かつ明確に証言しており,被告人の上記供述は明らかにこれと食い違う上,当初は,「それはなかったと思うんですけど。」と断定を避けた言い方をしながら,その後上記のように断定して言うなど不自然な点も認められ,これを信用することはできない。
ウ その他の点でも被告人が不自然,不合理な弁解をしていることについて
(ア)被告人は,「P06婦長から,P05の手術が終わって帰室した午後4時過ぎに,『手術終わったけど手術後心配だから,ちょっとあんた悪いけど残っててよ。』と言われたので,リハ室で時間をつぶし,午後7時過ぎにP06婦長に特に問題ない旨を確認してから帰宅した。」旨供述する。
しかし,居残ることをP06婦長から依頼された旨述べる被告人の上記供述については,この点につきP06婦長が,「初めての小児科患者のFES手術であり,最初から午後9時の消灯まで勤務する覚悟で仕事に臨み,P05の術後の経過に問題があったわけではないが,P05の術後のことも,他の患者のことも考え,多少は夜勤者の足しになるかと思い,午後9時25分ころまで残っていた。自分が残るつもりでいたので,特に被告人に午後5時以降も病院に残るよう依頼したことはなかったと思う。」旨,前記認定の,P05の術後の経過が良好であったことを前提とし,これと整合性のある具体的な証言をしていること(証人P06(甲293))と対比し,信用することができない。
(イ)被告人は,容体急変後のP05の自発呼吸の有無を,直接又は間接的に確認した事実の有無及びその状況に関し,「P47医師が挿管した際,P05に咳嗽反射や嘔吐反射があったかについて,はっきりちゃんと確認したとはいえない。」,「P05の自発呼吸の有無については,P47医師による挿管後,麻酔器による人工呼吸の回数の設定をしていた際,P47医師に対し,『自発はあるんですか。』と確認すると,P47医師が,『自発はあるけど弱いんで,そのままの18回の設定でいいです。』と答えたのを聞いたことはあるが,P05の意識の回復を確認するまでの間,自分で自発呼吸の有無を確認したことはない。」旨供述する。
しかしながら,容体急変後のP05の呼吸状態については,既に症状経過に関し認定したとおり,P18医師が容体急変後最初にN2病室に駆けつけた当初には,ややあえぐような呼吸が少しされていたものの,その後は聴診器を当ててみても呼吸音が聞かれず,また,鼻や口元に手や顔を持っていっても,息がかかってくる感じがない状態になり,バッグアンドマスクによる人工呼吸を受けた後も,アンビューバッグにより空気を送り込まれた際に受動的な動きとして胸郭が上下するだけで,自発呼吸を確認できる動きはない状態となり,P20教授が気管内挿管を試みた際も嘔吐反射や咳嗽反射はなく,息の出入りが認められない,自発呼吸が停止した状態であり,P47医師が挿管した際にも咳嗽反射や嘔吐反射はなかったことが,関係者の供述や診療録の記載等関係証拠から明らかに認められるのであり,以上の状況にかんがみれば,P05の呼吸状態や咳嗽反射及び嘔吐反射の有無に関しては,P05の容体の把握のために重要な事項である上,被告人自身も容易に直接観察することが可能であったと認められるにもかかわらず,被告人は,いずれも自らが直接正確に確認したことはなく,確認しなかった理由についても「だれかが確認しているので,それでいいと思った。」旨述べ,誠に不自然,不合理といわざるを得ないこと,P47医師から弱い自発呼吸がある旨聞いたとの点についても,P47医師は,P05の当時の自発呼吸の有無については記憶がない旨述べつつも,挿管の際P05に何の反応もなかったのは確かであり,また,自らアンビューバッグを加圧した際,患者が自発呼吸をした際に認められる,患者の呼気と押し込む空気がぶつかる際の抵抗の有無についても,少なくとも「はっとするようなことはなく,慎重に加圧したが,押し返されたことは全然覚えていない。」旨,記憶の限りで誠実に証言しているのであり,そのような状況下でP47医師が上記のような発言をするとは考え難く,結局,被告人の上記供述はいずれも不自然,不合理で信用することができない。
(4)結論
以上を踏まえ,P05事件の犯人を被告人と推認することが可能か否かを以下検討する。
まず,前記(1)で認定したとおり,単にP05ボトル内にマスキュラックスを混入する機会があった人物ということであれば,それは被告人にとどまらないものの,被告人は,混入があったと推測される期間内に,2度当直勤務を行い,薬品庫に出入りしてマスキュラックスの保管状況を把握するなどし,さらに本件当日も手術担当として朝から出勤しているもので,他の北陵クリニック職員と比しても,他者に気付かれぬ方法で,より容易に混入行為を行うことが可能であったと認められる。
また,被告人は,混入可能となった当初から,P05ボトルが他の点滴ボトルとは区別され,それが本件当日午後のP05の手術の後に投与される抗生剤の調合に用いられるものであることを特定する記載がされた状態で,黒色カラーボックス内に置かれていたのを認識し得たことに加え,P05ボトルによる点滴投与の開始時刻に関しても,本件当日の夜間の当直勤務の時間帯となることを認識し得,したがって,投与時の職員の勤務状況についても,看護婦としてはP77看護婦一人が当直を担当し,また,更に医師としてP18医師が当直に当たることが予定され,看護職員もその期待を抱いていたことを認識し得たものであり,この段階で,P05にマスキュラックスが投与される時間帯や,その際のP05や関係者の一定の状況を予測の上で混入に及ぶことが可能な立場にあったということができる。そして,さらに,被告人は,本件当日も出勤後,手術担当の看護婦として手術中やその前後のP05の状況を認識し,その後も午後7時13分ころまで北陵クリニック内にとどまり,ナースステーション内での雑談に加わるなどしていたことから,その間に,前記のとおり,より具体的に投与開始時刻を予測することが可能となるなど,当日の状況から,上記のとおり従前から可能であった予測の内容を変更すべき事態が生じたか否かについても把握し,必要に応じた行動をとることも可能な立場にあったものである。
そして,前記(2)で認定したとおり,被告人は,P05ボトルへのマスキュラックスの混入の機会があった北陵クリニックの関係者のうちでも,ただ一人,P05の容体急変及びその際の状況に関し,犯人でなければ予測し得ない事実を事前に指摘したり,その後も容体急変原因を知っているかのような不自然な言動を繰り返していたもので,これは被告人が犯人であることを推認させる極めて重要な間接事実と評価することができるところ,被告人は,前記のとおり各事実の存在を否定し,殊更虚偽の弁解を弄するだけで,上記の不自然な言動に及んだ事情につき全く合理的な説明をしていない。
さらに,被告人は,P05事件に関し,前記(3)で認定したとおり,P05の容体急変時に,気管内挿管を行うことのみに関心を向け,これをP18医師に具申して退けられるや,突然不満をあらわにし,多数の医師及び看護婦によるできる限りの救命措置が期待されていた場面で,関与の意思を放棄して病室を立ち去り,他の部屋にいた看護助手や療法士らに不満をぶちまけて,呼び戻すための連絡があるまで戻らなかったのに,その後,P20教授による挿管の機会には,自らその介助を行っていること(前記(3)ア(ア)),そのほかにも,P18医師の医療行為に対し自ら「セデーションかけましょう。」などと積極的に提案を述べる一方,その陰でP18医師の医療技術や医療行為に関する判断や姿勢に対する不信感や不満をあらわにしていること(同イ(ア)a),自らの筋弛緩剤のアンプルに対する関与状況(同b),本件当日夜間の当直に関するP18医師と自身や他の看護婦とのやり取りの状況を認識していたこと(すなわち,P18医師が当初の予定どおり当直すれば,P18医師が一次的にP05の容体急変に対応することになるし,仮にP18医師が当直を取りやめたとしても,その後に容体急変の事態となれば,P18医師は連絡を受ければ同様の対応をすべきことになるのはもちろん,P18医師の対応いかんにかかわらず,当直を取りやめたことに関し,後に関係者からの非難を免れない立場に追い込まれることを予測し得たこと)(同c)に関して認められる各事実や,P05の術後に関しP06婦長が抱いていた危ぐの程度や被告人が勤務時間を過ぎても居残った理由(同ウ(ア))及び容体急変後のP05の呼吸状態等(同ウ(イ))に関する各事実について,それらはいずれも,P05事件の事件性や,犯行方法,犯行計画ないし犯行動機にかかわる事実として,被告人に不利に働く事実と認められるところ,被告人はこれらの事実に関しても,殊更虚偽の供述をしている。
これに加え,前記のとおり,P05事件を含む,本件起訴に係る5つの事件は,いずれの事件も同一の犯人により引き起こされたとの強い推認が働くというべきところ,既に認定したとおり,P03事件及びP04事件については,いずれもそのような他の事件との共通性を考慮しなくても,独自に被告人が犯人であると断ずることができるのであるから,これは,P05事件の犯人も同じく被告人であることを推認させる事情になるといえること,さらに,被告人には前記認定のとおり,マスキュラックスの発注及び管理に深くかかわり,これを不正使用した事実や,その使用済みの空アンプルを持ち出そうとするなどの不自然な行動をした事実が認められ,にもかかわらず,被告人は,これらに関しても不自然,不合理ないし虚偽の弁解に終始しており,P05事件に関しても,前記(3)イ(イ)bのとおり筋弛緩剤のアンプルへの関与の状況につき同様の弁解を弄していることなども認められるのである。
以上のとおりであるから,これまで指摘した諸点を総合すれば,被告人がP05事件の犯人であると優に認定することができるのであり,これに疑いを抱かせる証拠は存在しない。
(1)認定できる事実(被告人及び関係者の行動)
ア 関係者の供述
本件関係者のうち,証人P81,同P19(甲318),同P82,同P16(甲321),同P57,同P94,同P15(甲311),同P72の各供述中,平成12年11月24日(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。)午前8時ころから午前10時ころまでの被告人及び関係者の行動経過に関する部分は,大要,次のとおりである。
〔1〕午前8時過ぎころ,朝の看護婦間の申し送り(通常は,午前8時30分ころから始まり約15分ないし20分の間行われる。)の前に,前夜から当直であったP10看護婦及びP72助手の2名がナースステーションに在室しているところに,被告人が外来側出入口から白衣姿で入ってきてあいさつし,いったん両名がいた近くまで歩み寄った後,すぐにその場を離れ,中央に置かれた4つの事務机の反対側(北側の,両名から見て遠い方)を迂回するようにして,黒色カラーボックス等が置かれた病棟側カウンター付近に近寄る行動をとった。
被告人は,その後いったんナースステーションを退出したが,出勤して着替えを終えたP19看護婦がナースステーションに入り,P72助手が勤務のため退出したことからP10看護婦と2名で在室していたところ,再び病棟側出入口から白衣姿で入室した。
〔2〕被告人は,上記申し送りが始まる際,当日の相病棟担当者であるP19看護婦に対し,「どうぞ。」などと言って,通常申し送りの際にN病棟側の担当者が座ることが多かったいすに座るよう勧めるなどして,N病棟側の担当を勧めたが,当日,病棟以外に「悩み外来」も受け持つことになっており,悩み外来をも担当する場合には,兼ねて担当する病棟はS病棟であるとの認識を有していたP19看護婦から「私は今日は悩み外来もだから,S側ね。」と明確に断られ,結局,被告人はP19看護婦に勧めた場所のいすに座り,被告人がN病棟側,P19看護婦がS病棟側を担当することになった。
〔3〕被告人は,午前8時50分ころに申し送りが終わった後もP19看護婦及び��10看護婦と共にナースステーションに残っていたが,そのころ,P05がナースステーションにやって来たことから,P10看護婦と二人でその相手をし,その後間もなくP05と共にナースステーションを退出した。そして,午前9時前後までの時間帯に,P05と共にリハ室に現れ,数分間インストラクター室に在室してP82技師やP94療法士らと雑談するなどした。
また,被告人は,下記のとおりいったんナースステーションに戻った後の,午前9時過ぎころ,P72助手がナースステーション前通路にいた際,手術室前室から出てきて,これに驚いたP72助手が「あー,びっくりした。」と声を上げたのに対し,無言のまま談話室側に歩いていくことがあった。
〔4〕当日,本来S病棟担当であったP19看護婦は,被告人が入院患者に対する点滴開始時刻である午前9時近くになってもナースステーションに戻ってこなかったので,本来はN病棟担当の被告人が行うべきであったN病棟の患者用の点滴の準備を,被告人の代わりに,点滴ボトル及び薬剤を黒色カラーボックス内の各箱から取出して調合し,必要なものについては輸液セット等を接続するなどして行った(P07に関する具体的な準備方法は後記のとおりである。)。なお,この日午前9時からの点滴投与の指示が出ていた患者は,P07、P57及びP96(以下「P96」という。)の3名であり,いずれもN病棟側の入院患者であった(甲418,419)。
この間,ナースステーションには,P10看護婦も同室していたが,P10看護婦は,P19看護婦が上記準備作業をしているのを見て,「そんなのは自分でやらせればいいんだよ。」と言った。
P19看護婦が点滴の準備を終えたころ,被告人は,白衣を脱いだ,薄緑の看護衣姿でナースステーションに戻ってきたので,P19看護婦は,準備した点滴ボトルなどをワゴンの上に置いたまま,被告人に対し点滴を準備した旨告げ,入室してきた被告人と入れ替わるようにナースステーションを退出し,悩み外来に患者がいないことを確認した上,自らの担当であるS病棟の巡回を開始した。
〔5〕午前9時15分ころ,P07に付き添っていたP81は,従前施行されていた点滴溶液が残り少なくなったので,ナースコールで点滴ボトルを替えてもらうよう依頼したところ,被告人がナースコールに出て,間もなく上記のP19看護婦によりP07用に準備されたボトルを持ってN10病室に来た。
〔6〕被告人は,P07のボトルを持参したものに取り替えた後,しばらくP07,P81と雑談をしていたが,そのうち,P07の便通がないので,ラキソベロンを投与することになり,被告人は,いったんN10病室を出て,外来の小児科内科処置室付近に赴き,P16主任に「ラキソ20滴飲ませてもいい。」と事前の了解を求め,間もなくN10病室に戻り,午前9時30分ころ,P07にラキソベロンを投与し,その直後,被告人はN10病室を退室した。
〔7〕被告人が退室した後,間もなく,P07の容体が急変したため,これを察知したP81は,急いでナースステーションに赴き,そこにいたP19看護婦にP07の急変を告げた。そこで,P19看護婦は,手動の血圧計を持ってN10病室に行き,血圧を測った後,急いでP07が急変したことをP12医師及びP16主任に告げに行った。そして,心電計で心電図をとっておいた方がよいということになり,P19看護婦は小児科内科処置室にあった心電計を持ってN10病室に向かい,その途中,ナースステーションからの電話で生理機能検査室にいたP82技師に心電図をとってもらうよう依頼し,P82技師は,これを受けて,直ちにN10病室に向かった。P19看護婦は,P82技師が来た後,入れ替わりにN10病室を出た。
〔8〕P82技師は,N10病室で,午前9時50分少し前まで,繰り返し心電計でP07の心電図をとった。途中,P16主任が顔を出して,だれも看護婦がいなかったので,N病棟担当の被告人を捜したが,ナースステーションやレントゲン室にはおらず,病棟廊下で大声で呼んでも応答はなかった。この前後ころ,P19看護婦も,同様に被告人を捜したものの,やはり見当たらなかった。
〔9〕P82技師がP07の体位を変え,電極を取り付けた後,心電計で測定を始めたころ,被告人がN10病室に入ってきたものの,被告人は特に驚いた様子を見せず,P82技師やP81にP07の状況や心電図をとっている理由などを尋ねることも,自ら何らかの処置に取り掛かることもなく,P19看護婦が被告人を捜していた旨P82技師から言われても,聞き流す以外に格別の反応を示さず,P82技師がP07の容体急変に関する心当たりを尋ねたのに対し,「おれのせいかも。」,「ラキソベロンを飲ませた。」などと答えるなど雑談をしながら,P82技師が上記測定をしているのを傍らで見ていた。そして,P82技師が心電計の片付けを始めたころ,被告人は心電図モニターの電極を持って立っていたが,遠くを見ている様子で,心電計を片付け終わったP82技師が呼びかけても,最初はこれに反応がなく,P82技師が更に「P02くん。私,付けるから。」などと言って,被告人に代わって電極を装着することを申し出ると,被告人は,ようやくこれに気付いた様子で,自分で付ける旨言って上記電極をP07に取り付けた。この後,また,P16主任がN10病室に様子を見にきて,P82技師に検診受診者が来ていることを告げたので,P82技師は退室し,P16主任も,被告人がいたので,間もなく退室した。
〔10〕被告人は,この後,上記心電図モニターの設定以外には,特にP07に対する対応,処置を施すことなく,ナースステーションに戻っていたところをP19看護婦に見られ,同人からは初めてP07の急変を告げられた。すると,被告人は,自分でソリタT3の500mLのボトルを持ってN10病室に向かい,P19看護婦も後に続いた。被告人は,N10病室に入ると,即座にP07に従前点滴されていたボトルを上記ソリタT3の500mLのボトルに切り換えた。
〔11〕午前9時54分ころから,P07に対し酸素吸入が開始され,以後,主として被告人及びP19看護婦がP07の看護,観察等に当たった。
イ 被告人の供述
これに対し,被告人は,上記に対応する時間帯における自分及び関係者の行動等について,大要,次のとおり供述している。
(ア)朝,北陵クリニックの建物内に入った後,ナースステーションには,その直後に車の鍵を置きにいった以外,朝の申し送りが始まる少し前まで入っていない。鍵を置きに入った際には,まだ私服のままで仕事着に着替えておらず,白衣も羽織っていなかった。また,出入りしたのは病棟側出入口からであり,外来側カウンター内の使用していた引き出しに鍵を入れるとすぐに出た。ナースステーションを出た後は,すぐ更衣室へ行って,看護衣に着替えて白衣を羽織っており,この白衣は,その後,当日退勤する前に脱いだことは一度もなかった。
(イ)申し送りの始まる際,P19看護婦にN病棟側担当を勧めたことはなかった。P19看護婦にいすを勧めたことはなく,そのように誤解されるような行動もとってはおらず,P19看護婦から悩み外来の話が出ることもなかった。
(ウ)申し送り終了後,午前9時前後の時間帯には,リハ室に行っていないし,手術室前室にも入っていない。申し送りが終わった後は,引き続きナースステーション内でカーデックスのチェックをしており,この後,後記のとおりP81の依頼を受けてN10病室に入るまで,他の場所には行っていない。
(エ)上記のとおり,被告人は申し送り後もナースステーションにいたところ,P19看護婦が被告人のいるところでN側の患者の点滴の準備をしてくれるというので,そのままお願いした。
(オ)午前9時少し前ころ,ナースステーションに来たP81から,P07の便通がないことから,ラキソベロンの投与を依頼され,被告人は,これを受けて,間もなく,ラキソベロンを持ってN10病室に向かった。このとき,P19看護婦も,N病棟の患者に対する点滴ボトル等を持って,ナースステーションを出ていった。P81から,ナースコールで点滴の交換を依頼されたことはない。
(カ)N10病室では,間もなくP07にラキソベロンを投与した。このとき,P07らと特に雑談はしていない。そのうち,点滴交換を知らせる輸液ポンプのアラームが鳴ったので,ボトルの交換をしなければならないと思い,入り口付近まで出たとき,丁度,他の病室から廊下に出てきたP19看護婦が,「ごめん。まだそっち点滴やってないから。」と言って,ボトルを持ってやってきたので,P19看護婦からP07用のボトルを受け取り,P07の点滴ボトルを交換した。なお,P57とP96に対する点滴の施行はP19看護婦が行ったもので,被告人は関与していない。
(キ)その後,N10病室を出てから,N病棟で患者がいる他の部屋すべてを順に回り,ナースステーションに戻って申し送りノートにP07の記載をし,さらに,外来内科診察室に行ってP16主任に対し,P07にラキソベロンを投与した旨告げ,またナースステーションに戻って,入院患者の内服薬の準備をした後,N2病室でP05と遊び,次いで,S病棟患者の車いすによる移動を手伝ってリハ室へ行き,そのままリハ室でP94療法士らと雑談しているところを,P19看護婦から声を掛けられて,P07の急変を初めて知り,直ちにN10病室に向かった。
(ク)以上の経過であり,リハ室でP19看護婦から声を掛けられるまで,P19看護婦やP16主任から声を掛けられたことはなく,また,それまでの間に,心電図モニターの電極やP07の点滴交換用のボトルを用意したり,これらを持って,あるいは,他の用事でN10病室に入ったことは一度もなかった。
ウ 各供述の信用性の検討
証拠状況は以上のとおりであるところ,被告人以外の関係者の供述内容(〔1〕ないし〔11〕)と被告人の供述内容((ア)ないし(ク))のいずれが信用し得るか考察すると,以下のとおりである。
〔1〕及び〔3〕(被告人の供述では(ア),(ウ))については,少なくとも,P72助手,P82技師及びP94療法士の各供述は,印象深い点に触れつつ,非常に具体的,詳細に行われている。例えば,P72助手の供述では,被告人が白衣を着てナースステーションに入ってきたことが,当日被告人がパーマをかけてきたことと関連付けて述べられたり(被告人がその前日パーマをかけたことは,被告人も認めている。),普段車の話題などで親しく話したりしていた被告人が当日手術室前室から出てきたときに限り無言で通り過ぎるという異様な体験をしたことに言及したりしている。また,P82技師及びP94療法士も,それぞれ,被告人がP05と一緒にリハ室に来たのがこの日である理由をも,具体的に述べている(このうち,P94療法士の挙げる「被告人が飲み会の約束をすっぽかした」との点について,被告人はそのような約束はなかったと供述しているが,被告人の供述によると,その後飲み会の話がどうなったのかあいまいなままで不自然である。)し,当日被告人が変身ベルト等を身に着けたP05と共にP05の病室(N2病室)を離れて院内を歩いたりしていたことは,ナースステーション出入口付近で,被告人とP10看護婦がP05も交え会話している場面を見て,将来被告人とP10看護婦はこんなふうになるのかななどと感じた旨のP19看護婦,P72助手の各供述によっても裏付けられている。このような供述内容とP72助手,P82技師及びP94療法士の立場(いずれも北陵クリニックの職員ではあったが,職責上当然に直接薬剤やこれが入った器具に触れる機会の多い看護婦ではなく,本件各事件の急変原因について,何らかの関与の疑いをかけられる立場にはない。)からすると,これらの供述部分は,独自に高度の信用性を有するものというべきである。
〔4〕及び〔5〕(被告人の供述では(ウ),(エ))について,P19看護婦がN病棟側の点滴準備をした際被告人がナースステーションに在室したかの点とP19看護婦がN病棟側の点滴手技をも担当することになったかの点で,根本的な争いがある。しかし,この点に関しては,そもそもN側とS側の病棟担当が決められていることの意味合いに着目する必要がある。すなわち,N病棟担当とS病棟担当は,基本的に,それぞれ一人で当該病棟に入院中の各患者の看護に携わるのであって,時として他の看護婦が一部の看護作業を行うとしても,それは,あくまで援助,協力という意味合いにおいてである。したがって,被告人が述べているように,片方の病棟担当の看護婦が現に在室し,特に緊急の用事に追われているわけではないのに,もう一方の病棟担当の看護婦がその点滴準備を代わって行うことは不自然であり,ましてや,直接患者に対する看護措置の重要な一環というべき点滴手技自体を代わって行うということ(それは,同時に,一定時間,自ら担当すべき病棟の看護措置を後回しにせざるを得ない事態をも意味する。現に被告人も,各病室に対する巡回については,対応する病棟の担当看護婦が行う業務であることを自認しており,当日も被告人自身が入院患者のいるN病棟の病室のみを,全室訪れたと述べており,点滴の施行が,その巡回業務の担当とは無関係に行われるというのは不合理である。)は,当事者間のそれなりのやり取りがある場合や,それもできないような特殊事情がある場合でない限り,極めて不自然である(この点,P10看護婦は,これと異なる状況にあったと供述するが,以上に照らし,また,P19看護婦は,P10看護婦が上記〔4〕のとおり本来被告人が点滴の準備をすべきであったことを前提とする言動をとっていた旨も証言しており,これと対比しても信用できない。)。それにもかかわらず,被告人は,P19看護婦が代わりにやるというのでやってもらったという以外に,P19看護婦との特段のやり取りも,何らかの特殊事情にも全く触れていない。そして,現に,N病棟に入院していたP57(もちろん北陵クリニックと何ら利害関係はない。)は,被告人と思われる男性の看護士から点滴を受けた旨供述するところ,この点滴手技をした男性の看護士が被告人であることをその容貌の記憶から直ちに確認し得るかどうかは念のためおくとしても,少なくとも,当時北陵クリニックに勤務する男性の看護職員は被告人しかいなかったこと及びその被告人がP57の入院中日勤勤務だったのは本件当日以外にないこと(甲49,50)からして,P57のこの供述もまた絶対的といってよいほどの信用性を肯定し得る。さらに,P07の看護記録中には,P19看護婦による点滴開始時刻の記載があるが,P19看護婦は,事情はともかく,一度「9:00」と記載した後これを訂正して「9:15」と記載している。もし,P19看護婦が自分でP07に対する点滴を行おうとしていて,これを被告人に手渡したとすれば,いずれにせよ,このような記載間違いをするとは考えられない(単純な書き損じではなく,9時から点滴されたものと勘違いして記載したとしか解されないからである。なお,弁護人は,上記訂正につき,P07の点滴ボトルの残量が問題となった後に残量に矛盾しないように書き換えられたと考えられる旨指摘するが,ボトル残量の重要性が具体的に意識されることは,仮にあったとしても,P07事件に関する捜査がかなり進展し,当然,当該診療録も押収された後と解されるから,その後に書換えが行われたとは,到底考えられない。)。また,一方において,P57及びP96の看護記録(甲418,419)には,被告人による点滴施行の記載があり,被告人はこれらも実際の手技はP19看護婦がやったもので,被告人はその後メモを受け取り,あるいは推測も加えるなどして記載したにすぎない旨弁解するが,被告人の弁解はこの点についても誠に不自然であり,これを明確に否定する上記P57及びP19看護婦の証言と明らかに異なる供述をしている。ちなみに,上記P57及びP96の看護記録の点滴施行の記載のうち,施行時刻の点は,いずれも「9:10」と記載されているが,この点も,仮に被告人の供述どおり,P19看護婦がN病棟側の他の病室(P57,P96の病室)の点滴施行を先に行い,その後にN10病室に回ってきたという順序であるとすれば,これと明らかに矛盾することになる。以上によれば,上記〔4〕及び〔5〕に関するP19看護婦の供述は信用でき,反面,被告人の供述は,全く信用できない。
〔5〕及び〔6〕中P81の関係する部分(被告人の供述では(オ),(カ))について,P81の供述は,内容が具体的で格別不自然なところがない上,その立場(同人も北陵クリニックの職員ではない。)及びノートに重要な事柄をメモしていたこと(甲417)も併せ考慮すれば,細かな状況について勘違いがあり得るかどうかはともかく,少なくとも,〔5〕及び〔6〕記載のような基本的な関係者の動きに関する部分は高度の信用性を肯定し得る。そして,これとの関連で,被告人がP07の急変前N10病室を退室した時間帯は,被告人の供述のように,午前9時前後の早い時期ではなく,午前9時30分ころになっていたと認められる。
なお,被告人がしばらくの間P07及びP81と雑談していた点については,P07が急変する前,たまたまN10病室に,P07が入所していた特別養護老人ホーム「P97」の看護婦であるP83を捜しにきた際,被告人が在室し,P07が「今お嫁さん世話する話してたんだよ。」と話していた旨のP16主任の供述,P07の急変後,心電計で心電図測定をしていたとき,被告人も在室しているところで,P81が「さっきまでお嫁さん世話する話していたのにね。」と話した旨のP82技師の供述がそれぞれ裏付けとなっている。このように,相互に関連するものの,時期も場面も異なる三者(P81,P16主任,P82技師)の供述が口裏を合わせて行われるとは,到底考えられず,また,会話の内容自体,印象に残り易い事柄というべく,三者がいずれも勘違いをするとも考えられないから,これらの供述は,極めて信ぴょう性が高いというべきである。
〔9〕(被告人の供述では(ク))について,被告人は,N10病室内でP82技師とやり取りしたことを一切否定する。しかし,この点のP82技師の供述は,例えば,被告人が自分でなかなか心電図モニターの電極を付けないので,重ねて被告人に声を掛けながら,被告人の様子を意識して見ていた際の状況などの点で,特に具体性,迫真性に富んでおり,上述した同人の立場も併せ考慮すれば,十分に信用できる。
〔8〕及び〔10〕(被告人の供述では(キ),(ク))について,被告人は,その供述によれば,P07にラキソベロンを飲ませた後N10病室を退室し,以後,リハ室にいるところをP19看護婦から声を掛けられてP07の急変を告げられるまで,一度もN10病室に行かず,P07の急変にも全く気付かなかったというのである。しかし,被告人が早い時期からずっとリハ室にいたとすれば,著しい職務怠慢行為になり不自然であるし,そうでないとすれば,P16主任やP19看護婦が呼びかけるなどして被告人を捜しているのに気付かなかったという方が不自然になる。このことに,上記のとおり,〔4〕,〔5〕の点でP19看護婦の供述が信用でき,被告人の供述が信用できないことやP19看護婦自身の立場(もともと,看護婦の中でも,被告人及びP10看護婦と極めて親しい付き合いがあったことは,P19看護婦,P06婦長,さらに,P10看護婦の各供述により明らかであるところ,従来このような人間関係にあった者が,被告人に本件に関する嫌疑が掛けられたからといって,供述を回避するのならともかく,殊更被告人に不利な虚偽の供述をするとは常識では考えられず,かかる常識を疑わしめる特殊な事情も見当たらない。)をも考慮すれば,〔8〕,〔10〕の関係でも,P19看護婦の供述は信用でき,被告人の供述は信用できない。
以上の各点に加え,その他の点でも,被告人以外の関係人の供述が相互に基本的に矛盾せず整合性を有し,特に不自然,不合理なところが見当たらないことをも併せ考慮すると,結局,被告人以外の関係人の供述に沿う〔1〕ないし〔11〕の各事実が認められ,これに反する被告人の(ア)ないし(ク)の供述は信用することができない。
これらの事実関係に基づき犯人性について考察する。
ア 犯行態様について
P19看護婦の証言によれば,P19看護婦は,通常ナースステーション内で薬液を調合する場合(証人P16(甲315))と同様に,P07用の空き箱内にあった,患者名等の書き込みがされていないフィシザルツPL100mLのボトル2本(この2本は,前日中に,P16主任がナースステーション内において,木目カラーボックスから無作為に取り出し,黒色カラーボックス内のP07用の空き箱内に移しておいたものである。証人P16(甲321))のうちの1本を無作為に取り出し,これに,黒色マジックペンで「P07さん パンスポ 1g」と記入し,ゴム栓に貼られたビニールシールを取り外した後,未使用のパンスポリンのバイアルのふたを外し,通常どおりの方法で未使用の注射器を用いてパンスポリン溶液を調合したことが認められる。
ところで,鑑定に付されたボトル(甲401)が上記のとおりP19看護婦がP07に点滴するため準備した生食のボトルであることは,これに「P07さん パンスポ 1g」との記載があり,これをP19看護婦が記載したことを明言していることからして明らかであり,このボトル溶液が実際にP07に投与されたこと自体も,そもそも事後のP18医師によるボトル確保以降の経過を踏まえるまでもなく,疑わしい事情は一切ない。
他方,このボトルを覆っていたビニールシールが,後に警察官によって押収され,鑑定に付された北陵クリニックの医療廃棄物中に含まれていたビニールシールのうちの1枚であることは,宮城県科捜研技術吏員P98の証言(甲384)及び甲338の内容からして明らかである(ビニールシールの剥離部分とボトル口側の残存部分の位置,形状が複雑な曲直状況まで非常に良く符合するほか,シールに印刷された緑色の「FUSO」の文字のシール側欠落箇所とボトル側残存箇所もまた非常に良く符合している。)。
そして,このシールには,厳密にどのようなものによるかはさておくとしても,非常に細く,とがったものを突き刺して出来たと考えられる微細な穴が1個存在している(甲337,上記証人P98)。
これらのことを総合すると,P07事件の犯人は,P19看護婦がP07用の空き箱からボトルを取り出して点滴溶液を調合するより前に,意図的にフィシザルツPL100mLのボトルのビニールシール越しに注射針を突き刺して,あらかじめマスキュラックス溶液を混入させた上,そのボトルをP07用の空き箱内に潜ませていたことが強く推認される。
イ 被告人が犯行を行い得る可能性について
前記認定事実によれば,被告人が当日朝出勤後,P19看護婦がP07用にパンスポリン入りボトルを準備するまでの間に,他に気付かれずに当該ボトルをマスキュラックスが混入されたものとすることは,物理的にも,他の看護婦らの有無,行動状況等との関係でも,十分可能であったと認められる。現に,前示のとおり,P72助手の供述によれば,被告人は,朝の申し送り前に,白衣を着て,すなわち他の者に気付かれないままに運搬行為や手元での動作を容易になし得る着装で,ナースステーション内のP07用の点滴ボトル等が用意された箱等が入った黒色カラーボックスの載ったカウンター付近に近寄った事実がある(なお,P72助手,P10看護婦の供述によれば,この時,P72助手とP10看護婦は,ナースステーション内の東隅にあるテレビをその前(西側)にあるテーブル付近から,東側に視線を向けて見ており,しかも,たまたま芸能人同士の婚約会見が放映されていたので,特に関心をもってテレビの画面に見入っていたことが認められ,ナースステーション内の西南側にあり,上記テーブル付近とは約4ないし5メートルの距離のある上記カウンター付近における動作,殊に,カウンターの方を向いて行う動作は,P72助手,P10看護婦に背を向ける格好になることもあり,この両名に気取られることなく遂行できた可能性は十分に存するといえる。)し,その後も,白衣を着てナースステーション内に入ってくるところを目撃されている(証人P19(甲318))ことからすれば,同様に,在室者の目を盗んで,ボトルのすり替えなどを図る余地はあったというべきである。
(ア)白衣の着脱
前認定のとおり,被告人は,当日朝出勤した直後は,薄緑色の看護衣の上に白衣を着ていたところ,少なくとも,その後の時間帯には,白衣を脱いでいることがあったと認められる。
本来,白衣の着脱は,それ自体が何らかの行動と強く結びつくものではなく,また,不法目的以外の何らかの理由により着脱をすることは,直ちに不自然とまではいえない。
しかし,被告人は,それにもかかわらず,一貫して,白衣を脱がなかったとの供述に固執している。
このような被告人の供述態度も併せ考慮すると,被告人が白衣の着脱にからんで,何らかの他に隠したい意図を有して行動していたため、上記のような虚偽の供述に及んでいるものと推認せざるを得ない。
(イ)申し送りに当たり,P19看護婦にN病棟担当を勧めたこと
もともと看護婦の間では,小児科の患者や症状の落ち着いていない患者が多いN病棟担当よりは,リハビリ目的の患者が多く,症状も落ち着いている患者の多いS病棟担当を希望する者が多かったこと(証人P19(甲318))からすると,被告人も,このような希望があって,P19看護婦に対し,N病棟担当を勧めたとも見られなくはない。
しかし,そうであるならば,被告人において,そのような理由でP19看護婦にN病棟担当を勧めたと述べることに何ら支障はないはずであり,それにもかかわらず,被告人が,あえてこのような事実が一切ない旨虚偽の供述をするのは,やはり,他の関連事情と相まってではあるが,被告人において,通常の理由以外の自己に不利に働く事情があり,これを隠す意図で上記のように供述しているものと推認せざるを得ない。
(ウ)自分の持ち場を離れたこと
前認定のとおり,被告人は,申し送り終了後,入院患者に対する点滴開始時刻である午前9時近くころになってもナースステーションに戻らず,これがために,やむを得ずP19看護婦が代わりにP07等の点滴準備を行ったという経過,また,P07の急変後も,P19看護婦やP16主任が声を掛けるなどして,北陵クリニック内での被告人の居場所を捜したものの,なかなか見つからなかった経過がある。
これらの経過は,そもそも,程度問題や,不在になった状況等からして,単純な職務怠慢などでは説明がつかない事柄である上,この点でも,被告人は,何らかの事情を弁解するのではなく,このような事実経過を真っ向から否定するだけであり,この点においても,被告人が積極的な意図の下に,わざわざナースステーションを離れたり,急変後姿を見せなかったりしたものと推認せざるを得ない。
(エ)P07の急変に対する言動
被告人は,N10病室に入り,P82技師が心電計でP07の心電図を測定しているのを目のあたりにしながら,特に驚いた様子を見せず,P82技師やP81にその事情を尋ねることも,自ら何らかの処置に取り掛かることもなく,P82技師が上記の測定をしているのを傍らで見ているだけの状況であった。そして,その後も,心電図モニターの電極を付けて設定したものの,それ以上は何らP07に対する対応,処置をとることなく,N10病室を出ている。
この状況は,被告人が医療従事者であり,特に,当日N病棟担当であったことに照らし,あまりにも不自然,不可解なものというほかなく,この点でも,少なくとも,被告人がP07の急変をあらかじめ予測していたことを強く推認させる。
また,被告人自身,当公判廷において,P19看護婦から告げられてN10病室に赴いた際,P07の状況を見てどのように感じ,どのような対応,処置をとろうと考えたのかという点について,あいまいな供述を重ねており,少なくとも,自分が担当する側の病棟の患者が急変したことに対する驚き,困惑,焦りなどの感情や医療従事者として最善を尽くそうとする熱意を読み取ることができない。このこと自体もまた,被告人がP07の急変を予測していなかったとすれば,通常の医療従事者の立場にあった者の供述内容として,極めて不自然である。
前認定のとおり,被告人は,急変後P19看護婦から初めて声を掛けられるや,自ら生食のボトルを取り出し,進んでP07のボトルを交換した。
また,P19看護婦によれば,被告人は,P07の死亡確認後,P19看護婦に対し,「点滴詰めたのP19さんだよね。」と言ってきたことが認められる(この供述内容も,P19看護婦は,予想外で違和感のある言葉として,印象に残った旨供述しており,他の一連の供述と同様,十分信用できる。)。
これらの被告人の言動は,当時P07の容体急変の原因につき,P12医師が心筋梗塞である旨診断し,周囲も特に異論を述べない状況にあり,ましてや,点滴に問題がある,若しくは,その疑いがあるとの発言,指摘やこれをうかがわせる経過,外観が全く存しない中で行われているのであるが,これまた,被告人において,P07に急変が起こるまで点滴されていたボトル溶液に,少なくとも,何らかの問題があることの知識を,独り,前もって有していたことを強く推認させる事情であり,また,このような事情が別の場面で複数重なっている点も,重要視すべきである。
(カ)ラキソベロンに関する被告人の発言
被告人は,当日中に,繰り返し,P07の急変が被告人の投与したラキソベロンによるものではないかとの思いを抱いていると受け取られるような発言をしている(証人P15(甲311),同P82,同P16(甲321),同P19(甲318),同P09(甲322),同P06(甲317))。このような発言は,そもそも,一見して被告人の事件とのつながりを推測させるものではないから,各人がこぞって口裏を合わせて虚偽の供述をしていると考える余地はないし,被告人自身も,当公判廷で,概括的にではあるが,他の看護婦らに「ラキソ飲ませたからかな。」といったことを話した旨供述している。
しかも,当然のこととはいえ,ラキソベロンの性質等を知悉している看護婦らから,そのようなこと(ラキソベロンが急変の原因となること)はあり得ない旨一度ならず指摘されながら(証人P16(甲321),同P19(甲318)),それでも同様の発言を重ねている。
この事実は,やはり,当日,内科担当のP12医師がP07の急変を心筋梗塞によるものと診断し,周囲の者も特にこれに異論を唱えていなかった状況下のものとして考えた場合,単なる自分の担当する病棟側で急変患者が出たことに対する責任感の表れなどでは説明し得ない異常な一連の言動と見ざるを得ず,「心筋梗塞」との診断名とあえて異なる原因をしつように繰り返した点において,少なくとも,P07の真の急変原因について何らかの知識と意図を有していたことを推認させる。
なお,被告人は,当公判廷において,P07が被告人の言に従い,ラキソベロン服用後力んだりして血栓が飛んで詰まった事態も考えていた旨供述するが,仮にそうであるとしたら,上記のとおり,各人にラキソベロンの投与自体が原因のように言うことも,反面,P07が力んだり,そのために血栓が飛んだ可能性がある点に全く言及していないことも,いずれも明らかに不自然であって,被告人のこの供述は信用できない。
以上を踏まえ,P07事件の犯人を被告人と推認することが可能かを以下検討する。
まず,前記(2)アのとおり,P07事件の犯人は,P07に対する点滴が調合されるより以前に点滴ボトルに注射針を刺入してマスキュラックスを混入し,担当となった看護婦がこれをP07に点滴投与することを見越して,上記ボトルをP07用の空き箱に潜ませたことが認められるのであり,そのような犯行を計画してこれに及ぶ知識と機会を有していた人物はおのずと限定されるというべきである。
そして,前記(2)イのとおり,被告人には,上記の方法で点滴ボトル内にマスキュラックスを混入した上,これをボトルのすり替えなどの方法によりP07用の空き箱内に潜ませておく,犯行の機会が十分にあったことが認められる。
しかも,被告人は,上記のすり替えなどが可能な機会に,その犯行が容易な着装と認められる白衣を着て,これが容易と思われる経路でナースステーションに出入りしていること(前記(1)ア〔1〕,(2)ウ(ア)),P19看護婦にN病棟の担当を勧め(前記(1)ア〔2〕,(2)ウ(イ)),自らがN病棟担当と決まった後も,本来自らが行うべきP07らの点滴を調合すべき時間帯に,不自然に長くナースステーションを不在にして,P19看護婦をして代わりに点滴準備をせざるを得ないよう仕向ける(前記(1)ア〔3〕,〔4〕,(2)ウ(ウ))など,P07に対する上記点滴ボトル内の溶液の投与の手技やこれに密接にかかわる調合等の準備行為について,これらの行為がその時点でP07の容体急変に結びつくことを予測し得たのは犯人以外に考えられない状況下で,殊更,自らはこれらの行為への関与を免れようとする行動をとっていたこと,その後になってナースコールを受けたことから自らP07の病室へ赴いて点滴ボトルを交換したものの,ラキソベロンの投与を終えて退出して後は,P07の容体が急変した後も,しばらくの間は関係者の前から姿を消し,ようやくP07の病室に戻った後も,格別驚きを表したり,熱心に看護に当たろうとする様子を見せず,医療従事者として,特に,自己の担当病棟側の患者の容体急変を予想外に初めて目の当たりにしたにしては,到底理解し難い言動に終始したこと(前記(1)ア〔5〕ないし〔10〕,(2)ウ(エ)),犯人以外にはP07の真の急変原因を知り得ない状況の中で,独り,点滴に問題があったことをにおわせたり(前記(2)ウ(オ)),あえてP12医師の診断とは異なる,自分が投与した下剤が原因であるかのように言って(前記(2)ウ(カ))真の急変原因を知っていたことをうかがわせる発言を重ねていることなどの各事実が認められるところ,それらはいずれも,P07事件の事件性,被告人の犯行の機会,犯行計画又はこれらに関する被告人の認識にかかわる事実として,被告人に不利に働く事実と認められるところ,被告人はこれらの事実に関して殊更虚偽の供述をしているものである。
他方,被告人以外の関係者に,P07事件の犯行への関与を疑わせる不審な言動は見出せない。
これに加え,既に認定したとおり,P07事件を含む,本件起訴に係る5つの事件は,いずれの事件も同一の犯人すなわち被告人により引き起こされたとの強い推認が働くというべきところ,P07事件に限ってこの推認を動揺させるような事情は認め難い。さらに,被告人には,マスキュラックスの発注及び管理に深くかかわり,これを不正使用した事実や,その使用済みの空アンプルを持ち出そうとするなどの不自然な行動をした事実が認められ,にもかかわらず,被告人は,これらに関しても不自然,不合理ないし虚偽の弁解に終始している。
以上検討したところを総合すると,結局,P07事件の犯人も被告人以外にないものと断定し得る。
(1)認定できる事実(被告人及び関係者の行動)
ア P16主任及びP09看護婦の証言について
平成12年11月24日(以下,本項では,特に断らない限り,平成12年の事象については,「平成12年」の表記を省略する。)午後3時ころ以降の被告人及び関係者の行動に関して,P16主任(甲321)及びP09看護婦(甲322)は,それぞれ,大要,次のとおり供述する。
(ア)P16主任の証言
午後4時ころ,緑の看護衣を着て,白衣は羽織っていない被告人が外来診療区域中通路の汚物室の前辺りに来て,当時外来担当であった私(小児科担当)やP09看護婦(内科担当)が頼んだわけでもないのに,「外来大丈夫,忙しくない。」と言ってきたので,外来が忙しいのなら手伝おうかという意味だと思い,被告人から自主的に外来診察の介助の手伝いを申し出たことは知る限りでこれまで一度もなく,いつもなら手が空いているのであれば,レントゲン室に行ってたばこを吸っているのに,珍しいなと思った。私が,「うん,大丈夫だよ。そっちは。」などと返答すると,被告人は,「うん,大丈夫。あとは申し送りだけだから。」などと言っていた。
上記のことに引き続いてのことではないが,その後,被告人は,外来診療区域で内科外来介助の手伝いをしており,被告人が内科外来患者の診察をしていたP12医師から外来患者の診療録を受け取っているところと,それとは別の場面で,内科小児科処置室と内科診察室の境付近の前(西側)にある外来中通路カウンターのところで,カウンター側を向いて立ち,白衣を羽織った姿で,生食の点滴ボトルに薬剤を調合しているところを見た。
また,被告人が上記のように外来の手伝いをしているのを見るより前に,P09看護婦が,P12医師から渡された診療録を,通常,医師からの指示に関する処置を終えた診療録を入れておく外来中通路カウンター(内科診察室の前辺り)上の青い箱に入れずに,直にカウンター上へ置いてどこかへ走っていったのを見た。被告人がP12医師からそれとは別の診療録を受け取ったのを見たのはそのあとのことである。
被告人が点滴ボトルの調合をしているのを見た後,被告人の行動を注意して見ていたわけではないが,その後,診察済みの小児科外来分の診療録を会計に持っていく際,上記カウンター前にいる被告人の後ろを通ったことがある。そのとき被告人は,輸液セットを手に持ち,被告人の近くのカウンター上には銀色のトレーが置かれていた。その後,内科の診察済みの診療録を青い箱の中から取り出し,被告人にこの診療録も持っていっていいかどうか確認したが,そのとき,P09看護婦の置いていった内科外来診療録はカウンター上に見当たらなかった。被告人が「うん,いいよ。もう詰めたから。」と答えたので,青い箱の中にあった診療録も一緒に持っていった。
(イ)P09看護婦の証言
P08に対する点滴の開始時刻は,午後4時過ぎで4時半にはなっていなかったと思うが,その少し前に,私がいったん,何かの用事で外来内科診察室前のカウンターを離れて,また戻ってきたときに,被告人から,P08用の点滴セットを手渡された。
被告人は,私がカウンターを離れる前から来ていて,内科診察室の前辺りで診察医のところへ外来患者の診療録を診察順に置いたり,終わった診療録を戻したり,介助者のように振る舞っていた。被告人が進んで手伝ってくれた場面がこのときしか経験がないので印象が強い。
被告人から手渡された点滴セットは,一式トレイの上にきれいに載せてあり,点滴スタンド以外は,全部点滴できるように準備されていた。すなわち,トレイには,生食フィシザルツPL100mLの点滴ボトルに輸液セットと翼状針が既に取り付けられていて,輸液セットのチューブがボトルにきれいに巻き付けてあり,絆創膏,酒精綿,駆血帯などもきれいに載せてあった。そして,ボトルの中の点滴溶液はミノマイシンを調合した際の色である黄色になっており,他の薬剤や異物が混入されているかもしれないという疑いは全く抱かなかった。
被告人は,そのトレイを,「P09さん,はい,これ。」などと言って渡してきた。P08に投与する点滴であることや,入っているのがミノマイシンということも被告人から聞いた。針のサイズは22ゲージになっていた。被告人がそ���ような準備をすることに驚きを感じるとともに,自分で点滴をする患者は準備も自分でしたいとの思いからの困惑もあり,ここまで準備してくれるなら点滴の手技までやってくれてもいいのにと思った。また,自分で準備するときに使う翼状針のサイズは,成人に対しても本来は小児用の23ゲージにしていたので,22ゲージではちょっと太いがやってみるかと思った。
P08の点滴を開始してから整形外科処置室隣りのギプス室を通って外来中通路の方へ行くと,被告人はまだ同所の内科診察室前辺りのカウンター付近におり,顔を私のほうへ向けて,肩を揺らして,にやにやと笑っており,私の後ろにほかにだれか人でもいるのかと思って振り返ったが,そこにはだれもおらず,自分が笑われているのかなと思ったが,その心当たりはなかった。
(ウ)被告人の供述
これに対し,被告人は,同様の時間帯における自分及び関係者の行動等について,大要,次のとおり供述する。
当日の午後は,3時過ぎに放射線室で休憩した後,ナースステーションに戻り,午後4時ころ外来へ行って「外来忙しくない,大丈夫。」と声を掛けた(同様の声掛けはほかの日でもしていた。)。P16主任に大丈夫だと言われナースステーションに戻っていた。その後は,ナースコールに呼ばれて患者に対応するなどの場合以外には,夕方の申し送りまで,基本的にナースステーションにずっといた。
当日,P12医師から診療録を受け取ったり,外来カウンターで点滴を調合したりしたことは一切ないし,P09看護婦に,P08用の点滴セットを手渡したこともない。そのほかにも外来の手伝いは一切していない。
申し送り(午後4時半ころから15ないし20分間くらい行われた。)の後,P09看護婦から,具合の悪い患者がいると告げられ,少ししてから整形外科処置室に行った。
(エ)各供述の信用性の検討
以上の供述のうち,P16主任及びP09看護婦の各供述は,それぞれ種々具体的な内容を含むものであり,特に,いずれも,通常外来の手伝いに来たことのない被告人が珍しく手伝いに来たことが印象深い事柄であったということを前提として供述している点,さらに,P09看護婦については,被告人から準備された点滴セットを手渡されたことがこれまた珍しい体験であったことを前提として,これに関連した事情を,その際の心理状態も含めて供述している点で,信用性が高いというべきである。
もっとも,P16主任の供述内容は,それだけで,被告人がP08に点滴された生食ボトル溶液を準備調合したことを直接,確実に証するものとまではいえず,他方,P09看護婦の証言(甲322)中には,弁護人からの,捜査段階で作成された同人の検察官調書中に被告人から手渡されたゲージの色を覚えていない旨の供述記載があることを前提とした質問を受けた際(なお,その調書については,甲号証としては弁護人が不同意とし,検察官が請求を撤回した結果取り調べられず,当該記載部分に関する弾劾証拠としての請求もされていないため,実際の記載の有無及びその具体的内容は証拠上明らかでない。),過去にそのような供述をした事実を明確に否定することはなく,むしろ,なぜその際色が出てこなかったかよく覚えていない旨,その事実を前提としているともとれる供述部分があり,それだけを取上げれば,かなり明確かつ不自然な自己矛盾供述があったか,仮にそうでないとしても証言としてあいまいな点があるともいえるのであり,他の供述内容の信用性に影響を及ぼすとの見方もあり得ないではない。
そこで,慎重を期し,他の関連事情も検討する。
イ 被告人のP08診療録への指紋付着
関係証拠(甲190,422,423,425,証人P99,同P100など)によれば,P08の診療録の3枚目表右端(下から6cm前後の部分)に,被告人の右手拇指により印象されたと確認される指紋1個が存在すること,その指紋の向きによると,指頭が紙面の内側方向に向かい,指を伸ばした場合の指頭と指根を通る直線と紙面右端線とがおよそ45度程度の角度となるように印象されていること,また,いわゆる指の腹の部分が中心となり,左右いずれかだけに大きく偏ることなく全体がよく印象されていることが認められる。
この点に関連して,被告人は,当公判廷において,上記P99証言や関連甲号証等の存在が明らかとされる前の段階では,P08の診療録に触れる機会は一切なかったかのように供述していたところ(第117回),上記各証拠調べが行われた後になって,診療録を意識的に見たことはないものの,診療録が外来中通路カウンター上に開いて置かれている際に,これに気付かずに手をついて指紋が印象された可能性があるように供述するに至った(第138回)。
しかし,P08の診療録への指紋の付き方は上記のとおりであって,診療録を手に取り開いて見る場合に右手拇指を添える箇所,方向として極めて自然である反面,カウンター上に開かれた診療録に気付かずに,すなわち,カウンターに対し,横向きになったり,後ろ向きになって右手拇指を上記の箇所に,上記の方向,形状で印象させる状況は,極めて考えにくい。
また,被告人の供述によると,いずれにせよ,P08の診療録に触れた可能性のあるのは,P08の急変後ということになるが,被告人がP16主任,P09看護婦らとP08への処置について話し合いをした場所は,P08のいる整形外科処置室内であったと考えるのが素直であり,現に,P16主任,P09看護婦は,そのような前提で供述していると認められ,他方,P16主任,P09看護婦及び被告人がカウンター付近に立ち止まって話などをする場面があった旨の具体的な供述は,被告人のそれを含め,一切存しない。
以上によれば,被告人がP08の診療録を意識的に自ら開いて見る機会があったことは動かし難い事実というべきであり,それにもかかわらず,被告人がこれを前提として弁解をするのではなく,P08の急変前,およそ内科外来の介助に関与したこと自体を一切否定している点は,被告人がその罪責自体を免れようとする意図を有していることを強く推認させる事情というべきである。
それと同時に,少なくとも,被告人がP08の急変前,外来に来て,P08の対応に関し何らかのかかわりをもったことが認められる関係で,P16主任,P09看護婦の供述中,被告人が珍しく外来介助の手伝いをしに来たという根幹部分の信用性も,裏付けられる結果になるというべきである。
ウ 小括
以上を総合すれば,P16主任及びP09看護婦の各証言中,前掲の部分はいずれもこれを事実として認定することができ,したがって,被告人は,P08に対して投与するための点滴ボトル,薬剤,その他点滴スタンドを除くすべての点滴医療器具を自ら選択して,点滴溶液の調合や,点滴医療器具の接続等の準備を行い,あとは点滴スタンドにボトルを吊り下げて患者の血管確保とクレンメの調節等の手技さえ行えば直ちに点滴投与が可能な状態にした上で,これを,本来の担当者として医師から指示のあった内科外来患者に対して点滴施行をすべき立場にあったP09看護婦に渡して,同人をして,その後間もなくP08に対する上記ボトル内の溶液の点滴投与を行わしめた事実を認めることができる。
ところで,前示のとおり,P08に対するマスキュラックス投与の犯行は,上記のボトル内に事前にこれを混入する方法により行われたものと認められるところ,以上の事実経過を踏まえれば,被告人こそが,それまでの間にマスキュラックスを上記ボトル内に混入した上で,かつ,その投与対象者をP08と確定させることが可能であったほとんど唯一の人物といってよく,被告人以外には,例えば,P09看護婦については,被告人から上記点滴セット等を受け取り,その前後に案内されて入室したP08に対し,間もなくして点滴施行の手技を同人の目の前で行ったにすぎないのであり,そのような十分な機会があったとは認められないし,それを疑わせるような不審な言動も認められず,また,上記点滴の準備及び施行に一切関与していないその他の看護婦等の北陵クリニック関係者にも,上記犯行への関与を疑わせるような事情は一切ない。
P08事件の犯人は,以下に述べるとおり,特に,P07事件の犯人と同一であることが具体的な事情から極めて強く推認されるというべきである。
すなわち,P07事件に係る認定事実によると,P07事件の犯人である被告人は,P19看護婦がP07用のボトル溶液を準備する前に,あらかじめ黒色カラーボックスに置かれたP07用の空き箱内のフィシザルツPL100mLのボトル内に,マスキュラックスを混入させていたが,他方,P19看護婦は,通常看護婦が行うと同じ方法により,上記P07用の空き箱内の2本あるフィシザルツPL100mLのボトル(弁護人は,このときフィシザルツPL100mLのボトルがもっと多く用意されていたと考えるのが合理的であると主張するが,上記ボトルの本数に関するP16主任の証言内容からして,これを11月23日中に2本用意した旨の同人の証言の信用性を疑うべき事情は認められない。)のうち,無作為に選んだ1本で上記ボトル溶液を準備しており,この方法がとられるであろうことは,当然,他の看護婦も認識していたと考えられる。
そうすると,被告人は、P19看護婦が上記の準備を始めた時点で上記P07用の空き箱内に置かれていたフィシザルツPL100mLの2本のボトルのいずれにも,マスキュラックスを混入させていたと推認され,その1本がP07に点滴投与された後,残りのマスキュラックス入りボトル1本が残されたと認められる。
したがって,少なくとも,被告人が,当日,改めて準備をしなくとも,残りの1本のマスキュラックス入りボトルをその支配下に置き得る状態がなお継続したといえる。
そして,P08に点滴投与がされたのは,前示のとおり,同日中の午後4時過ぎころであり,午前中P07に点滴投与がされた時点との間に,それほどの時間的間隔はなかったのであるから,被告人がこの時間帯まで,引き続き残りの1本のボトルを支配下に置いておくことに特段の支障はなく,また,ボトルの形状からして,それ自体を外来カウンターに持ち込むことも容易であったと考えられる(なお,他の看護婦の供述中にも,上記P07用の空き箱内に残されていた1本のボトルの所在に関し,上記推認と矛盾する内容を述べるものはない。)。
また,少なくとも,P08に投与すべき点滴ボトル溶液が準備されたと目される時間帯に被告人が外来カウンター付近に来ていたことは,既に認定したとおりである。
以上によれば,P08へのマスキュラックスの投与は,P07へのマスキュラックスの投与と時間的に近接しているばかりでなく,P07へ投与されたボトルと同様のマスキュラックス入りボトルが存し,かつ,これを被告人が引き続き支配下に置いており,容易に点滴準備の場所に持ち込める状態にあり,かつ,現に,被告人が点滴準備の時間帯に上記の場所に現れているという外形的事実があることからして,P07へのマスキュラックスの投与と同様,被告人が自ら行ったものであることが,特に強く推認されるというべきである。
前示のとおり,前記P16主任,P09看護婦の各供述内容は,その根幹部分の信用性があり,ひいては,これに付随する部分も特段信用性を否定すべき理由はなく,これによると,被告人には,次のような不審な言動があったものと認められる。
〔1〕被告人は,普段は病棟担当のときに,自ら進んで外来担当の看護婦の手伝いにくることはなかったにもかかわらず,この日だけは,午後4時ころから午後4時過ぎにかけて,外来の診療室前中廊下に来たばかりか,実際に種々介助者のように振る舞い,その中で,P08に対する点滴がすぐにできるまでに生食ボトル等の準備をすべて行っている。
この行動は,平生の被告人の行動に比し,あまりにも異質,唐突なものであったというべく,少なくとも,特別の理由がなければ理解し難い事柄であるにもかかわらず,被告人は,ただ,これらの介助,準備を行ったことを全否定するのみで,何ら具体的な弁解をしていない。
このような被告人の実際とった行動と被告人がこれについて全くの虚偽供述に終始していることからすると,そこには,P08に対する点滴にからむ不法な意図の存在が強く推認されるというべきである。
〔2〕被告人は,P09看護婦がP08に対し点滴を施行した直後,P09看護婦を見てにやにやと笑っていたというのであるが,この点も,被告人は,事実を否定するにとどまり,やはり,上記の不法な意図の存在を表す一事象といえる。
〔3〕前示のとおり,被告人は,P08の急変後の言動についても,明らかな虚偽供述をしており,その内容が筋弛緩剤の影響を真っ向から否定する方向に働くものであることを併せ考慮すれば,この点においても,被告人は,自らの罪責を免れようとして,このような虚偽供述に及んでいることが強く推認される。
以上検討した各点を総合的に考察し,さらに,前示のとおり,P08事件を含む,本件起訴に係る5つの事件は,いずれの事件も同���の犯人すなわち被告人により引き起こされたとの強い推認が働くというべきところ,P08事件に限って,この推認を動揺させるような特段の事情も認め難いこと,また,被告人には,マスキュラックスの発注及び管理に深くかかわり,これを不正使用した事実や,その使用済みの空アンプルを持ち出そうとするなどの不自然な行動をした事実が認められることをも併せ考慮すれば,P08事件の犯人も被告人であることが優に認定できる。
(以下,本項では,特に断らない限り,平成13年1月6日の事象については,「平成13年1月6日」の表記を省略する。また,「平成13年」の表記についても同様である。)
(1)被告人に対する取調べ経過等に関して容易に認定できる事実
被告人に対する取調べ経過等に関して,以下の限度の事実に関しては,被告人及び取調べ(特に断らない限り,便宜上,事情聴取の意味も含む。以下同じ)を担当したP45刑事,取調べに立ち会ったP101巡査部長(以下「P101刑事」という。)のいずれもが同趣旨の供述をしており,これらの事実は容易に認定することができる。
ア 平成13年1月6日午前8時半ころ,P45刑事は,任意に県警本部に出頭した被告人に対して,北陵クリニックでの急変患者に関する事実確認を行ったところ,被告人がその関与を否定したため,被告人に対するポリグラフ検査が実施され,同検査は,正午ころ終了した。
イ その後,被告人は,P45刑事による取調べを受け,P04に対して,マスキュラックスを投与した旨の供述をするに至った。
ウ 被告人がP04に対するマスキュラックス投与の事実を認めた後もP45刑事による取調べが続けられ,午後4時ころには,被告人とP45刑事が一緒にトイレに行くということがあり,トイレから戻ってきた後,被告人は,乙7,8を作成した。
乙7には,平成11年5月ころから平成12年12月までの間に,被告人が患者に薬物を投与して急変させた事例が記載されており,具体的には,時期,患者の年齢,性別,氏名,薬物の種類,急変後の症状経過,救急処置の内容等が記載されている。
また,乙8には,「反省文」という表題のもと,被告人がP04に対してマスキュラックスを投与した具体的な状況,P04に対する救急処置の内容,P04やその両親に対する被告人の気持ちなどが記載され,さらに,乙7の内容を清書したものが記載されている。
エ 被告人は,乙7,8を作成した後の午後8時15分ころ,逮捕され,泉警察署に引致された。
午後8時40分ころ,泉警察署において,P101刑事によって被告人に対する弁解録取の手続が行われ,乙3が作成されて,被告人はこれに署名指印した。乙3には,被告人がP04に対してマスキュラックスを混入して点滴をしたこと,マスキュラックスを混入して点滴を投与すれば,P04が呼吸困難から呼吸停止し,心肺停止となって死んでしまうことが分かっていたこと,P04に対する恨みはなく,P18医師を困らせるためにやってしまったこと,弁護人を頼めることは分かったがよく考えてみることなどの記載がある。この手続において,P101刑事が被告人に対して大声を上げたり怒鳴ったりすることはなかった。
オ その後,深夜にかけて,P45刑事により,被告人の身上関係に関する取調べが行われて乙10が作成され,被告人はこれに署名指印した。乙10には,被告人の身上関係に関する内容として,出生地,前科関係,経歴,准看護士になったきっかけ,経過,北陵クリニックに就職した経緯,財産・借金の状況等が記載されている。
カ 1月7日,午前中にP45刑事による取調べが行われ,乙4が作成され,被告人はこれに署名指印した。乙4には,被告人がP04の点滴ボトルにマスキュラックスを混注して投与し殺そうとしたこと,マスキュラックスが骨格筋の緊張を緩め一時的に運動麻痺の状態を招き,短時間のうちに呼吸抑制,呼吸停止を引き起こす作用を有していると知っていたこと,筋弛緩剤を使用する際には必ず人工呼吸器をセットしておく必要があること,被告人は他の患者にもマスキュラックスやサクシンを点滴ボトル等に混注して投与しており,その結果,投与後,二,三十分でけいれん状態,呼吸困難,顔面チアノーゼ,呼吸停止,心停止などの症状が連続的に起こることを知っていたことなどが記載されている。
キ 1月7日午後,検察官による弁解録取及び取調べが行われ,乙5が作成され,被告人はこれに署名指印した。乙5には,被告人が患者にマスキュラックスを投与したことに関連して,ソリタT1の500mLにマスキュラックス4mgを溶かしP04に点滴したこと,マスキュラックスは薬剤の保管室から持ち出し,マスキュラックスを溶かすのには2.5ccの注射器を使ったこと,筋弛緩剤の効果や筋弛緩剤を使用する際に必要な準備等に関する知識を有していたこと,10人の患者にマスキュラックスやサクシンを投与し,三,四人を殺してしまったこと,動機としては,北陵クリニックの待遇に関する約束が守られない一方,P18医師がおろおろしていることにいらだつ気持ちがあり,当初,P20教授に対して感じていた待遇面の不満がP18医師に向くようになり,P18医師を困らせてやろうと思ったことなどが挙げられること,患者のうち老人や幼い子供に筋弛緩剤を投与したこと,筋弛緩剤を投与することでP18医師に対するいらいらした気持ちを晴らすとともに,自ら急変した患者の対応に当たることで仕事をしたという満足感を感じていたこと,そのためには筋弛緩剤を投与した患者が死んでしまっても構わないと思っていたことなどの記載がある。
また,その後,裁判所において,勾留質問の手続が実施され,乙6が作成され,被告人はこれに署名指印した。乙6には,「被疑事実については,半田P18医師を困らせようと思って行ったことで,殺意を持ってやったことではありません。なお,P04さんに対しては,やってはならないことをしてしまい,申し訳のないことだと反省しています。」との記載がある。
ク 被告人は,1月8日及び1月9日午前に行われたP45刑事による取調べにおいては,自らが患者に筋弛緩剤を投与した事実を認めていたが,同じくP45刑事による1月9日午後の取調べにおいて,自らが患者に筋弛緩剤を投与したという犯行に関して全面的に否認するに至った。
ケ なお,以上のほか,その作成時期,作成経過はともかく,被告人の自筆による,P18医師の長所,短所に触れる内容の書面(乙9)が存在する。
ア 取調担当警察官らの証言及び認定できる事実について
(ア)被告人に対する取調べ経過,取調べ時の被告人の言動等に関するP45刑事及びP101刑事の各証言の概要は以下のとおりである。
〔1〕平成13年1月6日午前8時ころ,P101刑事が,被告人のアパートに赴き,被告人に対して北陵クリニックで起きている急変患者のことについて話を聞きたいと告げ,警察への出頭を求めたところ,被告人はこれを承諾し,P101刑事と共に,警察の準備した車で県警本部に向かった。その移動中,P101刑事が被告人に対し「どうして警察に呼ばれるか分かるか。」と尋ねたものの,被告人は「分かりません。」と答えたのみであったため,P101刑事は,被告人が何かを警戒しているように感じ,それ以上の質問を差し控えた。〔2〕午前8時半ころ,P101刑事と被告人は,県警本部に到着して取調室に入り,P101刑事は被告人に対して,事情聴取を受ける際の注意点等について話した。
その後,P45刑事が取調室に入ってきて,自らの名前を名乗った後,「今日,君にここに来てもらったのは北陵クリニックの急変のことで聞きたいことがある。」と被告人に告げると,被告人は,「僕,やってません。」と話した。これに対し,P45刑事が「やってないというけども,何をやってないんだ。」と聞くと,被告人は「分かりません。」と答え,さらに,P45刑事が「何が分からないんだ。」と尋ねたところ,被告人は「証人がいないので分かりません。やっていません。」などと答えた。
以上のやり取りの後,P45刑事は被告人に,ポリグラフ検査を受けてもらおうと考え,「君の話が本当かどうか確認する検査がある,これから君にこの検査を受けてもらいたいんだけれども,この検査はあくまでも任意だから,君がやりたくないというんであればやらなくてもいい」との説明をしたところ,被告人は,「やっていないので,検査を受けます。」と答えて,ポリグラフ検査承諾書に必要事項を記入し,被告人に対するポリグラフ検査が実施された。
正午ころ,ポリグラフ検査が終了したとの連絡を受けて,P101刑事が被告人に対して昼食をどうするか尋ねたところ,被告人が昼食をとりたいと答えたため,警察により昼食が準備されたが,P101刑事は自傷行為などに備えて,取調室で被告人が食事をする様子を見ていた。
〔3〕午後1時過ぎころ(およそ1時10分ないし20分ころ)から午後の取調べが開始されたが,この段階で,P45刑事は,ポリグラフ検査の結果に関して,検査官から,被告人が,北陵クリニックの急変患者十数名に筋弛緩剤を投与したかどうか,P04等に筋弛緩剤を投与したかどうかとの質問に対して反応があったと聞いていた。これを踏まえて,P45刑事は,取調べの冒頭,被告人に対して,「先ほどポリグラフ検査を受けてもらったんだけれども,君は警察官の息子だけあって素直な人だ。検査でも反応があるようだ。これからP04ちゃんのことについて聞くけれども,P04ちゃんのことは分かるな。君には言いたくないことは言わなくていいと,そういう権利があるけれども正直に話してみなさい。」と言った。
すると,被告人は,間もなく,「P04さんには,ボスミンとサクシンを間違えて。」と言い出したが,P45刑事が途中でさえぎって,「うそは駄目だ,最初から。」と言うと,被告人は,少し間をおいて,「P04さんが急変したとき,サクシンかマスキュラックスを間違って打ちました。それは報告しませんでした。」と話した。これに対して,P45刑事が「まだうそをついている。正直に話してみなさい。」と言ったところ,被告人は,また少し間をおいて,「P04さんの点滴にマスキュラックスを入れました。マスキュラックスという筋弛緩剤をP04ちゃんの点滴に混注し,その点滴をP04ちゃんに落としました。」と話すに至った。被告人がこのような供述をしたのは,午後の取調べが開始されてから,約二,三分後のことであった。
P45刑事は,P04以外に筋弛緩剤を投与した事例について聞こうと考え,「今日ここに来てもらったのは,P04ちゃんだけじゃありませんよ。」と話したところ,被告人は,「おばあちゃん,P07さんです。」と答え,さらに,「P07さんにはラキソベロン15滴飲ませるところを本人の希望で20滴飲ませました。」などと話した。そして,P45刑事が「次は。」と言うと,被告人は少し考えるような素振りを見せたため,P45刑事が「筋弛緩剤を点滴に投与したか。」と聞いたところ,被告人は,いったん「P102君。」と言い,次いで「いや,P05君です。」と言い直した。さらに,被告人は,「おばあちゃんと一緒に入院していた子供,この子供には麻酔剤を入れました。」と話したが,その後は,少し下を向きながら考えるような素振りをし,それ以上の患者名を挙げることはなかった。なお,この段階で,P45刑事は,被告人の供述態度に関して,P04の件を認め,それ以外の件についても認めていたことから,殺人事件等の重大事件にしてはすんなり話していると評価していた。
〔4〕その後,P45刑事は,動機,筋弛緩剤に関する知識,過去の患者への筋弛緩剤の投与例などについて尋ねていった。被告人は,動機として,P18医師に対する不満や北陵クリニックに就職する前に聞いていた話と就職後の条件が違っていたことなどの北陵クリニックに対する不満等を話し,P04の件に関しては,P18医師が当直の時間帯になってやっとP04の入院を決めたこと,それに対して何でいつも決断が遅いんだといういらだちがあったことを話していた。過去の患者への筋弛緩剤の投与例については,被告人は,最初に筋弛緩剤を投与した事例について,サクシンを患者の点滴に入れたが,その患者は回復したなどと説明した。ただし,その時期について,被告人は,当初,平成11年の6月ころとか7月ころなどとあいまいに話したが,カレンダーを見ながら,就職して3か月くらいたったころという話になり,平成11年5月ころと説明するに至った。
結局,被告人は,筋弛緩剤を投与して急変させた事例を五,六件挙げたものの,その記憶があいまいだったため,P45刑事は,午後4時半ころ,被告人に対して,紙に書いて記憶を整理するように促したところ,被告人は乙7を作成した。
さらに,その後,P45刑事が「P04ちゃんに対する今の君の気持ちを書いたらどうだ。」と話すと,被告人は,「はい,書きます。反省文として書いていいですか。こういうのを書くときは正座して書かなきゃいけないんですよね。正座して書いてもいいですか。」と言いながら,いすの上に正座して乙8を書き始めた。なお,P45刑事は,乙7の内容について,別途清書してもらう予定であったが,被告人が乙8の反省文を記載した後,続けて乙7の内容を記載し始めたため,特に,中止させることはしなかった。被告人は,自分で思い出しながら,乙7,8を記載していたが,どうしても思い出すことのできない患者については,P45刑事に対して,「患者名が思い出せない。」,「患者のカルテを見せてください。」などと言ってきた。P45刑事は,P101刑事に対して「入院患者をランダムに記したリストを持ってくるように。」と指示を出したところ,患者名が記載されたリスト(甲426と同じもの)が届けられ,それを被告人に示した。被告人は,それを見て乙7,8に訂正などの記入をしていった。
被告人が乙7か乙8を書き終わったあたりで,P45刑事がこれらの書面上P07とP05の名前が記載されていないことを指摘したところ,被告人は「あっ,思い出しました,P07さんとP05君,僕,やっていないことに気付きました。」と言ってきたことがあった。この時,P45刑事は,被告人が殺人事件や殺人未遂事件などの重大な罪になることを警戒して前言を撤回したのではないかと考えたものの,否認したことに関して,被告人を追及したり,その理由を聞いたりしなかった。それは,その時点で,被告人がP04に対する投与事実を認めており,この段階で被告人の感情を刺激するよりも,P07とP05の資料からマスキュラックスが検出されていたことを知っていたので,後で追及しようと考えたためであった。
P45刑事は,被告人に対して,上記リストに,亡くなった患者には緑色の,回復した患者には黄色のラインを蛍光ペンで引くように指示したところ,被告人は,合計7人にラインを引いた(内訳は,緑色のライン3人,黄色のライン4人。なお,現在,ラインの色は,指紋採取のための薬品の影響により,緑色のラインは黄色に,黄色のラインは茶色に変色している(甲437)。)。
〔5〕その後,被告人に対して逮捕状が発付され,P55刑事が逮捕状を持って取調室に入ってきて,被告人に対して逮捕状を示し,逮捕事実を読み聞かせた。これに対して,被告人は,いすから立ち上がって,「どうもすみません,お世話になります。」と言って,両手を差出した。P55刑事がいすに座るように促したところ,被告人は,「僕は殺人者です。殺人者と一緒に交際していたP10さんには申し訳ない。」などと,少し甲高いような,今にも泣き出しそうな声で話した。
〔6〕午後8時40分ころ,逮捕後の弁解録取手続が引致先の泉警察署の取調室において行われ,P101刑事は,被告人に対して,逮捕状記載の逮捕事実を読んで聞かせて弁解を聞くとともに,弁護人選任権を告知した。被告人は,逮捕事実について,「そのとおり間違いありません。」と答えたが,加えて,「殺すつもりはなかった。」と言った。そこで,P101刑事が「P04ちゃんの点滴に筋弛緩剤を投与したら,どうなるのか。」と尋ねると,被告人は「呼吸困難になって呼吸が停止します。」と話し,さらに,P101刑事が「じゃあ,その後はどうなるんだ。」と尋ねたところ,被告人が「心肺停止となって死んでしまいます。」と答えたため,P101刑事が「死んでしまうことが分かっているんであればP04ちゃんを殺すつもりだったのか。」と尋ねると,被告人は,P04に対して恨みはないが,P18医師を困らせるためにやった旨答えたため,P101刑事はその旨弁解録取書(乙3)に記載した。P101刑事がその内容を被告人に読み聞かせたところ,被告人は,特に加除訂正を申し立てることもなく,署名指印した。また,P101刑事は,弁護人選任権について「弁護士を頼むならすぐにでも連絡してあげるよ。」と話した。
〔7〕夕食後の午後10時半過ぎころから翌日午前零時半過ぎころまで,P45刑事により,被告人の身上,経歴等に関する取調べが行われて,乙10が作成され,被告人は,その内容を読んで確認し,特に記載内容の訂正等を申し立てることもなく,署名指印をした。
この取調べの際に,P101刑事が被告人に対して「父親と同じ警察官になろうとは思わなかったのか。」と尋ねたところ,被告人は,消防士になりたかったが消防士にはなれなかったこと,高校時代に膝を故障して入院した際に手厚い看護を受けたため看護士を目指したことなどを話した。
〔8〕翌1月7日,P45刑事は,午前10時ころから午前11時過ぎころまで,泉警察署の取調室において,被告人の取調べを行った。この時,被告人は,さっぱりしたような顔つきで取調室に入ってきて,お風呂に入れてもらったと話し,意識がもうろうとしているような様子はなく,「弁護士を頼みたいんですけども。」と申し出た。
P45刑事は,前日に被告人から聞いたP04に対する事件のことや乙8に書かれた内容などを確認しながら取調べを進めたが,その中で,被告人がP04に対する殺意を否認することがあった。そこで,P45刑事が「マスキュラックスを点滴に入れて投与すればどうなるんだ。亡くなった患者もいるんだろう。そしたら殺意はあったんじゃないの。」と話すと,被告人は「分かりました。」と言って納得し,そのほかに被告人が逮捕事実を否定するような発言をしたことはなかった。この日,被告人は,P04を入院させるかどうかの判断が遅れてP18医師に不満が募り,困らせてやろうと考えて薬局にマスキュラックスを取りに行き,その後,ナースステーションで点滴のボトルにマスキュラックスを混注してその点滴をP04に投与したこと,マスキュラックスについて,今まで勤務した各病院において,手術の時に麻酔医師が使っており,使う際は必ず人工呼吸器がセットされていること,マスキュラックスやサクシンを点滴ボトルに混注した上投与すると,大体20分から30分でけいれん状態や呼吸困難,顔面チアノーゼなどの症状が連続的に起こることなどを話した。そして,乙4が作成され,P45刑事は被告人に対してその内容を読み聞かせるとともに,閲覧させたところ,被告人は特に訂正を申し立てることもなく,署名指印した。
乙4が作成された後,同日午前11時過ぎ以降は,被告人と弁護士による接見があり,取調べは中断された。
この日の午後は,検察官への送致手続,裁判官による勾留質問等の手続があったため,P45刑事は,それらが終了した後の午後8時半ころから午後10時ころまで,被告人に対し,動機や過去の筋弛緩剤を投与した事件の全体像について,取調べを行った。この時,被告人は,筋弛緩剤を点滴に入れた場合,どれくらい効くのか試したかった,最初に入れた患者さんの時は心配で心配で5分おきに病室に見に行った,30分くらいたったころ呼吸が悪くなってきた,最初に投与した患者はP97から入院してきた患者で,この患者は身寄りもなく見舞いに来る人もいない,老人であればいつか死んでしまう,早く楽にしてやろうと思って筋弛緩剤を投与したなどと話した。
〔9〕翌1月8日、P45刑事は,午前10時ころから取調べを開始したが,指紋採取等の手続や被告人と弁護士との接見があったため,午前中は,ほとんど事情を聞くことはできなかった。
同日午後の取調べにおいて,被告人が「弁護士と接見してきました。」と言ったため,P45刑事が「それじゃ,刑事手続について分かったね。」と言うと,被告人は,逮捕,勾留,起訴,裁判という手続になると説明されて分かりましたと話した。さらに,P45刑事が「それじゃ,自分のやったことについて今後君はどう思ってるの。」と尋ねると,被告人は「僕のやったことについては,刑事裁判で有罪となって刑務所に行って罪を償いたい。」と答えた。
午後の取調べにおいて,被告人が筋弛緩剤を投与した結果死亡した患者の話題となったときに,被告人が急に立ち上がって,「刑事さん,僕を思いっきり殴ってください。目が覚めるように思いっきり殴ってください。」と言い出したことがあり,これに対して,P45刑事が「君のやったことで君の家族が一番心配している,罪を償ってからお父さんに思いっきり殴ってもらったらいいんじゃないか。」と話すと,被告人は机にうつ伏して泣き出したということがあった。午後の取調べは,午後6時ころまで行われ,夕食後,午後7時半ころから午後10時ころまで取調べが続けられた。P45刑事は,それまでの取調べにおいて,被告人がP18医師に対する不平不満を述べていたことから,それらを整理させるために,夕食後の取調べにおいて,被告人に,P18医師に対する不満等を書面(乙9)に書かせた。被告人は,この日,乙9のうち最初の3枚を,次の日に残りの部分を記載した。
なお,この日の取調べにおいて,P45刑事が北陵クリニックの急変患者に高齢者や子供が多い理由について質問したところ,被告人が,子供は検査に時間がかかり,言うことを聞かないのでいやだ,高齢者は体交が面倒だし,おしっこやうんちの臭いがいやだなどと答えることがあった。
〔10〕翌1月9日の取調べは,午前10時ころから開始されたが,被告人のアトピー性皮膚炎に関する医師の診断や被告人と弁護士との接見があったため,午前中は,上記のとおり,被告人のP18医師に対する不満等に触れた書面の続きが作成された程度であった。〔11〕そして,同日午後1時過ぎに午後の取調べが開始されたが,被告人は,取調室に入ってくるなり,P45刑事が「座れ。」と言っても,立ったままの状態で,「私,P02は1月6日,7日,8日,9日,現在に至り,刑事さんに伝えたことを撤回します。無理やりうそ発見器にかけられ,お前,やったなと言われたので,早く楽になりたいと思ってうその供述をしてしまいました。急変が何で僕なんですか。黙秘権を使います。P113弁護士を呼んでください。」と,棒読みの状態で一気に話した。そのときの被告人の表情は非常に険しくこわばっていた。
(イ)以上のP45刑事及びP101刑事の各証言について検討するに,両証人の供述は,少なくとも大半の部分において,いずれも,非常に具体的かつ詳細な内容を有し,被告人の供述内容や供述態度が迫真性をもって語られているだけでなく,それを聞いたり見たりした際の自らの印象や感想などについても種々の場面ごとに的確に表現されている。また,取調べ時の問答だけでなく,取調べの最中に被告人が泣き出したことや自発的に正座をしたことなど,付随して特に印象に残ったと思われる点をも多数含んでいる。これらの供述内容に加え,両者の証言が,相互に符合している上に,両証言ともに弁護人による詳細かつ厳しい反対尋問によっても基本的には動揺していないことなども併せ考慮すると,P45刑事及びP101刑事の各証言はその信用性が高いと評価することができる。
(ウ)この点,弁護人は,両者の証言について,〔1〕両者には自白獲得のために無理な取調べをする動機があり,被告人の供述に謙虚に耳を傾けることなく,やみくもに自白のしょうように走ることが考えられる,〔2〕P45刑事の供述態度からP45刑事が大声で強圧的な取調べを恒常的に行うタイプの取調官であるという事実が推認される,〔3〕P45刑事らの検察官に対する説明は変遷していると考えられるし,両名の証言は客観的資料に裏付けられておらず,その信用性が極めて低いと主張する。
しかし,〔1〕については,基本的には一般論にとどまり,具体的な事実を前提とする指摘ではなく,少なくとも本件における1月6日から同月9日午前中にかけての取調べの過程において,P45刑事やP101刑事にこのような動機があったとうかがわせる具体的な事情はない。また,〔2〕についても,同様に,少なくとも,上記の取調べ過程において,P45刑事が被告人に対して不当な圧力を掛けたり脅迫するなどして供述を強要したというような事情は,P45刑事及びP101刑事の各証言内容からは認められない(もっとも,〔1〕,〔2〕の関係で,取調状況に係る後記の被告人の供述内容の方が信用し得るものであれば,評価を異にすることもあり得るが,被告人のこの点の供述内容自体が信用できないことは後記のとおりである。)。さらに,〔3〕については,確かに,P45刑事及びP101刑事の公判供述と検察官の冒頭陳述との間には一部内容に食い違いが認められるものの,その食い違い部分の事柄の性質,食い違いの程度等に照らすと,この点が両者の証言の信用性を揺るがす事情とはいえない。
したがって,弁護人の主張はいずれも理由がない。
(エ)以上のP45刑事及びP101刑事の証言から認定される事実によれば,被告人は,本件における1月6日から同月9日午前中にかけての取調べにおいて,任意にP45刑事及びP101刑事の各証言に沿う内容の供述を行い,その供述した内容が記載された各書面に署名指印し,さらに,P45刑事及びP101刑事の各供述に沿う経過で自らも数通の書面を作成したものであり,捜査官による強制や脅迫,あるいは,不当な誘導等により被告人の自白が導き出されたというような事情はなかったものと認められる。
(ア)一方,被告人は,当公判廷において,一定の範囲においては,自ら書面を作成したことや捜査官により作成された供述調書に署名指印したことなどの事実を認めるものの,その経緯やその間の被告人と捜査官とのやり取りについて,次のとおり,前記P45刑事やP101刑事の各証言とは多くの点で異なる供述をする(���119ないし第121回,第133回,第135回)。
〔1〕1月6日の朝,警察官がアパートにやって来て,「P04ちゃんのことで,クリニックの職員の方にいろいろ聞いていまして,今日はP02さんとP10さんの話を聞きたいんで,よろしいですか。」などと言われ,被告人が「構いません。」と答えると,県警本部に行くことになった。この時,被告人としては,P04の家族から北陵クリニックが警察に訴えられたのかなと思った。警察の準備した車両に乗り込むと,被告人の隣にP101刑事が座り,P101刑事からP04の現在の状態を尋ねられたため,被告人は,「確かベジになっているという状態ですよね。」と答えた。
〔2〕県警本部に到着して取調室に入ると,P45刑事から,「ここに呼ばれてきたのは分かるよな。」と言われたため,被告人が「P04さんのことですよね。」と答えると,P45刑事から「P04ちゃんの急変なんでなったんだ。」,「何でお前が知らないんだ。」,「お前が分かんないわけないんだよ。お前やってんだから。」などと言われ,被告人が「分かりません。」,「私は医者じゃないんで分かりません。」,「挿管のミスじゃないんですか。」と答えるというやり取りが何度も続いたが,P45刑事は被告人の答えに納得しなかった。その後,P45刑事から「お前がやっていないというんならば検査をしてもらう。」と言われ,被告人が「どういった検査をするんですか。」と聞いたところ,「ポリグラフというものをするんだ。」と言われ,被告人が「ポリグラフとは何ですか。」と聞いたものの,P45刑事は「ただ質問に答えればいいだけだから。」と話すのみで,結局,被告人はどういう目的で検査をするか理解できなかった。
〔3〕正午ころポリグラフ検査が終了し,被告人がたばこを吸うと,P45刑事による取調べが始まったが,被告人は,取調べに先立って昼食をとることはなく,また,取調べの冒頭にP45刑事から黙秘権を告知されることもなかった。
取調べにおいては,P45刑事から「やっぱりお前だよ。」,「反応してるんだよ。」,「マスキュラックスで反応しているし,こちらで考えていたとおり二,三十人以上やっているんだ。」などと言われ,被告人がこれに対して否定するというやり取りがしばらく続いた。P45刑事は,被告人に対して,当時の事実経過等を尋ねることもなく,「お前がやってないというならだれなんだ。」,「お前がやったという証拠があるんだ。」,「お前が認めたら証拠を見せてやる。」,「お前がやってないというんならばやってない証拠を出せ。」などと大きい声や怒鳴り声を出し,さらには,席から立って声を上げるなどしていたが,その口調はだんだん厳しくなっていった。このようなやり取りが2時間以上くらい続き,その間に,被告人がP10看護婦のことを尋ねたところ,P45刑事から隣で調べを受けていると聞かされたため,被告人が会いたいと言ったものの,P45刑事にこの申出を断られたことがあった。
〔4〕上記のように,自分の言い分をP45刑事に聞いてもらえない状況が続いたため,被告人は,勘弁してほしいという気持ちになり,P45刑事の質問に対してはいはいと答えれば帰してもらえるのかなと考えるようになるとともに,警察が調べてくれたり,P20教授や被告人の父親に確認してくれれば自分がやっていないことを分かってくれると考えるようになった。そして,被告人は,自分がやっていないことを分かってもらうために,P45刑事に対して,間違えてというような感じで説明をしようと考えたが,その一方において,P45刑事から散々お前がやったんだと言われ続けていたため,自分が間違ってやったのかなという気持ちも抱くようになっていった。
そこで,被告人は,P04が急変した際にボスミンを使用したことから,そのとき間違えたのかなという気持ちもあって,「ボスミンとサクシンを間違えて注射をしました。」と話した。しかし,P45刑事は納得せず,「違うだろう。」と言ってきたため,被告人は,何が違うのかよく分からなかったが,薬が違うのかな,サクシンが違うのであれば,サクシンかマスキュラックスかなと考えて,「サクシンかマスキュラックスを注射しました。」と話した。これに対して,P45刑事から「そうじゃねえだろう。お前反応してるだろう。」と言われ,被告人はマスキュラックスで反応していると言われていたため,マスキュラックスかなと考え,「マスキュラックスを注射しました。」と言ったところ,P45刑事から「P04ちゃん,そのときなんかやってただろう。」と言われ,被告人が「点滴はやってました。」と答えたところ,P45刑事が「そうだ。今言った言葉を続けてみろ。」と言われて,「マスキュラックスを点滴に入れました。」と言った。
すると,P45刑事は,「よく言った。」と言って席を外し,P101刑事から「少し言ったんだからたばこでも吸って楽になりなさい。」と言われて,たばこの休憩があった。被告人は,やってねえのになんでこんなこと言っちゃったのかなと思っていた。
〔5〕その後もP45刑事による取調べが続けられ,次のようなやり取りがあった。
P45刑事から「点滴,何入れたんだ。」と言われ,被告人は「500のほうです。」と答えたが,P45刑事から「違う点滴やってるだろう。」と言われたため,「抗生剤ですか。」と聞くと,P45刑事から「そうだ。」と言われた。この時,被告人は,500mLのボトルにマスキュラックスを混入したという趣旨で説明したのではなく,点滴の一般的な手順について説明したつもりであった。P45刑事は「抗生剤の指示出てんだから,抗生剤だろう。」などと話していたので,抗生剤の点滴を先に実施すると考えていたものと思われる。しかし,被告人が,「テストして10分から15分で判定をして,点滴を抗生剤に換えます。」とか,テストをしている間の点滴について「その間は500を落としてます。」などと説明したところ,P45刑事は,500mLの点滴を先に行ったことを納得した様子だった。
抗生剤のテストに関して,P45刑事から抗生剤はテストをするだろうと言われたのに対し,被告人がホスミシンはテストがいらないと言うと,P45刑事は,「お前がテストしなければほかの人がやってるんだ。テストはしてるんだ。」と言ってきた。
500mLの点滴ボトルに関して,「500を落としてすぐ抗生剤に取り換えました。」と話したところ,P45刑事が「お前,テストやってんだから,テストやってる時間があるだろう。判定する時間があるだろう。すぐなんて交換しないよ。」などと言ってきたため,被告人は,「じゃ,5分か10分後ぐらいに交換してます。」と言った。
P45刑事から500mLのボトルの滴下速度について尋ねられたため,被告人が1時間に100mLのスピードであると答えたところ,P45刑事が「お前,5分10分じゃ1時間に100じゃ入んねえじゃん。」と言ってきたため,被告人は,「間違って全開で落としていたかもしれません。」などと話したところ,P45刑事は,「じゃ,その間,全開で入っているわけだから,大丈夫だ。」と納得していた。
被告人が,点滴のボトルにマスキュラックスを混入した場所について,「外来で準備しました。」と言うと,P45刑事から「お前,外来でやってたらな,診察もしてるし,看護婦もいるんだから,そんなとこでやれっこないよ。」と言われ,被告人が,「じゃあ,ナースステーションですかね。」と言うと,P45刑事は納得していた。
マスキュラックスの混入方法について,P45刑事から「どうやってマスキュラックスを入れたんだ。」と聞かれ,被告人が「マスキュラックス1アンプルを溶解液1アンプルで溶いて入れました。」と答えたところ,P45刑事が「いや,溶解液なんか使わねえだろう。」と言ってきたため,被告人は,これまでの経験に基づいて「いえ,マスキュラックスは溶解液が必要ですよ。」と話した。しかし,P45刑事から他の薬品を溶解する場合の方法などについて尋ねられ,被告人が点滴の液で溶解する旨の説明をしたところ,P45刑事が「そのときもそうやったんじゃねえのか。」と言ってきたため,結局,被告人は「点滴から吸って粉末のほうに入れて,溶いて入れました。」と話した。
動機について,P45刑事から「お前,こういうふうにP04ちゃんにやったわけだけど,なんかあるんだろう。」,「不満とかな,人間あるわけだから,そういうのないのか。」と言われ,被告人が,北陵クリニックの給料など勤務条件について不満を感じたこともあったと答えた。P45刑事から,P18医師との関係について,被告人がP18医師とお付き合いしてただろうなどと言われ,被告人が,P18医師とは男女の仲ではない旨答えたところ,P45刑事は,「それはお前,うそだわ。P18先生とお前,出来てて,P18先生に相手にされないとお前はかっとなるんだ。」などと言ってきたが,被告人は「ありませんよ。」と否定した。
なお,P45刑事は,被告人の言い方に納得しないときは大きな声で怒鳴り,納得がいくと普通の声になった。
〔6〕上記のような取調べが終了した午後4時前ころ,被告人は昼食をとり,その後トイレに行った。トイレから戻ってくると,P45刑事からP04に対する反省を書くように言われ,被告人が,P04とご両親に対して反省している旨の内容を書いたところ,P45刑事は納得しなかった。そこで,被告人は,P45刑事にこれでいいですかねという感じで確認しながら,動機や急変後の処置などについて記載していった。これが,乙8の下書きである。その中で,P18医師が挿管を失敗した旨記載したところ,P45刑事からほかの人が失敗したことは書くなと注意を受けるということがあった。また,P45刑事から,P04が急変したときに挿管しただろうと言われ,被告人が「挿管は医者なんで私はできないし,やってないです。」と言うと,P45刑事が「挿管じゃなければ違うことをやっているだろう。」と言われたため,被告人はやっていないと思っていたものの,吸引チューブで吸引したとか,鼻の穴からネーザルを入れたということを記載した。
さらに,P45刑事から「お前はそのほかに二,三十件やってんだからそれも言いなさい。」とか,「お前やったのを全部答えろ。」などと言われたが,被告人は「だれか分かりません。」と答えた。また,P45刑事から被告人が急変させたという言い方ではなく,「お前が辞める前に急変した患者はだれだ。」と聞かれため,被告人は,P07,P05,P91の名前を挙げたが,被告人は,その急変原因に関して,P07については心筋梗塞,P05については術後のショック,P91については分からないと答えた。これに対し,P45刑事からP07及びP91の急変は被告人がやったと言われ,被告人がこれを否定すると,P07についてはそれ以上には特に追及されなかった。しかし,P91に関しては,P45刑事は「P91君にはラシックスを使っただろう。」と言い,被告人は否定したものの,更にP45刑事からP91の状態を尋ねられて,被告人が,声掛けに反応したり刺激に対して動いたりするがそれをやめると眠った状態になると話したところ,P45刑事は,どんな薬が考えられるのかと聞いてきたため,被告人は麻酔薬などが考えられる旨答えた。さらに,P45刑事から,P03の件について,被告人が1歳の女の子を急変させ父親に怒られているのを見てる人がいるなどと言われ,被告人は,「私はP16さんにヘパ生を持ってきてと言われたのでそれを渡しただけです。」などと答えた。
〔7〕さらに,P45刑事から「お前がやった二,三十人を書き出せ。」などと言われ,被告人は,しばらくは「分からないから書けません。」と繰り返していたものの,P45刑事が怒り出して,「分かんねえわけねえんだから,思い出して書け。」と言われたために,被告人は,急変があった時期を記載したり,具体的に亡くなった患者として覚えている人に当てはめて記載するなどしたが,中には,具体的な患者を念頭におかずに記載した部分もあった。薬剤の名前については,被告人が「どうしたらいいでしょう。」と聞いたところ,P45刑事が「お前,どっちにしろ両方で反応してるから,両方の薬書いていいから。」と言われ,一部はP45刑事に聞きながら,サクシンあるいはマスキュラックスと記載した。このようにして乙7が作成された。
被告人が具体的な患者の名前としてP04及びP91のみ記載したところ,P45刑事から患者の名前が分からないのはおかしいと言われ,被告人が,分からないのでカルテを見せてほしいと頼んだものの,これを拒否された。その後,P45刑事から,1枚の紙が上下2段に分かれて全部で10個程度の升目があり,一つの升目の中に10名程度の患者名が記載されている紙を渡され,「ここに丸付けてみろ。」と言われたため,被告人は,亡くなった患者や急変したときに処置を手伝った患者など覚えている患者に丸を付けた。P45刑事からは「一升に一人は必ず入っているんだから,ちゃんと思い出せ。」と言われたものの,被告人は,乙7の最初の二人については患者名を選び出すことができなかった。なお,年齢は示された紙には記載されておらず,被告人がP45刑事から教えられたものであった。
〔8〕その後,乙8を作成したが,これは,それ以前に書いたP04への反省文及び乙7の内容を清書したものである���その際に,被告人がひじをついて背中を丸める姿勢をとっていたため,P45刑事から「お前,そんなので反省してるという気持ちあんのか。」と言われて被告人がいすの上に正座したことがあったが,被告人は,途中で,ひざが痛いのでやめると言って正座を崩した。なお,P91の薬剤名に関して,P45刑事から,マスキュラックス,サクシン,ドルミカムの3種類の中から選ぶように言われたため,ドルミカムと記載することになった。
〔9〕乙8を記載した後,P45刑事がそれを持って取調室を出て行った。その折に被告人がP101刑事に対してP10看護婦の状態を聞いたところ,P101刑事は隣で調べを受けていると言った。
しばらくすると,別の警察官が取調室に入ってきて逮捕状を読み上げ,被告人に手錠をかけた。被告人が逮捕される理由が分からなかったため,「なんで,おれ逮捕されるんですか。」と尋ねたところ,その警察官からは,「自分でちゃんとやったと言って,反省もして,ちゃんと今,書いたでしょう。」と言われた。
その後,泉警察署に移動し,乙3が作成されたが,その時,被告人は,P101刑事からの質問に対して,「はあ,はあ。」と言っているだけであった。また,弁護士に関して,P101刑事から,「弁護士を頼めるけども,どうする。弁護士は金かかるし,お前,金あるか。」と言われ,被告人は「僕,金ありません。ちょっと考えます。」と答えた。この時の被告人の心境は,なんで手錠されて逮捕されるんだろう,なんでおれこうなったのというものであった。
そして,食事をした後,乙10が作成され,その日は泉警察署の留置場で寝ることになったが,被告人は,本当におれなのかなあ,でもこういうふうに書かされてしまい,おれしかいないのかなと考える一方において,P20教授が来てくれれば疑いが晴れるのではないかという気持ちもあった。
〔10〕1月7日になっても,被告人は,おれがやったのかな,おれしかいないのかなと考えていた。午前中の取調べにおいて,乙4が作成されたが,被告人は,北陵クリニック以外に,以前勤めていた病院で手術時にマスキュラックスを使用したことがあるという話はしたものの,それ以外は,P45刑事からの確認に対し,そんなことはやっていないけど,そういうふうに言われているからそうなのかなという感じで,はあはあと返答したものであった。
その後,被告人は,弁護士と接見することになったが,P45刑事やP101刑事から,「弁護士さんにもすみませんでした,申し訳ないです,やっちゃいましたと言って謝ればいいから。余計なこと言わなくていいから。」と言われた。被告人は,弁護士に対して,P04の事件に関してはやりました,そのほかに10人くらい書類に書いたがそれはやっていないと話した。弁護士からは,「やったものはやった,やってないのはやってないとちゃんと区別して答えなさい。」と助言を受けた。そして,被告人がP45刑事に接見の内容を伝えたところ,P45刑事は,弁護士からやったのはやった,やってないのはやってないと言うように言われたのだから,お前もちゃんとそういうふうにしろ,と言われた。
〔11〕P45刑事は,同日午後の予定について,検察庁というところに行くが,そこでも,反省してます,すみませんと言うだけでいいから,ほかの余計なことは言わないで謝ってきなさい,そうすれば検事さんも分かってくれるからと言ってきた。被告人は,検察庁において,検察官に対し「殺意なんてないです。」と言ったものの無視され,検察官から,そうだろうと確認されたことに対して,はいとかはあなどと答えていた。検察官から署名指印を求められた際に,被告人が殺意なんてないですと再度言ったところ,検察官は,「お前,P04ちゃんの前からやってるんだから,反省してるんだったら,ここに名前と指印を押してけ。」と怒鳴り声で言われ,もたもたしていると机をたたかれて怒られたので,結局,乙5に署名等をしてしまった。
さらに,検察官から,今から裁判所というところに行って、今と同じようなことを聞かれるので,申し訳ございませんでした,やっちゃいけないことをやってしまいましたというようなことを言えば大丈夫だから,そのように言ってきなさいと言われた。
被告人は,裁判所において,裁判官に対して,殺意はなかったですと話したところ,裁判官から「殺意ないんだったら,どうしてなの。」と聞かれ,P18医師を困らせようと思ってやったと話した。そして,検察官から言われたとおりに,やってはいけないことをやってしまって申し訳ございませんと話した。
その後,被告人は警察署に戻ってP45刑事からの取調べを受けたが,P45刑事から,一番初めにやったのは本当はいつなんだと聞かれ,被告人が「じゃ,6月か8月ですかね。」と言ったところ,P45刑事は「うそつくんじゃねえ,もうやってらんねえ。」と言って,その日の取調べは終了してしまった。
〔12〕1月8日の取調べにおいても,前日と同じように,P45刑事から,一番最初に筋弛緩剤を投与した患者について聞かれ,被告人が,入職してから半年後くらいであり,6月から8月とか,7月から8月などと幅をもって話したところ,P45刑事は納得していた。
〔13〕1月9日の取調べにおいて,被告人は,P45刑事から,P18医師の長所や短所を話すように言われ,さらに,その内容を書面に記載することになった。当初,被告人は,乙9とは別の書類に,P18医師のよい所を乙9よりも多く,P18医師の悪い所を乙9よりも少なく記載したが,P45刑事から「短所がこんな少ないわけねえだろう。お前は,いらいらとかしてやってるんだから,いいところより悪いところのほうがいっぱいあるだろう。」と言われた。そこで,P45刑事のアドバイスを受けながら,よい所として記載した点を悪い所として書換えたりして,乙9が完成した。
その後,被告人は,弁護士と接見し,弁護士から「あなたがやったというんだから,そのP04ちゃんの10月31日の件を聞きたいんで,ちょっと詳しく話を聞かせてください。あなたがやったというならば,やったときの状況を覚えているはずだから,それを言ってください。」と言われたものの,被告人は,10月31日の状況について記憶に基づく話をすることができなかった。また,弁護士から,1月6日の朝のことについて,「あなた,警察が来て,その話を受けるって言われたときに,やばいとか,やったのが見付かったんだというふうに思ったのか。」と尋ねられ,被告人は,「やばいとかなんて全然思っていません。」と答え,そもそもP04の点滴にマスキュラックスを混入したことがないということが頭の中ではっきりとしたため,弁護士に対して,「先生,僕じゃないんです。僕,やってないです。」と話した。そして,午後の取調べにおいて,被告人は,P45刑事らに対して,「私はP04ちゃんの件もほかの件,10件とか書いたことをやったと書かされましたけど,私はそもそもそんなことをやってませんので,黙秘します。」と述べた。
(イ)以上の被告人の供述について検討する。
a まず,被告人は,供述調書や被告人自筆書面が作成された経緯について,捜査官から怒鳴られてばかりで被告人の言い分を聞いてもらえず,乙3ないし乙5に関しては,捜査官から確認されたことに対して,はいはいと言っていたのが調書に取られたにすぎず,また,自らが記載した乙7ないし乙9に関しても,捜査官から指示されるとおりに記載したものにすぎず,いずれも捜査官の一方的な誘導や決めつけにより作成されたものであると供述する。
しかし,被告人の供述を前提としても,被告人は,P45刑事から,自らの記憶と異なる点や自らの記憶にない点を確認された際に,明確にこれを否定するなどして必ずしもP45刑事から言われたとおりに供述していない点が存在しているのであって,被告人が,取調べの際にP45刑事に対して反論したり,自らの考えを話すことができないような状況ではなかったことがうかがわれる。例えば,被告人は,P45刑事から,被告人とP18医師が男女の付き合いをしており,P18医師から相手にされなかったことが犯行の動機であると言われたのに対して,これを明確に否定した旨供述しているが,仮に,被告人の供述するような取調べ状況であったとするならば,被告人がP45刑事の誘導(というよりは,むしろ決めつけ)を簡単に拒否することができたとはにわかに信じ難い。また,被告人は,P45刑事から被告人がP07の急変に関与していると言われたのに対して,やっていないと明確に否定したところ,P45刑事からはそれ以上話がなかった旨供述しているが,被告人の供述では,P45刑事からP04の件と同じように被告人がやったと決めつけられたP07の件について否認することができた理由がそもそも不明であるし(被告人は,P04の件については否定できなかったが,その他のことに関しては否定できるところは否定できたなどと供述するが,全く理解し難い。),P45刑事が,当時,P07の資料からベクロニウムが検出されたという鑑定結果を聞き及んでいたと供述していることも考慮すれば(この点について,P45刑事があえて虚偽の供述をするとは考えられない。),被告人の供述するような取調べ状況であったとするならば,当然P07の件についても,被告人の作成した書面に記載されるのではないかと考えられる。そのほかにも,被告人がP04に対して挿管したかどうか,被告人がP03の父親に怒られたかどうかなどの点に関して,被告人の供述を前提としても,被告人が,必ずしもP45刑事から言われたとおりに供述していないことが明らかであるが,これらも,被告人の供述するような取調べ状況ではなかったことをうかがわせる事情といえる。
加えて,P45刑事は,被告人を取り調べるにあたって,被告人が甲55に記載された20件程度の北陵クリニックにおける急変に関与していたのではないかと予想していたが,実際に乙7や乙8に記載された患者の中にはP45刑事が予期していなかった患者も存在したと供述しているところ(この点については,上記甲55等の客観的証拠に符合する上,P45刑事が虚偽の供述をする理由も見当たらない。),このような事情も,果たして被告人の供述するような取調べ状況であったのかどうかに疑問を生じさせるものといえる。
b 次に,前記の被告人の供述内容を検討するに,以下のような明らかに不自然,不合理な点があることを指摘することができる。
〔1〕被告人の供述によると,1月6日の事実経過は,被告人が警察に出頭したところ,P45刑事からP04の件はお前がやったんだと責め立てられ,これを否定すると,ポリグラフ検査を受けることになり,ポリグラフ検査後もP45刑事から厳しく追及されたため,被告人は,P04の点滴にマスキュラックスを入れたことを認める供述をし,その後,P45刑事の指示を受けながら乙7及び乙8を作成したということになる。そして,被告人は,当時の心境について,朝,警察に出頭を求められた際,被告人は,P04に関して医療過誤の問題が発生したのかと考えていた,ポリグラフ検査を受ける前にP45刑事から責め立てられた際に,自分にあらぬ疑いが掛かっているというような危機感は感じなかった,お前がやったんだと言われて驚いたということはなかった,ポリグラフ検査の後,警察がP04にマスキュラックスが投与されたということで捜査をしていることが分かり,また,その疑いが自分に掛けられていると考えたが,そのことに気付いたとき,特に驚きや衝撃を感じたことはなく,何言ってんだという気持ちであった,乙7や乙8を作成した後においても,自らが犯罪者として疑われているという自覚はなかったなどと供述している。
しかし,被告人の供述する事実経過を前提とした場合,P45刑事から「お前がやった。」などと散々言われていたにもかかわらず,自分に疑いがかけられていると感じなかった,警察が自分の勤務する病院において患者に筋弛緩剤が投与されたとして捜査していることに気付いたときも特に驚きや衝撃はなかったなどという当時の心境に関する被告人の供述は,あまりに不自然,不合理である(被告人自身も,一般論としては,自らの勤務する病院において患者に対し筋弛緩剤が意図的に投与されるようなことがあれば重大なことであり驚くことであると供述している。)。
〔2〕被告人は,P04に対してマスキュラックスを投与したことを認める旨の供述をした際の心境について,ある質問に対しては,間違ってマスキュラックスを投与したのかなと考えていたと供述する一方において,ある質問に対しては,マスキュラックスを間違えて投与した可能性は全くないと考えていたとも供述しているのであって,このような矛盾が存すること自体,被告人の供述が合理性に欠けることを示している。
しかも,被告人は,「ボスミンとサクシンを間違えて注射をしました。」という発言をしたときの心境に関して,そもそも自分はやっていないので,それをP45刑事に分かってもらおうと考えていたと供述する一方において,P45刑事からお前がやったんだと言われ続けたため,間違ってやったのかなという気持ちにもなっていたとも供述しているが,そもそもこのような心境が両立し得るのか疑問であるし��仮に,本当に間違ってやったのかなという気持ちが生じたならば,当然,やっていないのでわかってもらおうという気持ちはないはずであろう。),被告人自身も,最終的にマスキュラックスを投与したことを認める供述をした際には,自分が間違ってマスキュラックスを投与した可能性は全くないと考えていた,やってねえのになんでこんなこと言っちゃったのかなと思ったなどと供述していることからしても,上記のような心境が両立するとは到底解されないのであって,このような被告人の供述は不合理としかいいようがない。
〔3〕被告人は,P45刑事から厳しく追及されたため,「ボスミンとサクシンを間違えて注射をしました。」と話したが,P45刑事から「違うだろう。」と言われたため,「サクシンかマスキュラックスを注射しました。」と話したと供述するが,被告人の供述を前提としても,P45刑事から違うとの指摘を受けた後に,さらに,サクシンの可能性を残すような発言をすること自体そもそも極めて不自然であるし,P45刑事からどの点に関して違うと指摘されたのか不明確であった(被告人もその旨供述している。)にもかかわらず,直ちに上記のような発言をしていることも不自然である。
〔4〕被告人は,自らがP04の点滴にマスキュラックスを投与したことを認める供述をするに至った経緯に関して,公判廷においては,まず,マスキュラックスという薬剤を投与したことが決まり,その後,点滴に投与したという方法が決まったと供述する。これに対し,自らの記憶が新鮮なうちに記載したことを自認している「日記」(毎日の取調べ状況等を記載したもの)の中では,まず,点滴という方法が決まり,その後,マスキュラックスという薬剤が決まったという順番で記載されていることを認めた上で,この記載は書く順番を間違えたものであると説明する。しかし,被告人の供述を前提とした場合,この部分は,被告人にとっては,P04に対してマスキュラックスを投与したという全く心当たりのない犯行を認めたという正に核心部分に関する点であるから,取調べからそれ程時間が経過していない時点で記載した「日記」に最も印象的な部分を書き間違えるということ自体不自然であるし,上記「日記」の記載内容が具体的であることに照らして考えると,被告人の供述は不合理としかいいようがない。
〔5〕被告人は,被告人が反省文を書く際に,P45刑事から言われて正座したことがあったが,途中で,ひざが痛いのでやめると言って正座を崩したなどと供述しているが,仮に,捜査官が多少とも威圧的に被告人に正座を促したものとすれば,被告人からの足を崩したいとの申出に簡単に応じるとは思われないし,少なくとも「なぜ足を崩すのか。」などと一言も言わないということは考えられない。
また,被告人は,P101刑事により作成された弁解録取書(乙3)の作成経緯について,P101刑事に言われたことに対して,「はあ,はあ。」と答えていただけであるなどと供述するが,仮に,被告人がP04に対する殺意を否認することなく,無条件で事実を認めているとするならば,逮捕事実を告げて弁解があれば録取するというこの段階での手続において,P101刑事が補足的にいろいろ尋ねることは考えられない(当否はともかく,被告人がいったん殺意を否認したからこそ,P101刑事はこれを打ち消そうとする方向での理詰めの質問を繰り出したと考えるのが極めて自然である。)。
c さらに,被告人は,P04に対してマスキュラックスを投与したことを認める旨の供述をした理由に関して,弁護人からの質間に対し,ずっと怒鳴られてばかりいたため,警察官が言うようなことを言えば帰してもらえるのかなと思い,質問されていることに対して,はいはいと言えばいいのかなと考えたこと,P20教授に確認してもらったり,父親が話をしてくれれば,被告人の言い分を分かってもらえるのではないかと思ったこと,間違えてというような感じで説明し,やっていないことを分かってもらえるかなという気持ちでいたこと,散々お前がやったんだと言われ続けていたため,じゃ,間違ったのかなというような気持ちになったことを挙げ,検察官からの質問に対しては,取調べでP45刑事からやってもいないのにやったと怒鳴られ,全く被告人の意見が聞き入れてもらえず嫌になったこと,隣でP10看護婦も同じように取調べを受けていると考えたこと,捜査官からP10看護婦を逮捕していいんだなと言われたことなどと付加して供述している。
しかし,被告人の以上の供述内容は,次のとおり,いずれも容易に信用し得ない。
まず,被告人は,捜査官が怒鳴ってばかりで全く被告人の意見を聞き入れず,捜査官が言うようなことを言えばよいのかなと思ったと供述するが,そもそも,被告人が供述するように,捜査官が,任意に出頭するように求めた人間に対して,短い時間ならともかく,長時間にわたって,前後の事実経過や周辺事情を聞き出したり,追及の根拠を示すようなことを一切行わず,説得の仕方や話題を種々変えてみる等の工夫もないまま,否認する被告人に対して,結論として被告人を犯人と決めつける言動のみを続けていたというのは,取調官が被告人から自白を引き出そうとする意識が強くあったとしても,そのための取調べ方法としては極めて不自然である(むしろ,捜査官に自白を得ようとする心情があるならば,なおのこと,同じ言葉を繰り返すだけで長時間を費やすというのは,少なくとも経験豊富な捜査官の常道とは理解し難い。)。
また,既にみたように,被告人自身,必ずしも,被告人の意見が全く聞き入れられなかったわけではなく,被告人が捜査官の言いなりになっていたわけではないように供述しているのであって,被告人が本当にこのような心境になったのか甚だ疑問が残る。その上,医療従事者である被告人が,捜査官が自らの言い分を聞いてくれないという理由だけで,自己が勤務する病院においてその患者に対してマスキュラックスという薬物を投与するという極めて重大かつ残酷であり,通常全く予想することができない犯罪への関与を,しかも,取調べの初日から,認めるに至るとは到底考え難い。
また,被告人は,P20教授に確認してもらったり,父親が話をしてくれれば,被告人の言い分を分かってもらえるのではないかと考えた,間違えてという感じで説明すればやっていないことを分かってもらえると考えたなどと供述するが,被告人自身も,結局,被告人の方から捜査官に対してP20教授をはじめとする関係者に事情を確認するように求めたりしたことがないことを認めており(なお,逮捕後の取調べ過程や弁護人との接見においてすらそのような発言はされていない。),間違えてと言えば分かってもらえると考えたというのも,論理的,常識的に,納得のいく理由付けとは到底いい難く,このような理由が犯行を認めるに至った要素となったとは解し難い。
さらに,被告人は,P45刑事からお前がやったんだと言われ続けていたため,間違ったのかなというような気持ちになったと供述するが,その一方において,被告人は,既に検討したように,このような心境とは明らかに矛盾するような供述もしているのであって,そもそも被告人の供述自体あいまいである上,何ら犯行に関与していない人間が,取調べの初日から,本件のような極めて特異かつ重大な犯罪に関与したかどうかというあまりにも基本的な事柄について,思い込みを生じるということ自体常識的にあり得ず,この点が犯行を認めるに至った理由あるいは,その後も少なくとも二,三日の間認め続けた理由になるとは考えられない。
加えて,被告人は,隣でP10看護婦も同じように取調べを受けていると考えた,捜査官からP10看護婦を逮捕していいんだなと言われたと供述しているが,前者については,この理由がなぜ被告人が犯行を認めることにつながるのか,被告人の供述によっても明らかではないし,後者については,被告人は,P10看護婦が逮捕されるかもしれないと考えたと供述する一方において,自らが逮捕されるとは考えなかったなどと明らかに不合理な供述をしている上に,弁護人からの質問に対しては,この点を本件犯行を認めるに至った事情として特段言及していなかったこととも併せ,このような発言が,被告人が犯行を認めるきっかけとなったとは考え難い。
d 以上の諸事情を考慮すると,被告人の取調べ経過に関する供述中,P45刑事及びP101刑事の各証言に反する部分は到底信用することができない。
ウ その他の弁護人の主張について
なお,弁護人は,捜査官から被告人に対して黙秘権が告知されていなかったこと,捜査官がポリグラフ検査の結果が出たように装った偽計による取調べが行われたこと,P45刑事が無実の証明を強制するなどして被告人に対して心理的強制を加えたこと,捜査官が被告人に午後4時前ころにしか昼食をとらせなかったこと,被告人が否認に転じた後の取調べ状況などを主張して,被告人の自白の任意性には疑いが残ると主張する。
しかし,被告人が否認に転じた後の取調べ状況については,いずれにせよそれ以前とは大きく場面を異にするというべく,少なくとも,本件においては被告人の自白の任意性の判断に影響を及ぼすような特別の事情も見当たらない。その余の主張については,既に認定したP45刑事及びP101刑事の各証言に沿う本件の取調べ経過等に関する事実と前提を異にするものであって,いずれも理由がない。
ア 続いて,被告人の自白の信用性について検討する。
前認定のとおり,本件における被告人の捜査官に対する供述や書面作成は,上記のとおりいずれも任意にされたものであり,その内容自体やその他の証拠との対比などの観点からも,基本的にはその信用性を肯定することができる。
確かに,被告人の乙3ないし乙9の供述内容を子細に比較すると,その内容が変遷している部分や客観的証拠に符合していない部分が存在しているのも事実であるが,これを念頭において慎重に検討しても,以下の3点,すなわち,被告人が平成12年10月31日P04に対してマスキュラックスを投与したことを認めている部分(以下「P04事件への関与部分」という。),被告人のマスキュラックスの効果に関する知識を供述している部分(以下「マスキュラックスの知識部分」という。),被告人がP04事件の犯行動機について供述している部分(以下「P04事件の犯行動機部分」という。)については,その信用性を肯定できることが明らかである。
イ まず,上記3点に関しては,その内容に変動がなく,客観的証拠にも符合するものである。すなわち,P04事件への関与部分については,被告人は,当初から一貫してこの事実を認めているだけでなく,既に検討したように,P04事件の犯人は被告人以外にあり得ないという客観的な証拠により認定される事実と符合する(すなわち,被告人の自白を除いてもP04事件の犯人が被告人であることは優に認定できるが,被告人の自白の存在により,その認定は更に確固たるものになるというべきである。)。また,マスキュラックスの知識部分についても,被告人はマスキュラックスの効果に関する知識を繰り返し述べており,その内容もP11教授の証言等により認められる客観的事実に符合している。さらに,P04事件の犯行動機部分については,P04に対する恨みはなく,P18医師を困らせようと考えた旨一貫して供述しており,併せて,被告人と一緒に勤務した経験のある者の供述(甲351,355,356,357,359,360,証人P16(甲330))によれば,被告人は,北陵クリニックに就職して以降,同僚や元同僚に対して,P18医師に関する不満を漏らしていたことが客観的に認められるところ,P04事件の犯行動機部分は,この客観的事実にも符合する。
ウ さらに,被告人が逮捕された後,留置場において同房となったP103(以下「P103」という。)に対する被告人の発言に関して,P103は以下のとおり供述する。
〔1〕P103は,1月6日夜,泉署の留置場において,被告人と初めて会ったが,この時,被告人に対して,礼儀正しいという印象を受けた。P103が,被告人に対して,留置場に来た理由を尋ねたところ,被告人は,「殺人です。」と答え,さらに,「一人でやったの。」と尋ねたところ,被告人は,「一人です。」と答え,自らの職業について,看護士と話していた。
〔2〕その後,被告人は,P103との会話の中で,犯罪の具体的方法について,何らかの薬を点滴の中に入れて患者に投与した,薬の効果について,呼吸が段々薄くなるが処置をするとすぐ治る,薬の入手方法について,管理がめちゃくちゃであり,病院の中で簡単に手に入る,犯罪の件数について,合計5人で,3人殺して2人未遂である,犯罪の被害者について,殺した人はお年寄りで,未遂に終わったのは子供である,動機について,何もできないくせに偉そうにして鼻を高くしている女医さんを困らせたかった,自分の容疑について,10人から20人病院で死んでいるが自分が殺したのは3人で未遂は2人だが,病院側は自分に全部かぶせている,将来のことについて,自分が刑務所から出てく���まで20年から25年かかると思う,出てきたらP103の仕事を手伝いたいなどと話していた。また,被告人から「寝ていると殺した人の顔が浮かんでくるんだ。」と言われたため,P103が被告人に対して経の題目を唱えて祈る方法を教えたところ,被告人は,これに従って,少なくとも朝晩の2回は,被告人が泉署を出るまで,P103と一緒に毎日お祈りをしていた。
〔3〕被告人が逮捕された翌日,裁判所や検察庁に出かけて行く前に悩んでいるように見えたため,P103が「真実は一つなんだよ。」と言ったところ,被告人は,「P103さん,きちんと話してきます。」と言って出かけて行き,戻ってきてから,「P103さん,ありがとう。全部しゃべってきました。」と話していた。
以上のP103の証言について検討するに,まず,P103は本件と何ら利害関係のない第三者であるだけでなく,P103及び被告人は両者ともそれぞれお互いによい印象を持っていたことを認めているのであるから,P103があえて被告人に不利益な虚偽の証言を行うような動機はうかがわれない。しかも,P103の証言内容は,具体的である上に,合理的かつ自然であって,特に虚偽の供述をしていることをうかがわせるような点も認められない。これらの事情を総合すれば,P103の証言は信用性が高いといえる。
一方,被告人は,P103との会話について,その一部に関しては,P103が証言するとおりの会話があったと認めるものの,例えば,お祈りの話に関しては、P103が被告人に対して死んだ人が出てこないかと言ってお祈りの話を持ち掛けてきたことがあって,そのときに一度だけP103の真似をしたことがあったと供述し,さらに,両手を合わせて食事のあいさつはしていたが,それはP103がするお祈りとは別の機会にしたもので動作や向きも違い,P103が言うようなお祈りをしていたことはないなどとP103の供述と異なる供述している。しかし,このような被告人の供述内容は極めて不自然かつ不合理であり,ひいては,その供述全般についても,信用性が高いと評価できるP103の証言内容との対比において,たやすく信用することができない。
したがって,被告人は,逮捕直後,同房者に対して,P103が証言するような発言をしていたことが認められ,P04事件への関与部分,マスキュラックスの知識部分及びP04事件の犯行動機部分のいずれについても,捜査官に対するのと同様の趣旨の発言をしていたものであるから,このような点も,被告人の自白の信用性を高める方向に働く事情といえる。
エ 以上に加えて,既に検討してきたところにも含まれていた事情であるが,准看護士という職にあった被告人が,自らの勤務する病院において,患者に対し,筋弛緩剤という薬物を混入するという基本的かつ重大な事柄を,事情を聞かれて間もなく,しかも,逮捕される前に認めるに至ったという事実,さらに,弁護人と接見した後においてもその当初は自白を維持していたという事実もまた,いずれも被告人の自白の信用性を高める有力な一事情と評価できる。
オ なお,前認定のとおり,被告人は,P04事件に関し,逮捕後の警察官の弁解録取の際及び裁判官の勾留質問の際,いずれもP04に対する殺意を否定する供述をしたことが認められる。また,これとの関連において,被告人が供述するとおり,被告人が勾留質問前の検察官の弁解録取を兼ねた取調べの際にも,何らかの形で殺意を否定する供述をした可能性は,一概に排斥し得ないというべきである。
しかし,そうであるとすると,被告人は,一方でP04に対するマスキュラックスの投与を認めつつ,殺意だけは否定するという供述を何度か繰り返したことになり,この点も,特段の事情がない限り,被告人がP04にマスキュラックス投与をしたとの供述自体の信用性をより高める要素というべきである。
けだし,仮に被告人が何らかの理由により事実に反してマスキュラックスの投与自体を認めざるを得ない言わば極度の放心状態に追い込まれていたとすれば,やはり実態を伴わないことには変わりがない殺意のみの否定を,しかも繰り返し行うというような言動をとるとは極めて考えにくいからである(また,上記のような心理状態に陥りつつも,気力を振り絞って否認しようとするなら,やはり殺意のみを否認するような中途半端なことはせず,ともかく一度は全面否認の言葉を発するのがごく自然であると解される。)。
そして,この点について,被告人の供述をみても,そこからは,何ゆえ上記のとおり検察官及び裁判官に対し,殺意だけを否認することになったのかの特段の事情をうかがうことはできない。
ちなみに,前示のとおり,被告人は,勾留質問調書の内容は,殺意を否認した点ばかりでなく,動機に関する点も自らの言葉で述べたところが記載されているというのであるが,この点も,殺意の否認が認められて捜査官との違いを意識したことを前提とすると,甚だ不可解といわざるを得ず,なおさら被告人がP04に対しマスキュラックスを投与した事実自体は実態としてあることを強く裏付けているといえる。
カ 以上の諸事情を考慮すれば,少なくとも前記3点に関する被告人の自白に関しては,明らかにその信用性を肯定することができる。
キ 弁護人の主張に対する判断
(ア)弁護人は,〔1〕被告人の自白は迎合による虚偽供述であること,〔2〕マスキュラックスの投与方法に関して,客観的に筋弛緩効果を得ることができない方法が記載されていること,〔3〕真犯人であれば間違えるはずがない犯行態様について客観的事実に反する供述があること,〔4〕真犯人ならではの具体性,迫真性に富んだ供述内容が含まれていないこと,〔5〕自白と否認が交錯していること,〔6〕マスキュラックスの入手方法や空アンプルの処分方法など重要な説明が欠落していること,〔7〕いわゆる秘密の暴露が含まれていないことなどの点を指摘して,犯行を認めた旨の被告人の供述は信用性を欠くと主張する。
(イ)そこで,弁護人の主張を検討するに,〔1〕の主張については,被告人の取調べ時の供述態度や供述内容は既に認定したとおりであるところ,そもそも弁護人の主張はその前提が事実に反している。また,〔5〕の主張についても,いずれにせよ,被告人の供述内容は捜査の当初においては一貫して本件犯行を認めていたところ,いったん否認に転じた後は一貫して本件犯行への関与を否認し続けているというものであって,いわゆる自白と否認の間で供述が揺れ動いたという場合ではないから,弁護人の主張は本件のような場合には当てはまらないというべきである。
次に,〔2〕及び〔3〕の主張については,確かに,被告人の自白供述の中には,一部客観的にみると不合理であり,あるいは,客観的な事実に反する部分が見受けられる。しかし,自白の時期が取調べの初期の段階であったことも念頭におくと,少なくとも,これらの供述部分の存在が直ちに自白全体の信用性を失わしめると考えるのは相当でなく,結局,他の証拠状況との兼ね合いにおいて,その評価を行うべきものと解されるところ,少なくともP04事件については,他の証拠関係により被告人がP04にマスキュラックスを投与して急変を生ぜしめたことは優に認定し得るものであって,弁護人指摘の供述部分を十分考慮に入れても,この認定が覆る関係にはないものというべきである。
また,取調べ状況そのものとの関連でみても,個々の場面において,取調官が従前の捜査資料や自身の推測などからある程度の誘導,追及を行った結果として,上記のような供述内容の不合理な部分,事実に反する部分が生じた可能性が全部否定できるわけではないが,少なくとも取調官側から終始強い誘導,追及がされる状況には全くなかったことは,既に詳細に認定したとおりであって,そこに,被告人側の意図的な供述操作がどの程度加わっているかの点はさておくとしても,やはり,弁護人指摘の供述部分の存在が自白全体の信用性にかかわる要素であるとは評価し難い。
また,〔4〕及び〔6〕の主張については,本件の各書面は,被告人が逮捕された当日及び翌日に作成されたものであるという事情にかんがみると,弁護人の指摘は当たらない。むしろ,マスキュラックスの効果に関する知識についての供述や本件犯行に及んだ動機についての供述などの点は,捜査の初期段階に作成された書類としては,非常に具体的に記載されていると評価できる(特に動機の点は,あらかじめ捜査官が細かい具体的な内容を想定し得ず,他方,被告人個人の心情にからむ事柄として,被告人自身にしか語り得ない要素が強い部分であるから,その具体性,詳細性の意味するところは大きいといえる。)。
さらに〔7〕については,確かに,秘密の暴露が含まれている自白の信用性が高いことは疑いがないものの,自白内容に秘密の暴露がないからといって直ちにその信用性が低下するものではないし,本件においては,既に認定したとおり,本件の各書面はいずれも逮捕当日及び翌日に作成されたものであること,捜査機関が平成12年12月4日以降捜査を進めていたことなどの事情が存在し,その作成前後の被告人の供述態度(必ずしも,すらすらと素直に供述していくという状況にはなかった。)を併せ考慮すれば,この時点における自白に明らかに秘密の暴露と評価できる事実が存在していないからといって,被告人の自白の信用性を否定する事情とはいえない。
(ウ)したがって,弁護人の指摘する各点を考慮しても,前記の3点に関しては,被告人の自白に信用性を認めることができる。
(4)まとめ
以上によれば,被告人の自白は,いずれも任意にされたものと認められる上に,少なくとも,前記3点に関しては,明らかにその信用性を認めることができる。そして,このような自白が存在するという事実は,既に認定した被告人がP04の点滴にマスキュラックスを混入した犯人であるという事実を裏付けるものとして評価することができる。
(1)認定できる事実(被告人の勤務状況及び勤務時の言動等)
関係証拠(甲8,340ないし363,証人P72,同P16(甲330),被告人(第106回)など。なお,被告人の公判供述中,上記各書証における関係者の供述に反する部分は,これと対比して信用することができない。)によれば,次の事実が認められる。
被告人は,看護学生時代,実習先のP25において,手術用の器具等を滅菌消毒するなどの仕事を行う中央材料室に配属され,手術や救急外来の受入れの際には自発的にこれを見学するなどし,准看護士として就職後,外来・検査・手術室の担当となると,手術や救急外来の介助を好み,それらの場面で必要な器具を的確に医師に手渡すなどてきぱきと仕事をこなすようになり,仕事に対する自信から,正看護婦に対して意見を言ったり,医師でもないのに救急患者に対し診断めいた言葉を口に出すようにもなったが,一方で,入院患者の排便,排尿の世話について,「気持ち悪くなるから苦手だ。」などと言うなど,通常の病棟業務は嫌がり,ICU病棟担当に配置換えされて間もなく,上司や同僚らに「東京で救急隊に入りたい。」,「東京の消防局を受けて合格した。」などと虚偽の理由を述べて同病院を自主退職した。
その後,被告人は,P26クリニック等で勤務し,その間にP25への復職を希望する態度を示すなどした後,前記のとおりP27病院に就職したが,同病院の主たる診療科目は内科と整形外科で,同病院で行われる手術の大半は整形外科のものであったが,被告人は手術室担当を任され,手術の介助については間もなく手順を覚えて生き生きと仕事をし,急変患者の救命措置も手際よくできると医師や同僚から評価され,救命措置の勉強会において同僚を指導するなど,一目置かれる存在となったが,反面,ガーゼの折り畳みなどの地味な仕事は嫌い,また,頼りなげな医師に対して,「これこれしなければ駄目です。」,「こんなことしちゃ駄目です。」などと意見を言ったり,経験の乏しい看護婦に対し,「何勉強してきたんだ。こんなことも知らねえのか。」などと乱暴な口調で言うなどし,同僚看護婦の前で,「ここの医師は急変したときの対応ができない。」などと陰口を言うこともあった。
北陵クリニックでは,平成10年ころ,勤務状況等を巡って経営者側と職員との間で対立が生じ,数名の看護婦が同時に辞めるなどして十分な看護態勢が取れなくなっていたところ,被告人は,当時P27病院の主任看護婦であったP104の紹介で,北陵クリニックに就職した。
被告人は,北陵クリニックにおけるFES治療に興味を抱き,また,主として手術室担当として勤務できることを期待して北陵クリニックに就職したものの,期待したほどには手術の件数が多くなく,外来や病棟担当の業務が大半であったことや,その他の待遇面にも不満を抱き,従前の勤務先と同様に,患者の排便,排尿の世話をはじめとする病棟や外来の担当業務を好まず,同僚に対し,「北陵クリニックには,オペ室担当のつもりで来たのに,普通の看護婦の仕事と変わりない。」,「FESなどのオペがたくさんあると聞いていたのに,ほとんどない。なんでおれが外来とか病棟とかしなければならないんだ。」などと不満を漏らすことがあったが,院内において明るく人なつこく周囲と接し,手術の介助や,容体を急変させた患者に対する処置を的確に行うなどし,P20教授やP18医師を含む周囲の者から信頼されて好印象を持たれ,被告人もP20夫妻に対し表面上は友好的に接していた。しかし,被告人は,内心はP18医師に対し不満を持つようになり,同僚の看護職員らに対し,陰で,「こんな指示ないよね。」,「こんな薬の出し方ないよね。」,「即断力がない。」などと,P18医師の日常の診療行為を批判するとともに,患者の容体が急変した際の対応に関しても,「医者のくせに,ほかの病院に転送させるかどうかの判断が遅い。」,「医者のくせに,急変患者に挿管も満足にできない。」,「P18先生の指示が悪い。医者が指示してくれなければ何もできない。」などと言い,また,P25の元同僚に対しても,「患者の状態が悪くなっても,挿管一つできないんだ。」,「急変が多くて忙しいんだ。医者が何もできないんだ。」などと批判する発言を繰り返すようになった。
また,被告人は,患者が急変し呼吸困難となった際に気道確保を行うための器具の一つであるラリンゲルマスクを北陵クリニックにおいて購入することを提案し,P22総婦長の了解を得るなどして納入業者に連絡して平成12年8月及び10月の2度にわたってラリンゲルマスクの講習会が開催されるよう手配し,P18医師にも参加を求め,実際の講習会の席では自ら業者担当者と共に指導に当たり,人体模型を使った練習に際しても,P18医師にアドバイスをするとともに,「実際に亡くなった患者さんの遺体を使って練習すればいいんですよ。」などと発言し,P18医師が挿入に失敗すると,陰で「こんなものもできないのか。」とつぶやいたりした。さらに,北陵クリニック内において容体急変患者が多発していることから看護婦らの間で救命措置の勉強会等の必要性が認識されるようになっていた機会に,同僚看護婦の求めに応じて自らがP27病院勤務時に作成した急変時の対応のためのマニュアルを渡したり,同僚看護婦の,急変患者が発生したことを想定したシミュレーション訓練を実施しようとの提案に対し,「実体験しなきゃ身につかない。実際に急変患者を作ってみなきゃ。」,「あらかじめシミュレーションをすることが分かっていては意味がないので,予告なしにやった方がいい。」,「君の勤務中に予告なしにシミュレーションをするかもしれないよ。」などと発言したほか,実際に入院している高齢の患者名を例に挙げて,「実際にだれかに急変してもらえばいいんだ」などと発言したり,上記と同じ患者の夜間のトイレ介助が思うようにいかず同患者が寝入ってしまった機会に,同患者に向かって「はいはい,寝てください,永遠に。」と発言することがあった。
(2)動機についての考察
動機の存在は,一般的には,罪体立証の重要な一要素といい得るが,他の要素による立証の程度との対比において,おのずから,動機に関する事情の占める比重は変わり得る。
本件では,事件性,犯人性ともに,これに関する証拠状況によれば,それぞれ独自にマスキュラックスの投与を原因とすること及びその投与が被告人により行われたことが合理的な疑いをさしはさむ余地がない程度に証明されているといえるから,これらの点に若干なりとも疑念の余地が残る場合とは異なり,動機に関する事情のいかんは,せいぜい,上記の事実評価につき,再考の余地を生じさせるような極めて有力な反対事情があるかどうかのレベルで考察すれば足りると解される。
このような観点から,本件の動機に関する事情とその位置づけについてみると,以下のとおりである。
ア P04事件について
被告人が平成13年1月6日朝,警察に任意同行を求められ,主としてP04事件について取調べをうけた後,同事件で逮捕,勾留され,同月9日午前中まで一定の供述をしていたこと,その間に作成された供述調書等の書面の内容が基本的に信用し得るものであることは,前示のとおりである。
これらの各書面の内容によれば,少なくとも,被告人は,一貫して,P04事件の動機について,日ごろからP18医師の態度や患者に対する対応に不満やいらだちを募らせていたところ,当日も,P04に対する診察,処置にいらだち,P18医師を困らせてやろうとして犯行に及んだ旨供述ないし記載しており,このような動機は,前示のとおりのP04事件の客観的な事実経過(P18医師がP04の急変に直面して,その対処に甚だしく困惑,難渋したことは明らかである。)によっても裏付けられ,信用し得るというべきである。
イ その他の事件について
(ア)P05事件については,P04事件と同様の,被告人の個別的な動機に関する供述や書面上の記載はない。
しかし,この事件の事実経過は前示のとおりであるところ,動機との関連では,特に,〔1〕当夜,本来P18医師は,P05の容体を診るため北陵クリニックに泊まることになっていたこと,また,仮に泊まらずに急変が起こると,そのこと自体が非難の対象となる状況があったこと,〔2〕被告人は,P05の急変後,P18医師に自ら気管内挿管の処置を促し,P18医師がこれに応じないと見るや,P71助手やP94療法士の前で憤まんの情をあらわにし,しばらくP05の病室に戻らないなど異常と思える反発を示したことが重要と目される。
これらの各点を総合すると,被告人は,P05事件の場合も,P18医師を困惑させる意図(なお,そのベースとしてのP18医師に対する不満,悪感情が継続していたことは,少なくともP04事件とP05事件の場合,その間が半月程度しか離れていないことからしても肯定し得る。)で犯行に及んだ疑いが極めて強いというべきである。
(イ)その他の事件についても,被告人の日ごろの言動や急変時の言動,これを取り巻く人間関係や北陵クリニック内での医師,看護婦等の患者に対する診療状況や勤務状況等から,多かれ少なかれ,被告人の犯行動機にからめた種々の推測がなし得ないではない。
(ウ)もっとも,P04事件以外の各事件について,個々的に,動機まで解明する上では,被告人の心理状況,性格等の主観面を確実に評価し得るだけの証拠はなお不十分というべく,併せて,本件各犯行が全体として,せつな的に実行されている側面もないわけではないことなども勘案すると,結局,P04事件以外の各事件について,それぞれの犯行動機を確実に認定することにはちゅうちょを感ずる部分がある。
(エ)しかし,これらの事件についても,次の各点も考慮に入れれば,上記のとおり,事件性と犯人性における事実認定に特別に疑念を抱かせるものは存しないというべきである。〔1〕本件各犯行が確定的な殺意に基づくものではなく,未必的な殺意に基づく(その根拠,理由は後記のとおり)との前提をとる限り,被告人が本件各被害者に対し,格別の敵意等を有せず,むしろ,平生は親しく接していたなどの事情があるとしても,そのことは,直ちに被告人が犯人であることと矛盾するものではない。
〔2〕被告人が本件各犯行を敢行することにより(少なくとも,それが発覚しなければ),被告人自身若しくは家族等極めて近しい者に特別の不利益や過重な負担を掛けるというような関係にはなかった。また,その他,被告人に,本件の犯人であることと明らかにそご,矛盾するような言動があったとはうかがわれない。
〔3〕前記(1)認定の各事実を総合すると,被告人が北陵クリニックに就職した後,自己の自信や予想に照らし,実際の職務内容に多かれ少なかれ満たされないものを感じていたことは十分推認され,また,P18医師に対する上記のような不満や悪感情も,時期によって一定ではなかったとしても,継続的に存したと解され,したがって,被告人において,そのような不満感や不充足感の反動として,本件各犯行に及ぶということは,十分了解可能な範囲であったというべきである(もちろん,この程度の不満等は,一般的,世間的に珍しくはなく,北陵クリニック内の他の職員との比較においても,被告人のそれが突出していたとまでいうことはできないが,反面,有罪認定が可能かどうかとの兼ね合いにおいて,このような事情がおよそ見当たらないという場合と同一ではないというべきである。)。
10 犯人性総括
以上に検討したとおり,本件の各事件の犯人は,いずれも被告人であり,前記認定の各犯行態様により,被告人が故意に各被害者にマスキュラックスを投与し,各被害者を判示の状態に陥らせたことが認められる。
1 本件各事件は,いずれも北陵クリニック内において,患者であった各被害者に医療行為のために接続された点滴医療器具を用い,点滴投与中に,点滴ボトルから点滴針までの点滴ルートのいずれかにマスキュラックスを混入する方法で,これを投与し,各被害者の容体を急変させ,P07事件においては被害者を死亡するに至らしめたもので,いずれの事件の犯人も被告人であり,被告人が故意にマスキュラックスを投与する方法で引き起こしたものであることは既に認定したとおりである。
そこで,以下,被告人が,各事件を実行するに際し,各被害者に対する殺意を有していたと認められるか否かを検討する。
2 まず,各事件における被告人の犯行が有する客観的な危険性を検討する。
前記認定の事実及び関係証拠(甲1,証人P88,同P87,同P11(甲261),同P105,同P106,同P107,同P108,同P109,同P110,同P111,同P112,同P74など)によれば,マスキュラックスは,投与量や被投与者の個人差による差異はあるものの,横隔膜や肋間筋等の呼吸をつかさどる筋肉を麻痺させ,その筋力の全部又は一部を一定時間失わせる作用を有するほか,口,首及びのどの周辺の筋肉を麻痺させることで,被投与者の姿勢により舌根沈下による気道閉塞の原因ともなり得るのであり,このような呼吸運動の抑制や気道の閉塞が続くと,生命維持のため必要な,肺に酸素を取り入れて炭酸ガスを出すガス交換を行うことができなくなって,低酸素血症や高炭酸ガス血症を生じ,脳や心臓等の諸臓器に障害が起こり,最終的には血圧及び心拍数も低下し,窒息死に至る危険性のあること,それ故,麻酔等の医療行為においてマスキュラックスが投与される場合にも,投与した時点で,直ちに患者の気道を確保し人工呼吸により十分な酸素を供給することで万全の呼吸管理を行い,これを続けることが不可欠とされ,また,医師が患者の状態や使用目的に照らし適切な筋弛緩剤やその投与量を選択,決定し,投与行為はもちろんのこと,アンプルの開封や準備行為も原則として医師自身が行う扱いがされていることが認められる。
そして,各事件の犯行は,いずれも医療機関内で患者に対して行われており,そのため被害者の異変に気付いた医師や看護職員らによる救命行為が功を奏して死の結果を免れる可能性もあったとはいえるものの,被害者に対するマスキュラックスが投与された際,いずれも,上記のとおり医療行為として適正な投与が行われる場合にさえ不可欠とされる,即時的な患者の呼吸管理について,これが行えるような準備もされず,少なくとも当初の時点においては医師の立会いも予定されず,犯人である被告人以外の者には正規の医療行為外で薬物が投与されたことなど知る由もなく,投与された被害者も自らに起きた異変の原因を把握できず,筋弛緩剤の作用や,被害者によっては投与時の状態や年齢等の事情も相まって,外部に的確に症状を訴えることも困難であったものであるから,周囲の者がその異変に気付くのが遅れ,あるいは気付いたとしてもそれに対応する適切な処置を取ることができないおそれも十分にあったものである。
各事件の事実経過をみても,P07事件においては,正に死亡の結果が発生しているし,P04事件においても死に至ることこそなかったとはいえ,P04はマスキュラックス投与による呼吸抑制の結果,途中から救命措置が行われたにもかかわらず,一時は呼吸停止や心停止の状態となり,結果的にも回復不能な重篤な障害が残り,植物状態という,いわば死に等しい結果が生じている。
P03事件及びP05事件においては,結果的には両名とも回復し得たとはいえ,それは,幸い両事件とも,比較的早期に医師による気管内挿管が成功するなど,適切な救命措置が施され,容体回復までの間これが続けられたが故であり,容体急変時に両名に現れた症状をみると、P03においては,急激にチアノーゼが出現して,自発呼吸が停止し,全身の力が抜けて睫毛反射もなくなり,酸素飽和度が33ないし35%まで低下し,挿管後も血圧が触診しないと測定できないほどに低下するなどしており,P05においても,呼吸状態が悪化してチアノーゼが出現して全身の力が抜け,その後自発呼吸が停止して,挿管時には咳嗽反射も嘔吐反射も認められなくなるなどしており,両名とも,一時は呼吸停止を伴う重篤な状態に陥ったことは明らかであり,救命措置が少しでも遅れ,あるいは適切に継続されることがなければ,死に至る可能性は十分にあったものと認められる。
P08事件においては���他の事件とは異なり,被害者は自発呼吸が停止するほどには至っておらず,当時45歳の男性で80kg台の体重があったP08の感受性に比すれば,結果的には,投与されたマスキュラックスの量が完全な筋弛緩効果を及ぼすには足りないものであったと認められるが,P08の証言によれば,同人においても,マスキュラックスが混入された点滴の投与を受けていた際,舌がもつれて思うように動かず,舌がのどの奥に落ち込んで気道の一部がふさがれる舌根沈下の症状が出現したところ,たまたま救命講習を受けた経験から得ていた知識を基に,既に十分な力が入らなくなっていた全身の力をふりしぼってようやく横向きになることで気道がふさがる事態を避け,しかしその後も深く息を吸い込むことができなくなり,ますます呼吸が苦しくなったことから,助けを求めようとし,努力してようやく小さな声を出し,たまたま付近を通り掛かってこれに気付いた看護婦らがいたため,医療措置を受けることができたものであり,以上の事実経過からすれば,P08が舌根沈下による窒息等により,死亡を含むより重大な結果に至る危険性もあったというべきである。
以上のとおりであるから,本件各事件とも,被告人によるマスキュラックスの投与の犯行が,被害者が死に至る高度の危険性を有していたことは明らかである。
3 そこで次に,被告人が,本件各犯行の当時,主観的にも各被害者が死に至る可能性があることを認識し,認容していたと認めることができるか否かについて検討する。
まず,上記のとおり,各事件における犯行態様や当時の状況に照らせば,各被害者が結果的に死を免れる可能性もあったと認められるところ,その当時の被告人の行動をみても,被告人が各被害者を確実に死に至らしめるための格別の手立てを講じた様子までは認められない。これに加え,本件各犯行の動機については,前記のとおり,その詳細は明らかではないものの,各被害者に対する敵意等の感情よりは,むしろ前記のような不満感や不充足感が主たる背景としてあったことがうかがえるのであり,以上からすれば,被告人としては,必ずしも各被害者が死に至ることまでを積極的に意欲していたものとは認めるに足りない。
しかしながら,前記のとおり,各事件とも客観的には,被害者の生命に対する現実的な危険が発生しているところ,被告人は,P25やP27病院に就職していたころから,手術や救急外来の介助に関心を持って,その立会いを多く経験し,必要な知識や介助技術を身につけ,北陵クリニックにおいても,看護婦の中でもこれらの介助技術に最もたけていることを自認し,多くの手術に立ち会うなどしていたもので,被告人が,そのような経験を経て,マスキュラックスの薬理効果や,患者に呼吸抑制があった場合の危険性について十分に認識していたことは,被告人が看護婦として勤務していた当時に作成した急変時の対応を記載した書面(甲362添付のもの)中に,「完全気道閉塞の場合は,胸郭が動いておらず,呼気も感じられない。すぐには心停止に至らないが,そのまま放置されると,5~10分後に心停止となる。不完全気道閉塞の場合は,舌根の沈下により,いびきをかくような呼吸になり,吸気時に胸骨上窩や肋間腔の陥没がみられる。適切に処置されないと,二次性の無呼吸,心停止,無酸素性脳症に至る。」などと気道閉塞時の症状を記載していることや,平成13年1月6日及び翌7日付けの各供述調書において,「マスキュラックスを混入させてP04ちゃんに投与すればP04ちゃんが呼吸困難から呼吸停止し,心肺停止となり死んでしまうことはわかっておりました」(乙3),「私が,P04ちゃんに投与したマスキュラックスというのは,骨格筋の緊張を緩め,一時的に運動麻痺の状態を招くといった特性のある筋弛緩剤であり,それを投与することによって短時間のうちに呼吸抑制,呼吸停止を引き起こすといった作用があることは准看護士として十分に分かっておりました。」,「また,マスキュラックスが呼吸停止を引き起こすという危険な薬剤でありますので,使用するのは,マスキュラックスの作用や使用方法に熟知した医師と決められており,使用する際は,必ず,人工呼吸器を傍に設置してから行わなければならないことになっているのです。」,「実際,私が勤務したP25病院,北陵クリニックでも,手術時には専門の麻酔医師が使用しており,使用する際は,必ず,人工呼吸器がセットされてあったのです。」(乙4),「私は,P25に勤務していたころ,手術室で仕事をしており,手術の際,医師がマスキュラックスやサクシンといった筋弛緩剤を使うのを見て,それらの薬の効果と,それらの薬を使う時には,必ず人工呼吸器などを用意しなければ患者が呼吸停止や心停止などの状態に陥るという知識を身につけていました。」(乙5)などと供述し(この部分に関しては,前認定のとおり明らかに信用性が肯定できる。),当時同房であったP103に対しても,患者に投与した筋弛緩剤の効果について「呼吸が薄くなる。」などと説明している(証人P103)ことから明らかに認められる。
そして,被告人は,マスキュラックスの投与による危険性につき十分な認識を有しながら,患者に対する呼吸管理がされておらず,早期に適切な対応の取れる医師の立会いもない状態で,各犯行に及び,いずれの場合も,前記のとおり実際に各患者の容体が悪化し,危険な状態となったのに,犯行の当初から確実に被害者の死の結果を回避し得るような行動をとった形跡はなく,患者の急変に駆けつけた医師や看護職員がその原因を知り得ないままでいるのを放置し,単に救命措置の一部に関与したにとどまるのであって,以上の各事情からすれば,被告人が,各事件において,その可能性の程度はさておくとしても,被害者が救命措置により死を免れるならそれで構わないものの,ことによっては死に至っても構わないとの,被害者が死亡する可能性についての認識,認容があったものと認めることができる。
なお,付言するに,この点,P03事件においては,当時,気管内挿管等の救命処置にたけていると認められるP64医師が在籍し,その当日も勤務していたこと,被告人が,P03に対するマスキュラックスの投与がされた際,その場に居合わせ,他の看護職員に先んじてP03の呼吸停止を指摘し,その後も自らマウス・トゥー・マウスの処置を行い,また,P16主任と共に,他の看護婦に医師を呼ぶよう依頼し,駆けつけたP64医師による気管内挿管を介助していることなど,他の事件とは異なり,より被害者への救命措置が有効となり得る事情があったことは否定し難く,現にP03はその後後遺症もなく回復している。
しかしながら,同事件においても,一方において,P03に対するマスキュラックスの投与は,前記のとおり,注射器内のマスキュラックスの溶液を,三方活栓を通じて患者側へ向けて注入する,通常の注射による単回投与と同等の効果を得られる方法で行われているのであり,それゆえ実際にも,平成12年2月2日午後5時22分ないし23分ころに被告人によりマスキュラックスが投与された後,P03には短時間のうちに急激に重篤な症状変化が現れ,投与後約1ないし3分程度で,P03は全身の力が抜け,更に見る間に顔面がそう白となり口唇チアノーゼが発現して,自発呼吸も停止し,睫毛反射もなく,外部から意識の有無を確認できない状態となり,被告人がマウス・トゥー・マウスと称する行為をしても,酸素飽和度は約33ないし35%と極めて低い状態となり,同日午後5時27分ころにP64医師が到着し,その後気管内挿管が成功するまで,呼吸状態が有効に改善されることがないまま経過したものであり,その後もP03には低酸素血症ないし高炭酸ガス血症による二次的影響と思われる,心拍が微弱となり,血圧が触診しないと測定できないほどに低下するなどの症状が現れ,また,1時間余りの間自発呼吸が戻らない状態が継続したのである。以上の経過からすれば,幸いP03が回復し得たのは,P64医師が比較的短時間で駆けつけ,気管内挿管も成功し,その後も医療関係者によりP03が回復するまで適切な医療措置が継続された結果にすぎないのであり,当初からこのような経過をたどることを確実に予測することは困難であって,例えばP64医師への連絡が遅れてP03の呼吸抑制がより長引いたり,その後の救命措置が万全なものでなかったり,あるいは当時のP03の体調いかんによっては,P03に回復不能な障害が発生して死に至る可能性も十分にあったものといえる。そして,この点については,当時の被告人においても,三方活栓からの注入の方法を用いれば,注射器による投与と同等の早期の効果が発現することは基礎的知識として当然知っていたはずであるのに,あえてそのような投与方法を選択したこと,加えて,他の事件と同様,犯行は,呼吸管理の準備も,医師の立会いもない状態で,点滴の詰まりを改善するフラッシュと称する行為を装って他の者には真実の急変原因が知り得ない状況で行われ,たとえ北陵クリニック内にP64医師がいるであろうことは認識し得たとしても,P03が回復し得る時間内にその手助けを得られる確実な見込みがあったとも認められないのであって(この点について,関係証拠によっても,被告人が事前にP64医師の所在を確認したり,直ちに確実に連絡を取り得るような手はずを整えた事実は認められない。なお,P64医師も,当時担当していた整形外科外来は比較的患者数が少なく,勤務していた日も,必ず外来診療区域にいたわけではなく,リハ室やMR室等に赴くこともあった旨証言している。),結局,被告人は,P03事件においても,他の事件と同様,その可能性の程度はさておくとしても,被害者に死の結果が発生する可能性があることを予測し得,その上でこれを認容していたと認めることができる。
4 以上のとおりであるから,被告人は,本件各事件について,いずれも被害者が死に至ることの認識,認容を有しながら,各犯行に及んだもので,殺意を有していたものと認められる。
以上のとおりであるから,関係証拠により判示第1ないし第5の各事実を認定できることは明らかである。
(法令の適用)
罰条
第1ないし第3及び第5の各行為 いずれも刑法203条,199条
第4の行為 刑法199条
刑種の選択 第1ないし第5の各罪につきいずれも無期懲役刑
併合罪の処理 刑法45条前段,46条2項,10条(犯情の最も重い判示第4の罪の刑で無期懲役に処し,他の刑は科さない。)
訴訟費用の不負担 刑事訴訟法181条1項ただし書
(量刑の事情)
本件は,多数の入通院患者に対し継続的に医療行為を実施していた相当規模の病院である北陵クリニック内において,同病院に以前から准看護士として勤務していた被告人が,いずれも平成12年中において,合計5名の患者に対し,未必的な殺意を有しながら,それぞれ,犯行時施行されていた点滴の点滴ルートを介して,それ自体極めて危険な作用を伴う筋弛緩剤であるマスキュラックス溶液を当該患者の体内に注入し,いずれも容体の急変を生ぜしめ,1名を死亡させ,1名を死亡させるに至らなかったものの,回復見込みのないいわゆる植物状態に陥れ,他の3名についても,死の危険に直面させたという,医療施設内において,医療行為を装って敢行された殺人,同未遂事件としては,前代未聞の重大極まりない凶悪事犯である。
犯行態様は,非医療従事者はもちろん,医療従事者であっても容易に思いつかないような周到,巧妙な手段が講じられており,中には,患者の急変時には自らが在院しないで済む工作をしたり,他の看護婦が点滴の調合や施行をせざるを得ないようにし向けたりして,自らに嫌疑が掛かりにくい状況を作り出して実行しているもものもあり,甚だ悪質といわざるを得ない。そして,たまたま被告人が同様の犯行を重ねたため,さすがに疑問を感じたP20夫妻や市立病院医師らの調査,検討及びその後の捜査機関の捜査の積み重ねから,ようやく一連の事件が発覚したものの,事件が単発で終わっていれば,そのまま発覚を免れていた公算が非常に高く,社会的な危険性という意味でも,極めて憂慮すべき類型の犯罪といわなければならない。
そして,上記のような本件犯行の結果の深刻さもまたこの上ないものがある。
すなわち,まず,本件死亡被害者であるP07は,身体は不自由であるものの,他人との会話等は普通にでき,被害者なりに平穏な余生を楽しもうとしていた矢先,突如として,むしろ親しく言葉を掛けるなどして,他の看護職員以上に信頼を寄せていた被告人から,予想もしない凶行の対象とされ,極度の無念さと苦しみのうちにその生涯を閉じざるを得なかったものであり,その孫に当たる遺族が被害者の無念さ,悔しさを代弁すべく,意見陳述において,その気持ちを吐露し,被告人に対する極刑を求めている。
また,被害者P04は,当時小学6年生で,その未来は無限に広がっていたはずであるのに,やはり,誠に理不尽にも,被告人の凶行の的となり,突然に襲ってきた身体の変調の中でもがき苦しみ,かつ,恐らくは絶望をも感じながら,ついに,否応なく脳に重度の障害を負わされ,前途にあった全生活を一挙���奪われ,自らは何もできず,絶えず完全かつ細心の注意を払った介護が必要な状況に陥れられたのである。その両親及び妹においても,両親は被害者の成長に目を細めつつ,妹は被害者と仲良く遊び,語り,助け合いつつ,幸福な生活を過ごしてきたものであり,将来に向かっても,共に過ごす家庭生活を今まで以上に楽しみにしていたところ,その思いをみじんにうち砕かれ,従前の生活も一変させられ,失意の中で,並大抵ではない介護の労苦を背負わされ,あるいは,元気な姿の姉を奪われた喪失感,無力感にさいなまれ続けている。両親は,本件当初から消えることのない愕然たる思いとやり場のない怒り,悲しみに耐える中,共に証人として出廷し,被害者への思いや家族のみじめな状況等を絞り出すようにして,切々と訴えた上で,それぞれ,被告人に対する極刑を切望している。
さらに,幼児の被害者2名(P03及びP05)は,いずれも,自身,容体を急変させられた際,正に幼くして命を奪われようとするこの上ない人生の危機に陥れられた上,それぞれ多大の苦痛を被ったものと推測され,また,それぞれの両親においても,もちろん,重症な状態にあったわけではなく,よもやこのような急変が起こるとは夢にも思わない状況下で,突如として我が子の容体が急変し,その命が瞬く間に死と隣り合わせの状態となったことから,驚愕と混乱の極に達し,そこから回復が見られるまでの非常に長く感じられたであろう時間帯を,ただひたすら我が子の回復を祈りつつ,焦燥,憂慮の中で過ごさざるを得なかったのである。被告人の凶行に掛かったばかりに,このような極限状態に追い込まれたそれぞれの両親は,いずれも被告人を極刑に処するよう求めるなど,峻烈な感情を表している。
そして,外来で点滴治療を受ける中で,容体を急変させられた被害者P08においても,同様に,ごくありふれた病状で受診したところ,被告人の凶行を受けた結果,突如,次々と身体の異常を生じさせられ,呼吸が苦しくなる中,必死で対応し,ようやく看護婦の助けを求め得たため,死の危険を脱したものであって,その間の苦悩や恐怖感は甚だしいものがあったと認められ,そのため,やはり,同被害者も,被告人に対する厳正な処罰を求めている。
このように,各被害者若しくはその遺族,家族等は,こぞって被告人に対する峻烈な処罰感情を明らかにしているが,そのそれぞれの置かれた状況,実際の影響の深刻さ,それが患者として特に信頼を寄せていた,また,これに自己の身体の安全を委ねざるを得なかった病院勤務の准看護士たる被告人の凶行によってもたらされたことなどにかんがみ,このような処罰感情を抱くことは,当然過ぎる事柄といってよい。
そのほか,北陵クリニックの一医療従事者であった被告人がその院内で患者に対し,次々と以上の凶行を繰り返した,言わば,ある意味では当然の帰結として,同病院自体,医療機関としての多くの信頼を失い,結局,経営が破たんし,経営の中核にいたP20夫妻に甚大な影響と損失をもたらし,同病院の多数の職員等に対しても,転職を余儀なくさせるなど多大な社会生活上の影響を与えており,これらの点も,犯行の結果に関連する事情として,無視することができない。
以上の重大な罪を犯したことに対し,被告人は,反省,悔悟の表出がないばかりか,かえって,当公判廷において,多岐にわたる不合理な弁解を重ねており,これが被害者等の被害感情をいたずらに増幅させていることは明らかというべく、また,いかにも,P20夫妻や同僚看護婦等多数の関係者の方に非や虚偽があるような供述を繰り返したものであって,この点が,別途各関係人に与えた精神的苦痛や社会生活上の影響も計り知れない。
加えて,前示のとおり,本件が医療機関内において,医療行為を装って敢行された極めて特異な犯罪であることからして,一般人の医療従事者に対する信頼を揺るがし,医療行為に対する不安感を醸成した悪影響も看過し難い。
なお,本件犯行の動機は,前示のとおり,一部を除き確定し難いけれども,少なくとも,本件のような大それた犯罪を敢行することについて,いささかなりとも同情の余地を生むような事情は全く見当たらず,しかも,そもそも,本件各被害者は,いずれも医療機関に診療を求めたごく普通の患者であって,当該病院内の事情とは一切無縁の人々なのであるから,各被害者との関係において,酌むべき事情が考えられないのは明白である。
このように見てくると,被告人に有利に解すべき事情としては,せいぜい,被告人に前科前歴がないことが挙げられるにとどまり,仮に,被告人において十分な反省悔悟の情を表したとしても,その責任の重さは,有期の懲役刑では賄えないほどのものとも言い得るところ,被告人は実際には,前示のとおり,かえって被害感情を増幅させ,多数の関係人に深刻な打撃,影響を及ぼしており,この点からして,極刑をも視野に入れた検討を必要とするほどの状況があるといえる。
しかし,結局,極刑の選択自体は,極めて慎重であるべく,反面,無期懲役刑で処断すべき罪責に大きな幅が存することは否定し難く,以上に触れたほか,諸般の情状を総合勘案の上,被告人に対しては,主文掲記のとおり無期懲役刑を科し,生涯をもって長くそのしょく罪の道を歩ませるのが相当であるとの結論に達した。
よって,主文のとおり判決する。
(求刑 無期懲役)
平成16年3月30日
仙台地方裁判所第1刑事部
裁判長裁判官 畑中英明 裁判官 佐々木直人 裁判官 阿閉正則
別紙 クリニック1階見取図