令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
大学受験体験記
1回目の受験(1986年、東大理科一類単願)
高校2年の3学期、親しい友人が予備校の単科講座を受講したと耳にした。それまで全く受験と言うものを考えていなかった私には青天の霹靂。いろいろ資料を取り揃えて検討して、代々木ゼミナール(代ゼミ)の春期講習に通うことにした。ただし理系でありながら受講講座は「土屋の古文」。講座の売りは授業前のヨタ話であったが、授業内容は正統派であった。もともと古文や英語を苦手とする私に、正統派の古文授業は豚に真珠で、1年間を通して受講したものの得るものは少なかった。
模擬試験は代ゼミを中心に多数受けたが、ほとんどの模擬試験で最低ランクの判定を取った。唯一の例外が駿台の秋の東大実戦で、理科一類がB判定であった。しかしその後も河合塾・代ゼミで最低ランクを連取した。自分としても浪人は当然と考えていたので受験は東大理科一類のみの記念受験。ところがこれが予想に反して合格。成績は合格ラインぎりぎりに近かったのではないかと思う。
1回目の大学生活
1回目の大学生活は怠惰なものであった。勉強は全くせず、フランス語の試験には英語で解答したが、その英語すら怪しいものであった。教養課程の成績順に専攻学科を選ぶという進学振り分けでは、当時はさほどには人気が高くなかった建築学科に内定したものの、細かい製図に嫌気が差して自主的に内定を取消し留年した。再度進学振り分けに臨むも点数不足で希望学科に進めずまた留年。3度目の進学振り分けでようやく理学部地学科地理学課程に進学した。地理学課程に進んでからは少しは大学に行くようになったが、同時に予備校講師業に割く時間も増加した。卒業論文で「韓国の観光産業」を研究することとなり、韓国に渡り韓国の大学に附設された10週間の語学研修コースに入った。ここで6年ぶりに猛勉強し、論文の方は疎かになり卒業では苦労したが、基礎を磨いた韓国語が後の2回目の大学受験で決定的な役割を果たすことになる。大学は1992年に卒業した。
2回目の受験(1995年、東大理科三類前期単願)
1回目の大学卒業後、旅行会社に入社したが馴染めずに9ヶ月で退社、翌年は東京外大朝鮮語科の大学院を目指し、その前段階として外語大に研究生として在籍したもののこれも馴染めず断念。会社員時代の中断を挟んで予備校講師を続けてはいたが、将来的な不安を感じて賭けに出た。すなわち医学部受験である。
受験勉強は1年間の外語大研究生を修了した3月に始めた。研究生在籍中に大学生協の旅行フェアの抽選で獲得したパリ往復航空券で、1ヶ月間のフランスに語学研修に出かけた。その抽選会はパリ往復航空券が懸けられているわりには参加者が少なく、倍率は100倍前後と当選確率が高かった。その特典を活かして研究生終了後の春に語学研修にでかけ、その語学研修中に再受験を決意したのである。
一度東大を出ていることや持ち前のブランド志向もあり、東大理科三類を狙うことにした。当時、入試の外国語問題の一部(全体の約4割)を韓国語で受験でき、また残りの6割にしても、例年英語に比べてドイツ語・フランス語で格段に簡単な問題を出す東大が、自分にとっては最も入りやすいと思われたこともある。当時まだ面接が課されないことも気安かった。
5月の駿台全国模試と8月の東大実戦では、東大理科三類はA判定。他の模試は仕事の関係で全科目を受けられないなどでA判定は一度も出なかった。しかし受験科目でない英語で臨んだ東大実戦でA判定が出たことから、英語の代わりにフランス語・韓国語で受験できる本試験での合格可能性は更に高いだろうと考えた。センター試験では711/800と9割を切ったが、東大理三前期のみ単願で受験し合格。自己採点では外国語110/120(フランス語62/72、韓国語48/48)、現代文20/40、古文10/20、漢文20/20、数学115/120(尤もその年の数学は簡単だった)、物理52/60、化学52/60で、トータル380点くらいで相当な高得点であったと考えられた。
科目別状況
韓国語
1回目の大学入学後になんとなくはじめたが長続きせず、正式に始めたのは1回目の大学4年生で、韓国語学研修の出発前からになる。現地の語学研修では読解・作文・会話が満遍なく教えられ、「自分が日本語以外の言葉を話す」ことが快感になっていった。日本で行われている読解中心の外国語教育が、いかにバランスが悪く無駄な労力になっているかを痛感した。韓国語は再受験1年前の時点ですでにニュースの聴取程度はほぼ問題が無く、よほどのことがなければ満点が取れると確信していた。シェイプアップの目的で週1回韓国語講座に通い、韓国の日刊新聞を購読した。
フランス語
再受験の1年3ヶ月前に始めた。再受験前年の3月に1ヶ月間フランス語学研修をし、日本に戻ってからは御茶ノ水にあるアテネフランセというフランス語学校で、平日日中の会話クラスで奥様たちに混じって会話中心の練習をした。読解のスピードを上げるためには会話練習は必須と考えたからである。また夏・冬・直前には、今はなき代ゼミの受験フランス語講座を受講した。代ゼミの講座では過去の受験問題中心の学習だったが、それ以外の場では主としてフランスで制作された外国人向けのフランス語教科書を使用した。もともと受験フランス語の参考書が少なく、良い教科書を探すとフランスで出版されている外国人向けのものにせざるを得ないという事情もあった。辞書は、逆引き辞典としては全ての言語を通じて当時最高峰といっても過言でなかったプチ・ロワイヤル和仏辞典をはじめ、プチ・ロワイヤル仏和辞典、クラウン仏和辞典、韓仏辞典、英仏辞典などを使った。特に韓仏辞典は一度に2ヶ国語の練習が出来るため重宝した。大学入学後にフランス語検定2級まで合格したが、今となってはフランス語会話は錆び付いてしまっている。
フランス語も韓国語も英語もすべてそうだが、受験勉強だけでは話す・聴くの勉強がおろそかになり語学全体の底上げ効率が悪いので、最低限の補完として電車の中では常にテープ(あるいはCD)を聴いてリスニングの練習をした。
英語
万が一フランス語の勉強が思い通りにならなかなかった場合の保険として、一応は英語もやっておいた。フランス語と単語・文法に共通事項も多く、さほど困難ではなかった。センター試験本番ではフランス語を解いたが、家に帰って英語を解いたら英語の方が高得点でほぞを噛んだ。
国語
現代文は現役時代も再受験時代も弱点科目だった。田村の現代文講義・出口の現代文など読んで、ある程度出来るようになった気になっていたが、実際にはダメだった。ただし、200字作文問題は、歳の功がモノ言って悪くない文が書けたと思う。
漢文は国語というよりむしろ外国語として勉強できるため、文法中心に力を入れて満点を目指した。代ゼミの中野の漢文で勉強して入試はさほど難しくなく、二次試験では満点を得た(と思う)。
数学
もともとの得意科目である。家庭教師・予備校でも教え続けていたため大きな困難はなく、模試での偏差値はほぼ75以上であった。しかし、入試数ヶ月前から始めたZ会では、偏差値50前後と振るわなかった。制限時間を守って解いたことが原因と自己弁護したが、あまり気分のいいものではなかった。
物理
これも他に比べると得意科目と言って良く、模試での偏差値も75以上が常だった。Z会の「物理問題集」を繰り返した。
化学
数学・物理に比べると記憶事項が多く、注意を要した。4月からまず数研出版の「4STEP」を潰した。昔の受験時代にも使った懐かしの「化学のドレミファ」の有機化学編、大西の化学を潰し、最後にはやはりZ会の「化学問題集」を繰り返した。