令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
八戸縫合糸訴訟一審判決文
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青森地方裁判所八戸支部平成14年(ワ)第51号
原告 X
同訴訟代理人弁護士 小野寺信一
被告 八戸市
同訴訟代理人弁護士 水澤亜紀子
主文
1 被告は,原告に対し,330万円及びこれに対する平成11年4月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用はこれを100分し,その5を被告の負担とし,その余は原告の負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
(主位的請求)
(1)被告は,原告に対し,7063万2307円及びこれに対する平成11年4月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2)訴訟費用は被告の負担とする。
(3)仮執行宣言
(予備的請求)
(1)被告は,原告に対し,2000万円及びこれに対する平成11年4月15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2)訴訟費用は被告の負担とする。
(3)仮執行宣言
2 被告
(1)原告の請求をいずれも棄却する。
(2)訴訟費用は原告の負担とする。
(3)仮執行免脱宣言
第2 事案の概要
本件は,左膝下(左膝窩部)を負傷して被告の経営する病院に入院したものの,負傷部位にガス壊疽(嫌気性細菌による感染症で,ガス発生を伴い,極めて速やかな進行により,筋肉の壊死や全身状態の悪化を招く疾病)が発症して,入院5日日には左大腿切断術を受け,1下肢を膝関節以上で失うという後遺障害を負った原告が,被告に対し,主位的には,かかるガス壊疽の発症もしくは断肢に至る程の重篤化を招いたのは,担当医に後記の注意義務違反行為があったためであると主張して,不法行為(民法715条の使用者責任)又は医療契約上の債務不履行責任に基づく損害賠償及び断肢の日の翌日から支払済みまでの遅延損害金の支払を請求すると共に,予備的には,原告が医療水準にかなった治療行為を受けていたならば,上記重大な後遺障害が残らなかった相当程度の可能性を認めることができ,医療水準にかなった治療行為を受けられなかったことによって原告が被った精神的苦痛に対する慰謝料の支払義務があると主張して,いわゆる期待権侵害を理由とする損害賠償を請求したという事案である。
原告が主張する注意義務違反行為は,担当医による,(1)創の洗浄及びデブリードマン(挫滅組織の除去)の不十分さ,(2)デブリードマンの際における観察不足による膝窩動脈損傷の見落とし,(3)膝窩動脈縫合術の際における不適切な太さの縫合糸の使用,(4)膝窩動脈縫合術後の経過観察不足による血栓を原因とする血行障害の見落とし,の4点であり,本件争点は,これらの過失の存否に加えて,(5)上記(1)ないし(4)の各注意義務違反行為と,ガス壊疽発症ないし重篤化による左大腿切断術との因果関係の存否,(6)原告の被った損害の額,(7)いわゆる期待権侵害による損害賠償請求の可否及びその賠償額である。
1 前提事実(証拠の引用のないものは当事者間に争いがない)
(1)当事者
ア 原告は,昭和19年X月X日生まれの男性であり,家業の農家を営みつつ,タクシー運転手として稼働していたが,左大腿切除後は農作業ができなくなり,タクシー会社で配車の仕事をしていたものの,平成14年12月に退職した(甲9,原告本人)。
イ 被告は,八戸市立市民病院(以下「被告病院」という。)を経営する地方公共団体である。
ウ A医師は,被告病院の外科医であり,B医師(科長),C医師(医長),D医師,E医師及びF医師は,いずれも被告病院の整形外科医である(以下,医師名は姓で表す。)。
(2)負傷事故の発生
原告は,平成11年4月9日午前10時30分ころ(乙1)(なお,以下,日付のみの記載は平成11年4月の日付を表す。),農耕ロータリー機に左足を巻き込まれ,その刃が左足膝窩部(左足すねの中心部辺り)に突き刺さるという負傷事故を起こした。
(3)被告病院における診療経過(詳細は,別紙 「事実経過に関する主張一覧表」の「当事者間に争いのない事実」欄記載のとおり) ア 原告は,救急車で被告病院に搬入され,救命救急センター初療室において,9日午前11時20分ころ診察を受け,被告との間で,原告の左足の外傷の診断と治療を内容とする医療契約を締結した。
被告病院の担当医(以下「担当医」という。)のA医師は,同室において,創部を消毒した後,創部付近に1パーセント・キシロカイン10ミリリットルを注射して局所麻酔を行い,生理食塩水1500ミリリットルを創部にかけながらブラシを用いて創部の洗浄を行った。同医師は,創部を確認する際,駆血帯[患部より中枢側(心臓に近い側)に帯のようなものを巻き,これを膨らませて圧迫することによって,出血を止める道具]は使用しなかった。
原告は,同日午後0時40分ころ,手術室に搬送され,同日午後1時,担当医(E医師)が,創部を消毒した後,局所麻酔を行い,抗生剤(パニマイシン)入りの生理食塩水1500ミリリットルを創部にかけながら,ブラシを用いて創部を再度洗浄した上,挫滅,汚染した皮膚や脂肪組織,筋膜に対して,創縁から2ないし3ミリメートルの正常部分で鋭的に切離するというデブリードマンを行い,創部の縫合を行って,午後1時50分ころには手術を終えた。その間,同医師は,動脈の損傷はないと診断したが,膝窩静脈が分岐した枝静脈から、出血が見られたため,電気メスで焼却止血した。同医師も,創部確認の際,駆血帯は使用しなかった。
原告は,手術後,被告病院の致命救急センター病棟に入院した。
イ 原告は,10日午後4時過ぎころ,左膝窩部の縫合部から動脈性の出血を起こし,担当医(E医師)は,緊急手術として膝窩動脈縫合術を行うこととした。同医師は,原告とその妻に対し,左下腿コンパートメント症候群[骨や筋膜等で囲まれた部分(コンパートメント)内の内圧が上昇して,内部にある筋肉や神経が機能喪失もしくは壊死を来す疾病,乙17]のため,左下腿筋膜切開術(以下「筋膜切開術」という。)を行う旨説明して同意を得て[乙2(63頁)],午後6時25分ころ,膝窩動脈縫合術及び左下腿筋膜切開術を行った。同医師は,膝窩動脈縫合術において,太さ4−0(糸の直径が0,15ミメートルから0.199ミリメートルのもの・鑑定書添付資料(6)38頁)のナイロン糸を使用した。
同医師は,膝窩動脈縫合術については左膝窩部の創部を縫合し,筋膜切開術については左下腿前面の手術創を開放したまま,午後7時27分ころ,手術を終了した。
ウ 11日中は,原告の左下肢に,その原因,程度はともかくとして,血行障害が生じていた。
エ 原告は,遅くとも12日午前中までにガス壊疽を発症すると共に,その膝窩動脈に血栓形成による血行障害が生じていた。同日,行われた血流ドップラー検査では,足背動脈(膝窩動脈の末梢にあたる足の甲部分にある動脈)の血流途絶が確認され,午後3時ころ,実施された血管造影検査において,血栓によると見られる膝窩動脈の膝関節上部での血管閉塞が認められたため,緊急に血行再建術を行うことが必要となり,午後6時55分から午後9時45分まで,B医師らにより,緊急手術として左膝窩動脈血栓除去術(以下「血栓除去術」という。)が行われた。
オ 13日午前,異臭が生じ,足背動脈の触知ができず,足が貧血様の色調を呈していたため,午前9時30分ころ,高圧酸素療法(患者に,高気圧を保った装置内で,通常,1回2時間位の間,高濃度の酸素吸入を行わせることを,1日2,3回の割合で複数回練り返す治療法,乙15,21,22,31,32の1ないし3)が行われた。
しかし,ガス壊疽の発症により,左下腿が壊死状態にあり,切断を行わないと生命に影響を及ぼす可能性が高かったため,左下腿を切断せざるを得なくなり,14日,原告らの承諾の下,左大腿切断術が行われた[甲1,乙2(67頁)]。
(4)コンパートメント症候群と治療法等(乙17,29,45,46の1・2,鑑定書添付資料(1)590頁)
ア コンパートメント症候群とは,骨や筋膜等で囲まれた部分(コンパートメント)内の内圧が上昇して,内部にある筋肉や神経が機能喪失もしくは壊死を来す疾病であり,その原因としては,外傷性の筋肉内出血,浮腫,外的圧迫や絞拒,例えば,ギプス包帯や圧迫包帯,特別なスポーツによる障害などである。
イ 病態は,コンパートメントの内圧が上昇したために,動脈の攣縮を来して動脈血流が減少し,組織の血行障害を招いて筋肉と神経の壊死を生じる。きらに,内圧の上昇は静脈圧の増大を招き,循環障害を助長し,阻血による毛細血管の透過性亢進,血管外への浸出液漏出も加わって,コンパートメント内圧はさらに上昇するという悪循環となる。
ウ 初発症状としては,局所の著しい疼痛がもっとも多く,特に障害されている筋肉を他動的に伸展させると増強する。コンパートメントを中心として患肢の腫脹,時に水疱形成を認める。当該神経領域の知覚障害も有用な症状で,筋麻痺が出現するとかなり病勢が進行していることを意味する。脈拍は必ずしも減弱したり消失するとは限らない。
エ 診断方法としては,病歴と臨床症状に加えて,コンパートメント内圧測定,筋電図,CT,MRIなどが有用である。
オ 治療は,数時間の経過を見て改善しないときは,筋膜切開によってコンパートメント内圧の除去を行うことである。当該コンパートメントの一壁を構成する筋肉の表面皮膚から筋膜までを切開し,開放した状態にすれば,コンパートメント内の圧が逃げるため,内部の圧が低減し,血行が改善する。
(5)ガス壊疽発生のメカニズムと治療法等(甲2ないし5,乙15,17,21,22,30,44の1・2)
ア ガス壊疽とは,ガス産生菌の感染による特異的嫌気性感染症で,筋肉の壊死を起こす感染性疾患の総称であり,原因菌の多くは,嫌気性グラム陽性桿菌のクロストリジウムである。原告のガス壊疽の原因菌も,左大腿切除術施行後となる16日の時点で,クロストリジウム・ペルフリンゲンスであったことが判明した[乙2(14頁)]。
クロストリジウムは土壌中に存在するため,ガス壊疽は,泥土で汚染した創(筋の挫滅を伴う汚染創)等の外傷に発生することが多い(甲2,乙15,21等)。ただし,クロストリジウムは,正常な人体の器官(下部消化管,呼吸器,尿路)中にも存在するといわれている。また,創面においてガス壊疽菌が存在することが,必ずしも発症につながるとは限らない(乙15)。
ガス壊疽の原因菌は,嫌気性であるため,菌が残存する局所に酸素の供給が滞ると増殖しやすい。局所の血行障害は,局所の酸素低下を招くと同時に,細菌に対する抗生剤の局所到達を阻害するという点で,ガス壊疽原因菌の増殖・感染に好適な環境を形成するものとなる。血管損傷やコンパートメント症候群等による血行障害も,ガス壊疽発症の原因となり得る(乙21)。
ガス壊疽の潜伏期間は,一般に受傷・術後8時間から2週間以上とされているものの(甲4),原因菌によって臨床症状に差異があり,原告の原因菌であるクロストリジウム・ペルフリンゲンスについては,受傷から発症まで通常18時間ないし24時間程度とされるデータがある[乙15(242頁表)]。
イ 一旦ガス壊疽が発症すると,局所症状としては,患部の激痛,腫脹,浮腫に始まり,さらに進行すると,皮膚面の水泡化や皮膚・筋肉の変色,漿液血性の悪臭を伴う排液などが認められ,触診における捻髪音,握雪感が特徴的とされ,皮膚,皮下組織,筋膜,筋肉にガス貯留と壊死とを突発的に引き起こし,特にクロストリジウム性のガス壊疽の場合の進行は極めて早く,全身症状の悪化を伴い,死亡率も高く,救命のために四肢の切断を余儀なくされることも多い。
ウ ガス壊疽の予防としては,速やかに創の広範な洗浄を行い,壊死した組織を十分にデブリードマンすることが最も重要である(乙15)。また,クロストリジウム性のガス壊疽の治療法としては,感染壊死組織の広範囲の切除,創の開放,抗生物質の投与,高圧酸素療法があるが,これらの療法が功を奏さない場合には,救命のため患部を切断する必要がある(甲5,乙15,22等)。
2 争点に関する当事者の主張(事実経過に関する当事者の主張は,別紙「事実経過に関する主張一覧表」の「原告の主張」欄及び「被告の主張」欄のとおり)
(1)腰椎麻酔又は全身麻酔を選択した上,十分な洗浄,デブリードマンを行うべき注意義務に違反したか否か
(当事者間に争いのない担当医の一般的注意義務)
原告の受傷は,農耕ロータリー機の刃が左足膝窩部に突き刺さったことで形成されたものであるから,汚染創と見るべきであり,創の処置に当たっては,ガス壊疽の原因菌を始めとする細菌の感染を予防するため,受傷後のいわゆるゴールデンタイム(受傷後,6ないし8時間以内の,細菌の増殖と侵入がいまだ開始されていない時間帯・甲22の2,乙15ないし17)内に,創の十分な洗浄とデブリードマンを行う必要があった。
(原告の主張)
洗浄を十分に行うためには,損傷部を無痛野とするために十分な麻酔が必要であり,そのためには,局所麻酔でなく,腰椎麻酔又は全身麻酔を選択する必要があった。また,局所麻酔は,損傷箇所への不必要な侵襲を加えることになるほか,創表面に限局されている汚染を組織内深部に追い込み,局所の浮腫をも増強するため,開放創の処置には禁忌であり,本件のように創が皮下組織より深部に達している症例では特に行うべきでなかった。しかしながら,担当医は,9日の診察室における洗浄とデブリードマン(A医師)及びその後の手術室での洗浄とデブリードマン(E医師)においても,腰椎麻酔又は全身麻酔を選択せず,1パーセントのキシロカインで局所麻酔を行った。しかも,使用した生理食塩水は,診療室でも手術室でもいずれも1500ミリリットルと少量であり,泥土で汚染された開放創の洗浄として不十分であった。結局,担当医らは,創の洗浄及びデブリードマンを十分に行わないという過失を犯し,ガス壊疽の原因菌の感染予防に足りるだけの細菌数減少に失敗した。
(被告の主張)
日本の外傷治療に携わる医師の間において,下肢の外傷治療に際して,局所麻酔が禁忌であり,全身麻酔又は腰椎麻酔を用いるべきであるとの一般的認識はなく,局所麻酔の方が侵襲が小さく,一部分の外傷程度であれば局所麻酔による除痛で十分であることなどから,局所麻酔で初期治療を行うのが一般的である。また,局所麻酔は,消毒した創面周囲から局所の皮膚等に麻酔剤を注射するだけの手技であるから,創表面に限局している汚染を組織内深部に追い込むといったことを問題とする必要はない。原告の主張は,手指末梢の外傷には当てはまる見解かもしれないが,他の部分の処置には当てはまらない。
原告に関しては,痛みのために十分な操作・消毒ができなかったなどの事情はなく,局所麻酔で十分な除痛目的を達成することができた。被告病院の担当医(以下「担当医」という。)が行った選択は,医療水準として適切であった。
洗浄については,2回にわたり,生理食塩水合計3000ミリリットルを用いて洗浄及びデブリードマンを行い,しかも,2回目の洗浄は抗生剤(パニマイシン)入りの生理食塩水を用い,創部を深くまで洗浄しており,これらの処置は,医療水準に即したもので,十分かつ適切なものであった。
なお,クロストリジウム・ペルフリンゲンスによるガス壊疽の発症は,通常,受傷後18ないし24時間であるのに,本件においては,ガス壊疽が発症したのは,受傷後3日も経過した後であり,これは十分な創洗浄,デブリードマンが行われた証左である。
(2)デブリードマンに際し,駆血帯を用いて損傷組織の十分な観察をし,膝窩動脈損傷に気付くべき注意義務に違反したか否か
(原告の主張)
原告の,10日午後4時過ぎころの動脈性出血は,受傷時に既に生じていた膝窩動脈損傷からの出血であり,かかる出血が,その後の血栓形成及びそれを理由とする血行障害を引き起こし,ガス壊疽発症及び重篤化の原因となったものである。
担当医は,9日のデブリードマンの際,膝窩動脈損傷を見落とすという過失を犯した。すなわち,本件のような高度挫滅,汚染創のデブリードマンに際しては,駆血帯を使用することで,無血野における損傷組織の有無を確認することが必要であったのに,担当医ら(A医師,E医師)は,いずれも駆血帯を使用せず,損傷組織の有無について十分な確認をしなかったため,膝窩動脈損傷を見逃したものである。
(被告の主張)
9日のデブリードマンの時点で,膝窩動脈の動脈壁に全層損傷は存在しておらず,担当医がこれを見落としたという過失は存在しない。9日のデブリードマンの際,担当医(E医師)は,膝窩動静脈を同定した上,その状態を観察し,損傷や出血がないことを十分確認している。
他方,原告の受傷時に,既に膝窩動脈の不全損傷(内膜損傷などの,血管の外見上は不明な内部の損傷)が生じていて,それが翌10日午後4時過ぎの動脈性出血につながった可能性があることは認めるが,仮に,担当医が,9日のデブリードマンの時点で当該動脈の不全損傷を見逃したのだとしても,そもそも,その段階で不全損傷を発見することは不可能だったから,それは担当医の過失に当たらない。
なお,デブリードマン時に膝窩動脈損傷の有無を確認するに当たって,担当医が駆血帯を使用しなかったのは事実だが,駆血帯は出血が大量で視野が取りにくい場合などに使用されるもので,一般に外傷治療での使用が当然視されるものではない。かえって,長時間の駆血帯使用は,局所の虚血性壊死や血栓発症を誘発する可能性がある。本件では,デブリードマン時に膝窩動脈からの出血が見られず,この時点で足背動脈の拍動が触知できていたのであるから,上記虚血や血栓誘発の原因となる侵襲を加えてまで駆血帯を使用する必要はない。
よって,駆血帯を使用して膝窩動脈損傷の有無を調べなかったことは何ら過失に当たらない。
(3)膝窩動脈縫合術に際し,適切な太さの縫合糸を用いるべき注意義務に違反したか否か
(原告の主張)
10日午後4時過ぎ以降に実施された膝窩動脈縫合術で用いられた縫合糸は,その後の血栓形成及びそれを理由とする血行障害を引き起こし,ガス壊疽発症及び重篤化の原因となったものである。
すなわち,担当医(E医師)は,膝窩動脈縫合術の際,太さ4−0(糸の直径が0.15ミリメートルから0.199ミリメートルのもの・鑑定書添付資料(6)38頁)のナイロン糸を縫合糸として使用したが,それは膝窩動脈の縫合糸としては明らかに太すぎるもので,担当医としては,少なくとも太さ7−0(糸の直径が0.050ミリメートルから0.069ミリメートルのもの・上記鑑定書添付資料)以下,できれば太さ10−0(糸の直径が0.020ミリメートルから0.029ミリメートルのもの・上記鑑定書添付資料)のナイロン糸を使用すべきであった。
太すぎる縫合糸は,それ自体が血管内皮を損傷するおそれがあるし,血管内に露出した縫合糸は血栓形成の原因となる。
担当医(E医師)には,膝窩動脈損傷の縫合を行うに際し,これに適した太さ7−0以下の縫合糸を用いるべき義務を怠り,太い縫合糸である4−0ナイロン糸を使用した過失がある。
(被告の主張)
動脈を縫合する際に用いるべき糸については,血管の径や動脈壁の厚さ,強さなどの具体的事情から経験的・常識的に適切と思われるものを選択するから,一般的にどの血管についてどの太さという決まりはなく,血管縫合糸は,できる限り細いものを使うのがよいというものでもない。原告の主張する太さ10−0の糸は,通常,指動脈の縫合に使用されるものであり,膝窩動脈付近は,下肢であって糸の強度が求められる上,膝窩動脈本幹から分岐した枝部分をつぶして十分に止血する必要があるから,10−0糸ではなく,4−0ナイロン糸を選択した処置は一般的である。
なお,本件において,血栓が形成された部位は,縫合部から5センチメートルも心臓側に離れており,血管縫合の手技の不手際が血栓形成の原因とはいえない。
(4)膝窩動脈縫合術後,常時注意深い観察を行い,血栓を原因とする血行障害に気付くべき注意義務に違反したか否か
(原告の主張)
原告の下肢に,11日から12日にかけて続いていた血行障害は,血栓形成によるものであり,当該血行障害がガス壊疽発症及び重篤化の原因となったものである。原告には,11日の時点で既に血栓形成による血行障害を疑うべき症状がそろっていたのに,担当医(E医師)は,その徴候を見落とし,血行障害の有無及び程度を調査する血流ドップラー検査及び血管造影検査を行わず,早期の血栓発見と血栓除去の機会を失わせた過失がある。すなわち,膝窩動脈縫合術後は,血栓形成による動脈塞栓のおそれがないか常時注意深い観察が必要であり,それが少しでも疑われるときは迅速な対応(血栓除去)が必要である。原告には,11日の時点で,血栓による血行障害を疑うべき症状として,(1)同日から翌12日の朝にかけて,鎮痛剤により一時的に緩和されたときを除き,我慢できないほどの痛みが続いていたこと,(2)上記期間にかけて左足背動脈及び後脛骨動脈の拍動が消失していたこと,(3)11日に下肢の皮膚色が蒼白に変わっており,知覚異常が発生していたこと,(4)左足の背屈ができず,運動麻痺の症状が出ていたこと,(5)冷感があったことなどが見られた。このように血行障害が起き,足の症状に重大な変化が現れていたのであるから,担当医(E医師)は,血行障害の有無と程度を調べる必要があったのであり,11日午前中には血流ドップラー検査を実施するべきであった。そして,同日の朝に血流ドップラー検査を実施すれば,左足背動脈血流の途絶が分かった可能性が高く,その場合には,さらに血管造影検査を実施し,血栓の発見,除去まで進んだ可能性が高い。
担当医(E医師)は,ガス壊疽発症の危険性の認識を欠き,11日中に上司であるC医師と相談することも怠ったために,上記血栓による血行障害の徴候を見逃した。その結果,担当医は,左足の挙上とプロスタンディン(動脈拡張剤)の投与によって血行は改善されると軽く考え,血流ドップラー検査や血管造影検査を怠り,12日朝まで血行障害を放置した。
なお,担当医は,何も考えずに様子を見てしまったのであって,被告が主張するようにコンパートメント症候群を疑ったのではない。
(被告の主張)
原告の下肢に,11日に血行障害が生じていたことは認めるが,その原因は,血栓形成によるものではなく,左下腿に発症したコンパートメント症候群によるものであり,担当医(E医師)は,直ちにこれに対する適切な治療を行った上,治療の効果を確認するため経過観察を行い,現に11日夕方から夜間にかけては,一旦血行障害も改善していたのであるから,血行障害の対処法について,担当医に過失はない。
すなわち,担当医は,10日夕方ころ,原告の左下腿にコンパートメント症候群が発生したことから,同日,直ちに下腿の減圧切開術を行うと共に,コンパートメント内圧亢進の大きな要因であったと思われる膝窩動脈の出血に関しては止血手術を行った。11日に血行障害が見られたのは,事実だが,その程度は,一般的に多くの外傷後に見られるようなものであり,基本的には,10日の時点で,下腿の腫脹(コンパートメント症候群及び受傷による浮腫)とそれに伴う局所循環不全による血行障害が見られていたのと同一の状態であった。そこで,担当医は,11日に,組織の動脈血流を改善するためにプロスタンディン(動脈拡張剤)を投与し,厳重に経過観察をしていたところ,同日昼ころには,しびれはなく,足の動きにも異常はなく,そして,同日夕方ころから夜間にかけては,冷感が消失し,運動障害はなく,足の動きにも異常はなく,皮膚色も良好となり,血行障害が改善した徴候が見られた。そこで,担当医は,コンパートメント症候群に対する減張切開と血管拡張剤の効果が現れてきたことが確認されたので,今後もこのままその効果が期待できると考え,経過観察を続行することにしたものである。
担当医(E医師)が,11日の血行障害に気付いていながら,その時点で血流ドップラー検査も血管造影検査も行わなかったのは事実である。すなわち,担当医が,11日早朝に診察したところ,原告には,「左足趾背屈の筋力低下,腓骨神経の知覚低下,左足趾・足背の強い浮腫,左足趾の動脈の酸素飽和度については測定器が反応しない,足背動脈・後脛骨動脈の触知不可」といった所見が見られた。しかし,これらはコンパートメント症候群による症状として矛盾しないものである。一方,膝窩動脈の閉塞又は強い狭窄による血行障害による症状ならば通常生じるような,耐え難い激烈な疼痛もなかったし,皮膚の強い色調変化や強い冷感も見られなかったのだから,この時点で動脈閉塞又は強い狭窄による血行障害ではないと判断したのは,適切であった。
また,酸素飽和度測定器は,局所の浮腫が強い場合には構造的に動脈血流が測定できないものであり,血流ドップラー装置もまた酸素飽和度測定器と同様高度の浮腫のときには反応を期待することができず,強い診断意義を持たない。そのため,この段階で血流ドップラー検査をしなかったことは,何ら不適切な判断ではない。
さらに,血管造影検査は,それ自体が,動脈損傷,血管内膜損傷による血栓形成,動脈閉塞の危険性,造影剤によるショック等の危険性のある検査であり,重度の循環障害が疑われ,かつ,血栓等が原因として疑われる場合に行うべき検査である。コンパートメント症候群の際は,局所の循環不全があったとしても一時的なもので,そもそも,組織圧のため血液の流れが悪いために生じるものであるから,同日の時点で血管造影検査をする意味はなく,仮に,同日にこれを行っていても,何ら有意な情報は得られなかった。現に,本件では,11日の時点で,プロスタンディン等の保存的治療により血行障害の改善が見られていたのだから,血管造影の適応はなかったものである。
なお,11日の時点で,強い症状が出ない程度の血栓が形成されつつあった可能性が否定できないことは認めるが,その段階で強度の血流障害を生じるような血栓が形成されていたことはない。11日の時点で,かかる血栓が生じていれば,11日夕方から夜間にかけて血行障害が改善されたはずがないし,動脈閉塞の徴候である突発性激痛,運動麻痺,チアノーゼ,筋硬直,分界線形成,水疱,黒色変性などが11日中に生じていたはずだが,そのような徴候は見られていない。
以上の経緯に照らせば,結果的に12日午前中の時点で血栓形成による血流途絶が生じていたのだとしても,かかる血栓が形成された時期は,11日夜以降のことである。
(5)上記(1)ないし(4)の各注意義務違反行為とガス壊疽による左大腿切断術施行との間の因果関係の存否
(原告の主張)
担当医が,上記(1)の注意義務を尽くし,初診の段階で創傷の十分な洗浄とデブリードマンを行い,ガス壊疽の原因菌を十分に減少させていれば,ガス壊疽の発症を未然に防止することができた。
また,上記(2),(3)の注意義務を尽くして,9日の時点で膝窩動脈損傷に気付き,あるいは10日の膝窩動脈縫合術の際に適切な太さの縫合糸を選択していれば,これらを原因とする膝窩動脈の血栓形成とそれに伴う血行障害を未然に防止することができたはずだし,仮に,血栓が形成されたにしても,上記(4)の注意義務を尽くして11日午前の時点で当該血栓を発見していれば,その時点で,血栓を除去し,その後の血行障害を未然に防止することができた。とすれば,血行障害に伴うガス壊疽原因菌の増殖と,ガス壊疽の発症もまた未然に防止することができたはずであるし,少なくとも,ガス壊疽の重篤化を防ぐことができ,結果としてガス壊疽発症による断肢を防ぎ得たことについては,高度の蓋然性があるということができる。
仮に,上記各過失とガス壊疽発症もしくは重篤化に伴う断肢との問に,高度の蓋然性が認められないとしても,その因果関係は割合的に認定すべきであり,その場合における断肢回避の可能性(過失の起因力)は,6割を下らない。
(被告の主張)
担当医の処置とガス壊疽発症及び断肢との間には,因果関係はない。
初診時の洗浄及びデブリードマンは,どれだけ十分にやっても細菌を完全に除去することはできないものであり,細菌を十分に減少させても細菌増殖に好適な環境,すなわち血行障害や組織の壊死等が形成されれば,その数は増殖し,感染することはある。
そして,ガス壊疽は,通常,血栓症の発症なくして生じるものである。原告の11日の血行障害は,血栓によるものではないが,仮に,血栓による血行障害が生じていたのだとしても,原告には,コンパートメント症候群等その他の要因による血行障害や患肢部分の抵抗力不足なども生じていたのであるから,これらの要因によってガス壊疽が発症していた可能性は十分あるし,血栓形成による血行障害は,ガス壊疽の発症後もしくはガス壊疽発症と平行して,生じたものである可能性が大きい。
また,ガス壊疽は,一旦発症すると入念な治療を行っても高い確率で死亡や断肢の結果を生じる重篤な疾患であり,原告が主張するような治療を行ったとしても,断肢を回避できたとはいえない。断肢の結果は,本質的に,受傷自体に由来するものである。
なお,割合的因果関係は,因果関係が肯定された上で損害の公平な負担という観点から双方の調整を図ることを目的する法理であり,因果関係が認められない本件には適用されない。
(6)原告の被った損害の有無及び損害額
(原告の主張)
ア 入院雑費 28万7300円
1日当たり1300円×221日(入院期間平成11年4月9日から同年11月15日まで)=28万7300円
イ 家族の入院付添費 9万0000円
1日当たり6000円×15日=9万円
ウ 入院慰謝料150万0000円
エ 後遺障害逸失利益 4275万5007円
473万1986円(平成10年度の給与収入と農業所得)×92/100(後遺障害4級の労働能力喪失率)×9.821(事故時55歳。就労可能年数13年の新ホフマン係数)=4275万5007円
オ 後遺障害慰謝料2000万0000円
力 小計 6463万2307円
キ 弁護士費用 600万0000円
ク 合計7063万2307円
(被告の主張)
争う。
とりわけ,入院雑費,家族の入院付添費及び入院慰謝料については,原告が自ら受傷して来院したことを全く捨象するものであり,失当である。
(7)いわゆる期待権侵害による損害賠償請求の可否及びその賠償額
(原告の主張)
仮に,担当医の注意義務違反が,ガス壊疽発症もしくは重篤化による断肢を招来したことについて,高度の蓋然性が認められず,かつ因果関係を割合的に認定することもできないとしても,本件は,医療水準にかなった治療行為が行われていれば断肢を回避し得た「相当程度の可能性」があるケースである。
そうすると,予備的に,相当程度の可能性侵害(いわゆる期待権侵害)を理由とする損害賠償が認められるべきであり,その場合の賠償額は,2000万円を下るべきでない。
(被告の主張)
本件では,断肢を回避し得た相当程度の可能性も認められない。
第3 当裁判所の判断
1 被告病院における原告の診療経過について
上記争いのない事実等と,後掲各証拠及び弁論の全趣旨によれば,被告病院における原告の診療経過について,以下の事実を認めることができる。
(1)救命救急センター初療室における処置(乙1,2)
ア 原告は,救急車で被告病院に搬入され,9日午前11時20分ころ,救命救急センター初療室において,外科のA医師の診察を受けた。同医師は,原告から,農耕ロータリー機に左足(膝窩部)を巻き込まれて負傷したとの説明を受け,診察したところ,左膝窩部に約7ないし8センチメートルの切創があったが,動脈性の出血はないと判断した。
イ A医師は,左膝窩部挫創と診断し,創部を消毒液で消毒して創部付近に局所麻酔薬1パーセントのキシロカイン10ミリリットルを注射して,生理食塩水1500ミリリットルを創部にかけながら,ブラシを用いて創部を洗浄するとともに,デブリードマン(挫滅組織の除去)を行った。なお,同医師は,創部を確認する際,駆血帯を使用しなかった。
ウ 当初,足背動脈,後脛骨動脈を触知できず,知覚障害もあった。ただし,足趾の運動は障害されておらず,その後,仰臥位となった際には,足背動脈及び後脛骨動脈を触知でき,膝窩動脈の断裂,途絶がないことが確認された。
(2)1回目の手術(9日のデブリードマン)開始までの状況(乙2,37,E証人)
ア A医師は,整形外科のE医師らに連絡し,十分に洗浄をしたのでそのまま縫合してよいかを尋ねたところ,E医師は,初療室へ出向いて自ら診察し,手術室へ搬送して更にデブリードマンを行うこととした。
イ E医師は,原告らに対し,病状と手術室において麻酔下でデブリードマンを行うこと等を説明し,F医師が原告の妻(Y)から洗浄,縫合術についての承諾を得た。E医師らは,手術に備え,原告の静脈に補液剤で点滴ルートを確保し,採血,心電図,胸部レントゲン等の諸検査を指示した。また,同医師らは,使用が見込まれる抗生剤(パンスポリン等)の皮内テスト(皮膚に少量注射してアレルギーの有無を調べる検査)を行ったところ,いずれも陰性であったことから,パンスポリン1グラムの点滴投与を指示した。
(3)1回目の手術(9日のデブリードマン)(乙2,6,37,E証人)
ア 9日午後0時40分ころ,原告は,手術室に搬送され,手術台の上に乗せられて血圧測定計の設置等の準備が行われ,午後1時,E医師(執刀医)とF医師により,手術が開始された。入室した際の出血は,ガーゼに血液が少量付く程度であり,手術中も特段の出血は見られなかった[乙2(39,40頁)]。
イ E医師は,まず,創部を消毒し,創部周囲を1パーセントキシロカインで局所麻酔した[乙2(40頁)]。
ウ 次に,E医師は,生理食塩水1500ミリリットル(生理食塩水500ミリリットルにアミノグリコシド系抗生剤パニマイシン50ミリグラムを入れたもの3本)を,スポイトで吸い上げて圧をかけて噴射する方法で創部にかけながら,ブラシを用いて創部を洗浄した。洗浄の際,筋鉤という器具やゴムのテープを用いて血管や神経をよけ,その裏側も見た。同医師は,創が足の長軸方向に直交する形であったことから,神経や血管の損傷の有無を確認しながら,創部の皮膚を切開延長して視野を広くした上,ブラシや歯ブラシを用いて洗浄を行い,皮膚の周縁や挫滅した皮下の脂肪,線維等の組織をメスや鋏を用いて切除した(デブリードマン)。同医師は,膝窩静脈が分岐した枝静脈から出血が見られたことから,同部分を電気メスで焼却止血した[乙2(40頁),37,E証言4頁]。
エ さらに,E医師は,術後の浮腫を軽減し,治癒を促し,感染の有無を早期に知るため,ペンローズドレーンを挿入し,また,術後の安静のため,大腿部から下腿にかけて左膝伸展位とした副木(シーネ)を下腿後面に当てて包帯で固定した。同医師は,洗浄の結果を記録するため,インスタントカメラで縫合前の創部を撮影し,直ちに原告に写真を示して,神経血管の損傷がなく,十分に洗浄した旨説明した[乙2(40頁),6,37,E証言5頁]。
オ 同日午後1時40分ころ,E医師は,上記ドレーンを創部に留置し,縫合糸等を用いて創部を一期的に縫合し,午後1時50分ころ,手術を終えた。なお,同医師も,創傷部位確認の際,駆血帯を使用しなかった。
(4)手術(デブリードマン)後の状況(甲10,乙2,9,37,Y証人,E証人)
ア 原告は,手術後,被告病院の救命救急センター病棟に入院した。E医師は,病棟において原告を診察し,足背動脈や後脛骨動脈が触知可能であることを確認し,左足底部に異常知覚を訴えるものの,触覚は正常であること,知覚・運動神経麻痺がないこと,洗浄後に撮影した左膝のレントゲン写真に異物の混入,骨折その他特段の異常が見られないことを確認した。同医師は,看護師に対し,抗生剤パンスポリン1グラムを1日2回点滴注射することを指示し,経口薬としてロキソニン(痛み止め),ダーゼン(はれ止め),アプレース(抗潰瘍薬,ロキソニンの副作用防止)及びメチコバール(血行改善)を処方した。また,同医師は,創痛やガーゼ汚染等の状態を確認するよう指示した。看護師は,その他に,創部浸出液の状態,ドレーン排液の性状(出血感染の有無),チアノーゼ・四肢冷感の有無(血行障害の有無),色調,末梢動脈の触知の有無,感覚異常・運動障害の有無(神経障害の有無)についても確認することになっていたが,同日(9日)中は,看護師から,同医師に対し,異常を知らせる特段の連絡はなかった[乙2(5,79,105頁),9,37]。
イ E医師は,この日,原告に対し,処置後の動脈損傷がなく,清浄化された旨説明した。同医師は,特に状態に変化がなければ4日程度の入院で退院できると判断し,入院診療計画書[乙2(104頁)]を作成して原告に交付した。原告の妻は,同医師に対し,農作業中のけがであり,感染の危険を心配している旨を述べた。
ウ 夜間,発熱があったが.創痛は夜間のうちに治まり,出血によるガーゼ汚染もなかった。夜間の睡眠も取れていた[乙2(80,84頁)]。
(5)10日の出血事故までの状況(甲9,乙2,37,E証人,原告本人)
ア 10日朝方は,創痛もガーゼ汚染もなかった[乙2(84頁)]。
イ 同日午前中,E医師が回診した際,創部から少量の出血があり,ドレーンの留置を続けることとした。同医師は,創部の血色は良好であり,排膿や再出血を思わせる特別な出血や症状はなく,また,左足背動脈も触知することができたことから,血行障害はないと判断した。そこで,同医師は,松葉づえでシーネを固定した状態でのトイレ歩行を許可した[乙2(5頁),37,E証言7頁]。
ウ E医師は,感染予防として,前日に引き続き,パンスポリン1グラムを1日2回静脈投与し,これを継続することとした[乙2(105頁)]。原告は,昼も出血がなく,症状等にも特に変化がなかった。朝食,昼食は全部食べることができていた[乙2(80,84頁)]。
(6)10日の出血事故の発生(乙2,37,E証人)
ア 10日午後4時過ぎころ,原告は,トイレに行こうとして松葉づえをついて歩き始めた際,創部ガーゼから出血があった。看護師は,止血のため大腿部を縛り,医師の診察を依頼した。
イ E医師が,診察したところ,左膝窩部の縫合部から動脈性の出血が認められた。出血量は,同医師の診察によれば200グラム以上,後の測定では268グラムであった。左足趾痛や左下腿のだるさがあり,足背動脈は触知されたが,午前中の回診時よりは若干弱く感じられた。同医師は,C医師及びF医師に連絡し,共に下腿筋肉の内圧を測定したところ,右下腿筋内圧は15ないし20ミリメートルHgと正常であったが,左下腿筋内圧は110ないし120ミリメートルHgと高度に上昇していること,上記動脈性の出血があったことをも考慮して,コンパートメント症候群を発症しているものと判断した。そのため,E医師らは,緊急手術として膝窩動脈縫合術及び筋膜切開術を行うこととした[乙2(6,45,80,82頁),37,E証言8頁]。
ウ 同日午後5時20分ころ,E医師は,原告とその妻に対し,病状説明を行い,左膝窩部の動脈について止血術を行い,左下腿コンパートメント症候群に対して筋膜切開術を行うこと,新鮮凍結血漿の輸血を要することを説明し,両人から手術と輸血について同意を得た[乙2(63,66頁),37]。
(7)2回目の手術(10日の膝窩動脈縫合術及び筋膜切開術)(乙2,37,38,E証人,C証人)
ア 10日午後5時56分,腰椎麻酔が開始され,午後6時25分,E医師,C医師,F医師の3名で手術が開始された。事前に圧迫等の処置をとっていたことから,手術開始時には出血が治まっていた。
イ まず,左膝窩の縫合部分を開き,膝窩動脈を確認したところ,創部から数センチメートル足先側で膝窩動脈の外側の同動脈が分枝を出す部分に,前日の手術の際にはなかった断裂があり,同部分からの出血が見られたことから,術者のE医師らは,膝窩動脈本幹から分岐した枝部分が断裂したものと考え,血管周囲を剥離して明らかにし,太さ4−0のナイロン糸を用い,5ないし6針で動脈の断裂部分を縫合した。手術の際,膝窩部の創部は完全に開かれていたため,上記担当医3名は,目で十分確認できる状況にあったが,創部が清浄であり,異物の残存や異臭等がなく,また,膿や異常な漿液等もなく,創部組織の色,血行が良いことが確認された。特に感染を思わせる徴候がなかったことから,担当医らは,ペンローズドレーンを挿入し,創部を縫合した。なお,担当医らは,この手術の際も,創部を洗浄した。そして,担当医らは,ペリプラスト(生理的組織接着剤)を動脈縫合部位の周囲に塗布し,縫合部から血液の漏出がないことを確認し,縫合を終えた[乙2(7,46頁),37,38,E証言8ないし10頁,C証言3ないし5頁]。
ウ また,左下腿コンパートメント症候群に対しては,E医師らによって,筋膜切開術が行われた。具体的には,左下腿前部,すねの部分の筋肉に対し,表面の皮膚から筋膜までにメスを入れ,筋膜を10数センチメートル程度切開し,開放創にした。筋肉の上に抗生物質を浸したガーゼを当て,その上に乾いたガーゼを当てて包帯で巻いた。上記処置の後,左下腿前面の筋肉をいつでも直接見て観察できる状態となった(乙37,38,E証言10頁,C証言6頁)。
エ 同日午後7時27分ころ,手術が終了した。
(8)10日の手術(膝窩動脈縫合術等)後の状況(乙2,37,E証人)
ア その後,E医師は,原告の妻に対し,動脈の一部に裂け目があったため縫合したこと,神経損傷はないこと,外側下腿筋膜を切開して開放創としたこと等を説明した[乙2(6頁)]。
イ 術後,抗生剤パンスポリン1グラムキットと止血剤アドナの点滴が行われた[乙2(105頁)]。この日の採血検査の結果で,白血球数が1万5400と高値であった[乙2(32頁)]。
ウ 10日の術後,E医師は,断続的に下腿冷感・しびれの有無,色調,知覚,運動異常の有無等を観察し,夜間は当直看護師が上記観察を行った。左大腿部に創痛があり,午後9時ころ,ボルタレン座薬を使用したものの,痛みは変わらず,午後10時20分ころには,ソセゴンを静脈注射して一旦痛みが軽減したが,翌11日の午前0時以降は,痛みやだるさが増強傾向となった。準夜勤の時間帯(午後4時15分から翌午前1時まで・乙33)の原告は,足指は動くものの,一貫して足の痛みや倦怠感,しびれを訴え,冷感があり,腫脹が強く,足爪は白っぼく,圧迫するとピンク色に変わるような状態であり,足背動脈の触知はプラスマイナスで,弱かった。
同医師は,帰宅後10日午後10時過ぎ,11日午前0時過ぎ,同日午前1時過ぎころ,それぞれ電話で看護師から原告の状態を確認した[乙2(81,82頁)]。
エ11日午前2時ころ,看護師が見回りをした際,足背動脈の触知が非常に弱く,ほとんど触れないと感じられた。午前2時過ぎころ,創部の圧迫痛があったことから,鎮痛剤ソセゴンが筋注され,原告は,眠りについた。深夜勤の時間帯(午前0時15分から午前9時まで・乙33)の原告は,左足の動きや触覚はあるが,冷感やしびれがあり,色が白く,足背動脈は触れず,血中酸素飽和度が測定できなかった[乙2(81,82頁)]。
(9)11日の状況(甲9,11,乙2,37,Y証人,甲野Z証人,E証人,原告本人)
ア 11日午前6時ころ,看護師が観察した際,足指は動くものの,相変わらず疼痛や倦怠感,冷感,しびれ感,腫脹があり,足背動脈が触知されなかった[乙2(82頁)]。
イ 同日午前7時20分ころ,E医師が診察したところ,左膝窩部創部に新鮮出血はなく,左足趾底屈は可能であったが,創痛があり,背屈(足の指をすね側に曲げること)筋力は低下しており,腓骨神経領域の知覚低下が認められ,足背動脈及び後脛骨動脈は触知できなかった。足趾,足背が強い浮腫状であり,足の動脈に酸素飽和度測定器は反応しなかった。同医師は,原告の左足を挙上し,血管(動脈)拡張剤のプロスタンディンを投与した[乙2(7頁),37,E証言13頁]。
ウ 同日午前8時ころの時点でも,足指の動きはあるが,疼痛や倦怠感,しびれ感,腫脹があり,足背動脈は触知されなかった[乙2(85頁)]。
エ その後も,時々創痛があり,同日午前10時15分ころ,消炎鎮痛剤ボルタレンの座薬が投与され,原告は少し眠った。足趾のしびれがなく,動きもよく,足趾に冷感があるが,足底,足背には冷感がなく,むしろ「熱い」と言ったため,看護師は,電気毛布を除去した[乙2(84,85頁)]。
オ 同日午後0時45分ころには,E医師が診察し,足背動脈は触知できず,浮腫は依然として高度であったが,軽度の熱感が確認された。皮膚色は,やや蒼白気味であった[乙2(8,85頁),37,E証言16頁]。
カ 同日午後1時過ぎころ,原告の長男(甲野Z)が見舞いに訪れた。原告の妻が,E医師に対し,原告が足を痛がっていること等を訴えた。このころ,同医師から,臀部から皮膚を移植するといった趣旨の発言があった(Y証人,甲野Z証人,E証人)。
キ 午後にも疼痛が増強したため,同日午後2時45分には,鎮痛剤ソセゴンが筋注された[乙2(84,85頁)]。
ク 同日午後5時30分ころ,E医師が診察したところ,浮腫は依然として見られたが,左下肢,足趾の底屈運動(自動運動)ができた。包帯を巻いてある部分から下の皮膚が露出されている部分に冷感はなく,体温に近い温度であったため,同医師は,血行障害が改善してきているものと判断した[乙2(8頁),37,E証言16頁]。
ケ 同日午後6時ころ,左膝から下肢にかけて,ズキンズキンとうめき声をあげる程の痛みがあり,午後7時20分には,ポルダレンの座薬が投与された。その後もうめき声が聞かれたが,午後9時ころには眠りについた。準夜勤の時間帯(午後4時15分から翌午前1時まで・乙33)を通じて,冷感やしびれはなく,足指の動きや皮膚色に異常はなかったが,相変わらず足背動脈は触知できなかった。E医師は,このころ,原告に対し,他動的運動・リハビリを始めようと説明した。また,食事も,昼食はその全部を,夕食も3分の2程度を食べることができていた[乙2(84,85頁),37,E証言17頁]。
コ 12日の深夜勤の時間帯(午前0時15分から午前9時まで・乙33)にかけても,痛みは時々あったが,自制できる程度であり,冷感もあったが,しびれはなく,動きは良好であり,ガーゼの汚染もなく,下肢の浮腫もプラスマイナスとなった。ただし,引き続き足背動脈は触知されなかった。看護師は,12日午前6時ころにも原告の様子を観察しているが,特に異常の報告はなかった[乙2(84,85頁)]。
(10)12日午前中のガス壊疽発症の認知(甲9,乙2,4,11,37,38,Y証人,E証人,C証人,原告本人)
ア 12日午前8時過ぎころ,C医師及びE医師が診察した際,創部痛は安静時にはなかったが,運動時には痛みが生じ,左足趾の運動が不良であり(底屈運動ができず),足背動脈,後脛骨動脈も触知できない状態であった。左下腿前面の筋肉に色調異常が生じ,皮膚もチアノーゼ色ないし紫色を呈しており,下腿前面のガーゼを取ると異臭が確認された[乙2(8,86頁),37,38,E証言18頁,C証言11頁]。遅くともこのころまでには,ガス壊疽が発症していた。
イ 上記異常所見を受け,血流ドップラー検査を行ったところ,後脛骨動脈は血流が確認されたが,足背動脈の血流が確認されず,途絶が推認された[乙2(8頁)]。また,採血を行ったところ,CPK(筋肉の崩壊時に血清中で上昇する酵素)が前日の1727から3747へと急激に上昇していた[乙2(34,22頁)]。
ウ C医師は,原告とその妻,長男に対し,血管造影検査の説明をし,同意を得た。しかし,原告の妻は,被告病院が血管断裂を見逃したのではないかとの不信感を抱いていた[乙2(8,9頁),38,Y証人7頁]。
エ 同日午後3時ころ,血管造影検査が実施された。左膝窩動脈が膝関節上部で途絶しており,血栓によるものと思われた。前脛骨動脈及び腓骨動脈幹は,浅大腿動脈,探大腿動脈からの側副血行を介して血流が保たれていたが,前脛骨動脈の末梢部分は造影されておらず,前脛骨動脈近位に血流途絶があることが明らかとなった[乙2(30,36頁),4]。
オ C医師は,血栓(血栓性の閉塞)が認められたことから,同日午後5時ころ,緊急手術(血栓除去術)を行うことを決定し,原告とその妻に対し,説明して同意を得た[乙2(65,70頁)]。
カ C医師は,血管造影検査の結果を整形外科科長のB医師に報告し,B医師も診療に加わった。
(11)3回目の手術(12日の血栓除去術)(乙2,37ないし39,E証人,C証人,B証人)
ア 12日午後6時ころ,原告を手術室へ入室させ,午後6時15分ころ,麻酔科のG医師により全身麻酔が行われ,午後6時55分から午後9時45分までの間,手術が行われた。手術は,B医師を執刀医とするほか,D医師,C医師,F医師により行われ,後にE医師が加わった。G医師も手術に立ち会った[乙2(37,41頁)]。
イ B医師らは,膝窩部の前回手術創部に皮膚切開を加え,膝窩部を明らかにした。膝窩動脈は,10日に止血縫合した膝窩動脈の部位から約5センチメートル近位(心臓側)で閉塞していた。このため,同部位に切開を加え,内部の血栓を除去した。血栓は,太さ約5ミリメートル血管に長さ約2ないし3センチメートルの細長い円筒形のものができていた[乙2(37頁),39,B証言5頁]。
ウ B医師らは,血栓を除去した後,切開部を縫合し,血流が再開したこと及び血液漏出がないことを確認した。また,同医師らは,10日に止血した部位について,血管の狭窄・血液の漏出があったため,同部分についても縫合して止血した。なお,同医師らが,前回縫合部の再縫合と,血栓除去のための切開部分の縫合のために用いたのは,太さ7−0(糸の直径が0.050ミリメートルから0.069ミリメートルのもの・鑑定書添付資料(6)38頁)のナイロン糸であった[乙2(37頁),39]。
エ 手術の際,膝窩動脈周囲の筋肉に壊死が見られ,腐敗臭が確認された。B医師らは,壊死している部分をできるだけ切除して洗浄し,デブリードマンを行った[乙2(37頁),39,B証言5頁]。
オ 同日午後10時に麻酔終了となり,原告は,午後10時30分ころ,帰室した。
(12)手術後の状況(乙2,38,39,C証人,B証人)
ア 手術後,B医師らは,抗生剤(パンスポリン)を投与したほか,血栓溶解剤ウロキナーゼと循環改善剤プロスタンディンを投与した。また,同医師らは,創部筋肉を空気に触れさせるため,下腿前面減張切開部はそのまま開放創とした。
イ 12日午後10時ころ,C医師は,原告の妻に対し,手術の結果と今後の方針について説明を行った[乙2(71頁)]。なお,同日,高圧酸素療法は行われなかった。高圧酸素療法は,翌朝にE医師が麻酔科のH医師に依頼する予定とされていた。
(13)13日の状況(乙2,5,40,H証人)
ア 13日午前0時ころ,破傷風の治療薬であるテタノブリン(250万国際単位)が筋注された。深夜から未明にかけて,原告には,不穏状態が見られた。
イ 同日早朝,E医師は,高圧酸素療法の施行を麻酔科に依頼し,麻酔科のH医師は,整形外科の医師から原告の容態について聴取し,自ら原告の状態を観察した上,高圧酸素療法を行うことにつき原告の承諾を得た。高圧酸素療法とは,高圧酸素タンク内に患者を入れ,1時間半程度安静にして組織の酸素供給を図る治療であり,被告病院には,患者一人が横になれる程度の筒状の小さな装置(第1種高気圧酸素治療装置)が設備されていた。
ウ 同日午前,異臭が生じ,足背動脈の触知ができず,足が貧血様の色調を呈していた。午前9時30分ころ,原告に対し,高圧酸素療法が開始されたが(乙5),改善は見られなかった。
エ 同日午後5時ころ,C医師は,原告とその妻に対し,左下肢切断をする必要があることを説明した。また,同日午後6時30分ころ,同医師は,原告の妻,長男,長女に対し,同様の説明を行った。さらに,同日午後9時ころ,同医師は,原告の妻,長男らに対し,左下肢がガス壊疽に雁患しており,放置すると全身状態に影響するため,断肢が必要である旨説明した。これに対し,原告家族らは,翌日まで手術は待ってほしいと申し出た[乙2(71,72貢)]。
(14)左大腿切断術の実施(乙2)
ア 14日午前8時30分ころ,C医師は,再び原告とその家族に対し,「ガス壊疽が発症し,左下腿が壊死状態にある。切断を行わないと生命に影響を及ぼす可能性が高いため,本日手術を行いたい。」と説明し,原告らは,これを承諾した[乙2(67頁)]。
イ 同日午後1時07分から午後2時24分までの間,左大腿切断術が実施された。執刀医は,C医師,D医師,F医師であり,左膝上壊死ぎりぎりの部位で大腿骨を切り離した[甲1,乙2(38頁)]。
手術は成功したが,術後,C医師は,原告の妻と息子に対し,今後,敗血症となる可能性もあり,十分な全身管理を要すると説明した[乙2(74頁)]。
(15)その後の状況(乙2)
ア 15日,術後の経過は良好であり,レントゲン写真でガス像は観察されず,白血球数も4700と正常値に回復した[乙2(17頁)]。再発防止のため,抗生剤が投与された。
イ 16日,13日に採取していた検体の細菌検査の結果,原因菌はクロストリジウム・ペルフリンゲンスであることが判明した[乙2(14頁)]。
2 注意義務違反の存否について
(1)争点(1)(腰椎麻酔又は全身麻酔を選択した上,十分な洗浄,デブリードマンを行うべき注意義務に違反したか否か)について
ア まず,原告は,担当医による洗浄及びデブリードマンが不十分であったことを裏付ける事情の1つとして,麻酔方法の選択の誤りを主張する。
(ア) 創処置における麻酔の選択に関しては,証拠(甲22の3,22の5,乙41,鑑定の結果)によれば,次の事実を認めることができる。
a 創処置において洗浄とデブリードマンを行う際には,創部を無痛野にする必要があるが,外傷治療でその場合に用いる麻酔としては局所麻酔が選択されることが多い。
b 局所麻酔の使用は,局所に不必要な侵襲を加え,汚染を組織内深部に追い込み,局所の浮腫を増強することから,挫滅を伴う損傷や創が皮下組織より深部に達しているときは局所麻酔を行うべきでないとの見解もあり,損傷部位が手指の場合や骨折を伴う損傷の場合の局所麻酔の使用は禁忌とされている。
c しかし,下肢の開放創の処置においては,局所麻酔の使用が常に禁忌ということはなく,骨折を伴わず,軟部組織損傷が比較的小さい範囲にとどまり,疼痛による処置中断の必要性がないような場合,局所麻酔による侵襲は比較的軽微であり,創表面に限局する汚染を組織内深部に追い込むことは通常問題にならない。
(イ)上記医学的見解及び鑑定の結果によれば,泥土で汚染された下肢の外傷治療,創処置において,洗浄とデブリードマンを行う際,創部を無痛野にするためにいかなる麻酔を用いるかは,手指の場合と異なり,局所麻酔が常に禁忌とはいえず,創の大きさ,探さ,程度や患者の全身状態,既往歴等に応じて判断すべきであり,ただ,処置中に患者が疼痛に耐えられなくなった場合や,創傷が深く又は汚染が強いために処置に長時間を要し,局所麻酔の効果が切れる場合などには,腰痛麻酔や全身麻酔に切り替えることができるよう配慮していれば足りると解される。
そして,上記1の認定事実によれば,原告の創傷は,左膝窩部における7ないし8センチメートル程度の切創であり,創の深さは膝窩動脈や脛骨動脈にまで及んでいたが,骨折や動脈性出血は見られず,現に原告がその洗浄及びデブリードマンの処置を受けていた間に,疼痛に耐えられなくなったという事情がないことが認められ,また,原告の体調や既往症に局所麻酔の支障となり得るような事情があったとも認められない。
(ウ)以上によれば,担当医ら(A医師,E医師)が,9日の初療室及び手術室における創処置においていずれも局所麻酔(1パーセント・キシロカイン)を用い,腰椎麻酔又は全身麻酔を用いなかったことが,麻酔方法の選択の誤りであったということはできない。
イ 次に,原告は,洗浄処置において用いられた生理食塩水の使用量が少なかったと主張する。
(ア)証拠(甲22の5,乙41,鑑定の結果)によれば,開放創の外科的処置における生理食塩水の使用量は,通常で2ないし3リットル,多いときで20ないし30リットルとされているものの,その使用量に一般的な規定量が定められているものではなく,実際にどの程度を使用すべきかは,創汚染の程度,状況,創の大きさや深さによって変わってくることが認められる。
以上によれば,創部洗浄に用いるべき生理食塩水は,創部の状況に応じ,必要な量を用いるべきなのであって,単純に,洗浄に用いた生理食塩水の絶対量が,多い,少ないといった判断をすることはできないものというべきである。
(イ)かかるところ,上記1の認定事実のとおり,原告の創傷は,左膝窩部における7ないし8センチメートル程度の切創であり,創の深さは膝窩動脈や脛骨動脈にまで及んでいたが,骨折や動脈性出血は見られないという創であるところ,担当医ら(A医師,E医師)は,かかる創部に対して,初療室において9日午前11時20分ころから午後0時40分ころまでの間,約1時間20分をかけて,また,手術室においてはこれに引き続く午後1時ころから午後1時50分ころまでの間,約50分をかけて,それぞれ生理食塩水1500ミリリットルずつ(計3000ミリリットル)を用いて創部の洗浄とデブリードマンを行ったものである。特に,手術室においては,器具を用いて血管や神経をよけ,その裏側も確認し,創部の皮膚を切開延長して視野を広くして,抗生剤(パニマイシン)入りの生理食塩水を用いスポイトで吸い上げて創部に噴射するという方法を用いながら,ブラシを用いて洗浄しているし,皮膚の周縁や挫滅した皮下の脂肪,線維等の組織はメスや鋏を用いて切除している。
以上によれば,その創部に比して,合計3000ミリリットルという生理食塩水の量が,一見して不十分ということはできないし,上記の洗浄及びデブリードマンの手法並びにこれらに要した時間に,不適切,不十分な点があったことをうかがわせる証拠はない。
ウ 次に,洗浄及びデブリードマンの程度について検討するに,診療契約上の医師の義務として求められる洗浄及びデブリードマンの程度というのは,もともと,いかに十全な洗浄及びデブリードマンを行ったとしても,あらゆる細菌を完全に除去することはおよそ不可能に等しいことであるから,創部を全くの無菌状態にすることではなく,その後の適正な抗生剤治療や患者自身の抵抗力等によって,菌の増殖,感染を防止できるように,可能な限り十分に菌を減少させることにあると考えられる。そして,十分に減少せしめられた細菌であっても,その後その増殖に適した環境下に長く置かれれば,やがては菌が増殖し,感染に至ることはあり得るのであるから,結果的にガス壊疽が発症した事実をもって当初の処置が不十分であったことが推認できるものではない。
むしろ,原告のガス壊疽原因菌であったクロストリジウム・ペルフリンゲンスは,受傷から発症まで通常18時間ないし24時間程度とされるデータがあるにもかかわらず,原告のガス壊疽は,9日午前10時30分ころの受傷から2日半以上が経過した,12日午前中に発症した可能性が高く,仮に,翌10日もしくは11日中に発症していたにしても,受傷から24時間を越えるような時期に発症したものである可能性が高い。このように,受傷時からガス壊疽の発症まで,すなわち,原因菌の増殖と感染までに,平均的な発症例より比較的長時間が経過していることに照らすと,それは9日の時点での洗浄及びデブリードマンが,十分に原因菌を減少させるに足りるものであり,少なくとも,当初の洗浄及びデブリードマン終了の時点で,平均的な洗浄,デブリードマン後より多量の原因菌が付着してはいなかったことを推認させる事情であるといえる。
エ 以上を総合考慮すれば,担当医ら(A医師,E医師)は,外傷治療を行う医師として,少なくとも一般的に求められるべきレベルの洗浄及びデブリードマンをなすべき義務は尽くしていたというべきであり,これが不十分であったとする注意義務違反の事実を認めることはできない。
(2)争点(2)(デブリードマンに際し,駆血帯を用いて損傷組織の十分な観察をし,膝窩動脈損傷に気付くべき注意義務に違反したか否か)について
ア 原告は,担当医(E医師)が,上記デブリードマンの際に膝窩動脈損傷を見落としたことを裏付ける事情として,駆血帯を使用しないまま上記デブリードマンを行ったことを指摘する。
(ア)証拠(乙41,42,鑑定の結果)及び弁論の全趣旨によれば,駆血帯(ゴムや空気圧を用いて血液を止め,視野を良好に保ち出血を少なくするための器具)は,創内からの出血のために術野の観察が十分に行えないときに用いるものとされているものの,駆血帯を使用すると出血を止めることになるため,逆に出血の有無を確認するには困難となることや,駆血帯の使用が,かえって局所の虚血性壊死や血栓の発症原因となる場合もあり得ること,したがって,軟部組織の開放性損傷の場合,出血のために視野が阻害されるなどの事情がない限り,通常駆血帯は使用せず,血管クリップを用いるのが一般的であることが認められる。
(イ)そして,本件においては,E医師がデブリードマンを行った状況は上記のとおりであり,出血のために視野が阻害されるといった事情はなく,むしろ皮膚切開延長により視野を広げるなどしたことで,十分な観察を行えたことが認められるから,同医師が,デブリードマンを行うに際して,駆血帯を使用しなかったことは,何ら不適切な処置ということはできない。
イ また,上記のとおりのデブリードマンの状況を見れば,そもそも,その時点で,出血を伴うような膝窩動脈上の血管損傷が生じていて,それにもかかわらず,E医師が当該動脈損傷を見逃したという事実は認められない。
ウ 他方,9日のデブリードマン以降,10日午後4時過ぎの動脈性出血(膝窩動脈一部断裂)時まで,膝窩動脈の新たな損傷につながるような事故等が生じていないことを考えると,膝窩動脈一部断裂の原因となった要因,例えば,動脈の不全損傷(血管内部の損傷等)が既に当初の受傷時から生じていた可能性は否定できない。そして,鑑定の結果によれば,仮に,かかる不全損傷が受傷時に生じていたとすると,駆血帯を用いた上,拡大鏡や顕微鏡を使用して入念に動脈損傷の有無を検索すれば,不全損傷を発見し得た可能性があるとされる。しかしながら,上記1の認定事実のとおり,本件においては,原告の創傷は,血管や神経が露出する軟部組織の損傷ではあるが,股関節脱臼や骨折はなく,また,明らかな動脈性出血もなく,さらに,初診時において足背動脈や後脛骨動脈も触知できていたのであるから,担当医らが,デブリードマンの時点で,膝窩動脈に血管の不全損傷が生じている可能性まで予期することは難しく,入念に動脈の観察をし,損傷部位を発見できなかったことが不適切であったとはいい難い(鑑定の結果)。そして,上記のとおり,駆血帯の使用については,局所の虚血性壊死や血栓の発症という危険性を伴うのであるから,この段階の担当医が,駆血帯を使用した上,拡大鏡や顕微鏡を使用するといった相応の時間をかけた方法で,入念に膝窩動脈を観察すべき義務を負っていたということもできない。結局,デブリードマンの時点で,担当医が,膝窩動脈の不全損傷に気付くことは困難であったというべきであるから,これを見逃していたとしても,それをもって当該担当医の落ち度ということはできない。
エ 以上を総合すれば,担当医(E医師)は,デブリードマンの時点で,外傷治療を行う医師として通常求められるべき程度の注意力をもって膝窩動脈損傷の有無を確認したことが認められ,これが不十分であったために膝窩動脈損傷を見落としたとする注意義務違反の事実を認めることはできない。
(3)争点(3)(膝窩動脈縫合術に際し,適切な太さの縫合糸を用いるべき注意義務に違反したか否か)について
ア 証拠(甲22の1,25,乙41,鑑定の結果)によれば,血管縫合の際に太すぎる縫合糸を用いると,血管狭窄を生じさせる可能性があるし,他方で,細すぎる縫合糸を用いたのでは,縫合が困難な上に糸の強度が不足して,縫合部の破綻を来すおそれがあることから,使用すべき縫合糸の選択に当たっては,対象となる血管の太さや血管壁の厚さ,強さ等に適合した太さの糸を選択すべきであること(鑑定書添付資料(6)37頁),膝窩動脈の縫合の場合,一般的には5−0ないし7−0の太さの縫合糸が用いられ,4−0ナイロン糸は血管の径や動脈壁の厚さから考えてやや太すぎるし,7−0より細いもの,例えば,指動脈の縫合に使用される10−0ナイロン糸も用いるべきでないとされていること,また,縫合糸の太さは,大動脈で2−0~4−0,中小動脈では4−0~6−0,細動脈では7−0以下のものを使用するとする医学文献があること(甲25)が認められる。そして,鑑定の結果においては,膝窩動脈は大腿動脈と下腿動脈の中間に相当するので,7−0ナイロン糸が適切な太さである旨の意見が示されている。
イ かかるところ,本件においては,上記1の認定事実のとおり,担当医ら(E医師ら)は,膝窩動脈(分枝を出す部分)の断裂部分について,太さ4−0(糸の直径が0.15ミリメートルから0.199ミリメートルのもの・鑑定書添付資料(6)38頁)のナイロン糸を用いて5,6針縫合している。しかし,鑑定の結果によれば,直径5ミリメートル位と解される膝窩動脈を,かかる方法で縫合したのでは,血管狭窄を来し,血栓形成が生じやすくなること,12日の血栓除去術の際,「前回止血部血管の狭窄がみられ」との記載があること[乙2(37頁)],そして,上記血栓除去術において,太さ7−0(糸の直径が0.050ミリメートルから0.069ミリメートルのもの・同鑑定書添付資料)のナイロン糸が使用されていること,個人差を考慮しても,膝窩動脈の縫合糸として4−0ナイロン糸は明らかに太すぎることが認められる。
ウ とすれば,担当医(E医師)は,膝窩動脈縫合術に際し,血管の太さや血管壁の厚さ等に応じ,少なくとも太さ5−0から7−0程度までの縫合糸を使用すべき注意義務を負っていたのに,これに反して,今回の膝窩動脈縫合には適さず,血栓形成の原因となりかねない太さ4−0ナイロン糸を使用したものであり,これは上記の注意義務に違反したものというべきである。
(4)争点(4)膝簡動脈縫合術後,常時注意深い観察を行い,血栓を原因とする血行障害に気付くべき注意義務に違反したか否か)について
ア 証拠(甲12ないし15,17,22の4,乙27,36,鑑定の結果)及び弁論の全趣旨によれば,血栓による血行障害に関して,次の事実を認めることができる。
(ア)血栓は,動脈壁に外傷,動脈硬化,動脈痛,炎症,腫瘍浸潤等があった場合に,その部に形成されやすく,また,既に生じた動脈閉塞の上下の部分では血流が遅くなるため血栓が発育しやすい(甲14)。そして,外傷による動脈閉塞は,刺創や広範囲挫傷等による直接の動脈断裂と,鈍的外傷に伴う血管内膜の損傷に起因した閉塞があり,2次血栓を伴うことが多い(甲12)。なお,血栓症(血液性状の変化,血管壁の変化,血流の変化などにより血液が凝固し血管を閉塞させること)では,血栓が徐々に形成されて,その症状も徐々に悪化することが多いとされるが,塞栓症(血栓,脂肪等が血流に運ばれて,血管の分岐部などにひっかかって血管を閉塞させること)は,突発的に発症することが多いとされる(甲12,13,17)。
(イ)急性動脈閉塞が生じた場合,特に完全に血行が遮断されると,神経と筋肉は約4時間から6時間で不可逆的な変化を引き起こすといわれているから,早期に適切な血行再建を施して壊死に陥るのを防ぐ必要がある(甲12)。塞栓症による動脈閉塞における血栓除去の方法としては,カテーテルによる血栓除去手術等の適応となることが多いが,急性動脈血栓症のように,側副血行路の発達により組織が重篤な虚血状態に陥らない場合には,ウロキナーゼの投与等による動脈内血栓溶解療法を選択することもあるので,血管造影検査による病態の正確な把握が必要となる(甲17)。
(ウ)下腿は,血管損傷後の予後が不良であり,主幹動脈損傷により末梢部が壊死に陥る可能性が高く,膝窩動脈が閉塞すると,その可能性は特に高い(甲22の4,鑑定書の添付資料⑫43頁)。
(エ)急性動脈閉塞(塞栓症・血栓症)の症状としては,患肢の疼痛,動脈拍動の消失又は減弱,蒼白,知覚異常,運動麻痺,冷感の6つが重要である(甲17,乙36)。
(オ)血流ドップラー検査とは,超音波を用いて血管内の血流の有無,方向,速度等を非侵襲的に算出・測定するものであり,血栓の可能性が疑われる場合の診断方法として有意義である(甲13,15)。
(カ)血管造影検査は,血管内(動脈又は静脈内)に挿入されたカテーテルから造影剤を注入し,X線撮影を行う検査法であり,これにより,血管内腔の状況を立体的に描出し,隠れている病変をも診断できるものである。この方法により,血管それ自体の病変や血行動態のみならず,病変の進展範囲に関する情報を得ることができるが(甲13),他面,検査の実施自体に動脈損傷その他の危険性があり得る。
イ 上記医学的見解及び鑑定の結果によれば,動脈損傷による血管縫合術後は,血栓形成が生じることがあり得るのであるから,担当医としては,常時血栓の発生やそれによる血行障害がないかどうかを注意深く観察し,血栓形成を疑わせる臨床症状があるときは,その除去のための迅速な対応をすべきであり,まずは縫合部における血栓形成の有無を診断するため,血流ドップラー検査や血管造影検査を行うべき注意義務を負っていたといえる。
ウ かかるところ,上記1の認定事実によれば,10日夕方の膝窩動脈縫合術の後,足背動脈の触知はずっとプラスマイナスで弱かったが,翌11日午前2時ころには,触知が非常に弱く,ほとんど触れないと感じられるほどであり,少なくとも同日午前6時ころには,足背動脈の触知が見られなくなって,その後,12日朝に,明らかなガス壊疽発症が認められるまで,一度も足背動脈が触知されていない。E医師自身も,11日午前7時20分ころの診察で,足背動脈及び後脛骨動脈が触知できないことを確認しているし,併せて足趾及び足背が強い浮腫状で,足の動脈が酸素飽和度測定器に反応しなかったほか,背骨の筋力低下,腓骨神経領域の知覚低下,創痛,冷感が見られることを確認しており,また,同日午後5時30分ころ診察した際,左足の熱感がややあることから,血行が改善してきているものと判断していたこと(E証言16頁)から,同医師は,少なくとも血行障害が生じていることには気付いていたと認められる。そして,その後は,冷感や足の動き等の面での改善が見られたものの,上記のとおり,一貫して足背動脈の触知はできていなかったし,創痛も続いていたこと,当時は膝窩動脈縫合術の術後という,比較的血栓の形成されやすい時期であり,特に,縫合に用いた糸が血栓形成の原因となり得る太いものであったことも考慮すれば,同医師は,術後の縫合部もしくはその周辺に血栓が形成されつつあり,それに伴う動脈閉塞が進行していた可能性を疑うことができたし,またそうすべきであったといえる。そして,一旦血栓が形成され急性動脈閉塞が生じると,4時間から6時間で神経や筋肉に不可逆性の変化を来すおそれが高いことや,下腿は血管損傷後の予後が不良で,特に,膝窩動脈閉塞の場合,末梢部の壊死に至る可能性が高いのであるから,原告が主張するとおり,11日午前7時20分ころの担当医による診察の時点(この時点では,10日夕方に筋膜切開術を行ったにもかかわらず,翌11日午前2時ころ以降,足背動脈の触知が著しく弱くなり,少なくとも,同日午前6時以降,足背動脈が触れなくなったことが明らかとなっている。)では,血行障害の原因が,コンパートメント症候群等による一過性のものであるのか,あるいは,血栓形成によるものであるのかを確認するためにも,血流ドップラー検査を実施すべきであったし,その結果が不良である場合には,血管造影検査を実施すべきであったと考えられ
とすれば,担当医(E医師)が,11日の血行障害に気付いていながら,同日午前中に原告の左足を挙上し,血管拡張剤を投与するなどして血行の改善を試みただけで,12日午前8時過ぎまで血流ドップラー検査を行わず,同日午後3時ころまで血管造影検査を行わなかったことは,10日夕方の膝窩動脈縫合術以降,血栓による血行障害の有無を観察し,その疑いが生じた時点で直ちにそれに適した検査をなすべき義務に違反したものというべきである。
エ なお,被告は,11日中の血行障害は,コンパートメント症候群発症や患部自体の浮腫等を理由とする一過性の血行障害と見るべきであり,そうでなければ11日夕方以降の症状改善が見られたはずはなく,血栓形成による血行障害を疑ってそれに即応した検査を行わなかった担当医の判断にも誤りはない旨主張する。
しかし,上記のとおり,11日は,午前2時ころから足背動脈が極めて弱くしか触れず,遅くとも同日午前6時以降,一貫して足背動脈の拍動を感じることができない状態が継続していたのであり,他方で,膝窩動脈縫合術に縫合不全が生じた場合,特に太めの縫合糸によって部分的な血管狭窄が生じたような場合には,その術後に,縫合部やその周辺から徐々に血栓が形成され,突発的な動脈閉塞とは異なる態様で血行障害が現れることがあり,かかる緩徐な血栓形成は,被告も自認するとおり,コンパートメント症候群と平行して発症する可能性も十分あり得るもので,後記のとおり,むしろ,本件ではそうであった可能性が高い(鑑定の結果)。
とすれば,11日夕方以降に,左下肢,足趾の運動機能の復調や,冷感の消失など,一旦は血行障害改善の徴候が見られたことや,それが筋膜切開術の実施や血管拡張剤投与の効果の現れと見る余地があることを考慮しても,同時に11日の時点で,既に血栓形成による血行障害が生じ始めていたことと,必ずしも矛盾するものとはいえない。要は,コンパートメント症候群とそれに伴う血行障害が生じていたからといって,血栓形成による血行障害の可能性を除外してよいというものではないのであるから,担当医としては,その可能性をも念頭においてこれに対処できる処置をとるべきだったのであり,それを尽くさなかった同医師の対応に落ち度がないということはできない。
また,そもそも,担当医(E医師)には,上記のとおり,既に11日午前7時20分ころの時点では,血行障害の原因を探るため,血流ドップラー検査や,引き続いての血管造影検査を実施すべき義務が生じていたと解されるから,結果的にその後に血行障害改善の徴候が見られたからといって,上記時点における諸検査を実施せず,安易な経過観察を選択したことに対する過失を免れ得るものでもない。
(5)以上の次第で,担当医には,上記(3)(膝窩動脈縫合術に際し,適切な太さの縫合糸を選択せず,血栓形成の原因となりやすい太い縫合糸を使用した注意義務違反)及び上記(4)(膝窩動脈縫合術実施後の血栓形成による血行障害の疑いを見過ごし,11日午前中に血流ドップラー検査やそれに引き続く血管造影検査を実施しなかった注意義務違反)の2点の注意義務違反行為があったと認められる。
3 争点(5)(上記2(3)及び2(4)の各注意義務違反とガス壊疽による左大腿切断術施行との間の因果関係の存否)について
(1)一般的に訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり,その立証の程度は,通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし,かつ,それで足りるものと解するのが相当である(最高裁判所第二小法廷昭和50年10月24日判決)。
そうすると,本件においては,上記認定のとおり,担当医に,上記2(3)(膝窩動脈縫合術に際し,適切な太さの縫合糸を選択せず,血栓形成の原因となりやすい太い縫合糸を使用した注意義務違反)及び上記2(4)(膝窩動脈縫合術実施後の血栓形成による血行障害の疑いを見過ごし,11日午前中に血流ドップラー検査やそれに引き続く血管造影検査を実施しなかった注意義務違反)の2点の注意義務違反行為があったことが認められたとしても,これらの注意義務違反とガス壊疽による左大腿切断術施行との間に因果関係があるというためには,各注意義務違反行為こそが,ガス壊疽による左大腿切断術施行という結果発生を招来せしめたと解するだけの高度の蓋然性(通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであること)が証明される必要がある。
(2)そこで,まず,11日の時点で生じていた左下腿の血行障害が,ガス壊疽発症もしくは重篤化の一因となったことは争いがないことから,かかる血行障害の原因について検討するに,上記1の認定事実によれば,10日夕方の膝窩動脈縫合術の後,原告の足背動脈の拍動は弱く,11日午前2時ころからは特に触れるか触れないか位に微弱となって,同日午前6時ころ以降12日午前の明らかなガス壊疽発症に至るまで,全く触れなくなっていたこと,併せて,11日中には,一貫して創部痛があり,同日夕方には改善傾向が見られたとはいえ,冷感,皮膚色の蒼白化,背屈筋力の低下や腓骨神経領域の知覚低下も認められたこと,12日午前8時過ぎの下腿の状況(足背動脈,後脛骨動脈の触知不可,左足趾の運動至良,左下腿前面筋肉の色調異常,皮膚のチアノーゼ等)に照らして,少なくとも同時点においては,膝窩動脈の膝関節上部に,血栓を原因とする血管閉塞が生じていたこと,同日午後6時ころ実施の血栓除去術の際には,膝窩動脈中,10日の膝窩動脈縫合術で止血縫合した部位から約5センチメートル心臓側の位置に,長さ2ないし3センチメートルの細長い円筒形の血栓ができており,10日に止血した部位には血管の狭窄と血液の漏出があったことなどの事実が認められる。
上記認定事実のほか,太い縫合糸の使用は,血管縫合部の狭窄を来すこととなる結果,血栓の形成を容易にすると考えられており(乙41,鑑定の結果),かつ,かかる血栓の形成は,徐々に進行する可能性があることなどの事情を総合考慮すると,11日の血行障害は,10日夕方の上記縫合術の後,同縫合部位の血管が狭窄したために,心臓から送り出される血液が狭窄部を通過する手前で若干滞留するなどしたことによって,徐々に血栓が形成され,それが次第に大きくなっていく過程で血流の悪化を来したことがその一因となっていると考えられ,かかる血栓が,最終的には12日午前の時点での膝窩動脈の完全閉塞につながったものと見るのが自然である。
(3)ところで,ガス壊疽発症のメカニズムは,前提事実に記載のとおりであるところ,本件においては,初期治療において,たとえわずかにせよ残存していたガス壊疽菌(クロストリジウム・ペルフリンゲンス)が,その後の血行障害状態の継続により,嫌気性という菌の性質に好適な環境下に置かれると共に,抗生剤の薬効も届きにくくなったことで,大幅に増殖,感染し,ガス壊疽発症に至り,それが広範囲の筋壊死を招いて最終的には左大腿切断術につながったものと認められる。
とすれば,上記2(3),2(4)記載の各注意義務違反行為,すなわち,10日夕方の膝窩動脈縫合術に際し,血栓形成の原因となりやすい太い縫合糸を使用し,その結果として血管狭窄を招き,それを原因とする血栓形成とそれに伴う血行障害を惹起せしめたという行為と,かかる血栓による血行障害の可能性を見過ごして,11日午前中での血流ドップラー検査,引き続いての血管造影検査実施を怠った結果,上記血栓の発見が遅れ,11日段階での血栓除去法(投薬による血栓溶解もしくは血栓除去術による外科的除去)の実施を遅れさせ,それにより血行障害状態を長期化させたという行為とが,相まってガス壊疽の発症もしくは少なくともその重篤化について,ある程度の寄与をしたことは否定し難いものといえる。そうすると,担当医において,上記各注意義務を尽くしていれば,血栓形成の可能性を低下させ,あるいは,血栓形成による血行障害を早期に回復させ得た可能性があったから,ひいては,ガス壊疽の発生率を低下させ,少なくともその感染範囲を狭めることができた可能性はあったと認められる(鑑定の結果)。
(4)しかしながら,上記認定のとおり,原告は10日の時点では左下腿にコンパートメント症候群を発症し,その後もずっと腫脹が続いていたのであって,これもまた,血行障害を引き起こす要因になるとされており(鑑定の結果),11日の血行障害の原因には,同症候群によって血流が阻害されたという事情もあったと推認される。また,現に,11日夕方には,左下肢,足趾の運動機能や冷感,皮膚色等の点で,一旦は血行障害が改善している徴候が見られており,この段階で血栓による完全な血管閉塞が生じていたとは考えにくいから,血栓形成とそれに伴う血行障害の方は,緩徐に進行していたものと解される。
とすれば,本件においては,血栓による血行障害を未然に防止し,あるいは,早期に血栓を除去して血栓を原因とする血行障害を回復させていたとしても,本件ガス壊疽は,コンパートメント症候群に伴う血行障害の結果として,やはり発症していた可能性を否定できないし,一旦ガス壊疽が発症すると,特にクロストリジウム性のガス壊疽の場合,その進行は極めて早く,全身症状の悪化を伴い,死亡率も高く,救命のために四肢の切断を余儀なくされることも多いとされているのであるから,血栓形成による血行障害を早期に回復したとしても,ガス壊疽の重篤化とそれに伴う断肢を免れることが可能であったとは断言できない(鑑定の結果)。
また,血栓形成が,非常に綾徐なものであったと仮定すると,仮に11日午前の段階で血流ドップラー検査,血管造影検査を実施したとしても,有意な血栓形成にまでは至らないために異常が感知されず,血栓除去に向けたその後の処置に結び付かなかった可能性もあり得る。
さらに,鑑定人香月憲一は,鑑定書及び補充鑑定書において,10日の時点の血液検査で白血球数が1万5400という高値を示していることを根拠に,この時点で既にガス壊疽発症に至っていた可能性も否定できない旨指摘しているが,仮に,そうであった場合には,その後の膝窩動脈縫合術の際の縫合糸の選択を間違えず,早期に血流の状態を確認する諸検査を実施して,血栓の形成を防止し,あるいは血栓形成に伴う血行障害の長期化を防ぐことができていたとしても,もはやガス壊疽発症を未然に防止することはできなかったというほかはない。
かかる経過を踏まえ,上記鑑定人は,11日中に血流ドップラー検査や血管造影検査を行ったとしても,ガス壊疽発症による左大腿切断に至らなかった蓋然性があるとは言い切れないとの鑑定意見を述べている。
同鑑定は,本件診療経過を踏まえ,多数の医療文献を精査し,数々の症例報告を詳細に検討した上で意見を述べているものであり,その鑑定内容は説得的であり,また,内容に特段の矛盾点や不合理な点が見当たらないことから,その信用性は高いものと考える。
(5)以上を総合考慮すれば,担当医に上記2(3)及び2(4)記載の各注意義務違反行為があったにしても,かかる義務違反行為の結果として,ガス壊疽発症に起因する左大腿切断術死稿を余儀なくされたと言い切るほどには,結果発生の高度の蓋然性があるとは認められず,結局上記各注意義務違反行為とガス壊疽による左大腿切断術施行との間には,因果関係があると認めることはできない。
(6)なお,原告は,因果関係を割合的に認定すべきであるとも主張するので,以下検討するに,民事訴訟制度の基本的前提は,過去の一回的事実である因果関係の認定としては存否いずれしかあり得ず,真偽不明の場合には証明責任によって決着をみるものとされているから,因果関係を割合的に認定することは,上記前提に反するものと解される。
確かに,発生した結果について,医師の行為(過失)のほかに,当該医師の責任に属しない他の原因(患者の特異体質や他の医師による過失など)が競合していることが証拠上明らかになった場合について,いわゆる過失の割合的認定によって寄与率による損害賠償額の負担を定めることは,実務上認められているところである。
しかし,上記考え方は,医師の行為(過失)と発生した結果との間に因果関係があることを前提としている。
しかるに,本件においては,医師の行為(過失),すなわち上記各注意義務違反行為とガス壊疽による左大腿切断術施行との間には因果関係があるとは認められないのであるから,注意義務違反の起因力や心証の程度等に応じて因果関係を割合的に認定することはできないというべきである。
よって,原告の主張は理由がない。
4 争点(6)(原告の被った損害の額)について
以上によれば,上記争点(6)について判断するまでもなく,原告の被告に対する主位的請求(主張)は理由がない。
5 争点(7)(いわゆる期待権侵害による損害賠償請求の可否及びその賠償額)について
(1)もっとも,患者の診療に当たった医師が,医療診療上の注意義務に違反した場合において,その注意義務に違反した行為と患者に生じた重大な後遺症との間に,因果関係(高度の蓋然性)があることの証明がなされなかった場合でも,当該注意義務が尽くされていたならば,患者に上記重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されるときは,医師は,患者が上記可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解するのが相当である(最高裁判所第三小法廷平成15年11月11日判決・民集57巻10号1466頁参照)。
(2)これを本件についてみると,左大腿切断は,1下肢を膝関節以上で失うもので,自賠法施行令別表後遺障害別等級表4級に該当する後遺症であり,これにより日常生活に著しい支障を来すものであるから,上記「重大な後遺症」に該当することは明らかであるところ,上記のとおり,担当医が,適切な太さの縫合糸を使用し,かつ,血栓形成を疑って11日午前中の時点で血流ドップラー検査や血管造影検査を行い,それに応じた適切な血栓除去法を尽くしていれば,少なくともガス壊疽の発生率を低下させ,あるいは感染範囲を狭めることができた可能性があった(鑑定の結果)というべきである。そうすると,本件においては,上記治療法が十分行われた場合には,ガス壊疽による左大腿切断術施行に至らなかった相当程度の可能性が存在するというべきである。
(3)以上によれば,被告は,担当医の使用者として,患者である原告が上記可能性を侵害された,すなわち,いわゆる期待権が侵害されたことによって被った精神的苦痛に対する慰謝料を支払うべき義務があるものと解するのが相当である。
(4)そこで,本件に現れた被告病院における診療経過,担当医の上記注意義務違反の程度,左大腿切断により原告が被った精神的苦痛,左大腿切断を回避し得た可能性の程度その他本件訴訟経過等の諸般の事情を考慮し,いわゆる期待権を侵害された原告の苦痛を慰謝するのに相当な慰謝料の額は300万円をもって相当と認める。
(5)本件提訴のために要した弁護士費用のうち,本件訴訟の経過にかんがみ,30万円の限度で本件不法行為と因果関係がある損害と認める。
(6)したがって,上記(1)ないし(5)によれば,原告のいわゆる期待権侵害を理由とする損害は,330万円となる。
6 結論
よって,原告の請求のうち,主位的請求は,理由がないからこれを棄却し,予備的請求は,不法行為に基づく損害賠償として330万円及びこれに対する不法行為日の後である平成11年4月15日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから,これを認容し,その余の請求は理由がないから棄却し,訴訟費用の負担につき民訴法61条,64条本文を,仮執行宣言につき同法259条1項をそれぞれ適用し,仮執行免脱宣言については,相当でないからこれを付さないこととして,主文のとおり判決する。
裁判長裁判官 片岡武
裁判官 荻原弘子
裁判官 倉成幸
別紙 事実経過に関する主張一覧表〈省略〉