令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
医療事故を裁判で裁くのは好ましくありません
私は会社員を経験してから医者になりましたが、医療の世界に入ってみて、普通の社会感覚で考えれば患者さんに不親切なことが沢山あるし、遅れた部分が沢山あるということは常々思います。
一般の人が医療に対して不満・不信を募らせる原因の一つに、結果が思わしくなかった治療について、それが止むを得なかったのか、それともミスなのかを知ることが難しく、また医療者側でそれを検証報告する公正なしくみが十分整備されていないということがあるでしょう。この様な現状では、そのような不満が唯一の窓口とも思える裁判に向かっても、それは止むを得ないかなぁ、とは思います。
ただし実際には、医療事故を一般の裁判で裁くのは非常にまずいことです。まず第一に、医学的に科学的に検証すべきである医療事故を、医療の素人である裁判官、検察官、弁護士が、わずか数名の鑑定医の証言を元に断ずることに無理があります。弁護士の選び方や鑑定医の選び方が、真に科学的な検証結果を超えて、原告・被告それぞれに対して有利に働いたり、不利に働いたりします。第二に、そうした判決は判例となり、その後の医療を縛ります。医学に基づいた医療ではなく、判例に基づいた医療が優先される可能性があります。先日徳島で、微妙な判断で起きた医療事故について、治療方針を一方的に断じた最高裁判決が出ました。今後この判例の治療方針に従った治療を受けて思わしくない結果となった患者さんは、もうどうすることもできないでしょう。
昔は医療事故(過誤を含む)で思わしくない結果になっても、患者さんや家族は「医者にかかってもダメだったんだから、仕方がない」と諦める人がほとんどだったと思います。それが良いか否かは別として、そういう甘い風潮のお陰で、医者は本来の医療行為(=医者が病気を治すために解決策を考えたり、手を動かすこと)に集中できたのではないでしょうか。そのようにして限られた医者資源を本来の医療行為に集中することによって、日本の医療が安い医療費で回っていたことは事実だと思います。それが今では、説明と同意の意識が高まり、思わしくない結果についての弁明も求められ、本来の医療行為に割ける時間を圧迫しています。心労も増えています。
今でも「医者にかかってダメなら仕方がない」と思う患者さんが多数だとは思いますが、徐々に裁判などに訴える人が増えています。そういう人が例えば医療事故の裁判で1億円を勝ち取ったとします。そうすると医療側は医療原資を1億失うわけです。医療原資が減ればその分医療の質は低下し、結局割りを喰うのは「仕方がない」と思って諦めるような、昔ながらの安価な医療で十分事足りていた人なのではないかと思います。訴訟で1億を勝ち取った人は勝者ですが、それによる敗者には医療関係者のみならず、声無き一般の人々も含まれてしまうのです。
平成18年3月12日記す
追記: 上記文章の第三段落の「先日徳島で、」から最後までの部分は,司法のしくみを知ってみると,無知から出た考えであることがわかりましたが,最初の考えということでそのままにしておきます。
平成21年2月1日記す