東京産婦MRSA感染訴訟

  事件番号 終局 司法過誤度 資料
一審東京地裁 平成9年(ワ)第19783号 判決平成15年10月7日 判決文
二審東京高裁 平成15年(ネ)第5683号 判決平成21年9月25日 判決文抜粋
最高裁
第三小法廷
平成22年(オ)第123号
平成22年(受)第155号
上告棄却・不受理決定
平成22年3月16日

(本文参照)
 

 平成20年のある日、東京高裁の開廷表を見て、控訴審にしてはえらく長引いていると思っていた事件です。

 ネットを検索したところ,一審についての解説が見つかりました。「双子出産後MRSA感染から低酸素脳症により重度後遺障害。大学病院にバンコマイシン投与が遅れた過失を認定」 とのことでした。
http://www.medsafe.net/contents/hanketsu/hanketsu_0_10.html

 さてこの地裁判決ですが,抗生剤バンコマイシン投与の遅れを過失と認定し,仮に過失なくバンコマイシンを早期に投与していれば,敗血症性ショックによる低酸素脳症には至らなかったと認定しました。ところが判決文をよく読むと,過失と低酸素脳症との因果関係を認定した根拠は,「敗血症発症後早期に適切な抗生剤療法が開始されれば,ショックの発現頻度は少なくとも2分の1に減少する」(地裁判決文の第3の4(1)②)というものでした。つまり,バンコマイシンを早期に投与しても,ショックが起きる確率は2分の1未満は存在した,逆に言えば「適切な治療をしていればショックを起こさなかった確率は,50%よりは高い」というだけなのでした。通常人であれば,「効果が出る可能性が2分の1上という程度なのだから,効果が出ない可能性だってあるわけでしょ?」と判断することが普通であると思われます。これでは,80%程度の「高度の蓋然性」を要求されると考えられている,民事訴訟における因果関係の認定基準には達していなことになります。この地裁判決は,的確な証拠がないままに法的因果関係を認めてしまったものといえます。

 上記のような確率判断は,確率判断の基本中の基本なのであって,加古川心筋梗塞訴訟に見られたような高校数学程度の素養すら必要がなく,しいて言えば中学2年生の数学で登場する確率の基礎知識を持ち合わせていれば理解可能と考えられます。そうすると,本件因果関係については,通常人であれば疑いを差し挟まない程度に,因果関係を否定することは容易であると言って差し支えないと考えられます。既に何度も書いているようなことで恐縮ですが,通常人でも容易に理解可能であろう確率的判断を,十分な時間がありながら正しく判断できなかった裁判官から,高度の専門性を帯びる医療現場における数日間の判断の遅れを過失だなどと言われることにはうんざりするというものです。これも繰り返しで恐縮ながら念のため申し添えておきますが,高度な専門職である裁判官の方々を批判をすることは辛いことであり,そのあたりの事情については,「裁判官の方々へのメッセージ」に記してありますのでご参照下さい。

(ちなみに判決文では,それに続いて「ショック発現後でも速やかに適切な抗生剤療法が施行されれば,有意に致死率が低下するとされている。」と示されていますが,そもそも本件事例は死亡例ではないので,致死率についての言及はこの事例に対して何ら意味を持ちません。)

 以上のように地裁判決だけでもお腹いっぱいになるというものですが,もう少しお付き合い下さい。高裁判決はさらにひどいものだったのです。

 控訴審では,改めて第三者医師による鑑定に付されたのですが,その鑑定人も地裁判決と同様に,後遺障害の原因はMRSA敗血症性ショックによる低酸素脳症であるとし,さらにバンコマイシン投与の遅れをも指摘したため,控訴審でも過失認定される可能性は高いものと考えられました。しかし因果関係については,病院側弁護士が地裁判決における確率判断の問題点を指摘し,また高裁の鑑定人も,「バンコマイシンを投与しても多臓器不全を回避することができる蓋然性については確定的なことは言えない」という旨の補充鑑定書を提出したため,因果関係認定は困難であると思われました。(低酸素脳症も,多臓器不全の一部と考えられます。)

 ところが・・・

 判決文を読んで愕然としました。「当裁判所の判断」において,上記の補充鑑定書が完全に無視されていたからです。「当裁判所の判断」の中では,補充鑑定書について一言も触れられていませんでした。補充鑑定書を無視する一方で,どのようにして 因果関係を認定したかですが,バンコマイシンがよく効いた4つの症例を挙げて,本件でもそれらと同様にバンコマイシンがよく効いて,心停止を回避できた蓋然性は高く,「その推認を覆すに足りる証拠はない」という,大変大雑把なものでした。 補充鑑定書を書いた専門家の意見も,地裁判決に示された「敗血症発症後早期に適切な抗生剤療法が開始されれば,ショックの発現頻度は少なくとも2分の1に減少する」という認定事実も,わずか4つの成功例を参考にしたに過ぎない高裁裁判官の推認を覆すには,足りないということのようなのです。

 ここまでをまとめると,地裁では確率判断を誤って因果関係(高度の蓋然性)を認定してしまい,控訴審ではその誤りが指摘され,また鑑定医も蓋然性については確定的なことは言えないと判断したところ,「でもホラ,この例でもこの例でもこの例でもこの例でもバンコマイシンが効いている。だから本件事例でも効くのは間違いないんだ」などと言い出したというわけです。これは本当にレベルの低い話で,2分の1以上の例では効果があるのですから,実際に効果があった事例を4つばかり集めることは難しくも何ともないことですが,そのようにして効果があった事例を4つ集めてみたところで,2分の1以上という確率が,突如として8割以上になるわけでもありません。事例報告をほんの数個集めたところで,全体の傾向を断定できるわけではないということは,我々医師が加古川心筋梗塞訴訟や,亀田テオフィリン中毒訴訟や,奈良救急心タンポナーデ訴訟などといった,内容的に極めて問題が大きい医療訴訟事例をいくつか例示して,「医療訴訟の判決はトンデモ判決ばかりである」などと言えば,法律家の方々の失笑を買うのと同じことです。科学分野の事件に関わる法律家の方々は,このように事例報告を恣意的に数個集めただけでは,確率判断の上では何の証拠にもならないということを,朝日新聞医療サイト「アピタル」に掲載された,「ホメオパシー療法、信じる前に疑いを」などを参考にして,よく理解しておく必要があります。

 さてここでふと考えます。この控訴審判決は,通常の裁判官に求められる司法水準を満たすような判決と言えるのか,と。このような異様な判決文は,裁判官に過失があった程度では作り出されるものではなく,故意がなければなかなか書けないのではないかと考えます。 果たしてこの裁判官と,困難な症例を抱えて悪戦苦闘した担当医とでは,どちらがより真摯だったのかと問いたくなります。

 高裁判決文を最後まで読むと,署名部分が以下のようになっています。

東京高等裁判所第22民事部

裁判官 垣内正

裁判長裁判官石川善則は退官につき,裁判官德増誠一は転補につき,それぞれ署名押印することができない。

裁判官 垣内正

 こんなことを書くのは下世話なことですが,裁判長が定年退官間近だったため,それこそ「患者側がかわいそう」で,「スルーしちゃった,退官しちゃうしあとは最高裁よろしくね」ということなのかと邪推してしまいます。石川善則裁判長は,平成21年4月20日に定年退官されています。

 さて,上記のように通常人が判断したとは到底考えられない因果関係認定を受けて,当然ながら病院側は上告をしましたが,最高裁は記録到達後2ヶ月足らずのうちに上告を門前払いにしました。このような破茶滅茶な因果関係認定をスルーしてしまう最高裁は,どれほどのリーガルマインドをお持ちなのかと疑問を持たざるを得ず,少なくとも普通の医療訴訟における過失認定の厳格さと比較すると,その身内への甘さには呆れるばかりと言わざるを得ません。地裁判決が「少なくとも2分の1以下に減少」を「因果関係あり」と判断した異常、高裁におけるさらにレベルの低い因果関係誤認の経過、最高裁における問答無用の棄却という結末を見ると、逃れることのできない,闇へと続くベルトコンベアに載せられてしまったような気持ちになります。

 以上のような,因果関係判断の考え方に根本的問題を含む高裁判決,およびそれを不問にする最高裁決定が,医療崩壊が叫ばれるようになって久しい平成21年,および平成22年に出されたことを見ると,医療界からの司法への問題提起は,まだまだ不十分なのだろうと考えざるを得ません。普通の医師は,裁判の仕組みや判断方法に疎いので,医療者側敗訴という結果のみを以て「不当だ」と叫ぶだけですが,裁判の仕組みや判断方法を理解した上でこの判決の内容を知れば,一層激怒するのが当然だと思います。

 ちなみにこの事件では過失認定についても,厳しすぎた面があったと私は考えます。一審の段階で,被告側協力医である東京大学産婦人科学教授の武谷雄二医師から,過失について否定的な意見書が出されていました。しかし第三者鑑定に過失を思わせる記載があったことから,裁判所が過失認定したことについては,この稿では問題にすることは控えておきます。ただ,繰り返しになりますが,この事件の一審,二審の不可解な因果関係判断に何らのお咎めもしない程度のレベルにある司法が,医師によって過失判断が分かれるこの事件の担当医の過失を,一方の意見を切り捨ててあっさりと認定してしまう事態には,医療関係者の一人として嘆息するばかりです。

平成22年8月21日,地裁判決司法過誤度をCからAに変更し,改訂版を記す。旧版はこちら
平成22年8月26日,文意を分かりやすくするため,文章内の一文を移動。


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