令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
八戸縫合糸訴訟
事件番号 | 終局 | 司法過誤度 | 資料 | ||
法的 | 医学的 | ||||
一審青森地裁 八戸支部 |
平成14年(ワ)第51号 | 判決平成18年10月2日 | 妥当 | B | 判決文 |
二審仙台高裁 | 平成18年(ネ)第494号 | 判決平成19年3月28日 | A | 判決文 | |
最高裁 第二小法廷 |
平成19年(オ)第956号 平成19年(受)第1098号 |
上告棄却,不受理 決定平成19年7月25日 |
★(本文参照) |
農作業中に耕運機で左膝下を負傷し救急受診をしたものの,最終的にガス壊疽にかかり左大腿以下が切断となった事例です。高裁判決で,縫合に用いた糸が通常より太かったためにガス壊疽を引き起こしたと認定したことに対して,医療関係者から大きな反発がありました。当時の議論は,ブログ「新小児科医のつぶやき」の,八戸縫合糸訴訟エントリ,八戸縫合糸訴訟・論点整理エントリなどに残っています。また,地裁判決は判例タイムズ1244号に掲載されており,高裁判断を含めての事例解説は医療判例解説11号(2007年12月号)89ページに掲載されています。
報道によれば一審判決では,縫合糸の太さが不適切だったことと,手術後の血行障害の疑いを見過ごし、適切な検査を実施しなかったことについて過失を認め,それら過失と左大腿切断との因果関係(高度の蓋然性)は認められないが,過失により左大腿切断に至った可能性(相当程度の可能性)が認められると認定し,いわゆる期待権侵害として慰謝料330万円の賠償を認めたというものでした。これだけでも如何なものかと思っていたところ,控訴審では過失とガス壊疽発症との因果関係を認めて,3200万円余りの高額賠償判決となりました。
この事例のように,医師から見るとトンデモないと思われる判決が出ると,医師・法律家を問わず「トンデモ判決を導き出すようなトンデモ鑑定が出ているに違いない」と反応します。しかしこれまでにも,おかしな鑑定・意見がなくとも,無茶な論理で因果関係を認定しているような例がしばしば見られていたので,この事件についても裁判記録を閲覧しないことには,本当にトンデモ鑑定のせいであるか否かは判断できないと考えました。そういうことで,平成21年12月23日から1泊2日で八戸に出かけて記録を閲覧してきました。余談ですが,JR東日本の旅行商品である「びゅう」の「スーパー驚値(オドロキダネ)」で,東京からの往復新幹線とホテルメッツ八戸シングル1泊込みで1万4200円の破格値で旅行できました。安く往復できて助かったのですが,あまりの破格値に痛々しさすら感じました。
さて,記録閲覧してみると,医師の意見としては裁判所が依頼した鑑定書があるほか,原告側協力医,被告側協力医の意見書が証拠として提出されていました。概要は
そうすると,高裁判決で過失と左大腿切断との因果関係を認めるに当たっては,新たに担当医の責任を厳しく追求するような意見が提出されたということだろうかと考えるところですが,記録を閲覧する限り,高裁では特にめぼしい新証拠もないままに,過失によってガス壊疽を発症し左大腿切断に至った因果関係が認められる,と判断 だけを変更したものと考えられました。その理由について高裁判決には以下のように書かれていました。
担当医の各注意義務違反がガス壊疽の発症及び重篤化等という実際に発症した損害につき現実に寄与したと認められるのであれば,その間に因果関係が存しないということはできず,このことは,これら注意義務違反がなかったと仮定した場合において,いずれ同等の損害が発症したか否かに左右されるものではないと解される。
これには大変驚きました。普通の感覚では,注意義務違反(過失)がなかったとしても同等の損害(ガス壊疽)が発症した可能性がそれなりにあるのであれば,それは因果関係があったとは言えないということになると思います。これまでの最高裁判例でも,このような判断で因果関係を認定したものは見たことがありません。この判決を書いた裁判官にとって,因果関係とは一体何を意味するのかさっぱり分かりません。一般的な司法水準で考えれば,このような 通常の因果関係認定と異なる方法を患者側が主張した場合には,裁判所はこれを「独自の見解に基づく主張であって採用できない。」として排斥するのが普通でしょう。それを自ら進んで認めるようなこの判決の判断自体が,どうかしているのではないかとすら思いま した。
このような尋常でない因果関係認定の論理を受けて,病院側は当然に上告および上告受理申立てをしましたが,最高裁は記録到達34日後に上告棄却・不受理決定を出しました。この事件を上告受理しないからといって,そのことが違法行為となるわけではありません。しかし,この事件の高裁判決の因果関係認定の論理は,本来の「因果関係」の意味から外れている上に,これまでの医療訴訟の中にも見られないような,いわば屁理屈のような因果関係認定の論理 なのですから,これに対して是か非かの判断を示すことは最高裁小法廷に期待された役割なのであって,この事件を受理して是か非かの判断を示さないような最高裁小法廷の判断というのは,我々素人が考えれば,最高裁小法廷に求められる司法水準に叶っていないのではないかと思うわけです。端的に言って,この高裁判決に対して是か非かの判断を示さないような最高裁小法廷ならば,そんな最高裁小法廷は要らないとすら思います。(法律家の方は,ここでは私は最高裁に対して「是か非かの判断を示すべきだ」と言っているのであって,「高裁判断を否定せよ」とまでは言っていないことに注意してください。)
法律家の方からすれば,下級裁判所が不可解な判決を出すことや,最高裁判所がこのような棄却・不受理決定をすることはよくあること,ということになるでしょう。その点は,法律家には法律家の方々のやり方があるのであって,特に専門職にあってはその場で実際に関係した担当者の考えが尊重されて然るべきだ,と専門的職業についている私としては思います。そういう意味ではこの裁判に対してここまで厳しく問題点を掘り起こすのは,この事件の裁判に関係した法律家の方々に失礼かも知れません。しかし,それはこの事件で医療行為を担当した先生方に対しても同じではないかと思います。高度の専門性と結果の不確実性を併せ持つ医療行為において,現場の担当者の考えが後になって厳しく否定されるような仕組みの中では,医療行為を 自信を持って遂行して行くことは極めて困難であると考えますが如何でしょうか。法律家の方々には,高度の専門性と結果の不確実性を併せ持つ専門職に対する過失認定と,それに関係する因果関係認定のあり方について, 一度根本から考え直してみて頂きたいものだと強く思います。
このような真面目な文書の中で揶揄的表現を使うことは本来は控えるべきでしょうが,今回はあえて使わせて頂きます。かつて,阪神タイガースの江本孟紀投手が,選手交代に対して「バカ,アホ」と言いながら退席したことについて,「ベンチがアホやから野球がでけへん」と言ったと報道され,そこから退団劇につながりました。今,危険性の高い医療現場から医師が逃散する理由の一つが,「ジャッジがアホやから医療がでけへん」であることを,法律家の方々には事実として受け止めて頂きたいと思います。どのような点が「アホ」だと思うかについては医師 によってさまざまでしょうが,私としては裁判官の方々へのメッセージでも記したように,高度の専門性と結果の不確実性を併せ持つ司法の仕事の関係者の方々が,医療の仕事も同じく高度の専門性と結果の不確実性を併せ持つのだという現実を理解せず,安易に厳しい法的責任を科してくる場合が少なからず見られる点であると考えています。
ちなみにこの事件の最高裁第二小法廷での担当は,中川了滋裁判長,津野修裁判官,今井功裁判官,古田佑紀裁判官で,調査官は増森珠美調査官でした。最高裁第二小法廷と言えば,昨年十日町病院術中死訴訟において,これまで見られなかった因果関係認定の基準を示し ていますが,この八戸縫合糸訴訟の顛末を確認して,これはまた「自分に甘く,他人に厳しい」法廷だなあ,と感じました。ちなみにこの八戸縫合糸訴訟の高裁判決に見られた因果関係認定の論理は,上記十日町病院術中死訴訟に示された甘い因果関係認定基準すらも満たさない,極めて曖昧な論理であったと考えます。
平成22年1月3日記す。平成22年1月16日軽微な修正。