令和4年3月11日: 東日本大震災トリアージ訴訟を掲載
東京産婦MRSA感染訴訟判決文
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主 文
1 被告は,原告Aに対し,9433万5054円及びこれに対する平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 被告は,原告Aに対し,同原告がS病院を退去した日から同原告が死亡するまでの間,毎月末日限り,1日当たり1万5000円の割合による金員を支払え。
3 被告は,原告Bに対し,385万3729円及びこれに対する平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 被告は,原告C,同D及び同E各自に対し,110万円及びこれに対する平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
5 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
6 訴訟費用は,これを10分し,その4を原告らの,その余を被告の負担とする。
7 この判決は,第1項ないし第4項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 当事者の求める裁判
1 原告ら
(1) 被告は,原告Aに対し,1億2581万4930円及び内金1億1831万4930円に対する平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(2) 被告は,原告Aに対し,平成8年7月16日から同原告が死亡するまでの間,1日当たり1500円の割合による金員を支払え。
(3) 被告は,原告Aに対し,被告が同原告をS病院から退去させた日から同原告が死亡するまでの間,毎月51万9208円の割合による金員を支払え。
(4) 被告は,原告Bに対し,2450万3729円及びこれに対する平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(5) 被告は,原告C,同D及び同E各自に対し,各360万円及びこれに対する平成8年7月16日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(6) 訴訟費用は,被告の負担とする。
(7) 仮執行宣言
2 被告
(1) 原告らの請求をいずれも棄却する。
(2) 訴訟費用は,原告らの負担とする。
第2 事案の概要
本件は,原告Aが,被告の経営するS病院(以下「被告病院」という。)に入院し,帝王切開手術を受けて双子を出産したところ,上記手術後に,心停止となり,それによる低酸素脳症により,障害者認定等級第1級の後遺症が遺った医療事故について,原告A及びその夫や子供らが,原告Aが心停止に陥った原因は,MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)を原因菌とする敗血症であり,被告病院には,敗血症に対して適切な時期に適切な抗生物質を投与すべき義務及び院内感染を防止するための適切な処置をとるべき義務を怠った過失があるとして,被告病院を経営する被告に対し,不法行為による損害賠償請求権に基づき,損害賠償を求めた事案である。
1 争いのない事実等(末尾に証拠の引用がない事実は,当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 原告Aは,昭和46年○月○日生まれの女性であり,後記のとおり,被告病院に入院して帝王切開手術を受けた後,心停止により低酸素脳症に陥り,後遺症が遺った。
原告Bは,原告Aの夫であり,2人は,平成3年12月1日婚姻した。
原告C(平成7年○月○日生まれ,長女),同D(平成8年○月○日生まれ,長男),同E(平成8年○月○日生まれ,次女)は,原告B,原告Aの子である。
イ 被告は,私立学校法に基づき設立された学校法人であり,被告病院を経営している。
(2) 原告Aの低酸素脳症に至る経緯
ア 原告Aは,平成8年(以下,「年」を表記しない限り,月及び日付けはすべて平成8年を指す。)に入り2回目の妊娠をし,6月19日,被告病院での妊娠26週目の検診において,双胎及び頸管無力症と診断されたため,同日,被告病院に入院して加療することとなった。
イ 原告Aは,7月12日,被告病院において帝王切開手術を受け,双子(原告D及び原告E)を出産したが,その後,ARDS(成人呼吸窮迫症候群。以下「ARDS」と表記する。),DIC(播種性血管内凝固症候群。以下「DIC」と表記する。),MOF(多臓器不全。以下「MOF」と表記する。)に陥り,7月17日午前11時20分,ICU(集中治療室)に移された。そのころ,担当医師のもとには,原告Aの同月10日の羊水の細菌培養検査の結果,MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌。以下「MRSA」と表記する。)が検出されたという報告がもたらされた。
ウ その後,原告Aは,7月18日午前3時15分ころ,心停止に陥った。この心停止の状態は5分ないし7分くらい継続したため,原告Aは低酸素脳症に陥り,脳に損傷が生じた。担当医師は,7月18日午前9時30分ころ,原告AにMRSAに有効とされている抗生物質バンコマイシンの投与を開始した。原告AのMRSAは,8月23日,完全に消滅した。
(3) 原告Aの後遺障害
上記の低酸素脳症により,原告Aには精神知能障害及び四肢・体幹機能障害の後遺障害(平成9年1月18日症状固定)が遺り,原告Aは,第1級の後遺症等級認定を受けた。
原告Aの8月21日当時の意識レベルは,意識はあるがやっと従命する程度であり,原告Aが通常の生活に復帰することは著しく困難な状況にある。また,原告Aは,引き続き被告病院に入院して療養看護を受けているが,歩行はもちろん,自分で食事をしたり,排便,排尿のコントロールはできず,常に介護を必要とする状況にあり,これ以上の回復は望めない見通しである。
(4) 原告Aの禁治産宣告
原告Aは,平成9年8月18日,東京家庭裁判所で禁治産宣告を受け,原告Bが後見人に就任した。
(5) ARDS,DIC,MOF
ARDSとは,出血性及び細菌性ショックなどで加療中の患者で,重篤な呼吸不全を来す症状のことをいう。
DICとは,何らかの原因により,極端な血液凝固性亢進状態を生じ,全身の主として細小血管内に血栓の多発を来し,このため消費性凝固障害を呈する症候群をいい,重症感染症(ことにグラム陰性菌による敗血症),手術,ショックなどによって生ずることが多い。
MOFとは,同時にあるいは短期間に重要臓器や系が次々と機能不全に陥る状態をいう。具体的には,心,腎,肺,肝,中枢神経系,凝固系,消化管(出血)の臓器やシステムのうち,2以上の臓器,システムが,同時にあるいは短時間のうちに連続して,機能不全に陥った場合のことをいう(甲107)。
(6) MRSA
MRSAとは,ペニシリン耐性黄色ブドウ球菌に有効な狭域β‐ラクタム薬であるメチシリンに耐性を獲得した黄色ブドウ球菌であり,菌株の性質によりどの抗生物質に耐性(レジスタンス)を示すか,また,どの抗生物質に感受性(センシティブ)を示すか(これを薬剤感受性パターンという。)千差万別である。一般に人はMRSAを持っているが,臨床的に問題となるような感染症状を起こしていない場合は単なる保菌の状態であり,感染というのは,菌が体の表面に付着しているだけではなく,体内の組織に入り,臨床的に問題となる炎症反応を起こしている状態である。特に病院においては,高齢者や術後の患者など抵抗力の低下した人がいるため,発症する場合が多く,術後患者や免疫抑制状態の患者では,術創感染症や敗血症,MRSA 腸炎などを引き起こし,ショック症状やMOFを経て死亡する場合も多く,本菌の蔓延は医療の現場で大きな障害となっている。MRSA感染症は早期治療を開始すればするほど治療効果は高くなり,通常の黄色ブドウ球菌感染の治療中に抗生物質が効かなくなってきた場合は,MRSAが選択されたものとして,MRSAと診断される前に有効な抗生物質を変更する必要があるとされ,的確な診断と迅速な治療の開始が要求される(甲32,甲92,甲99,甲106,甲107,甲109,証人G)。
(7) 敗血症
敗血症は,発熱,頻呼吸,頻脈,白血球増加の症状・所見に加え,意識障害,血圧低下などの循環不全,さらに進行すれば,腎・肺・肝・凝固機能異常などの臓器機能障害を現し,重篤に至ればARDSやDICなどを併発し,敗血症ショックによる心停止・死亡などの最悪の結果に至る。敗血症は段階が進むにつれて予後が悪くなり,死亡率が高くなるので,可能な限り初期の段階で早期診断・早期治療を行う必要がある。
(8) SIRS基準
救急医療の分野では,患者に重篤な事態が発生するのを防止する目的で「SIRS(全身性炎症反応症候群。以下「SIRS」と表記する。)」という概念が登場して主流を占めている。このSIRSについては,
ア 体温:38℃以上又は36℃以下,
イ 心拍数:90回/毎分以上,
ウ 呼吸数:20回/毎分以上又はPaCO2:32Torr以下,
エ 白血球数:1万2000/mm3以上又は4000/mm3以下
あるいは未熟顆粒球:10%以上
という4項目のうち,2項目以上に該当するときSIRSと診断され,さらに感染を原因とする全身性炎症反応で,SIRSと同一の診断基準を満たすものについてはセプシスと定義される。
また,重症セプシスは臓器機能障害(腎,肺,肝,凝固機能異常など)・循環不全(乳酸性アシドーシス,血尿,意識障害,血圧低下など)あるいは血圧低下(収縮期血圧<90㎜Hg又は平時の収縮期血圧より40㎜Hg以上の血圧低下)を合併するセプシスと定義される。そして,従前からの敗血症という概念は,上記重症セプシスであると再定義されるようになっている。
2 争点
本件の主要な争点は,
(1) 原告AがARDS,DIC,MOFに陥った原因は何か,その時期はいつか(争点1),
(2) 上記原因がMRSAであるとして,被告病院には,早ければ7月14日から,遅くとも同月17日朝から,MRSA感染症の治療として,原告Aに抗生剤バンコマイシンを投与する義務があったか(争点2),
(3) 被告病院が上記の投与を行っていれば,原告Aの心停止を回避することができたか(争点3),
(4) 被告病院に院内感染予防義務違反があったか(争点4),
(5) 原告らの損害額はいくらか(争点5),
である。
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点1(原告AがARDS,DIC,MOFに陥った原因,時期)について
① 原告らの主張
原告AがARDS,DIC,MOFに陥ったのは,MRSAに感染し,MRSA敗血症ショックに陥ったからである。このことは,原告Aの羊水からMRSAが検出されていることや,本症例の経過等から明らかである。そして,原告AがMRSA敗血症ショックに陥ったのは,7月17日の朝,原告Aの血圧が80/40㎜Hgになった時点である。
② 被告の主張
原告Aの血液培養の結果によれば,MRSAは検出されていない。したがって,原告AがARDS,DIC,MOFに陥った原因がMRSAに感染したからであるとは断定できない。原告Aの膣分泌物からは,エンテロコッカス菌(腸球菌)も検出されているのであり,これが原因菌になった可能性もある。
(2) 争点2(被告病院の抗MRSA抗生剤投与義務)について
① 原告らの主張
ア 前提
感染症において重要なのは,早期診断,早期治療であり,感染症の原因菌(起炎菌)を同定(確定)し,薬剤感受性の確認されている抗生剤を速やかに投与することである。そして,そのためには,感染症かどうか,その起炎菌は何か,今後症状が重篤化する危険性があるかを的確に判断する必要があるところ,そのための基準として「SIRS」という考え方が一般化している。SIRSという考え方は,患者に重篤な事態が発生するかどうかをスクリーニングするために救急医学の分野で発展し,臨床的にも一般的な承認を受けている基準である。したがって,感染によるセプシスが疑われる場合には,SIRSの基準によってセプシスかどうかを確認する義務がある。
また,菌の同定のための細菌培養検査工程においては最善を尽くして検査手続を進めるべきであるし,担当医はその検査を促したり中間報告の形で早く検査結果を知るべき義務がある。これは被告病院のマニュアルの「継続的に最新の情報を把握し」との記載とも合致するところである。
イ 具体的注意義務
(ア) セプシスか否かを確認する義務
原告Aには,7月14日,39℃に近い高熱と悪寒があり,脈拍も86回/毎分となっており,全身に細菌感染徴候が見られた。そして,この時,原告Aの診療を担当していた被告病院のF医師(以下「F担当医」という。)も細菌感染のことを考えていた。そうすると,F担当医は,同日,感染が重症化するかどうかについて「SIRS」の基準に従ってスクリーニングをすべきであった。具体的には,F担当医は,同日,心拍数や呼吸数を測定したり,発熱悪寒時に血液を採取して,血液培養検査や白血球数を検査する必要があり,また,その義務もあった。そして,F担当医が7月14日段階でその検査をしていれば,感染によるSIRS,すなわちセプシスと確定することができた可能性が高く,そうすると,7月14日以降に原告Aの感染
が重篤化(意識障害,血液低下などの循環不全,さらに進行すれば腎・肺・肝・凝固機能異常などの多臓器機能障害を現し,重篤に至れば,ARDSやDICなどを併発)することを予見することが可能であった。
しかしながら,F担当医は,発熱悪寒時に血液を採取して,血液培養検査や白血球数の検査をせず,また,脈拍をとることすらしなかった。
(イ) 7月10日に採取した原告Aの羊水の細菌培養検査を検査室が最長でも5日間で完了する義務
a 菌培養について
被告病院は,7月10日(水)午前11時50分,原告Aの羊水(以下「本件羊水」という。)を細菌培養の検体として採取した。
その後は,被告病院の検査室において,本件羊水の細菌培養検査(菌培養,菌同定及び薬剤感受性検査)が行われることになるが,被告は,本件羊水の場合は,菌の量が少なかったため,その培養には48時間を要したと主張するので,かかる主張を前提とし,7月10日(水)午後1時に検体が検査室に持ち込まれたとすると,本件では,それから48時間後の7月12日(金)午後1時までには菌の培養は完了していたと考えられる。
したがって,被告病院検査室は,7月12日午後1時から菌同定・感受性判定検査を行うべき義務があったというべきであるが,かかる義務を履行することなく,実際は7月15日(月)になって菌同定と薬剤感受性検査を実施した。
b 菌同定,薬剤感受性検査について
被告病院が導入している自動細菌検査機「Walk Away」を利用すると,グラム陽性菌のMRSAについては,菌の同定に4ないし18時間,菌の感受性判定に3ないし10時間が必要となる。
そうすると,本件の場合,被告病院の検査室は,上記aのように7月12日(金)午後1時から菌同定・感受性判定検査をすることが可能であったのであるから,MRSAの同定は,上記所要時間を前提とすれば,早くて7月12日(金)午後5時,遅くとも翌13日(土)午前7時には終了しているはずであり,菌の感受性判定も,早くて7月12日(金)午後8時,遅くとも翌13日(土)午後5時ころまでには完了していたことになる。また,仮に検体が検査室に持ち込まれる時間や実際に検査に着手するまでの時間として3時間程度の遅れが生じたとしても,早ければ7月12日(金)午後11時に,遅くとも翌13日(土)午後8時ころまでには,感受性検査の結果まで判明していたはずである。
また,被告病院においては,7月13日(土)も日直2人による検査体制がとられていたのであるから,遅くとも,同日から菌同定及び感受性判定検査を行うべき義務があった。そうすれば,同日午前8時から検査を開始した場合,早くて同日正午,遅くとも翌14日(日)午前2時にはMRSAを同定することが可能であった。さらに,被告病院では,「Walk Away」が自動的に薬剤感受性検査をするので,早ければ7月13日午後3時に,遅くとも翌14日正午までには,感受性検査の結果が判明していた。
(ウ) F担当医が本件羊水の細菌培養検査の結果報告を急がせるか,検査室に問い合わせるべき義務
a 7月14日(日)時点について
被告病院は,6月19日から7月11日までの間,原告Aの感染を疑うなどして,強力な抗生剤であるセフォタックスやチェナムを使用していたが,原告Aには,7月13日(土)から感染の徴候と疑われる発熱や顔面紅潮が始まった。また,原告Aには,7月12日(金)から抗生剤ドイルが使用されていたが,同月14日(日)には感染徴候が増悪しているので,明らかにドイルは原告Aの細菌感染には無効であり,薬剤耐性菌が起炎菌となっていることは明らかであった。
そして,前記(ア)のとおり,7月14日(日)に原告Aがセプシスであると確定できれば,今後感染徴候が増悪していき,循環不全,多臓器機能障害を現し,重篤に至ればARDSやDICなどを併発し,敗血症性ショックによる心停止などの最悪の結果に至る危険性を予見することができた。
上記のような,重篤な事態への進行を防止するには,感染の起炎菌を同定し,薬剤感受性のある抗生剤を速やかに投与する以外適切な方法がなかったのであるから,F担当医は,感染の起炎菌の同定等のため,7月14日(日)に本件羊水の細菌培養検査の結果を問い合わせるべき義務が発生した。
そして,前記(イ)のとおり,遅くとも7月14日(日)正午までには感受性判定の結果が出ているはずであるから,被告病院の検査室が日曜日には検査技師がおらず対応できないとしても,F担当医は結果を問い合わせて知ることはできたはずである。また,仮に7月14日までに検査結果が出ていなかったとしても,F担当医は,少なくとも,被告病院の検査室に対して,検査を急ぐよう依頼することは可能であった。そうすれば,7月15日午前8時から検査を開始し,早ければ同日午後3時ころ,遅くとも翌16日正午ころまでには,菌同定と感受性検査の結果が出たはずである。
b 7月15日(月)時点について
原告Aは,7月15日(月)午前9時の時点で,① 体温が38.2℃,② 脈拍が120回/毎分となり,「SIRS」の基準の2要件を満たしていたし,③ 白血球数も2万0600と増加しており,明らかに「SIRS」の基準に該当していたので,「感染によるSIRS」すなわちセプシスとの判断が可能であった。そのため,今後,原告Aの感染症が重篤化することが懸念される状況であった。また,起炎菌はドイル,チェナム,ホスミシンも無効な多剤耐性菌であることは明らかであった。
F担当医も,同日,原告Aに軽微ながら肝機能低下や腎機能低下とPO2低下,PCO2低下(呼吸不全の徴候)を認め,現に重症化の兆候も見られたので,敗血症の危険を疑い,重症の感染症に移行していく可能性があると考え,DICの検査を指示している。
以上のことからすると,被告病院は,7月14日から顕著となった全身の感染徴候の原因となる起炎菌を一刻も早く同定し,適切な抗生剤投与による治療を開始しなければならなかったのであり,遅くとも7月15日(月)には本件羊水の細菌培養検査結果の報告を問い合わせるか,急がせる義務が生じていた。また,前記のとおり,7月14日(日)正午までに感受性検査の結果は出ているはずであるから,F担当医はこれを問い合わせて知ることができたし,結果が出ていなくとも,少なくともF担当医は,被告病院の検査室に対して検査を急ぐよう依頼し,あるいは中間報告という形で報告を急がせることができた。
c 7月16日(火)時点について
7月16日午前8時30分に急激な腹痛が出現したが,これは前日の上記「感染によるSIRS」すなわちセプシスの感染徴候がさらに増悪したことをうかがわせる症状であり,今後重症セプシスに移行し,MOFなどの重篤な症状が現れる具体的危険はより強く予想できた。
よって,その時点で,F担当医は,起炎菌をできるだけ早く同定し,適切な抗生剤投与による治療を開始しなければならなかった。そのためには,起炎菌の同定のため,7月16日(火)午前中には本件羊水の細菌培養検査結果の報告を問い合わせるか,これを急がせる義務が生じていた。また,前記のとおり,7月14日(日)正午までに感受性検査の結果は出ているはずであるから,F担当医はこれを問い合わせて知ることができたし,結果が出ていなくとも,少なくともF担当医は,被告病院の検査室に対して検査を急ぐよう依頼し,あるいは中間報告という形で報告を急がせることができた。
(エ) F担当医の抗MRSA薬バンコマイシンの早期適量投与義務について
a 投与時期について
上記(イ)で主張したように,被告病院の検査室においては,遅くとも7月14日正午には感受性判定の結果まで出ているのであるから,F担当医は7月14日から抗MRSA薬バンコマイシンを早期に適量投与することができたはずである。
また,上記(ウ)で主張したように,F担当医が7月14日(日)に,被告病院の検査室に対して,検査を急ぐよう問い合わせて,検査室が7月15日(月)午前8時から検査を開始していれば,遅くとも7月16日(火)正午までには感受性判定の結果が出,その段階から抗MRSA薬バンコマイシンを早期に適量投与することができたはずである。
また,本件羊水の細菌培養検査結果は,7月16日(火)夕刻には被告病院の検査室から病棟に届いていたのであるから,このことを前提としても,F担当医は同日夕刻からMRSA感染症の治療を始めることができた。
しかしながら,被告病院は依然としてMRSA感染には無効なチェナムを使用したり,7月15日には保存的処置をしたりしているにすぎず,バンコマイシンの投与を開始したのは7月18日午前9時30分になってからであった。そして,それまで被告病院は,何ら有効なMRSA感染症治療を行わなかった。本症例において,抗MRSA薬は,薬剤感受性が確認されているバンコマイシンなどしかあり得ず,ハベカシンの投与はMRSA感染症の治療として有効ではなかった。仮に有効であったとしても,その投与の開始は7月17日午後5時であり,原告AがICUに入室してから既に5時間30分以上も経過していたから,明らかに投与の開始は遅きに失していた。
b 投与量及びその確認確保について
バンコマイシンの静脈注射(点滴)の方法による常用量は1日2gであり,0.5gを6時間ごとに1日4回投与するか,1gを12時間ごとに1日2回投与すると定められている。しかし,被告病院は,7月18日午前9時30分にバンコマイシンの投与を開始したが,7月18日から同月21日までは,1日1gを午前9時ないし午前9時半に1回投与したのみで,上記の定められた投与方法を守っていなかった。また,被告病院は,7月22日から同月30日までは,定められた1日2gを定められた投与方法で投与しているものの,7月31日から8月11日までは,0.5gを12時間ごとに投与したのみで,特に8月2日は,午前9時に0.5gを投与したのみで,定められた投与量・方法を守らなかった。
また,バンコマイシンの投与量が適応量でない場合,所期の目的を達成することはできないところ,被告病院は,8月22日,1日2gを2回に分けて投与し,その時点では,バンコマイシンの血中濃度を測定していたが,それ以外の時点については,血中濃度を測定することはなかった。
ウ まとめ
以上のとおり,被告病院には,早ければ7月14日(日)から,遅くとも同月17日(水)朝までの間に,MRSA感染症治療としての抗生剤バンコマイシンを原告Aに投与する義務があったにもかかわらず,これを怠った過失がある。
② 被告の主張
以下に述べるように,被告病院には,原告Aに対するMRSA感染症治療としての抗生剤投与に関し,過失はない。
ア 原告Aの容態について
(ア) 容態の変化について
原告AのCRP値(C-反応性たんぱく。体内に急性の炎症や組織の損傷があるときに,血清中に増えるたんぱく質の一種で代表的な炎症マーカーをいう。)の上昇について,帝王切開(7月12日)前は0.7,7月15日は24.1,同月16日は24.0,同月17日は30.4,同月19日は16.4,同月25日は20.2,同月26日は10.5,同月31日は9.8であり,正常値が0.3以下とされていることからして,値は高いということはできるが,これは炎症反応として感染症があれば高くはなるが,必ずしも感染症ばかりではなく,人体の組織が壊れれば上昇するし,手術の結果としても上昇することがある。7月15日の24.1という数値は手術後にはままあることであり,本件の場合,数値が16日の24.0から17 日に30.4に上昇した点が異常に高くなった時点ということになる。また,原告らは,原告Aの白血球が1万2000を超えたことを問題視しているが,手術による侵襲後の患者の場合,白血球数が1万2000というようなことは日常的であり問題とならない。原告Aの場合,7月15日の検査でもそれほど悪くはなく,翌16日の朝,腹痛を訴えるまでは全身状態も普通の術後の状態であった。急激に容態が悪くなったのは7月16日の夜からである。
原告らは,SIRSを問題にしているが,原告らが問題としている諸症状は,急激に悪化するまでは,術後の患者には一般的に見られる症状である。SIRSの理論を術後の患者に当てはめるのは,少なくとも手術後3日くらいまでの患者の場合には医学的根拠に乏しく無理がある。また,医師は数値だけで患者を診ているわけではない。前期破水例では,子宮内感染のリスク(胎児感染など)があるので,頻回にCRP値を調べるが,分娩後はそのリスクがなくなるので,頻回に検査はせず,通常の帝王切開後のスケジュールに従って検査したものである。
(イ) 被告の対応について
原告Aは,出産の2週間前から破水しており,長期破水例であるから,被告としては感染症のことは当然念頭にあり,毎日,血液検査でCRP値,白血球の状態は観察していたし,帝王切開手術後も引き続き感染症を念頭において対応していた。しかし,原告Aの容態は,7月16日朝,腹痛を訴え,同日夜,急激に悪くなるまでは,発熱は認められたものの,術後の一般的な産婦の容態と殆ど変わらなかった。
イ 本件羊水の細菌培養検査結果を問い合わせる義務について
原告らは,原告Aから7月10日に採取した本件羊水の細菌培養検査結果の報告を急がせるべきであったと主張するが,上記アで主張したように,原告Aに循環不全の徴候が生じたのは7月16日以後であり,また,呼吸不全が生じたのは,同日午後6時30分であって,F担当医はそれまで感染症も疑いそれに対応する処置をしてきていたところ,7月16日午後6時30分の呼吸苦出現までは感染症はそれほど重症ではなく,検査結果を急がせるような状況にはなかった。上記検査結果の報告を督促しなければならない状況が生じたのは上記呼吸苦が生じた7月16日午後6時30分以降というべきである。
また,菌の培養にも時間がかかる上,7月13日は第2土曜日で被告病院は休診日であり,7月14日が日曜日であったという当時の状況から,督促したとしても検査結果の報告が早くなった可能性も乏しいというべきである。
ウ 本件羊水の細菌培養検査を完了させるべき期間について
原告Aの場合,既にMRSAと診断されていたわけではないし,また,MRSAが臨床的に強く疑われていたわけでもない上,羊水というMRSAの存在が希な箇所の検体であったことから,検体の提出後,菌の同定,感受性の試験まで行うには5日間は要する。さらに,本件においては7月13日が第2土曜日,7月14日が日曜日であったことから,結局,細菌検査の結果報告がされたのが,検体提出日(7月10日)から5日後ではなく7日後の7月17日となった。被告病院と同程度の大学病院においても,細菌検査,特に細菌同定・感受性検査については,土曜日,日曜日には平日のようには実施されておらず,土曜日,日曜日が挟まった場合には,それだけ検査結果の報告が遅れているのが一般的である。そして,被告病院と同規模の病 院の態勢や本件においては,特に検査結果を急がせる状況にはなかったことに照らすと,本件のように通常5日で可能なところを7日かかったとしても,それはやむを得ないというべきである。
エ 抗MRSA薬の投与時期について
F担当医は,7月16日夜,病棟に届いていた本件羊水の細菌培養検査結果を翌17日朝,原告AのICU入室直前であった午前11時ころに知り,それによってMRSAの存在を知ったが,その時点で,原告Aは,病態が急変し,鬱血性心不全,意識低下といったTSS(トキシックショック症候群。以下「TSS」と表記する。)とそれに続くMOFの状態になったことから,ICU(集中治療室)への収容,即時に処置を必要とする気管内挿管,人工換気などに忙殺された。そして,F担当医は,同日午後5時に抗MRSA剤ハベカシン(バンコマイシンより血中濃度が早く上昇し,即効性があるとされている。)の投与をし,さらに翌18日からはバンコマイシンを投与した。したがって,MRSAに対する薬剤投与が遅れたということはない。F担当医がMRSAを知ってからハベカシンを投与するまでの約6時間は,上記のような緊迫した全身状態への対応に追われていたのである。
オ 抗MRSA薬の投与量,投与方法について
原告らの主張している投与量は,7月18日以後の投与量の問題であり,原告Aがショック状態になった7月17日までの問題ではない。また,原告らが問題としている期間の投与量については,原告Aは腎機能低下に陥っている状態であり,通常量の投与は不適当であり,この場合,腎障害の慎重投与に該当するので,投与量を減ずることは適切な処置である。
バンコマイシンの投与の際,血中濃度の測定を重視するのは,腎機能が悪い患者の場合に血中濃度が濃くなりすぎて,腎機能を悪化させるので,濃度が上がりすぎないかをチェックするためであり,通常量を投与する場合,臨床上,常に測定するようなことはしていない。
(3) 争点3(上記義務履行による結果回避の可能性)について
① 原告らの主張
ア 敗血症は,段階が進むにつれて死亡率が高くなり,予後が悪くなるので,可能な限り初期の段階で早期診断,早期治療を行う必要がある。本件においても,
(ア) 最も早くて7月14日,遅くて7月16日夕刻までにMRSA感染症治療としてバンコマイシンの投与を開始することが可能であったのであるから,これを行っていれば,7月18日の原告Aの心停止を回避できた可能性は十二分にある。この時点では原告Aは敗血症ショックやMOF状態に陥っていないからである。
(イ) また,呼吸器障害やDICの起きた7月16日夜(呼吸器障害は午後6時30分,DICは午後8時30分に発生)までにMRSA感染症治療を行っていれば,治癒率80%の割合でバンコマイシンの有効性が報告されているのであるから,7月18日の心停止を回避できた可能性は十二分にある。
(ウ) 仮に呼吸器障害やDICの発生した7月16日夜以降にMRSA感染症治療を開始したとしても,未だ7月17日朝の敗血症ショックが起きていない段階であれば,敗血症ショックが起きた7月17日朝以降にMRSA感染症治療を開始した場合とを比較すれば,予後に明らかな違いがあり,早期にMRSA感染症治療が開始されればされるほど,予後が改善されることは明らかであった。
イ 以上のとおりであるから,
(ア) 7月14日から16日夜にかけて,被告病院が原告Aに対して,MRSA感染症治療としての抗生剤投与(感受性の判明しているバンコマイシン等の投与)を行わなかったことは,被告病院に課せられた注意義務を怠ったことに当たる。また,その時点においてバンコマイシン等の投与を開始していれば,7月18日に生じた原告Aの心停止を回避することが可能であった。
(イ) また,呼吸器障害やDICの起きた7月16日夜から敗血症ショックが生じた7月17日の朝までの間に,被告病院が原告Aに対して,MRSA感染症治療としての抗生剤投与(感受性の判明しているバンコマイシン等の投与)を行わなかったことは,被告病院に課せられた注意義務を怠ったことに当たる。また,その時点においてバンコマイシン等の投与を開始していれば心停止を回避することは可能であった。
(ウ) さらに,敗血症性ショックが生じた7月17日朝から実際に被告病院がMRSA感染症治療として感受性の確認されている抗生剤(バンコマイシン)の投与を開始した7月18日午前9時30分までの間,被告病院は有効なMRSA感染症治療を行っておらず,重大な過失があった。
② 被告の主張
上記(1)②のとおり,F担当医が,病棟に届いていた原告Aの羊水培養検査結果を知ったのは,原告AのICU入室直前の7月17日午前11時ころのことであったが,原告Aは,その時点で病態が急変し,鬱血性心不全,意識低下といったTSSとそれに続くMOFの状態になっていた。原告Aの容態は,このように,急激に全身状態が悪化し,心停止という予想を超える病状の進行があった。そして,一旦症状が悪化してからは,菌から発生した毒素(エキソトキシン)による症状の進行は抗MRSA剤を始め他の抗生物質によってもこれを止めることは不可能であった。
また,仮に羊水培養検査結果の報告が届いた7月16日夜にハベカシン又はバンコマイシンを投与したとしても,既にDIC,ARDSが見られ,MOFが進行している病態の下で,薬効の発現に2日ないし4日を要するとされていることを考えると,その後の原告Aの病態を改善できたかは不明といわざるを得ない。
さらに,バンコマイシンの投与にもかかわらず,原告Aに創の培養からMRSAが検出されていた事実に照らすと,バンコマイシンを常用量を投与しても有効血中濃度が十分に得られなかった症例であると考えられる。
よって,本件においては,原告Aの心停止という結果を回避することはできなかったというべきである。
(4) 争点4(院内感染予防義務違反による不法行為の成否)について
① 原告らの主張
被告病院には,適切なMRSA院内感染予防対策をとるべき一般的な注意義務があるところ,7月3日,原告Aの診察に当たった被告病院の医師あるいは医療従事者は,MRSAに感染していた他の患者を診察し,その手指などにMRSAが付着していたにもかかわらず,これを完全に消毒することなく,漫然と原告Aの膣を内診し,錠剤を膣内に投入し,あるいは,同人の外陰部を洗浄するなどの処置を施すなどしたため,医師らの手指などに付着していたMRSAが原告Aに感染した。
よって,かかる被告病院の行為は,不法行為を構成する。
② 被告の主張
F担当医は,原告Aの診察をした後に,外来患者の診療をしているのであって,かかる手順からすれば,原告らの主張するように,医療従事者の手指を経由して他の患者のMRSAが原告に感染するなどということは考えられない。また,一つの感染経路としては,原告Aの膣中のMRSAが7月12日の手術の際に創部に感染したことも考えられるが,いずれにしても,感染経路は不明である。
よって,被告病院には不法行為は成立しない。
(5) 争点5(原告らの損害)について
① 原告らの主張
ア 原告Aについて
(ア) 入院治療費 326万5450円
内訳は,平成8年7月分が90万6680円(ただし,分娩費用19万9090円は除く。),同8月分105万7180円,同9月分55万9230円,同10月分33万4140円,同11月分21万3720円,同12月分19万4500円である。なお,平成9年1月分以降は,原告Aが第1級の後遺症等級認定を受けたため,原告Aにおいて医療費の負担は生じなくなっている。
(イ) 入院雑費 1日当たりの入院雑費1500円
(ウ) 休業損害 300万円
入院期間10か月(平成8年7月16日から訴え提起時まで)について,賃金センサスに基づき専業主婦として年360万円の収入があるとして,その間に生じた休業損害を算定すると,360×10/12=300万円となる。
(エ) 後遺症による逸失利益 6225万9480円
後遺症等級が第1級であり,労働能力喪失率を100%,労働能力喪失期間を67才までの41年間(原告Aは昭和46年○月○日生,訴え提起時26才)として,ライプニッツ係数17.2943,年収を上記(ウ)同様360万として,その逸失利益を算定すると,360万円×17.2943×1=6225万9480円となる。
(オ) 後遺症慰謝料 3000万円
(カ) 弁護士費用 1979万円
(キ) 介護施設入居費用 750万円
原告Aには,現在第1級の後遺障害があり,精神的知能障害,肢体・体躯機能障害者となっているため,将来的に全面的な介護・治療が必要である。現在は被告病院で介護が行われているが,同病院退去後は,自宅での介護は困難であるから,介護施設に入所させなければならない。そして,療養型病院では3か月から6か月ごとに転院を繰り返させられることになるから,原告Aには不適であり,グラニー学芸大・目黒の介護施設が適当であるところ,その入居金として750万円が必要となる。
(ク) 看護料 被告病院退去後より原告A死亡まで毎月51万9208円
上記(キ)のとおり,原告Aは介護施設に入所させる必要があるところ,その負担として,施設利用料16万5000円,介護料34万4208円,おむつ代1万円の合計51万9208円が毎月看護料として発生する。
(ケ) 以上より,原告Aの損害は,上記(ア)及び(ウ)ないし(ク)の合計額1億2581万4930円,入院雑費として平成8年7月16日から1日当たり1500円及び看護料として被告病院退去日から原告Aの死亡時まで毎月51万9208円ということになる。
イ 原告Bについて
原告Bは,原告Aが障害を負ったことにより精神的苦痛を被ったが,その慰謝料としては2000万円が相当である。
また,原告Bは,証拠保全手続に伴う謄写料や原告Aの禁治産宣告手続鑑定料など50万3729円の支出も余儀なくされた。
さらに,本件と因果関係のある弁護士費用としては,400万円が相当である。
よって,原告Bの損害は,上記の合計2450万3729円となる。
ウ 原告C,同D,同Eについて
同人らは,原告Aが障害を負ったことにより精神的苦痛を被ったが,その慰謝料としては,各自300万円が相当である。
また,本件と因果関係のある弁護士費用としては,各自60万円が相当である。
よって,原告C,同D,同Eの損害は,各自上記合計360万円となる。
② 被告の主張
原告らの損害の主張は争う。
原告Aの状態は,歩行,食事,洗面などは可能な状況に改善されてきており,診療費も低減する状態にある。
第3 争点に対する判断
1 前提事実
証拠(各認定事実の末尾に摘示する。)及び弁論の全趣旨により認められる事実並びに前記争いのない事実等記載の各事実によれば,本件に関し,以下の各事実が認められる。
(1) 感染症対策について
感染症を疑った場合には,まず検体を採取し,早期に感染症の原因菌(起炎菌)を同定した上で,薬剤感受性の確認されている有効かつ安全性の高い抗生物質を投与することが必要である(甲55,甲101)。また,MRSA感染の場合,抗生物質の選択に当たっては,各患者に対する有効性と当該病院で発生しているMRSAの抗生物質感受性を考慮して抗生物質を決定すべきであるが,そのためには,各病院におけるMRSAの感受性動向を十分に把握しておく必要がある。産婦人科病棟においては,分娩時の会陰部,膣からの上行感染,帝王切開手術後の上行感染が多く,周産期におけるMRSA感染症については,産褥期子宮内感染に多く,分娩時の院内感染による発生が考えられるとされる(甲32,甲47)。
被告病院においては,本件症例の発生以前から,MRSA院内感染が多く発生していた。そのため,被告病院においては,院内感染対策委員会が設置され,同委員会は,平成8年4月にMRSA院内感染予防対策マニュアル(乙7)を策定した(争いのない事実)。同マニュアルには,「MRSA感染症における薬剤の使い方」として,「1.感染徴候のある患者は細菌検査を頻回行い原因菌を同定する。2.原因菌がMRSAと同定されたら,感受性のある薬剤を選択する。(中略)3.感受性のある薬剤を投与しても無効な場合,塩酸バンコマイシンやハベカシンの投与を考慮する」と記載されていた(乙7)。また,同マニュアルによれば,塩酸バンコマイシンの用法・用量は,「通常,成人には1回750~1000㎎を1日1~2回(患者の腎 機能に応じて投与間隔を調節)必ず60分以上かけて点滴静注する。」とされ,「初期投与量を決定後,血中濃度モニタリングを行い有効かつ安全な投与がなされているかを確認することが望ましい。」とされていた。また,MRSAに対し抗菌力が強い抗MRSA剤で,バンコマイシンより血中濃度が早く上昇し,即効性があるとされているハベカシン(アルベカシン。メチシリン・セフェム耐性の黄色ブドウ球菌のうち本剤感性菌による敗血症,肺炎といった感染症に適応がある。)の用法・用量は,「通常,成人には1日150~200㎎を筋肉内注射又は点滴静注。」「高齢者,腎機能低下患者に用いる場合,投与量,投与間隔の設定には十分注意し,血中濃度をモニタリングすることが望ましい。」とされ,耐性菌の発現等を防止するため,原則とし て感受性を確認し,治療上必要最小限の期間の投与にとどめ,妊婦に投与する場合には,治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にだけ投与するとされていた(甲22)。
被告病院産婦人科の患者から検出されたMRSAについて,4月25日から7月11日までの間に報告された15件の薬剤感受性結果をみると,全件についてバンコマイシンに感受性があることが確認されており,また,ゲンタマイシンも13件について感受性が確認されていた(甲29)。
なお,MRSAに抗菌力を持つ治療薬としては,バンコマイシンがあげられ,MRSA感染症の治療のための第1選択薬として知られており,そのほかに,ST合剤,リファンピシン,新キノロン系抗菌薬(オフロキサシン・シプロフロキサシン等),アルベカシン(ハベカシン),ゲンタマイシン等があげられる(甲20,甲32,甲33,甲92,甲99,甲107,乙7,鑑定人Gの鑑定結果,証人F)。
(2) 診療経過について
① 原告Aは,平成8年に入り2回目の妊娠をし,6月19日に被告病院での妊娠26週目の検診において,双胎及び頸管無力症と診断されたため,同日,被告病院に入院して加療することとなった(前記争いのない事実等)。
② 原告Aの診療を担当したF担当医は,6月19日に,原告Aに高位破水(先進卵膜より高位で破水すること。甲56)が起こったり,子宮収縮が生じていること,CRP値が上昇してきていること,白血球数が高いなどの理由から,卵膜を含めて子宮内の細菌感染を疑い,炎症を抑える目的で,翌20日から羊水移行性の高い抗生剤セフォタックスの使用を開始した(乙3,証人F)。前期破水においては,感染を示す兆候に気を付けるものとされ,血清CRPの検出は羊水感染症のサインであることがあるといわれている。また,羊水感染症は,重篤な母胎の敗血症を招くこともあり,早期診断,治療が予後に大きく関連するものとされている(甲49)。妊娠中期の前期破水例に対しては,第3世代セフェム系抗生物質,具体的にはセフォタックス を使用することは感染防止に資するとされている(乙15,乙17)。一方,上記(1)認定のとおり,抗生剤を使用するに当たっては,起炎菌を同定した上で,薬剤感受性のある抗生剤を投与することが必要であり,そのほか,耐性菌の出現や菌交代現象を避けるため,長期間あるいは不要な投与は避けるべきであるとされている(甲30,甲46,甲55,証人F)。そして,セフォタックスは第3世代セフェム系抗生物質であって,スペクトラム(薬の効く範囲)の広い抗生剤であるが,F担当医は,セフォタックスを使用するに当たり,菌の同定はしていなかった。また,被告病院の「MRSA院内感染予防対策マニュアル」によれば,「手術後あるいは易感染者に対し,感染予防目的で第3世代セフェム系抗生物質を投与することを避ける。これらはMR SAの薬剤耐性能を更に増強させる可能性がある」とされており,F担当医もこれを認識していた(乙7,証人F)。そして,原告Aは上記易感染者であった(証人F)。このような事情があるにもかかわらず,F担当医が上記のように抗生剤セフォタックスを使用したのは,当時原告Aがまだ妊娠週数26週であり,胎児が早く生まれてしまうことを防止するためであった(証人F)。
③ F担当医は,6月28日,原告Aが頸管無力症で,子宮口が開大してきているということで,原告Aに対し,シロッカー頸管縫縮術を行ったが,この時,抗生物質の長期投与により菌の交代現象が起こることを認識していた(証人F)。原告Aは,同日夜,前期破水を起こしたが,F担当医は,子宮内卵膜の感染が原告Aの破水の原因の可能性があるとの認識を有していた(乙1,証人F)。また,4月ころから,被告病院全体において,MRSA感染が多発していること及びMRSA感染に気を付けるべきことについてもF担当医は認識していた(証人F)。
④ CRP値が上昇し,白血球数が高いなどの理由から原告Aの感染徴候の悪化を認めたF担当医は,6月29日,翌30日より,抗生物質をセフォタックスからチェナムに変更した(甲19,乙1,証人F)。チェナムは,ブドウ球菌属等のうち本剤感性菌による敗血症などの感染症に適応のあるカルバペネム系の抗生物質であり,セフォタックス同様,抗菌スペクトラムがグラム陰性菌からグラム陽性菌にわたり広いため,耐性菌の発現等を防止する観点から,原則として,感受性を確認して,治療上必要最小限の期間の投与にとどめるものとされている(甲42)。F担当医は,この時点でも菌の交代現象が発生し,あるいは耐性菌が出現することを考えたが,急激な原告Aの炎症徴候の悪化を目の当たりにし,同一の抗生物質を使うわけにはいかな いと考えて,特に菌の同定をすることなく,上記抗生物質の変更をした(証人F)。なお,F担当医は,チェナムについては,6月30日から7月12日まで投与を継続したが,その間,原告Aの白血球数及びCRP値は7月4日にはいずれも低下し,炎症兆候は軽快していった(乙10,争いのない事実)。
⑤ 子宮内卵膜が感染している場合,羊水の中にも菌が検出されることになるが,28日の段階では,羊水を採取するためには母体の腹部の上から針を刺して取る必要があるため,F担当医は,特に,この時点では原告Aの羊水を採取することはしなかった。F担当医は,7月1日,子宮口からカテーテルを挿入して,原告Aの羊水を採取し,細菌培養検査を実施し,その結果,コリネバクテリウム3個が検出されたが,MRSAは検出されなかった(乙2,証人F)。F担当医は,同日,感染サイン及び子宮収縮が上昇すれば帝王切開をするという方針を決定した(証人F)。
⑥ F担当医は,7月3日午前8時50分ころ,午前9時から始まる被告病院の外来診療に先立って,原告Aに対してクスコ(膣鏡)診をした。F担当医を含め,被告病院の産婦人科医は,患者に対して内診を行う際には,必ずディスポーザブル手袋を使用することになっており,直接手指が患者に触れるということはなかった(乙3,乙10,弁論の全趣旨)。
⑦ F担当医は,7月10日午前11時50分,原告Aの膣内に溜まっていた本件羊水を含む膣分泌物を採取し,これを検体とする細菌培養検査を実施した(乙2,乙3)。同医師は,この培養検査の結果,MRSAが確認された場合には,MRSAに効く抗生物質を使用して処置することを考えていた(証人F)。なお,F担当医は,菌の交代現象によってMRSAに感染する危険性について注意していて,6月28日の夜から翌29日にかけて,原告Aが完全な破水をしたことから,膣内に溜まっている羊水を検体としてMRSAにかかわる菌を同定しようと考えていた(証人F)。同日の原告Aの体温は,36.5℃,脈拍は84回/毎分,白血球数は1万2300,CRP値は0.3以下であったが,翌7月11日には体温及び白血球数に顕著な変化はなかったものの,脈拍は102回/毎分と増加し,CRP値は0.9に上昇した(乙2,同3)。
⑧ F担当医は,原告Aの子宮収縮が増強するなどしたため,7月12日午後12時から午後12時50分にかけて緊急帝王切開手術を行い,胎児を取り出した(甲19,証人F)。F担当医は,同日,原告Aの白血球数が1万800ということもあり,同原告に感染の具体的徴候はないと認識したが,帝王切開手術後に,抗生剤をチェナムから,ブドウ球菌属等に強い抗菌力を持つドイルに変更した(証人F,争いのない事実)。ドイルは,ペニシリン系の抗生物質であり,MRSAには無効の薬剤であるが,ドイルを使用するに当たっては,チェナムと同様,耐性菌の発現等を防止するため,原則として感受性を確認し,治療上必要最小限の期間の投与にとどめるものとされ,また,妊娠中の投与に関する安全性が確立していないため,妊婦には治療上 の有益性が危険性を上回ると判断される場合にだけ投与するとされている(甲22)。変更の理由は,第3世代セフェム系抗生物質であるセフォタックスやチェナムなどかなり強い抗生物質の使用をやめて,ドイルを使用し,感染の状態の変化を見,また,今後の感染を予防するためであった(証人F)。F担当医は,6月28日の時点において,MRSA感染の危険性を認識していたが,7月12日の時点でもその状況には変わりがないと認識していた(証人F)。なお,ドイルについては,7月12日から同月15日朝まで投与された(争いのない事実)。
双子の第1子として出生した原告Dについては,出生後の症状や,帝王切開手術の当日に採取された咽頭,便,胎脂からMRSAが検出され,このMRSAは,ゲンタマイシンについて薬剤感受性が確認されたため,F担当医は,日齢0日目から12日目まで,ゲンタマイシンとアミノベンジルペニシリン投与を行い,日齢60日目にMRSAは消失した。なお,第2子である原告Eからは,MRSAは検出されなかった(甲41,甲58,甲96の1ないし3,乙10)。
⑨ 本件羊水の細菌培養検査の結果,10個のMRSAが検出された。また,同検査結果により,バンコマイシン,ゲンタマイシン,ミノサイクリン及びスルファメトキサゾール・トリメトプリムには薬剤感受性があることが確認されたが,ハベカシンについては感受性が確認されていなかった(乙2)。この羊水の細菌培養検査は,被告病院の検査室において,7月12日(金)までに細菌の分離,純培養を終了していたが,同月13日(土)は第2土曜日,翌14日は日曜日で被告病院は休診日であったため,7月15日(月)に菌同定・感受性検査がされ,翌16日(火)に判定をした(乙18の1)。したがって,本件羊水の細菌培養検査結果については,7月16日(火)夕刻の段階で,被告病院の検査室はその内容を確認していたことになるが,F担当医がその検査結果を知ったのは,原告AをICUに運び入れる7月17日の午前11時20分ころのことであった(証人F)。
⑩ 7月12日以降の臨床経過について
ア 7月12日
同日の原告Aの脈拍は96回/毎分であり,帝王切開手術前の同原告のCRP数値は,正常値である0.3以下を上回る0.7であった(乙2,乙3,争いのない事実)。F担当医は,CRPが医学上意味のある感染炎症反応を示す数値としては,羊水感染の場合は2,それ以外の場合は1から2の間くらいを目処にしていた(証人F)。
また,帝王切開手術後の原告Aの体温は,37.3℃から38.3℃の間にあった(乙3)。
イ 7月13日
原告Aの体温は,36.5℃から37.6℃の間を推移し,脈拍は80回/毎分であり,顔面の紅潮が見られた(乙3)。F担当医は,原告Aのかかる状態について,帝王切開術後の影響のほか,感染によるものとの認識を有していた(証人F)。なお,CRP数値は被告病院において計測しておらず不明であり,血液,咽頭,尿,便の細菌培養検査も行われなかった(争いのない事実)。
ウ 7月14日
午前7時時点で原告Aの顔面,上肢,胸部に発疹が見られ,また,午後10時には前胸部,大腿部,上腕部に小発疹が見られたが,午後10時の段階での発疹については,原告Aは手術の前から出てきていたと述べていた(乙3,原告B本人〔第2回〕)。体温は午後2時30分の時点で39.8℃の熱が出ていたほか,37℃あるいは38℃台の発熱が続く状態であった。また,脈拍は午後3時20分の時点で86回/毎分であった(乙3)。F担当医は,発熱の継続の原因として,帝王切開手術の影響のほか,感染も原因であると考えていた(証人F)。なお,被告病院は,呼吸と脈拍については計測したが,血液培養検査,CRP検査,白血球数の検査のいずれも実施しなかった(乙3,証人F)。
また,原告Aの膣内から悪臭を伴う水溶性緑褐色分泌物が出たが,F担当医は,膣内頸管,子宮内を含めた何らかの感染がその原因であると認識していた。そこで,F担当医は,膣内の洗浄を実施するとともに,膣内に抗生物質クロマイを挿入した(乙3,証人F)。上記分泌物については菌の培養検査を実施したが,その結果,MRSA4個及びエンテロコッカス菌(腸球菌)4個が検出されたことが7月18日に報告された(乙1,乙2)。
午後6時30分ころ,原告Bと原告Aは,被告病院内の未熟児センターまで一緒に歩いていき,出生した子供を見た(甲60,乙3)。
エ 7月15日
7月14日には部分的であった発疹が全身に認められる状態になり,体温は,午前6時の時点では36.5℃であったが,その後上昇し,午前9時の時点で38.2℃,午前11時の時点で39℃,その後午後1時及び午後3時の時点では37℃台に低下したものの,午後7時には39.1℃であった。また,脈拍は午前9時の時点で120回/毎分,白血球数は2万600と,7月13日と比較すれば上昇し,CRP値も7月12日の0.7から24.1へと上昇した。さらに,血液ガス分析を実施したが,その結果血液中の酸素分圧を示すPO2(通常は90くらいある。)が66.6を示し,呼吸機能の低下が見られ,正常値が0.4㎎/dl未満である血清直接ビルビリンが0.9㎎/dlと上昇し,肝機能の軽度の低下が認められ,血液尿 素窒素(7月11日5.2㎎/dl,7月15日24.8㎎/dl。なお,正常値は9から21㎎/dl。),血清クレアチニン(7月11日0.8㎎/dl,7月15日1.3㎎/dl。なお,正常値は0.7から1.4㎎/dl。)がいずれも上昇し,腎機能の軽度の低下が認められた(甲19,乙1ないし乙3,乙10,証人F,証人G)。
F担当医は,原告Aの体温が38.5℃を超えた場合は危険と考えており,39.1℃の発熱が生じた午後7時の段階で,何らかの感染があり,重症の感染症に移行していき,さらに進めば敗血症や菌血症に至る可能性があるとの認識を有していた。そして,DICなど血液凝固の異常が発生していないかを確認するために血液凝固検査を実施した(乙3,証人F)。また,F担当医は,ドイルの効果がないため,また,原告Aの発疹及び発熱が抗生剤によるアレルギーと判断されたため,抗生物質をドイルからアレルギー性の少ないホスミシン及び帝王切開手術までの間炎症を抑えていたチェナムへと変更して投与し,加えてセフゾンも投与した(乙1,乙3,証人F)。さらに,F担当医は,上記午後7時の時点で血液培養を行ったが,その結果は陰性であった(乙2,証人F)。
昼ころ,友人2人が原告Aのもとを訪ねたが,その際には,原告Aは普通に話ができる状態であった。また,原告Aは,夕方,原告Bに対し,病院の公衆電話を利用して電話をかけたが,その際,夕方から具合が悪くなったと伝えた(原告B本人〔第2回〕)。
オ 7月16日
午前8時30分,原告Aに急激な腹痛が発生した。そのためF担当医は超音波検査を実施し,急性無石胆嚢炎と診断し,外科との併診の上,絶食,点滴による保存的治療を行った。急性無石胆嚢炎の発生機序は明らかでないが,外傷・手術・敗血症などの重症疾患を有する場合に起こりやすいとされる(甲19,甲20,乙10)。午後6時30分には,呼吸苦が生じた(争いのない事実)。同日のCRPの数値は前日の24.1から15程度に一旦低下したが,その後再び24程度にまで上昇し,白血球数は2万4000であった(弁論の全趣旨)。また,血小板数については,午前8時30分時点では16万8000であったが,午後8時30分には7万3000に低下した(乙1)。血小板数について,通常は20から30万くらいは必ずある ことから,F担当医は,この段階で,DICが発生しているのではないかと疑った(証人F)。血圧については,午前7時の時点では86/48であり循環障害を疑わせるが,午前7時30分の時点では110/70と回復しており,その後午前8時50分及び午前9時40分の時点では100/50,午後1時5分の時点では96/40,午後6時30分の時点では126/70と推移している(乙3,証人G)。また,第一内科のH医師が,午後6時30分に原告Aに呼吸苦が生じた後に,同人を診察し,その症状について,この時点では心不全を原因とする肺水腫,すなわち鬱血性心不全と診断したが,7月18日には,これはARDS(心不全を原因としない肺水腫)であると診断を変更した(乙1,証人F)。7月16日の原告Aの膣分泌物の細菌培 養検査(7月19日報告)の結果,MRSAは検出されたが,エンテロコッカス菌(腸球菌)は検出されず,同日の原告Aの尿及び咽頭粘液を検体とする細菌培養検査の結果は陰性であった(乙1,乙2,乙18の2)。被告病院はこの日,前日に引き続き,チェナムとホスミシンを投与し,午後8時30分から,DICを念頭に置き,FOY(DIC治療薬)の投与を開始した(乙10,争いのない事実等)。
なお,上記のとおり,本件羊水の細菌培養検査の結果は,同日の夕刻には被告病院の検査室では確認されていたが,F担当医はまだその内容を確認していなかった。
原告Bは,被告病院のF担当医から電話で呼び出され,午前9時ころに被告病院に行ったが,その時,F担当医は,原告Aが胆嚢炎であること,外科的に手術をするか,内科的に投薬治療をするか検討中であるなどと説明をした。原告Bは,同日夕方に原告Aの具合がだんだん悪くなり出し心配になり,その日は夜通し被告病院にいて,原告Aと話をするなどし,また,かゆいと訴える部位に氷をあてるなどの看護に当たった。
カ 7月17日
午前7時の時点での血圧は80/40㎜Hgであって,その後,午後2時の時点では88/40,午後3時の時点では96/48,午後5時5分の時点では107/52,午後5時45分の時点では93/43と推移し,体温は37.7℃から37.9℃あり,白血球数は3万4600であった(乙1ないし乙3)。F担当医は,原告Aに症状の改善が見られないことから,午前9時50分に血液ガス分析を行い,肺機能の状態を確認したところ,換気不全が認められ,意識レベルの低下も見られたことから,原告AがARDSであると診断し,午前11時20分,原告AをICUに入室させることとした。F担当医は,この入室直前に,本件羊水の細菌培養検査の結果,MRSAが検出されたことを知り,ARDSはMRSAによる感染症(敗血症 )に伴うものであると診断し,カルベニン(グラム陽性菌及びグラム陰性菌に対し幅広い抗菌スペクトルを持ち,ブドウ球菌属のうち本剤感性菌による敗血症などの感染症に適応があるとされている。甲22),ハベカシン,免疫グロブリンを投与した。また,F担当医は,原告AにGOT,GPT,LDH,アミラーゼ,BUN,クレアチニン等の上昇が認められたため,MOFと診断し,さらに,血小板6万,血性気管分泌物,口腔内易出血なども認められたため,DICと診断し,新鮮凍結血漿,FOYの投与を開始した(甲19,乙10,証人F)。なお,CRPの数値は前日の24程度から30.4へと上昇した(乙1ないし乙3)。
被告病院は,午後5時,MRSAに有効とされている抗生物質ハベカシンを投与した。このハベカシンについては,薬剤感受性は確認されていなかったが,血中濃度が急速に上がる,即効性があるなどの理由から投与を開始することとした(乙1,乙3,証人F)。また,午後11時からは,二次感染を防止する目的から,カルベニンもハベカシンと併せて投与を開始した(乙1,乙3,証人F)。7月17日の原告Aの膣分泌物の細菌培養検査の結果,MRSA及びエンテロコッカス菌(腸球菌)が検出された(乙1,乙2)。
キ 7月18日
原告Aは,午前3時15分ころ,心停止となり,蘇生術を受けたが,心停止の時間が5分ないしそれ以上にも及んだため,酸素の供給を受けられなくなった脳に損傷が生じ,低酸素脳症に陥った。蘇生後,循環状態は安定し,呼吸器条件は徐々に低下していった。同日の原告Aの白血球数は3万1700であり,CRP値は15以上で,同日,術創部を検体とする細菌培養検査の結果,MRSAが検出された。被告病院がハベカシンに代えて薬剤感受性の確認されているバンコマイシンの投与を開始したのは,午前9時30分であった。なお,最終的には8月23日になって,MRSAは完全に消滅したが,これはバンコマイシンの効果であったと考えられる(争いのない事実,乙1,乙2,証人F)。この日は,バンコマイシンのほか,カルベニン,チェナム及びホスミシンについても原告Aに投与した(乙10,証人F,争いのない事実)。
被告病院は,同日以降数回,原告Aの帝王切開手術の創部を検体として細菌培養検査を実施しているが,そのいずれにおいてもエンテロコッカス菌(腸球菌)は検出されなかった(乙2,証人G)。
ク 8月5日,腹部CTにより,ダグラス窩に膿瘍の形成が確認された。そして8月6日,開切排膿ドレナージを施行した。その後,8月24日,再度感染兆候が増悪したが,免疫グロブリンの投与により,感染症状は軽快した(乙10,証人F)。
(3) 被告病院における細菌等培養検査について
①ア 細菌検査を実施するためには,まず提出された検体を平板培地の表面に塗って,感染症の原因菌又は感染症と関係があると考えられる菌を選び出す分離培養を実施することが不可欠であり,その後,菌の同定,感受性試験が行われる。いわゆる自動細菌検査システムは,上記のうち,菌の同定及び感受性試験の過程のみを行うものであり,分離培養は含まれない(甲82,甲83,乙19,乙29)。
イ 本件において,原告Aの本件羊水を分離培養するために要した時間は,48時間であった(乙18の1,乙29)。
ウ 被告病院が使用している自動細菌検査システムは「Walk Away」であるが,これは,「VITEK System」とほぼ同様の性能を有している(争いのない事実)。そして,VITEK Systemによれば,MRSA(グラム陽性菌=GPC)については,同定のために要する時間は4時間から18時間,感受性試験のために要する時間は3時間から10時間とされている(甲82)。このため,被告病院においては,「Walk Away」を利用することにより,MRSAの同定のためには4時間から18時間かかり,感受性試験のためには3時間から10時間かかる。
エ 細菌検査の結果が判明するのに通常要する期間は5日程度である(乙19,証人F)。
② 被告病院においては,担当医師が採取しておいた検体を,検査室の技師が1日2回(午前10時,午後1時),外来病棟から回収して培養検査を実施し,検査結果が判明したら,結果の記された伝票が検査部にある各科のボックスに入れられ,これを,各科の看護補助員が随時回収し,各科の病棟事務員に渡し,その後,病棟事務員から各担当医師に渡されるという方法がとられている。作業態勢としては,平日は午前9時から午後5時まで,土曜日は午前9時から午後1時半まで,日曜日は当番の者が勤務するという態勢が一般的である(弁論の全趣旨)。なお,7月13日(土)は第2土曜日に当たるところ,被告病院においては,第2土曜日は日直2人が対応することになっていた(乙25)。
③ 被告病院院内感染対策委員会において策定したMRSA院内感染予防対策マニュアル(乙7)によれば,MRSA陽性の患者が発生した場合,検査部は主治医へ連絡する,主治医及び婦長は関係する職員に情報を伝達するものとされていた。
(4) 原告Aの状態について
① 平成11年6月ころの状態
原告Aは平成9年1月18日に症状固定となったが,言葉は殆どしゃべられない状態で,排便・排尿のコントロールはできず,おむつをしている状態である。また,意思疎通はできず,完全看護の状態にある(原告B本人〔第1回〕)。
② 平成14年2月ころの状態
原告Aは,原告Bの顔を見たり,原告Cら子供の顔を見ると笑ったり,片言の言葉をしゃべったりはするが,原告Bに対して自分から話しかけたり,会話をしたりすることはない。食事は一人ではうまくできず,また,歩行に関しては少しずつ歩けるようにはなっているが,なお不安定な状態であるため,トイレには一人では行くことができず,おむつをしている状態である。原告Aについて禁治産宣告の申立てをした際,精神鑑定医のIは,原告Aは痴呆の状態であるとの診断をした(甲102,原告B本人〔第2回〕)。
③ 仮に,原告Aが被告病院から退院した場合,同原告に対しては常時介護が必要となる。また,原告Aを自宅で介護しない場合,療養型の病院の場合は3か月ごとの転院を強いられることになるため,同原告の入居が可能な介護施設へ入居させることになるが,原告らの自宅から近く,原告Aの年齢で入居可能な施設の一つとして「グラニー学芸大・目黒」がある。同施設に原告Aが入居する場合には,同原告は介護保険の対象外であるため,入居費用として750万円,毎月の負担金として51万9208円(施設利用料16万5000円〔内訳;家賃相当額5万5000円,食費5万円,水光熱費2万円,生活費2万円,管理費2万円〕+介護料34万4208円+おむつ代1万円)が必要となる(甲84,甲85,原告B本人〔第2回〕)。
(5) 診療費などの支払額について
① 原告Aの入院診療費として,7月分(7月11日から同月31日まで)90万6680円(ただし,分娩に関する18万9090円は除く。),8月分105万7180円,9月分55万9230円,10月分33万4140円,11月分21万3720円,12月分19万4500円の合計326万5450円の支払が必要となった(甲67の1ないし3,甲68の1ないし3,甲69の1ないし3,甲70の1ないし3,甲71の1ないし3,甲72の1ないし3,原告B本人〔第1回〕)
② 原告Bは,10月28日から平成9年3月22日にかけて,原告Aの被告病院におけるカルテなどのコピー代として14万3200円を被告病院に支払った(甲63の1ないし8,原告B本人〔第1回〕)。また,原告Bは,平成9年3月18日,被告病院を相手方として証拠保全手続を行ったが,その時の謄写費用として5万9000円をJ謄写館に支払った(甲65の1及び2,原告B本人〔第1回〕)。さらに,原告Bは,原告Aの禁治産宣告に必要な鑑定人の費用等として,東京家庭裁判所に30万1529円の支払をした(甲66,原告B本人〔第1回〕)。
2 争点1(原告AがARDS,DIC,MOFに陥った原因,時期)について
(1) 本件において,被告の過失を検討する前提として,まず原告AがARDS,DIC,MOFに陥った原因,時期について検討する。
①ア 前記認定のとおり,原告Aは,7月14日(産褥2日目)午後2時30分の時点で39.8℃の発熱をし,膣内から悪臭を伴う水溶性緑褐色分泌物を出しており,また,翌15日(産褥3日目)午前11時の時点で39℃の発熱をしているが,これは,産褥3日目までに38℃以上の発熱をした場合として,産褥子宮内感染の状態にあると認められる。また,前記認定のとおり,原告Aの症状は,7月15日午前9時の段階で体温38.2℃,脈拍数120回/毎分であって,SIRSの基準4項目のうち2項目以上を満たしており,その他,同日,白血球数が2万600と増加し,CRP値も24.1に上昇していることなどから,この段階で原告Aは,感染によるSIRS,すなわちセプシスの状態にあると認められる。
イ 上記セプシス(以下「本件セプシス」という。)の原因菌としては,前記認定のとおり,7月10日に原告Aから採取した羊水の細菌培養検査からMRSAが検出されていること,前記認定のとおり,7月12日の帝王切開手術当日に採取された原告Dの咽頭,便,胎脂からMRSAが検出されていること,前記認定のとおり,7月14日午後2時30分の時点で,原告Aは39.8℃の高熱を発し,その後,およそ37~38℃の間を推移する高熱が継続し,さらに原告Aの膣から悪臭を伴う水溶性緑褐色分泌物が出,その細菌培養検査の結果,同じくMRSAが検出されていること,前記認定のとおり,本件の原告Aの診療において,入院後から帝王切開手術までの間,スペクトラムが広く,抗菌力の強い抗生剤チェナムやセフォタックスが継続 して使用されており,身体に常在する細菌が減少して,MRSAなど通常の抗菌薬の効きにくい耐性菌が増加する菌交代現象が生じる可能性があったこと,前記認定のとおり,本件においては,抗生物質ドイル,チェナムが無効であったところ,両抗生物質に抵抗を示す細菌としては緑膿菌やMRSAが考えられることなどの事実からすれば,本件セプシスの原因菌は,MRSAであると認めることができる。
この点について,被告は,エンテロコッカス菌も原因菌である旨主張し,これに沿う証拠(乙19)もあるが,前記認定のとおり,7月16日の原告Aの膣分泌物の細菌培養検査の結果,MRSAは検出されたものの,エンテロコッカス菌は検出されていないし,また,前記認定のとおり,7月18日以降,被告病院は原告Aの帝王切開手術の創部を検体として細菌培養検査を実施しているところ,いずれにおいてもエンテロコッカス菌が検出されていないことからすれば,上記の被告の主張は認めることができない。
ウ 以上により,少なくとも7月15日午前9時の段階で,原告Aは,MRSAを原因とするセプシスに陥っていたものと認めることができる。
② 前記認定のとおり,原告Aについて,7月15日の時点では,呼吸機能の低下,さらに肝機能,腎機能の軽度の低下が認められたが,その後,前記認定のとおり,7月16日の午後6時30分に呼吸苦が生じいわゆるARDSに陥り,また,同日午後8時30分には血小板数が7万3000にまで低下し,いわゆるDICに陥ったものと認められる。そうすると,前記争いのない事実等認定のMOFの診断基準に照らし,この時点で,原告AはMOFに陥ったと認めるのが相当である。したがって,上記①認定のとおり,7月15日午前9時の時点でMRSAを原因菌とするセプシスに陥っていた原告Aは,上記MOFに陥った翌16日午後8時30分にかけて,セプシスから重症セプシス,すなわち敗血症となったと認められる。
③ 前記認定のとおり,7月17日の原告Aの血圧は,午前7時の時点で80/40㎜Hg,その後,午後2時の時点では88/40と推移しており,収縮期血圧90㎜Hg以下の状態が持続していると認められること,上記①認定のとおり原告Aはセプシスに陥っていたなどの事実から,前記争いのない事実等記載の診断基準に照らし,原告Aは,7月17日午前7時ころ以降に敗血症性ショックに陥ったものと認めるのが相当である。
④ 以上の認定に対し,被告は,原告AはTSSに陥ったと主張し,それに沿う証拠も存在する(乙19,鑑定人Gの鑑定結果,証人G)。しかしながら,TSSとは,ブドウ球菌外毒素によって引き起こされる症候群で,高熱,嘔吐,下痢,錯乱及び皮膚の発疹があり,しかも急速に激しい難治性のショックに進行することが特徴の症候群をいい,その症状は,発熱(39から40.5℃であがったまま),頭痛,喉の痛み,非化膿性の結膜炎,ひどい脱力感,局部的な神経症状を伴わない断続性の錯乱状態,嘔吐,おびただしい水様の下痢,そしてびまん性の日焼け様の紅皮症を伴うものであり,48時間以内に進行し,起立性低血圧,失神,ショックそして死に至ることもあり,発病後3日目から7日目の間に皮膚の落屑が始まり,特に手のひらや足 の裏の表皮が脱落していくという特徴を有するとされているところ(甲107),原告Aの本件診療経過に照らしてみると,前記認定のとおり,原告Aの発疹は,入院する以前から出ていたものであるし,原告Aが頭痛や喉の痛み,断続性の錯乱状態,嘔吐,おびただしい水様の下痢,手のひらや足の裏の表皮の脱落といった症状を呈したと認めるに足りる証拠はないから,原告Aの症状をTSSであったと認めることはできない。
(2) 以上のとおり,本件において,原告AがARDS,DIC,さらにMOFに陥った原因については,MRSAを原因とするセプシスであり,その時期は,7月16日午後6時30分に原告Aが呼吸苦を訴え,その後,同日午後8時30分にDICに陥ったころであると認められる。
3 争点2(被告の義務違反の有無)について
(1) 次に,被告病院には,原告らの主張するような義務,すなわち,早ければ7月14日から,また,遅くとも7月17日朝から,MRSA感染症治療としての抗生剤バンコマイシンを原告Aに投与する義務があったかについて,以下,検討する。
① MRSA感染症治療を開始すべき時期について
ア 前記認定のとおり,本件羊水は,7月10日(水)の午前11時50分に採取されていること,前記認定のとおり,被告病院では,午後1時に検査室の技師が外来病棟から各検体を回収して細菌培養検査を実施することになっていること,本件羊水の分離培養には48時間を要したことなどの事実が認められることから,被告病院の検査室においては,おおよそ7月12日(金)の午後には本件羊水の分離培養は完了していたと認められる。さらに,かかる認定事実に加え,前記認定のとおり,被告病院において使用されている自動細菌検査システム「Walk Away」を利用すると,MRSAの場合,菌同定のために要する時間は4時間から18時間,その後,感受性の試験のために要する時間は3時間から10時間とされていること,前記認 定のとおり,被告病院では休診日の第2土曜日に当たる7月13日には,日直2名が検査を担当することになっていたこと,証拠(乙18の1)によれば,被告病院の検査室は,7月15日に菌同定,感受性検査を開始して,翌16日にはその結果を報告していること,細菌検査の結果が判明するのに通常要する期間は5日程度であって,本件において,細菌検査の結果が判明するのにそれより長い日数を要したのは,被告病院において第2土曜日が休診日であったという,人の生命・身体に関する医療とは全く次元を異にする偶然的な事情によるものであること,術後患者は,ショック症状やMOFを経て死亡する場合も多く,早期治療を開始すればするほど治療効果は高くなり,通常の黄色ブドウ球菌感染の治療中に抗生物質が効かなくなってきた場合は, MRSAが選択されたものとして,MRSAと診断される前に有効な抗生物質を変更する必要があるとされ,的確な診断と迅速な治療の開始が要求されること,原告Aは被告病院のMRSA院内感染予防マニュアルにおいても,易感染者とされる手術後患者に該当していたこと,被告病院は高度医療の推進を標榜し,これを期待される医系総合大学の附属病院であり,病院としてMRSA感染症対策を行っていたことなどの事実を合わせて考えると,仮に菌の同定を,7月13日の作業開始時間である午前9時から開始したとしても,遅くとも,本件羊水の菌の同定,その後の感受性結果の判定結果を,その28時間後の7月14日(日)午後1時には出すことが可能であったし,また,被告病院は,この時点までに,本件羊水の細菌培養検査結果を終了させて おく義務があったというべきである。そして,被告病院がかかる義務を果たしていたとすれば,前記認定のとおり,各科の看護補助員が出勤しているはずの7月15日(月)午前9時ころには,本件羊水の細菌培養検査結果の記された伝票を看護補助員が回収し,その後,科の病棟事務員に渡され,それがF担当医に渡されていたものと認められるから,結局,F担当医は,本件羊水中からMRSAが検出されたこと,そして,原告Aの感染の原因菌がMRSAであることを,遅くとも7月15日午前中には知り得たと認めることができる。
イ そして,前記認定のとおり,原告Aには,帝王切開手術後の7月13日に37.6℃,翌7月14日には39.8℃の発熱が見られたこと,F担当医は,発熱継続の原因として手術の影響のほか,何らかの感染も原因であると認識していたこと,原告Aの膣から悪臭を伴う水溶性緑褐色分泌物が出たが,この原因についてもF担当医は子宮内を含めた何らかの術後感染があるとの認識を有していたこと,原告Aに対しては,入院後,スペクトラムの広い強力な抗生物質であるセフォタックスやチェナムが投与され続けており,F担当医は,菌の交代現象や耐性菌の出現の可能性について認識していたことなどの事実が認められる。
また,前記認定のとおり,原告Aは,7月15日午前9時の段階で,感染によるSIRS,すなわち,セプシスの状態にあったと認められること,同日,原告Aの呼吸機能,肝機能及び腎機能に軽度の低下が認められ,CRP値も24.1にまで上昇し,チェナムの効果が不十分であることが判明したこと,F担当医は,この日,原告Aの体温が38.5℃を超えた場合は危険であり,39.1℃の発熱が生じた午後7時の時点では,何らかの感染があり,今後重症の感染症に移行していき,さらに進めば敗血症や菌血症に至る可能性があることを認識し,かつ,原告Aにはドイルは無効であることを認識していたことが認められる。
さらに,前記認定のとおり,F担当医は,4月ころから被告病院全体においてMRSA感染が多発しており,MRSA感染に気を付けるべきことを認識していたこと,7月12日に出生した原告Dについては,同じ被告病院において7月12日の出生後から抗MRSA感染症治療薬であるゲンタマイシンが投与され,その後MRSAの解消をみていることなどの事実が認められる。
ウ 以上によれば,F担当医は,7月15日午前中には原告Aの感染の原因菌がMRSAであることを知り得たのであり,また,原告Aには,7月13日から7月15日午後7時ころにかけて,断続的に,高熱,CRP値の上昇,呼吸機能,肝機能及び腎機能の軽度の低下等,感染症を疑わせる症状が見られたのであるから,遅くとも7月15日午後7時ころには,それらの症状がMRSAによるものであり,直ちにMRSAに対する治療を開始しなければ,原告Aが重篤な結果に陥ることを認識し,その時点でこれを回避するための治療を開始すべき義務があったというべきである。
② MRSA感染症治療として,被告病院はいかなる抗生物質を投与すべきであったか。
そこで,被告病院が,MRSA感染症治療として,どのような治療を行うべきであったかについてみるに,前記認定のとおり,感染症を疑った場合には,早期に感染症の原因菌を同定した上で,薬剤感受性の確認されている抗生物質を投与することが必要であるし,また,MRSA感染の場合,抗生物質の選択に当たっては,各患者に対する有効性と当該病院で発生しているMRSAの抗生物質感受性をふまえて決定するべきであるところ,本件羊水の細菌培養検査の結果,検出されたMRSAに対してはバンコマイシン,ゲンタマイシンなどに薬剤感受性が認められていること,被告病院の患者から検出されたMRSAについて,平成7年4月25日から同年7月11日までの間に報告された15件の薬剤感受性結果を見ると,全件についてバンコマ イシンに感受性があることが確認されている状況であったことなどの事実からすれば,本件において,MRSA感染症治療として被告病院が投与すべきであった抗生物質はバンコマイシンであったと認められる。
(2) 以上によれば,被告病院は,遅くとも7月15日午後7時ころの段階において,MRSA感染症治療としての抗生剤バンコマイシンを原告Aに投与する義務があったというべきである。ところが,被告病院が実際にバンコマイシンを投与したのは,前記認定のとおり,7月18日午前9時30分であったのであるから,被告病院には,上記の義務違反があったというべきである。
4 争点3(結果回避可能性)について
(1) 証拠(甲92,甲107ないし甲109,乙23,証人G)によれば,以下の事実が認められる。
① バンコマイシンは,メチシリン・セフェム耐性黄色ブドウ球菌のうち,バンコマイシン感受性菌による敗血症などの感染症に対して適応症を示す抗MRSA薬であり,MRSAに対し,時間依存的な強い殺菌力(原因菌との接触時間に依存して殺菌力を発揮する)を示し,MRSA感染症に良好な有効率(74%から90%)を示すとされている。臨床的には,効果が認められるまでには2日から4日を要することが多いとされ,効果の現れ方が非常にゆっくりで,効き目が悪いような印象を受ける。また,その用法・用量としては,成人に対しては,塩酸バンコマイシンとして,1日2gを1回0.5g,6時間ごと,又は1回1gを12時間ごとに分割して,60分以上かけて点滴を静注することとされている。
② 重症敗血症の時点でバンコマイシンを投与した場合と敗血症性ショックを生じた後にバンコマイシンを投与した場合について比較すると,重症敗血症の場合の死亡率は約10%から20%にとどまるのに対し,敗血症性ショックの場合のそれは約46%から60%と,その死亡率は高いものとなるとされている。また,敗血症の治療に関し,敗血症発症後早期に適切な抗生剤療法が開始されれば,ショックの発現頻度は少なくとも2分の1に減少するばかりか,ショック発現後でも速やかに適切な抗生剤療法が施行されれば,有意に致死率が低下するとされている。
(2) 以上の事実を前提に,本件において,被告病院が,上記3認定のとおり,遅くとも7月15日午後7時ころに,MRSA感染症治療としての抗生剤バンコマイシンを原告Aに投与する義務を履行していたとしたら,原告Aが心停止により低酸素脳症に陥るという結果を回避できたかどうかについて検討する。
上記2認定のとおり,7月15日午後7時ころの時点では,原告Aの状態は,MRSAを原因菌とするセプシスあるいはそれに引き続いて敗血症に陥っているにとどまっている段階であり,まだ敗血症性ショックには至っていなかったと認められるところ,上記(1)認定のとおり,敗血症に対するバンコマイシン有効率は74%から90%とされ,また,ショックに至らない重症敗血症に対する致死率は10%から20%にとどまるものとされていることにかんがみれば,本件において,被告病院が遅くとも7月15日午後7時ころの時点で,原告Aに対してバンコマイシンを投与していれば,原告AがARDSやDICを発症し,MOF状態となり,心停止により低酸素脳症に陥るという本件結果を回避することができた高度の蓋然性が認められるというべきである。
(3) この点に関し,被告は,本件はバンコマイシンの投与にもかかわらず,創の培養からMRSAが検出されていた事実に照らすと,バンコマイシンを常用量投与しても有効血中濃度が得られない症例であると主張し,これに沿う証拠(鑑定人Gの鑑定結果,証人G)もあるが,本件においては,証拠上,バンコマイシンの血中濃度が継続的に測定されているとは認められないのであるから,上記被告の主張はこれを認めることはできない。
5 まとめ
上記3,4より,被告病院には,遅くとも7月15日午後7時ころからMRSA感染症治療として抗生剤バンコマイシンを原告Aに投与すべき義務があったにもかかわらずそれを怠った過失があり,その結果,原告Aに心停止という結果が生じたと認められるから,被告病院を経営する被告には,不法行為が成立するものと解される。
6 争点5(原告らの損害額)について
(1) 原告Aの損害額について
① 入院治療費 326万5450円
前記認定のとおり,原告Aに関して,平成8年7月分から12月分として,合計326万5450円の入院治療費が必要であったと認めるのが相当である。
② 入院雑費 0円
原告Aは,本件医療事故後現在に至るまで,被告病院にて完全看護されている状態であることなどの事情に照らすと,本件においては,原告Aに入院雑費の損害が生じていると認めることはできない。
③ 休業損害 167万5750円
原告Aは,前記認定に照らし,7月15日の本件医療事故後,その症状が固定した平成9年1月18日まで(6か月),100%家事労働に従事できなかったものと認められるから,賃金センサス平成8年第1巻第1表の産業計,企業規模計,学歴計,女子労働者の全年齢平均の賃金額335万1500円を基礎として,その6か月分の休業損害を算定すると,167万5750円(335万1500円×6/12×100%=167万5750円)となる。
④ 後遺症による逸失利益 5839万3854円
原告Aは,前記認定のとおり,後遺症等級が第1級であり,労働能力喪失率は100パーセントであると認められること,原告Aの症状固定日(平成9年1月18日)における年齢は25才であり,労働能力喪失期間を67才までの42年間を認められることから,ライプニッツ係数を17.4232,基礎収入額を上記③と同じく335万1500円として,その逸失利益を算定すると,5839万3854円(335万1500円×17.4232×100%。円未満切捨て)となる。
⑤ 後遺症慰謝料 2600万円
本件において顕れた一切の事情に照らすと,原告Aが本件医療事故により被った精神的損害に対する慰謝料は,2600万円が相当である。
⑥ 介護施設入居費用 0円
前記認定のとおり,被告病院における入院・看護ができなくなると,原告Aは将来に渡って常時看護が必要となるが,弁論の全趣旨によれば,原告Aは本件の判決が言い渡され,それが確定すると,被告病院から出ることを余儀なくされる蓋然性が高い。そして,その場合は,前記認定のとおり,療養型の病院に入居することは不可能であり,介護施設への入居が必要になると認められる。しかしながら,今後同人が自宅にて介護を受けることになるか,原告らの主張する「グラニー学芸大・目黒」なる介護施設に入居することになるか,あるいはそれ以外の介護施設に入居することになるのかは,現段階においては証拠上不確定であるといわざるを得ないから,同施設に入居することを前提とした入居費用750万円を,本件医療事故と相当因果関係のある損害と認めるのは相当でない。
⑦ 看護料 原告Aが被告病院を退去した日から同原告が死亡するまでの間,1日当たり1万5000円
上記⑥認定のとおり,原告Aは,被告病院を出ることを余儀なくされると,自宅での介護若しくは介護施設への入居が必要になる。その時期,また,いつまで介護が必要か等については不確定な要素が多いので,定期金による賠償を命じるのが相当である。そして,その起算日は,原告Aが被告病院を退去した日とし,その終期は,同原告が死亡した日とするのが相当である。また,その場合の定期金の額は,前記認定のとおり,このような介護施設の一つである「グラニー学芸大・目黒」における介護費用が月額34万4208円であることのほか,前記認定の原告Aの状態・症状,その他本件に顕れたすべての事情を考慮すると,1日当たり1万5000円と認めるのが相当である。
なお,原告らは,請求の趣旨として,看護料発生の起算日を「被告が原告Aを被告病院から退去させた日から」とするが,これは,必ずしも被告病院から退去を求められた場合にのみ看護料の支払を求める趣旨ではなく,一般的に今後原告Aに必要となる看護料の支払を被告病院に求める趣旨であると解されるから,「原告Aが被告病院を退去した日から」とする趣旨をも含んでいるものというべきである。また,本件看護料の請求は,本件口頭弁論終結の日後の,将来の給付を求める訴えに当たるが,被告は損害の発生を争っていることから,あらかじめその請求をする必要性があると解される。なお,上記看護料の支払時期としては,本件事案の性質にかんがみ,当月分を毎月末日限り支払うものと定めるのが相当である。
⑧ 弁護士費用 500万円
原告Aの損害に関し,本件医療事故と相当因果関係のある弁護士費用額は,500万円と認めるのが相当である。
⑨ 以上,原告Aの損害額は,9433万5054円及びこれに対する不法行為のあった日(上記4認定のとおり平成8年7月15日)の翌日である平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金,並びに看護料として,原告Aが被告病院を退去した日から同原告が死亡するまでの間,1日当たり1万5000円(当月分を毎月末日払)となる。
(2) 原告Bの損害額について
① 慰謝料 300万円
原告Bは,妻である原告Aが本件医療事故により,後遺症等級第1級という重篤な後遺障害を負ったことにより,固有に精神的損害を被ったと認められるが,本件において顕れた一切の事情に照らすと,その額は300万円と認めるのが相当である。
② その他 50万3729円
前記認定のとおり,原告Bは,本件医療事故に関連して,原告Aの禁治産宣告のための鑑定料など50万3729円の支払を余儀なくされたと認められる。
③ 弁護士費用 35万円
原告Bの損害に関し,本件医療事故と相当因果関係のある弁護士費用額は,35万円と認めるのが相当である。
④ 以上,原告Bの損害額は,385万3729円及びこれに対する不法行為のあった日の翌日である平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金となる。
(3) 原告C,同D,同Eの損害額について
① 慰謝料 各100万円
同人らは,母親である原告Aが本件医療事故により,後遺症等級第1級という重篤な後遺障害を負ったことにより,固有の精神的損害を被ったと認められるが,本件において顕れた一切の事情に照らすと,その額は,それぞれ100万円と認めるのが相当である。
② 弁護士費用 各10万円
同人らの損害に関し,本件医療事故と相当因果関係のある弁護士費用額は,それぞれ10万円と認めるのが相当である。
③ 以上,原告C,同D及び同Eの損害額は,110万円及びこれに対する不法行為のあった日の翌日である平成8年7月16日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金となる。
6 結論
以上の次第であるから,その余の点について判断するまでもなく,原告らの本訴請求は主文第1項ないし第4項掲記の限度で理由があるからこれを認容することとし,その余は理由がないからこれを棄却することとし,訴訟費用の負担につき民訴法61条,64条,65条を,仮執行の宣言につき同法259条1項をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第37部
裁判長裁判官 近藤壽邦
裁判官 藤井聖悟
裁判官 倉成章